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2008-05-13

思考力を鍛える読書術(2) 本全体を把握する本の読み方

思考力を鍛える読書では、シントピカル読書(並列読書)を推奨したが、そもそも書籍を全体として捉える教育を受けた覚えがない。したのは細部を細かく読んでゆくことだけだ。それでは木を見て森を見ずになってしまう。そこで、素早く本全体を把握する読書法を推奨したい。

本の読み方は教育されない

文字の読み方は教育された。しかし、本の読み方は教えてもらった記憶がない。

ここで言う読書とは、分析し、批評するための読書だ。著者の主張や意図、その問題意識や視野、その論証や根拠、その結論などを検証してゆく読書だ。

こうした読書をなぜか私達は教育されない。つまり、『本を読む本』でアドラーがいうところの「基本読書」のレベルしか教育されない。文字が読めれば本が読めるというわけではない。

本は「部品」から構成されている

僕が読書の初心者に伝えたいのは、本は一息に書かれたものではないということだ。本は一息で読めるはずの小さな部品から構成されている。だから、読む方も、そうした部品に分けて読み解いていった方がいい。

本を読むには部品の構成を把握する必要がある。簡単に言えば、一冊の本は章から構成され、その章は節から構成される。節は段落から構成されるだろう。つまり、本とは入れ子構造になっているとも言える。

一冊の本がこうした部品から構成される理由は、人間が把握できる文書の長さには限度があるからだ。論証する文章が長過ぎると読者の思考がついてゆけなくなる。だから一息に読める程度の長さの文章を部品にして書籍は構成される。

細部を忘れ、全体を把握する

無理に一息に読まず、こうした区切りを積極的に利用したほうがいい。

節なら節という単位で把握をしてゆき、次に節の詳細は忘れてしまおう。そして、複数の節がどのような組合せで章を組み立てているのかを考えるといい。そうすれば、章で述べられていることが分かりやすくなる。最後に、章の組み合わせですっきりと本全体を把握することができるだろう。

章全体、ましてや書籍全体を一続きのものとして捉えようとすると、思考の息が続かない。何事も、ある程度のまとまりで把握したら細かい所は見ないようにするのがコツだ。木を見て森を見ずという言葉がある。目の前の文字の連続を見ていると全体を見渡せなくなってしまう。あえて、身を引いて細部を忘れることで、すっきりと本全体を見渡せるはずだ。

構成を再構築する

ただし、ここで大きな問題がある。こうした構成が目次の章立てと一致していないことが多々あるということだ。あまりに内部構成が明らさまな章立ては野暮ったいのだろう。だから実際に読みながら、表面の章立てではない、内部構成を考えなければならなくなる。

ここで著者の問題意識や概念装置、理論と仮説などを検証しつつ把握する必要が出て来る。そうした作業を通じて、自分で議論の流れの全体を再構築してゆくことになるだろう。

ここまで読めば、著者の視野や仮定、推理などの限界なども見えてくることと思う。それでもなお、その主張と議論に魅力があることがある。ここに至って、その本と付き合えたと感じるのかもしれない。

まとめ

大切なのは、読書の目的を明らかにして、メリハリをつけることだ。本を理解するためには一度で理解しようとするよりも、作業を分けた方がいい。

つまり、節を理解するときは節を理解し、全体を理解するときには更に細部を飛ばして理解するということだ。漫然と文字を追っていると時間の浪費になる。大切でなさそうな部分は、ひとまずさっと目を走らせるだけでいい。

そのとき、隣に目次を書き写したのを置いておき、重要な文に線を引いてゆくこと。文字を読むのではなく、線を引いているという気分で読むと速く読めると思う。更に、全体を把握するときには、傍線のところだけに目を走らせるようにする。

更に言えば、丁寧に読むことを敢えてやめてみるといいかもしれない。目についたポイントや「あれ?」っと思ったところに線を引いてゆくだけで、細かい内容を読む必要なんてないと思う。線を引いたところだけを読んで、なんとなく議論の流れがつながっていれば十分だ。

だいたい、ほとんどのことは人間忘れてしまうのだから、忘れそうなことは最初からインプットしなくてもよいと思う。細部にこだわるのは後からで十分だ。

たぶん、これが最短で本の内容を理解する方法だと思う。

そして最終的には、シントピカル読書(並列読書)をしてゆくとよいと思う(「思考力を鍛える読書」参照)。

2008-05-11

思考力を鍛える読書術(1) 一つの問題への並列読書法

読書は思考の力を向上させる営みであるべきだと思うが、漫然と読んでいるばかりでは著者に説得されてしまいがちである。一つのトピックに答える複数の議論を吟味するシントピカルな読書が、思考力を鍛える上では有効なのだと、最近になってやっと気付いた。

