2007-09-01

「やさしい本」が役に立たない理由

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巷の本屋を覗けば、どんな分野でも「すぐ分かる」「分かりやすい」「簡単に分かる」などと銘打った本が売っている。

私が主張したいのは、そうした本は読むだけ時間の無駄であるということである。これらは「分かった気」になる本であり、分かることはないと思う。一見、難解そうな本が、実は理解への近道である。

なぜか? それは「やさしい本」が何をしているのかを考えればおのずと分かる。やさしい本は、

  • デザインをきれい。
  • 図表が豊富。
  • 具体例や比喩が多い。
という特徴があるが、これのどれもが理解や記憶への遠回りとなるからだ。
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まず、デザインがきれいであるということは、デザインが規格化されているということである。常に見出しは左上になり、項目は小分けになっている。可能なら一つのテーマが見開き一ページになるように調整し、書き切れない関連項目へはリンクをはったり、余ったところはイラストで補う。

規格化されたページは記憶には残りにくい。人間は場所や印象を強く記憶をする。つまり「あの見出しが左下にあったページ……」という形で、印象が刻まれるということである。読者も「あの内容は、何ページかも正確には分からないが、後の方のページの左側に書いてあったはず……」という具合にページをくった経験があると思う。その時に、見出しや図表が規則的でないからこそ起こるページの印象の差異を無意識に利用しているのだと思う。規格化されたデザインでは、こうした空間的な印象が利用しにくい。こうした印象が記憶に残らないことで、個別の理解は得られたとしても、全体の理解にはなりにくい。

更に、デザインがきらいな本は色が元々つけられているので、自分で色をつけたり、線を引くことがなくなってしまう。目印をつけるという「行為」によって、記憶を助けることがなっくなってしまうだろう。また、人工的な線や色よりは、自分の手で書いたいびつな線の方が印象に残るものである。

項目が細分化された場合には、全体性の把握が困難になるという問題も起こる。何かを習得するということは、個別の知識の理解ではなく、その個別の知識の全体性を獲得することだからである。デザインのために項目が細分化されてしまうと、全体性を感じることは困難になる。トピックが複数現われる長い文章を読む方が文脈の理解はしやすくなる。そして、それぞれの文章にトピックの重複があった方が、様々な文脈での当該トピックの理解を助けるだろう。一つ一つの項目を細分化して、短文で重複なく理解した方が効率が良さそうに思えるが、実は細分化しない長文を読む方が全体を感じて、その文脈の中でトピックを学べるので記憶に残るし実用的なのである。これは、英単語を憶えるときには、単語帳よりも、文章まるごとを練習した方が効率も実用性もあがるのと同様である。

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次に、図表が豊富というのも問題である。これは自分で知恵をしぼって図表をつくらなくなるからである。そして、図表を見ると「なんとなく理解できた気分」になってしまうことも問題である。それはチャートが様々な情報を切り捨てているからである。多くの知識は、マップになるようには概念整理がされていない。つまり、ある概念とある概念は、ある部分では重複していたり、また、関係のなさそうな概念が、ある特定の場面では強く関連したりするものである。法律のように、人工的に階層化した概念体系であっても、完全に全てを階層によってチャート化はできないと思う。常に例外と矛盾、重複や不完全さ(未定義)があるものである。チャートを眺めてしまうと、そうした部分を誤解してしまうかもしれない。

ただ、自分の理解のためにチャートを描くのは有益である。様々な局面ごとに、図式化して理解や記憶を助けるのは重要だろう。そして、同じ項目なのに、何度もチャートを描き「ああ、二次元じゃ、こことここの関係をうまく表現できないな」とか「うまく書けたが、ここは例外だし、他のあのチャートとは矛盾する」とか、チャートの限界とぶつかって来たら、理解が深まってきた証拠だと思う。

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最後に具体例や比喩も一見すると理解を助けるが、実は理解や記憶の邪魔になるという話をしよう。これは、当然のことだが、概念が抽象的なものであり、いかなる意味でも具体的なものではないからである。もちろん、具体的な事例から抽象されたものであるが、それが体系化され、運用される場面では、完全に抽象的に考えられる。

例えば、重力が関係する事例を具体的に考えることはできるが、重力を具体的に考えることはできないのである。本当に重力を考えるときには、完全に抽象的に考える他ない。同様に人権が関係する事例を考えることはできるが、人権は抽象的に法律体系なり政治学体系なり、倫理学体系なりの、知識体系の中で完全に抽象的に考えるより他に運用はできない。確率や比も、抽象的な理解が必要であるし、実は面積や長さだって抽象的であり、具体的には考えられない。

学生時代に数学や理科などが苦手な人は、こうした抽象的に捉えるコツを知らないからである。「なぜ、三角形の底辺と高さを掛けたのを二で割ると面積になるのか?」と問うが、なぜもなにもない。面積や三角形というそれぞれのトピックが、幾何学という概念体系の中で、そのようにマッピングされているからである。

過剰な具体例は、こうした概念理解を妨げる。そうした概念が「実体」のように具体的なものなのではないかと感じてしまうからだ。

例えば「長さ」や「速度」という概念も本当は抽象的なのだが、「物差し」や「スピードメーター」という道具との相性が素晴しく、日々、目にするので具体的に感じられる。それが「面積」や「加速度」にはそれを具体的に感じさせる道具がないので、どうしてもそこからは抽象的に考えざるを得なくなる。それを抽象的に考えられないから、つまづいてしまうのである。ここで提案したいのは、長さや速度を抽象的に理解するようにすれば、面積や加速度を考えるときにも躓かないと思うのである。つまり、「ものさし」や「車のスピード」などから徹底的に離れて、抽象的に考える癖をつけさせるのである。

