2007-01-06

体で食え

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最近、カレーの連荘。毎日スパイシーな料理を食っている。

ラムカレー、タイのグリーンカレー、四川風(?)スパイスたっぷり麻婆豆腐、肉じゃがにコリアンダーやらクミン、赤唐辛子、胡椒、鬱金、生姜、ニンニクをぶちまけた不思議カレー……、そうそう普通のルーから作ったカレーも今日食べた。

別に元気がめちゃ出たとか、そういうことじゃないが、まあ、雑感を少々
あ、別に誰かを批判しようとかしてないんで、そこんとこ、よろしく

以前にも書いたが、食と医はそもそも同じであるべきものと思う。つまり、日常の食事が、病気の予防であればいいと思っている [1]。まあ、ミノモンタ路線と言われれば、それまでだけどね。

食事で健康という考えのの中でも、現在はスパイスに注目している。スパイスと言ってもハーブだとか香味野菜だとか根菜だとか薬味だとかもここではスパイスと呼ぶことにする。

日本はあまり肉とか食べなかったからスパイスとか発達しなかったんだろうと思うが、やはり肉を食うときは毒を消すためにスパイスを多くとった方がいいんだと思う。そもそも、ほかほかして元気になるし。




こういう医食同源を考えてると、グルメちっくに「うまい」とか「まずい」とかって何だかバカらしくなる。

というか、俺もかなり分析的に食ってしまう方なんだが、そういうのって最低だと思ってる [2]。が、最低だと思うのだけれど、なかなか治らない。




一部の人間には俺はグルメとか思われたりしてる訳なんだが、なんだかな、と思う。

確かに肉、野菜、魚、コーヒー、酒など自分の感覚で評価が下せる。というか、下すも何も、頭にポンポン出てきてしまう。んで、素直に感動とかしちまうんで、それを人に話しもんだからややこしい。

味の評価がポンポン出てこない人や、無理しないと出てこない人は、俺みたいなタイプをうらやましく思うらしい。まあ、わからんでもないが……あまりいいことではない。

というか、最近味を云々するのは、下品かな、とか思ってみたりもしている。だって、食とは自然の恵みを肉体が効率良く吸収するための人類の文化であって [3]、それを感謝とか抜きに金の力でホイホイ運んだり火を使って「うまい」の「まずい」のと言うのは、食文化の本質に反する行動ではないかと思うんです。

逆に「こいつは何でも食う」とか言われると喜んじゃいます、俺。




だから、何でも「うまい」と食べられることが、食事という営みにおいては最も上品なんじゃないか、とか。

しかし、それだと作る人間がだらけるかもしれない。

それはいかん。自然の恵みに人間が力を加えて、更に食の効果を高める営みが食なのだから、その営みを放棄するのはいけない。だから、積極的に状況に合わせて効果的な食事を作るべく、努力が必要なのは言うまでもない。

そういう問題じゃなくて、食べるときに自然への感謝がないのは下品だな、と。それだけ。




脇道から戻ると、 俺たちって世代として味覚が変なんじゃないかとか思ってみたりしている。

さっき「分析して食うやつはクソだ」とか書いといて、こういうこと言うの変に思うかもしれないが、こっちが本筋。

味覚ってのは、上の話からつなげるけど「自然の恵みを効率良く肉体が吸収するため」にある能力だと思う。だから体に良いのがうまいのが本当だと思う。新鮮だったり、自分の足りない栄養が入ったものが「うまい」と感じるはずだと思う。

つまり、その場、その場で食いたいもんは変化するはずであり、人によっても違うはず。客観的な「うまい」なんて成立するはずはない。

しかし、この体にいいものを「うまい」と感じる機能が、俺たちは弱っているんじゃないかと感じている。




これは「グルメ」という幻想、客観的な「うまい」が成立すると思い込んでいることによるんじゃないかと。

だから「うまいものが分からない」とか言うやつがザラにいる。「酒の味、教えてくれ」とかなんとか。あのね、教えてもらわなきゃ分かんないのはラッキーなんだよ、お前には必要ないんだよ、と思う。