自己に潜在する欺瞞を見抜く難しさ

私はよく詐術に欺かれていた自分に気づく。 具体的には、自分が無意識に思い込んでいた判断の根拠が、 単に欺瞞でしかなかったことに気づくのである。

自分の外にある欺瞞を見抜くのは私にも容易いと思う。 しかし、自分にとってすら当然になった欺瞞を見抜くのは難しい。 無意識に刷り込まれている迷信や価値観、歴史館が私にはあり、 それは私の思考の一部になっていて、 そこを批判されると感情的になってしまう。

無意識に己に刷り込まれた詐術を見ぬくには物事を 批判的かつメタに捉える必要がある。 具体的には、ある争点に対しての判断の枠組みを明かにし、 更にその枠組み自体を懐疑してゆくことが求められる。 潜在する枠組み自体に懐疑の目を向けないことには、 いつまでも流通したドグマの欺瞞に欺かれ続けることになる。

自己に潜在するドグマを見抜く最善の方法は 奇譚のない議論であろう。 しかし、そうした議論に相応わしい友というのは得難い。 勝ち負けではなく、自分にとってすら無意識であるところの 思考の枠組み、価値観、視点などを浮き彫りにできるほどに 語り合える機会というのはそうはない。

そこで、書物に頼ることになる。が、ここで私はよく罠に嵌まる。 著者の考えを無批判に受け入れてしまうということである。 有名な書物であった場合にその説得力は強い。 人と話す時にもそれで筋が通るようになる。 こうしてその思考の枠組みを無批判に導入してしまうことになる。 確かに優れた著者の本は欺瞞を免れたものであるかもしれないが、 人の考えた思考を導入するだけでは知的であるとは言えない。 考える力、懐疑の力、欺瞞を見抜く力は養えない。

批判的に読めばいいのだろうが、 何しろ著者は私よりも名実ともに知的であり批判的に読むことは難しい。 著者と異なる視座を持つこともできるかもしれないが、 その違和感を掘り下げることは通常の読書ではなかなかできない。 そもそも、著者と異なる思考の枠組みに気づけるということ自体が 私の場合には非常に難しい。

自分は本との向き合い方を間違っていたようにも感じる。

比較読書で優れた議論を相対化する

思考を鍛えるには、本とどう読めばいいのだろうか。 そうしたことを、たまに思っていたのだが、 最近やっと、アドラーなどが言うシントピカル読書、 あるいは比較読書というものを積極的に行えばいいということだった。

上でも述べたように、一つの書物に向かっているだけでは批判的になることは難しい。 殊に自分の意見が確固たるものでない場合には、私は単純に著者に説得されてしまう。 だから、その著者の考察に別の優れた著者の考察をぶつけるのである。 こうすれば、ある著者の優れていたと思われた考えが相対化されてゆく。 これならば私にとっても思考を深められるという訳だ。

そのためにも、一つの問いを決める必要がある。 その問いに対し、複数の書物がどのように答えるのかを考えるのである。 更には、それぞれの著者の主張とその議論、別の意見への反論などを並べてゆく。 その時点で議論は相対化されるだろうし、どこに論点があり、 各自の思考の枠組みも透けて見えるかもしれない。 そうして積極的に自分の意見も練る中で、自分の無意識に抱えていた 価値観も浮き彫りになってゆくだろうと思う。

しかし、一つの問いに対して様々な意見が飛び交うような争点は そんなに多くはないし、そうしたものの多くは抽象的であり、 各著者の議論を整理するのは大変なことである。 あるいは、時事的な問題であり、判断のために必要な情報や事実が無限に拡散してしまう。

理想的には、一つの問い掛けがあり、その問いに答えるにあたって 必要な情報は少なく限定されていることが望ましい。 情報の摂取や事実確認に奔走されては懐疑や思考の能力は養えない。

次にそうした問いに対して様々な知性が様々に答を出していて、 その答を通じて、それぞれの価値観や視座そのものが懐疑されることが望ましい。

だが、そんな都合のよい書物があるのだろうか。こう悩んでしまうかもしれない。

しかし、元来、書物の世界はそうした書物が主流であったことに気付く。 つまり、これは一つの原典と複数の注釈書を読むような読書である。 原典とは解釈に開かれた一つの問い掛けであり、 解釈に必要な情報はそこに集約されている。 原理的には原典さえ読めば、自分の意見を出すには十分な情報を得られたことになる。

そして、その原典に対しての注釈書は議論を学ぶ上では非常に有意義である。 ある原典への解釈に様々な意見が述べられるが、 それを仔細に整理すれば、どれも一定の真実が含まれていて、 それぞれの価値観が浮き彫りになるだろうし、 どこから先が議論のできぬ領域なのかも見え隠れする。

こうした原典と注釈書という読書のスタイルは、 少なくとも本の向かい方を習い、議論の能力を高めるのには、 最善ということになると思う。

小さい内に、原典と注釈による比較読書を行えば、 本にどのように向かえばよいかが見につくのだと思う。 こうした懐疑の力をもって、 「善く生きる」などの普遍的な問題に進んでいければ 実りのある読書となることと思う。

