2007-03-29

[書評] 夷狄を待ちながら / J.M.クッツェー

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簡単に言えることだが、彼の小説のおいては、暴力、意志、権力、自由、性が激しく戦いながら、しかしその言葉と描写は冷静になされている。これは簡単に言えることだし、これを目指していない文学というのもまたありえないのではないかと思えるほどなのだが、クッツェーは彼の並々ならぬ表現力と構成力によって、成功を収めている。

如何にして彼は成功しているのか? 如何にして彼の小説は、読む者に暴力と権力に怯えさせ、そして同時にそれを憎悪させ(あるいはそれに憎悪する自由への意志を恐れるのかもしれないが)、また、敗れつつも意志と自由を賛美し、性の謎を語りかけてくるのだろうか?

簡単な答はすぐに出せるだろう。それは徹底した描写だ。自由を奪い、辱め、肉を切り、骨を折り、目を火にあぶり、飢えさせ、人間の最後の尊厳すら奪う、権力と暴力の描写が、読者を怯えさせ、憎ませているのだ。

私は何度も何度も、とめどなく悲鳴を上げつづける。それは私が上げるのではなく肉体が自ら発っする音であり、おそらく修復のしようもなく損傷されたことを知った体が、その恐怖を絶叫しているのだ。

しかし、彼の文学は権力と暴力への憎悪を伝えるだけものではない。より深い絶望を描いている。主人公は決っして暴力に打ち勝つこともできなければ、その記録を自ら語ることすらできない。しかし、そういうものとして世界を了解してゆく。

その答えは歴史にあるのだろう。