2007-05-10

[書評] 百年の孤独 / ガルシア=マルケス

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ガルシア=マルケスを読むのは初めてである。

様々な本を思い出しながら本書を読んだ。大江や中上、筒井などの作品が頭をよぎる。多くの日本文学好きの人も同様と思う。

こうした人々に本書が影響を与えたのか、それとも彼らがガルシア=マルケスに影響を与えたのか、それとも同時代的な響き合いがあったのか、私は知らない。調べる気もない。が、どうも本書が影響を与えたのだろうという気がする。

理由は、本書の「手探り」感である。上に挙げた作家の、こうしたスタイルの本は、どれも「既存の原型」に向かって書かれたという感覚があったのである。これは、何も現在、本書を読み終えたから言っているのではない。彼等の作品を読む大学生の日々に、そうした感覚を感じていたものである。原型というとものものしいが、何か「ねらい」のようなものである。それはエンターテイメント的なものでなく、いや、むしろエンターテイメントから遠い所で、狙われ、そこへ向かい積み重なってゆくというイメージである。そして、その「原型」のようなイメージが、漠然と「文学」という、これまた更に漠然とした営みをイメージさせてくれたのである。

本書が提供する「原型」とは(まあ、これは本書がウケたから「原型」になった訳で、書きつつある現在には原型でも何でもないのだが……)(いや、それでも書きつつある「現在」にこうした作家は「何か」を確実に与えられているから書いているのだろうが……そうでなければ、ただ手探りの中で、人は執筆という孤独に耐えられるのだろうか?)(いや、逆か、その孤独があるからこそ、手探りの中で「何か」に導かれるのか?)(まあ、いいや)、本書の向かった「原型」とは一言でいえば、陳腐な表現だが、既存の小説の破壊ということになる。具体的には「人」の小説ではなく「街」の小説、場所の小説であると言えると思う。

単一の主人公と世界の対立などという設定は勿論、確固としたキャラクター作りや、息をのむ緻密なドラマ(物語・筋書)作りなどという「小説を書く教科書」なるものに載っていそうな要素を激しく否定し去っている。小説というのは、「人」の物語だと一般には思われている。本書は違う。「場所」の物語である。小説というのは「フィクションをあたかもあるように書くこと」だと思われている。本書は違う。書かれたフィクションそのものが、まさにフィクションの中でもフィクションであると宣言されてしまうのである。

別にこうしたスタイルは珍しくはないのだが、こうしたことを書くだけでも「ああ、文学ってのは」という気分になるものである。まあ、本書の本当の「ねらい」など書ける訳でもないので、この辺でお茶を濁しておく。


本書になぜ「手探り」を感じるのだろう。それは「人が不在」であるからである。勿論、人は登場するのであるが、妙な印象を受けると思う。その理由は最後に明かにされるが(そして、それが最大の「ねらい」だったと考えることも可能ではあるが、個人的には、そこだけを着目してはいけないと思う)、読み進めながらの違和感、人が描写されているというのに、人が不在であり空虚な印象を受けるという違和感が、本書の醍醐味ではないかと思う。そして、そこに、本書の「手探り」という質感を感じるのである。構想があるにしろ、ないにしろ、著者は書き進めながら、そして同時に読み進めながら、ある空虚さを感じ、そして、その感じが結果として最後の結末を生んでゆくことになったと思う。その空虚さとは、本書が描くものが「場所」であるからに他ならないだろう。場所とは本来空虚なものであり、空虚であるからこそ意味を持ちえるのである。そして、その土地の空虚さを描くためには、本質的には空虚ではあり得ない肉体を持つ人間を描く必要がある。その彼らが、生きる中で、その場の空気が描かれてゆくわけである。その意味で、本書は場の空気を描いたのであるが、それは人が生んだ場の空気ではなく、そもそも土地が定めていた場の空気を描いたのであり、その意味では、あるいは、人とは、人同士で場の空気など作れず、元来ある場の空気に、ただあやつられながら、あやつられているとは思わずに、充実した生活を送っていると思いながら、ただただ空虚さを積み重ねているだけなのかもしれない。いや、失礼。意味不明。

ただ、ある種の気持ち悪さがあるのである。大江や中上が「よくできた」という印象に比べ(いや、この言葉は賞賛なのだが、本人は怒るだろうが……)、この手探り感、本質的な空虚な質感というのは、私たちが本書を読むのを拒み、苦しめ、そして、それが故に、なにか価値を感じるのである。そして「土地」や「血筋」などに関わる表現には、その「手探り」感はふさわしい。(ただ勿論欠点でもある)

しかし、逆に言えば、中上がうまいということでもある。どっちが高いかという話を私はここでしたいわけじゃない。(実際、『千年の愉楽』なんて好きだし……ってあれ?『百年の孤独』と『千年の愉楽』ってやっぱ関係あるのかな? とにかく『愉楽』の方はオリュウノオバが居て安心させてくれる。それは冒頭の夏芙蓉の香りのように。銃殺隊から始まる物語とは違う訳である。それもまた、よし)


概観的なことしか書けないが、本書とはこうした本であると思う。普通の物語のようなものであると思って手に取ると必ず失敗すると思う。こうした本は「おもしろいかおもしろくないか」というある意味既存の価値判断枠から離れ「自分を魅きつけるのか?」という違った枠で挑むものであると思う。読みながら、つまらないと思いながらも、何かが魅きつけていると感じるならば、その何かは、多くの人を魅了した何かなのであり、それは本書を通じてしか得られない何かなのだと思う。そして、そうした何かを語る友がいたときに、他の本ではできない経験があると思う。「おもしろい」という経験そのものは、ある意味で他の本でも充分にできると思うし、それらの多くは語るに値しないのだから。


ちなみに私はメキシコ人の友人に「ガルシア=マルケス読んだよ」と言ったら「俺は嫌い。文が冗長で、物語もダラダラしてて、俺はボルヘスやカルロス=フエンテスが好き」とのこと。なかなか難しい。


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