2007-09-01

「やさしい本」が役に立たない理由

巷の本屋を覗けば、どんな分野でも「すぐ分かる」「分かりやすい」「簡単に分かる」などと銘打った本が売っている。

私が主張したいのは、そうした本は読むだけ時間の無駄であるということである。これらは「分かった気」になる本であり、分かることはないと思う。一見、難解そうな本が、実は理解への近道である。

なぜか? それは「やさしい本」が何をしているのかを考えればおのずと分かる。やさしい本は、

  • デザインをきれい。
  • 図表が豊富。
  • 具体例や比喩が多い。
という特徴があるが、これのどれもが理解や記憶への遠回りとなるからだ。
***

まず、デザインがきれいであるということは、デザインが規格化されているということである。常に見出しは左上になり、項目は小分けになっている。可能なら一つのテーマが見開き一ページになるように調整し、書き切れない関連項目へはリンクをはったり、余ったところはイラストで補う。

規格化されたページは記憶には残りにくい。人間は場所や印象を強く記憶をする。つまり「あの見出しが左下にあったページ……」という形で、印象が刻まれるということである。読者も「あの内容は、何ページかも正確には分からないが、後の方のページの左側に書いてあったはず……」という具合にページをくった経験があると思う。その時に、見出しや図表が規則的でないからこそ起こるページの印象の差異を無意識に利用しているのだと思う。規格化されたデザインでは、こうした空間的な印象が利用しにくい。こうした印象が記憶に残らないことで、個別の理解は得られたとしても、全体の理解にはなりにくい。

更に、デザインがきらいな本は色が元々つけられているので、自分で色をつけたり、線を引くことがなくなってしまう。目印をつけるという「行為」によって、記憶を助けることがなっくなってしまうだろう。また、人工的な線や色よりは、自分の手で書いたいびつな線の方が印象に残るものである。

項目が細分化された場合には、全体性の把握が困難になるという問題も起こる。何かを習得するということは、個別の知識の理解ではなく、その個別の知識の全体性を獲得することだからである。デザインのために項目が細分化されてしまうと、全体性を感じることは困難になる。トピックが複数現われる長い文章を読む方が文脈の理解はしやすくなる。そして、それぞれの文章にトピックの重複があった方が、様々な文脈での当該トピックの理解を助けるだろう。一つ一つの項目を細分化して、短文で重複なく理解した方が効率が良さそうに思えるが、実は細分化しない長文を読む方が全体を感じて、その文脈の中でトピックを学べるので記憶に残るし実用的なのである。これは、英単語を憶えるときには、単語帳よりも、文章まるごとを練習した方が効率も実用性もあがるのと同様である。

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次に、図表が豊富というのも問題である。これは自分で知恵をしぼって図表をつくらなくなるからである。そして、図表を見ると「なんとなく理解できた気分」になってしまうことも問題である。それはチャートが様々な情報を切り捨てているからである。多くの知識は、マップになるようには概念整理がされていない。つまり、ある概念とある概念は、ある部分では重複していたり、また、関係のなさそうな概念が、ある特定の場面では強く関連したりするものである。法律のように、人工的に階層化した概念体系であっても、完全に全てを階層によってチャート化はできないと思う。常に例外と矛盾、重複や不完全さ(未定義)があるものである。チャートを眺めてしまうと、そうした部分を誤解してしまうかもしれない。

ただ、自分の理解のためにチャートを描くのは有益である。様々な局面ごとに、図式化して理解や記憶を助けるのは重要だろう。そして、同じ項目なのに、何度もチャートを描き「ああ、二次元じゃ、こことここの関係をうまく表現できないな」とか「うまく書けたが、ここは例外だし、他のあのチャートとは矛盾する」とか、チャートの限界とぶつかって来たら、理解が深まってきた証拠だと思う。

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最後に具体例や比喩も一見すると理解を助けるが、実は理解や記憶の邪魔になるという話をしよう。これは、当然のことだが、概念が抽象的なものであり、いかなる意味でも具体的なものではないからである。もちろん、具体的な事例から抽象されたものであるが、それが体系化され、運用される場面では、完全に抽象的に考えられる。

例えば、重力が関係する事例を具体的に考えることはできるが、重力を具体的に考えることはできないのである。本当に重力を考えるときには、完全に抽象的に考える他ない。同様に人権が関係する事例を考えることはできるが、人権は抽象的に法律体系なり政治学体系なり、倫理学体系なりの、知識体系の中で完全に抽象的に考えるより他に運用はできない。確率や比も、抽象的な理解が必要であるし、実は面積や長さだって抽象的であり、具体的には考えられない。

学生時代に数学や理科などが苦手な人は、こうした抽象的に捉えるコツを知らないからである。「なぜ、三角形の底辺と高さを掛けたのを二で割ると面積になるのか?」と問うが、なぜもなにもない。面積や三角形というそれぞれのトピックが、幾何学という概念体系の中で、そのようにマッピングされているからである。