ホントは客観的に「うまいもん」なんて無いといいたいくらいだ。

まあ現実的にある程度の線でみんな「うまい」と思うのがあるから難しいんだけど、誰もが同じであって、その基準からそれると「味覚音痴」っていう排除の論理があるのが気持ち悪い。

んで、そういう「味覚音痴」の人ってのが、俺の言う「グルメ指向」の人なんだ。

自分で何がうまいのか自信が持てない。だから人の言ってた「うまい」に追従する。時に、人の言うことは間違いや勘違いであったり、同じ調理人だって失敗することもある。

それでも、そうした目の前の現実を無視して「ここは、おいしい店だ」とか言うから「味覚音痴」ってことになるんじゃないかな。




食うというのはそういうことじゃないと思う。

必要な栄養が効率よくとれることが一番であり、味は飽きなければいいはずだ。

文化として保持されて来た「普通の」手法を「普通に」きちんと行えば、ある程度「うまい」はずであり、この受け継いだ手法をきちんと皆が行うということが食文化なんだと思う。

金で世界中からもってきたもんを、ごちゃごちゃやれば、そりゃうまいもんできるだろうけど、それって食文化じゃないと思う。




なんだか訳わかんなくなったので、この辺で。

まあ、とにかく、食うときは、目の前の食い物に全力で向かっていって、食うべきなんだと言いたい。

そん時「あの店では」とか「あの時のアレは」とか考えない。つまり比べない。記憶と目の前の食い物を比べちゃだめなんだ (まあ、ほとんど自分に向かってだな、このセリフ)。

んで、ストレートに体が欲しがっているものを、人の目を気にしないでガンガン食べろ。

でも自分が勘違いしてる可能性もあるから、ちゃんと体にきくこと。そうすれば、身体と味覚のバランスも自ずから整うんじゃないでしょうか、とか。はは。わけわからん。






notes


[1] digi-log 2006/11/07「医食同源」 では以下のように書いている。

食物に健康上の効能があるのは当然のことかもしれません。食物は身体をつくりあげる材料です。食物の栄養がなければ私達は身体を維持できません。食物が身体に影響を与えるのは、ごく自然なことです。

元々、薬も自然にあるものを加工したものです。その多くは元々薬草として知られたものを症状に合わせ、身体に吸収しやすいようにしたものだったはずです。現代の化学やナノテクノロジーで作られる薬品は自然界に存在しない物質を利用していますが、それ以外のものは自然界に存在するものの中の病気に効くエッセンスを絞り出したものです。

どうしても、という場合は仕方ないですが、できるだけ普段から身体にいいものを食べ、ちょっとした病気も自然のもので対応できるのが人間の自然なありかたという気がします。健康は対処両方より、予防の方が断然ラクですしね。


[2] finalventの日記 2006-11-26
「太宰の人間失格は私の愛読書だった」
にもこうある。この感覚は完全に私の感覚とも共通していると言える。

太宰の人間失格で一番の要所はたぶん、こっそり自分には食欲というものがない、と語っているところだ。

 私も食欲というものがない。まあ、ないわけでもなく、おやつとか食ってるわけだから、嘘べぇであるが。このあたりはうまくいえない。

 他人がもくもくと食っているのを、私や太宰のような人は、アライグマのように見ているのだ。この変な感覚というのは、ある一群の人に共通だろう。

 もうちょっと言うと、自分がいやになるのだが、自分の味覚が優れているとか言うつもりはないのだが、どうも味を分析的にとらえている。すごく残酷に料理の味を見ている。もちろん、そういう自分がいやで自暴自棄に食ったりもするのだが。

 それでも、ま、ここまでは許せるかとか食い物を審判している。実は、それは食い物じゃなくて他者をこっそりと審判しているのだ。まあ、そういう人間類型なのだろうと思う。こういう人間はサイテーだと思うし、なかなか救いようがない。


[3] digi-log (2006/11/12)「食文化」 では以下のように書いている。

食文化も、農耕と同じように、エネルギー効率化の技術であったと思うんだ。消化をたすけ、病原を排除する。一つの食材が大量に取れる地域では、同じ食材を異なる味にし、また保存性を高めることは大切だったと感じる。
(……)
限られた恵みから食の効果をいかに引き出すか。これが食文化だと私は考えるんだ。