2007-08-05

速読の極みは記憶術か

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少し雑感をメモしたくなった。また意味不明なことを書くので申し訳ない。

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読書が高速になると、文字を追うことはなくなる。すると紙面を追い、なにがしかを理解することになる。そのなにかを理解しているから読書として成立するのだが、それが何なのかは分からない。ただ考えてみれば、もともと文字をリニアに読んでいたときにも、何を理解していたのかは分からない。

それでも何かが頭に残っている。ふと、風呂から出た時に、紙面の内容が頭をよぎる。または、眠りにつく前のふとした瞬間に内容が頭をよぎる。下手をするとページそのものや文字列が目の前に受かぶ。気がつくと無意識に脳が読んでいるのである。

それがどうしてだか分からない。ただ、思い出せるのである。ただ、憶えたという実感がない。気持ちが悪い。

ところで、本の内容を眺めていると、ただ、そこに書かれた個別の情報を再編集して頭に入れているという感覚になることもある。個々のものを理解しているのではない。ただ、そのメタな情報を理解しているという感じ。

読書の一番の問題は記憶していることだろう。音読しても筆者しても思い出せないことはある。逆にページを眺めるだけでも、思い出せることがある。

ここまで考えると、速読術の極みは記憶術になるのだろうと思う。それは「憶えること」の訓練ではない。思い出すことの訓練である。一瞬という時間を明確に確実に思い出せるのなら、一瞬でも目に入った情報を思い出せるようになる。

まあ、そんな風に人間の頭はできてないだろうし、そうなっちゃったら病気とも思うが。