過剰な具体例は、こうした概念理解を妨げる。そうした概念が「実体」のように具体的なものなのではないかと感じてしまうからだ。

例えば「長さ」や「速度」という概念も本当は抽象的なのだが、「物差し」や「スピードメーター」という道具との相性が素晴しく、日々、目にするので具体的に感じられる。それが「面積」や「加速度」にはそれを具体的に感じさせる道具がないので、どうしてもそこからは抽象的に考えざるを得なくなる。それを抽象的に考えられないから、つまづいてしまうのである。ここで提案したいのは、長さや速度を抽象的に理解するようにすれば、面積や加速度を考えるときにも躓かないと思うのである。つまり、「ものさし」や「車のスピード」などから徹底的に離れて、抽象的に考える癖をつけさせるのである。

どれも導入部の概念は具体的に感じられやすいものが多い。だから、「分かりやすい」本は、好んで導入部に直感的に理解しやすい具体例を豊富に使用する。しかし、こうした戦略は、具体的な理解が不可能な抽象概念になったときに破綻する。当然である。

そうであるならば、初歩の初歩から最低限の具体例は挙げたにしても、抽象的な規定をきちんと与えるべきと思う。確かに最初はとっつきにくいだろう。しかし、初歩の初歩にて概念把握を正確にできていた場合には、その概念体系を広げていくのみなので、抽象的にしか表現できない概念にぶつかっても混乱は少ないだろう。

***

概念体系に習熟することについては、西洋哲学書を初めて読んだときのことを思い出す。今でもちっとも分からなかった当時の悔しさを明確に思い出せるほど、当時はさっぱり分からなかった。

認識、感性、悟性、統覚……。そうした単語の意味が分からなかったからとも言えるが、そもそもそうした抽象思考に慣れていなかったからと思う。例えば「私がリンゴを認識する」などという具体例から「認識」を理解していると、文章を読めないのである。「認識」はずばり「認識」として把握しないと駄目なのである。「主体」は「主体」として納得しないと読めないのである。

そのためには一つ一つの概念を理解しようと思っても意味がない。体系を頭に入れるしかないのである。こんなことを知っていた訳でもないが、分からないのが悔しかった私は、受験勉強の合間に純粋理性批判を冒頭からノートに何度も写し、音読して暗記していった。当時は若かったから出来た力技であったが効果は覿面であった。読んでも分からなかったのが、一定分量を暗記すると分かったのである。そしてある時にズバっと読めるようになったのである。なんというか、はっきり「わかった!!」となったのである。

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そう言えば、フランス哲学が好きな友人が「カントはプラモ好きのオタクみたいだ。概念ってパーツをただ組み合わせているだけだ」などと言っていたのを思い出す。こうした彼のカント哲学への判断が正しいかどうかは本当にどうでもよいとして、確かに全ての概念体系というのはそうした側面を持つと思う。概念を体系にしていなければ、知識として役には立たない。その体系を利用して、他の体系の土台にしたり、あるいは具体的な場面に適用したりするのだから。

だから、ある意味で、部分的には知識体系はチャートにできる。だから、自分でチャートを書くのは有益である。ただし、そのチャートは完全なものとはなりえない。だから、何度も何度も書いてゆくものである。そして、そこに漏れているもの、そこに暗示されているもの、そうしたところまで感じてゆくことが大切と思う。

ただし、チャートはあくまで補助である。中心はよいテキストの読み込みである。よいテキストをある程度暗記してしまえば、理解はついてくるものである。理解しようともがく前に、ひたすら暗記してしまうのは、特に新しい分野の場合には強力である。そのためにも、よい教科書、よい書物を選ぶ必要がある。

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できるだけ古典的で難解に見えそうなものが、結局は入門書として優れていると私は思う。原書が一番の入門書であると私は常に思っている。分からないなら、暗記してしまえばよいだろう。私が法律を勉強するなら入門書など読まず六法を暗記して、次に基本書を読み込み、必要な部分は暗記するだろうし、経済を勉強するなら、重要な古典を読み込み、部分的に暗記をすると思う。

少くとも文学や哲学の分野で、原作を読まずに解説書や入門書ばかりを読む人間の気がしれない。どんな解説書や入門書であれ、その著作は原作とは別の著作になってしまうだろう。まあ、優れた解説書や入門書を作る人になりたいのは話は別だが、普通は偉大な思想家や文豪を理解したいのだろうから、人のゲロ(理解)なんて目もくれずに、直接にぶつかって、感じたことを感じたままにしていればいいのではないかと思う。そして、結局、そうした思想家や文豪の著作であったとしても、自分に対しては結局、一つの「資料」な訳で、参考にしつつも、縛られることなく、自由に自分の世界を感じてゆけばいいだろう。