どれも導入部の概念は具体的に感じられやすいものが多い。だから、「分かりやすい」本は、好んで導入部に直感的に理解しやすい具体例を豊富に使用する。しかし、こうした戦略は、具体的な理解が不可能な抽象概念になったときに破綻する。当然である。

そうであるならば、初歩の初歩から最低限の具体例は挙げたにしても、抽象的な規定をきちんと与えるべきと思う。確かに最初はとっつきにくいだろう。しかし、初歩の初歩にて概念把握を正確にできていた場合には、その概念体系を広げていくのみなので、抽象的にしか表現できない概念にぶつかっても混乱は少ないだろう。

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概念体系に習熟することについては、西洋哲学書を初めて読んだときのことを思い出す。今でもちっとも分からなかった当時の悔しさを明確に思い出せるほど、当時はさっぱり分からなかった。

認識、感性、悟性、統覚……。そうした単語の意味が分からなかったからとも言えるが、そもそもそうした抽象思考に慣れていなかったからと思う。例えば「私がリンゴを認識する」などという具体例から「認識」を理解していると、文章を読めないのである。「認識」はずばり「認識」として把握しないと駄目なのである。「主体」は「主体」として納得しないと読めないのである。

そのためには一つ一つの概念を理解しようと思っても意味がない。体系を頭に入れるしかないのである。こんなことを知っていた訳でもないが、分からないのが悔しかった私は、受験勉強の合間に純粋理性批判を冒頭からノートに何度も写し、音読して暗記していった。当時は若かったから出来た力技であったが効果は覿面であった。読んでも分からなかったのが、一定分量を暗記すると分かったのである。そしてある時にズバっと読めるようになったのである。なんというか、はっきり「わかった!!」となったのである。

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そう言えば、フランス哲学が好きな友人が「カントはプラモ好きのオタクみたいだ。概念ってパーツをただ組み合わせているだけだ」などと言っていたのを思い出す。こうした彼のカント哲学への判断が正しいかどうかは本当にどうでもよいとして、確かに全ての概念体系というのはそうした側面を持つと思う。概念を体系にしていなければ、知識として役には立たない。その体系を利用して、他の体系の土台にしたり、あるいは具体的な場面に適用したりするのだから。

だから、ある意味で、部分的には知識体系はチャートにできる。だから、自分でチャートを書くのは有益である。ただし、そのチャートは完全なものとはなりえない。だから、何度も何度も書いてゆくものである。そして、そこに漏れているもの、そこに暗示されているもの、そうしたところまで感じてゆくことが大切と思う。

ただし、チャートはあくまで補助である。中心はよいテキストの読み込みである。よいテキストをある程度暗記してしまえば、理解はついてくるものである。理解しようともがく前に、ひたすら暗記してしまうのは、特に新しい分野の場合には強力である。そのためにも、よい教科書、よい書物を選ぶ必要がある。

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できるだけ古典的で難解に見えそうなものが、結局は入門書として優れていると私は思う。原書が一番の入門書であると私は常に思っている。分からないなら、暗記してしまえばよいだろう。私が法律を勉強するなら入門書など読まず六法を暗記して、次に基本書を読み込み、必要な部分は暗記するだろうし、経済を勉強するなら、重要な古典を読み込み、部分的に暗記をすると思う。

少くとも文学や哲学の分野で、原作を読まずに解説書や入門書ばかりを読む人間の気がしれない。どんな解説書や入門書であれ、その著作は原作とは別の著作になってしまうだろう。まあ、優れた解説書や入門書を作る人になりたいのは話は別だが、普通は偉大な思想家や文豪を理解したいのだろうから、人のゲロ(理解)なんて目もくれずに、直接にぶつかって、感じたことを感じたままにしていればいいのではないかと思う。そして、結局、そうした思想家や文豪の著作であったとしても、自分に対しては結局、一つの「資料」な訳で、参考にしつつも、縛られることなく、自由に自分の世界を感じてゆけばいいだろう。

そして、なにがしかを理解したと思ったら、文章を書けばよいと思う。作文は奇妙なほどに記憶を定着させる。試しにその分野の第一人者として、世界の学習者に向けた、歴史に残るような偉大な教科書を書く気分で文書を書いてみると、理解も深まるし記憶に残る。これは催眠術的な効果もあるのかもしれないが。

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最後に弁解のようになってしまうが、実は私も解説書を読むことがないわけではない。プライドが高いので、カントやニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、ヘッセなど自分が愛読している思想家や文豪の解説書や入門書、評論などには目もくれないで生きていたのだが、人と話して自分がとんでもない誤解をしていることに気がつくことがあった。そして、それが典型的で有名な誤読であると目もあてられない。解説書や入門書にちゃんと批判してあり、えらい恥をさらすことになる。まあ、それでも私は未だに解説書や入門書などは金と時間の無駄に思って買わないのだが、やっぱり読んでおいて損はないのだろうとは思う。いや、私の理解力・読解力が低いのが原因の恥さらしなのだから、仕方がないと言えば仕方ないが、それでも見栄ってのはあるものである。

また、自分の視野が狭くなることを避けるためにも、関係分野の歴史を学ぶのを怠ってはならないだろう。ちなみに、これも私は怠る。だから、有名な人物とその作品とその主張や、有名な論争とその決着を知らずに恥をかくのである。これは言い訳無用で、とにかく歴史を学ぶしかない。系譜を辿るのは、それはそれで面白さはあるものである。

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結論はシンプルである。己の記憶力と理解力のみを頼りに、名著と歴史にぶつかってゆくこと。これである。