そして、なにがしかを理解したと思ったら、文章を書けばよいと思う。作文は奇妙なほどに記憶を定着させる。試しにその分野の第一人者として、世界の学習者に向けた、歴史に残るような偉大な教科書を書く気分で文書を書いてみると、理解も深まるし記憶に残る。これは催眠術的な効果もあるのかもしれないが。

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最後に弁解のようになってしまうが、実は私も解説書を読むことがないわけではない。プライドが高いので、カントやニーチェ、ハイデガー、ドストエフスキー、ヘッセなど自分が愛読している思想家や文豪の解説書や入門書、評論などには目もくれないで生きていたのだが、人と話して自分がとんでもない誤解をしていることに気がつくことがあった。そして、それが典型的で有名な誤読であると目もあてられない。解説書や入門書にちゃんと批判してあり、えらい恥をさらすことになる。まあ、それでも私は未だに解説書や入門書などは金と時間の無駄に思って買わないのだが、やっぱり読んでおいて損はないのだろうとは思う。いや、私の理解力・読解力が低いのが原因の恥さらしなのだから、仕方がないと言えば仕方ないが、それでも見栄ってのはあるものである。

また、自分の視野が狭くなることを避けるためにも、関係分野の歴史を学ぶのを怠ってはならないだろう。ちなみに、これも私は怠る。だから、有名な人物とその作品とその主張や、有名な論争とその決着を知らずに恥をかくのである。これは言い訳無用で、とにかく歴史を学ぶしかない。系譜を辿るのは、それはそれで面白さはあるものである。

***

結論はシンプルである。己の記憶力と理解力のみを頼りに、名著と歴史にぶつかってゆくこと。これである。

2007-08-05

速読の極みは記憶術か

少し雑感をメモしたくなった。また意味不明なことを書くので申し訳ない。

***

読書が高速になると、文字を追うことはなくなる。すると紙面を追い、なにがしかを理解することになる。そのなにかを理解しているから読書として成立するのだが、それが何なのかは分からない。ただ考えてみれば、もともと文字をリニアに読んでいたときにも、何を理解していたのかは分からない。

それでも何かが頭に残っている。ふと、風呂から出た時に、紙面の内容が頭をよぎる。または、眠りにつく前のふとした瞬間に内容が頭をよぎる。下手をするとページそのものや文字列が目の前に受かぶ。気がつくと無意識に脳が読んでいるのである。

それがどうしてだか分からない。ただ、思い出せるのである。ただ、憶えたという実感がない。気持ちが悪い。

ところで、本の内容を眺めていると、ただ、そこに書かれた個別の情報を再編集して頭に入れているという感覚になることもある。個々のものを理解しているのではない。ただ、そのメタな情報を理解しているという感じ。

読書の一番の問題は記憶していることだろう。音読しても筆者しても思い出せないことはある。逆にページを眺めるだけでも、思い出せることがある。

ここまで考えると、速読術の極みは記憶術になるのだろうと思う。それは「憶えること」の訓練ではない。思い出すことの訓練である。一瞬という時間を明確に確実に思い出せるのなら、一瞬でも目に入った情報を思い出せるようになる。

まあ、そんな風に人間の頭はできてないだろうし、そうなっちゃったら病気とも思うが。

2007-08-03

速読読書術(5) マーキングのすすめ

何度も読むような本の場合には書込みが有益になります。キーワードを○で囲ったり重要なところに線を引く人は多いと思います。書込みにより印象付けられますし後から探す時にも便利になります。

ただ、ある線が何で引かれたのか分からなくなることもあります。そのためには読書記号が有益です。

速読読書術(4) 音読をやめ、一度に読み取る範囲を広げる

目的をはっきりさせて内容を整理して読むだけでは、当然、読書の速度に限界があります。ここでは一つ一つ文字を追うスタイルの読書をやめ、ブロックごとに読んでいく読書法をjおすすめしたいと思います。

音声化しなくても意味は理解できる

まず受け入れて欲しいことがあります。それは文字の意味は音声化しなくても把握できるということです。そして、その視覚のみによる意味理解の方が、音声化による意味理解よりも数段高速であるということです。

このことは文章を音声化しないで黙読している人にとっては自明のことでしょうが、頭の中で音読をしながら黙読をしている人にとっては受け入れずらいかもしれません。というのは特に意識をして読書の速度を上げようとした人でない限り、本を読むことは文字を頭の中の声により音声化することになっているからです。自然に文字を見ると頭の中では音になっているのです。

この音声化が無駄なのです。人は文字を見ただけでも意味を理解できるのです。

音声化しながら文字を追っている人は頭の中の声を消して読めるように努力してみてください。これは必ずできるようになります。そのためには音にするよりも速く目線を動かしながら読むことで、頭の声を消して読めるようになることと思います。速く読もうとすれば自然と頭の声にしている余裕はなくなるからです。また頭の音声化する能力を他の動作に向けてしまうのも手です。つまり別の音を聞いたり、あるいは話しながら本を読むことも効果があります。

音声化しないでも意味が把握できるようになればしめたものです。この動作に慣れてきたら一文字一文字追っていった目線を数文字ごとに追うようにしてください。一行を半分に分けて、その半分に一瞬だけ視線を当てたら次の半分に移るようにするのです。目線がジャンプするような感覚です。一瞬の視線でも数文字程度ならすぐに理解できることでしょう。これだけでも以前よりかなり速く読めるようになるはずです。

これだと内容が頭に残るか不安だと思うかもしれません。ただ、安心してください。音声化したところで、本の内容はたいして頭には残らないのです。意味を追いながら素早く読むことを何度もした方が本の内容は頭に残ると私は考えます。なぜなら、素早く読むことで意味の聯関を把握できるようになるからです。議論の全体像や概念や情報の様々な聯関という本が持つ有機性は、本の理解や記憶の保持に貢献するのです。

あくまで、議論や主張の確認や目新しい情報の検索のようにして読書してみて下さい。そして、全体像や意味の聯関を把握し味わって下さい。短時間で本を読める上に把握するのが難しい本の有機性を頭に格納できます。漠然とした読書による分散した記憶に比べて有機的な情報は記憶に残りやすいと私は考えます。

ただし、難しい本の場合には速くは読めません。これは当然のことで理解が伴なわないからです。あくまで意味が辿れるからこそ(確認、検索ということで)視線を進めてゆくわけで、意味も分からないのに視線を素早く動かしても仕方ありません。

一度に読みとる塊を大きくする

さて、数文字の塊で意味を把握して読めるようになったら、その意味を把握する塊を大きくして意味把握の速度も速くしてゆきましょう。これには二つの努力が必要になります。一つは視野の拡大でもう一つは意味把握の速度の向上です。

視野を広くするためにはいくつもの方法があります。大小いくつも書かれた同心円を見る、八の字や星などの図形を辿る、ページ一杯にばらばらに書かれた数字を探しながら辿る、ページ一杯に枡目に点を書いたものを見る、などです。こうした訓練を辛抱強く続けることで視野は確実に広くなります。

最初は数文字であった視野はすぐに広がり、縦書きの文庫本程度なら一行に対し二回見る程度でよくなると思います。

そして、なんとか一行を一目で見えるようになれば、その時には同時に数行を一目で読めるようになっているはずです。数行を一目で読めれば一ページは数回の視線移動で読めるようになります。あとは更に視野を拡大して一ページを一目で読めるようにもなるでしょうし、更には見開きを一目で読めるようにもなるのだと思います*3。

一方で、視野が捉えた情報を把握するための訓練が必要になります。これは文法に着目して一目見てどの単語がどういう文法的機能なのかを把握する訓練です。また、一目で一文以上の文章を読むとなるとそれぞれの文章の関係を把握する力も必要になります。言い替えれば一目で見た情報を頭に格納する訓練です。

こう書くと理論的なようにも聴こえそうですが、意味をパッと把握するということですのでかなり感覚的な問題になります。ある速読の学校ではこの訓練のため、一つか複数の文を見て即座にその単語や文の関係を図にする練習をやっているそうです。

そうした練習も有益だとは思いますが、それぞれの要素の関係を意識的に把握しながら読んでいき、意味関係のパターンのストックを増やしていけばいいのではないかと私は思います。基本的に文の中の単語の関係は一定のパターンしかないはずですし、段落内における文の関係もだいたいのパターンはあると思いますおおまかに言えば逆説があるかないか、など)。

そうしたパターンを頭に入れておけば「あ、これはこういう意味だ」と素早く直観的に文章を理解できるようになるというわけです。

***

以上のようにして視野を広げ、そして広げた視野の内容を素早く理解するようになれば、かなりの速さで本を読めるようになります。そしてこうして速く読んだ方が記憶に残るのです。

確かに一回読んだだけでは記憶の違いは分かりにくいかもしれません。しかし、速く読めるということは反復しやすいということです。現在、私は新書なら三十分程度で読めますが、その本を三時間かけて一度読むよりは、同じ三時間で六回読んだ方が頭に残ると断言できます *4。

以上の方法で本を素早く読めるようになると同じ本を何度も読めるようになります。二度目や三度目の方が一度目よりも内容を理解しているので速く読めるはずです。一度読んで内容を覚えていなければ何度も読めばいいのです。素早く何度も読むことで記憶が固定されてゆきます。

速読読書術(3) 得たい情報を明確にし、目次を利用する

通常の読書では時間がかかるわりに記憶に残らないと述べました。これは読書の目的が明確ではなく漠然と文字を追っているからだと私は考えます。そこで、読書の目標を明確にし、本の全体像を頭に入れてから読むようにすることを提案したいと思います。

読書の目的を明確に

目標が明確な読書が有意味になるのは記憶にあるのではないでしょうか。試験などで必要な読書や、知りたいことを調べている時の読書は頭には残ったことと思います。

通常の読書では意識は分散してしまっていて記憶に残りにくくなっているのです。そして単調に文字面を追っているばかりだと読む速度も落ちてしまうのです。

つまり読書の目標を明確にして速く読もうという気構えをするだけでも、通常の読書よりも速くなり記憶にも残るようになります。主体的に読書をすることが大切なのです。

読書の目標とは

それでは読書を主体的にするための目標とは何でしょうか。

ここでは漠然と知識・教養を付けたいという場合を考えてみたいと思います。つまりその本を読むことで何が得られるのかは分からないが、ひとまずその本を読んでおきたいという場合です。

もちろん読むことで頭にはいくらかの情報を残しておきたいとします。自分にも人にも「その本は読んだことがある」と言えるようにする読書です。

そのような場合に読書によって得たい情報は以下のようなものでしょう。

  1. 本体情報(一次情報)
    • 作者が言いたい主張
    • 主張の説得の論理
    • 自分が知らなかった情報
  2. 属性情報(二次情報)
    • 本の基本情報 (題名、著者名、出版社、発行年など)
    • 著者の経歴や立場
    • 関連する本や参考文献
    • 本の位置付けや評判

本文に向かう以外の時間が大切

ここで注目すべきは本文を読まなくても入手できる情報が多いということです。

読み始める前と後には本の基本情報や著者の経歴や立場などを必ずチェックするようにしましょう。ある情報がどこで得られたかを記憶することは非常に大切なことだからです。

そして機会があるごとに著者やその本に関する知識を入手し、読んで得た情報と関連付けていくように心掛けましょう。これは記憶を保持するためにも役立ちます。

まず目次を読む

さて、著者やその本の知識を整理できたら、じっくりと目次を読むことをお薦めします。

目次が提供する情報は膨大です。著者が何を主張しようとしているのか、どのように主題を問題にしているのか、その主張を論じるべく著者はどのような論理を展開しているのか - こういった問題は目次を読み解くことで容易に読み取れます。

また目次を頭に入れておくことで、全体の中での位置付けが分からずに漠然と文字を追うということもなくなります。

目次は本の地図です。もし目次が頭から抜けて全体の構造を忘れてしまった場合には、必ず目次を参照し直しましょう。

目次を読む際には分からない言葉も見付かるかもしれません。こういった場合には辞書や事典を引いたりする他、索引を利用するのも手です。きちんと目次を理解してから本を読む始めると理解が違います。

本文は流し読む

目次を読むことで本の全体像を掴み終えたら実際に本文に取り掛かりましょう。とは言え、もう著者の言いたいことや議論の組み立ては頭に入っています。自分が知らなかったり特別に面白いと思うことや衝撃を受ける所を探して読むような気分になります *1。

一方で自分にとって当然であったり興味がない部分は、確認する程度の注意力で読み飛ばしてゆくことができます。どうせ興味のないところはゆっくり読んだところで忘れてしまうからです。

もちろん、著者の言うことの意味が分からなかったり、反論したくなる部分もあることでしょう。私はそのような部分で悩むことはせずにひとまず印を付けて後で読み返すことにしています。後から読めば理解できたり、一見嘘に見えても他の部分との兼ね合いで著者がそう書いていることが分かる場合があるからです。

一見するとおかしな部分が実は後に衝撃的に正しい内容であるということは往々にしてあります。その場の簡単な判断でそのような出会いを潰してしまうのはもったいないことです *2。

おわりに

以上のように読書によって得たい情報を明確にし全体の内容を把握してから読むことで、漠然と著者の議論に付き合うことがなくなりめりはりを付けて文章を読めます。読むというよりも、議論や主張の確認や目新しい情報の検索といった心持ちで本を読むことになります。こうしてすっきりと全体を把握しながら読むことで、内容をきちんと把握できますし読書時間も短時間になることでしょう。

速読読書術(2) 一般的な読書の問題点

まず速読の方法についての具体的な説明に入る前に、私が速読術を考えるに至った経緯からを辿ることで、一般的な読書の問題点について考えてみたいと思います。一般的な読書の方法の問題点は二点あると私は考えます。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。

以前の私は始めから終わりまで一文字ずつ丁寧に文字を追い本を読んでいました。頭の中では文字を音声にして文章の意味を理解していました。つまり黙読にしても「音読」で文章を読んでいたのです。

この読み方は学校教育の影響でしょう。学校でこのように文章を読むように習ったものと思います。授業では新しい文章はまず音読されてから意味について考えました。

この読み方ですと読書に必要以上に時間が掛かり、にもかかわらず本の内容があまり記憶に残らないのだと指摘したいと私は思います。

この読み方では作者の議論に最初から最後まで付き合ってゆくことになります。全体の中の位置を把握することなく目の前の文を単調に読み進む読書です。

この読み方だと読書しているという満足感は得られるのですが、私の場合には読み終わると頭に内容が残らないことがしばしばありました。たしかに読んでいる間は作者の言葉を追えているように思うし、所々では素晴しい意見や情報に出会えることがあります。しかし読み終った後で本全体の内容を振り返ると、著者が何を言っていたのか覚えていないのです。この読み方では簡単な要約を作ることすら困難でした。著者がどうやって主張を議論していたのかについてはお手上げです。読んだのに覚えていないのです。

***

いま考えれば全体を把握できないのは当然のことです。目の前の文字を追うだけで全体の議論のどの部分にいるかを考えなければ、全体の主張や議論構成などは把握できるはずもないのです。これはまさに「木を見て森を見ず」という状態です。結果として「森」を見ていないのでは一つ一つの木の印象も弱められてしまいます。人間の脳は聯関のない情報はすぐに忘れてしまうからです。

当時の私はせっかく本を読んだのに忘れてしまうのでは勿体ないと思い、内容をメモしたりノートにまとめることを考えつきました。本を読みながら一定のまとまりごとに要約をノートに書いていったのです。しかしこれは非常に膨大な労働です。本を読む速度は著しく遅くなりますし、もし一部分でも要約が不完全だとノートをとる意味がなくなってしまうからです。それに書いても全体の内容は思ったよりも頭に入りません。これはすぐに挫折しました。

同様に本を筆写したこともあります。しかし筆写しても時間と労力を使うだけで一向に頭には残りませんでした。筆写よりもむしろ要約を作成しながら読み進む方が頭に残りました。

これらの読書の方法の問題点は二点です。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。メモをしようが筆写しようが駄目なのです。

私はこの問題に直面しこのままではいけないと思い、巷に溢れる速読術の本を読み漁りました。その結果、本を読むのではなく本を読み終わった状態にするという、自分なりの速読術を考案・修得するに至ったのです。

***

*1: ただし理解速度に制約されないと考える人もいます。曰く、そのとき理解していなくとも内容を頭に入れることはでき、後から思い出し理解することができるということです。ただ残念ながら私がその段階には達っしていませんので、そのような読書が可能であるのか判断ができません。脳の潜在力からすれば可能な気がしますが、ここでは読書速度は理解速度に制約されることにしておきます。

[続き]

2007-08-02

速読読書術(1) はじめに

速読技術は本を読むという過程を大切にするのではなく、本を読むことで得られる情報を最大限に重視することにより成立します。ですから娯楽で本を読むのではなく知識や教養のための読書に対して有効です。楽しみのために読むのならば過程を損なう速読は必要ないでしょう。このことから速読の真髄は本を読むのではなく、本を読み終わった状態にするために読むことにあるのだと私は考えています。私は速読の技法を二段階に考えました。

まず第一段階は読書の目標を明確にすることです。通常は本を読む目的は著者の主張やその議論を辿ることでしょうから、目次を精読することで全体像を掴むことが肝要になります。全体像が掴めれば本文を読むための労力と時間は激減します。

第二段階ではページから意味を汲み取る速度を向上させます。そのために、頭の中で音読しながらの黙読をやめて、文字が並んでいるのを見るだけでその意味を把握できるようにします。音にするよりも見るだけの方が速いので読書速度は向上するのです。そして、広い範囲の文章を一度に把握できるように努力してゆきます。

こうした訓練により得られる能力により読書速度は急激に上昇します。もちろん、有効な読書速度は理解速度に制約されますが *1、簡単な内容の本であれば十分以内での読破も可能になるのです。

2007-07-08

読書法(4) 読む速度を上げる6つの方法

私は本を読むのが早い方と思う。人にも言われるし、自分でもなんとなく思っていた。今回はその方法を書く。

私の読む速度

その前に今の速度を申告する。昨日、240頁の単行本を読んでみて、ふと読み終わって時間を見たら30分もかかっていなかった。内容は気功関係であり、内容は割に濃いめであったと思う。ただ比較対象が新書などと比べての話であり(新書は5-10分で読める)、学術的、文学的、哲学的な書物と比べての話ではない。

「なるほど、テレビを30分見てる間に一冊本を読めるのか」と、なんとなく思った。これが今の私の標準なのだと思う。普通の人よりは早いだろうが、職業的に読書している人や「速読」の人と比べると遅いと思う。ちなみに、私の信頼できる友人がこの速度より遅いとは思えない。

私は一日一時間半前後は読書にあてていると思うので、なんとなく2、3冊は読んでる。中には昔から読んでいる小説や哲学書をパーっと読むこともある(そういえば、最近は新規で分厚い哲学書や小説に手を出さなくなった)。

以上が大体の私の読書の量と速度である。人に偉そうに書くほどではないが、まあ少しは早い方だというのがご理解いただけたかと思う。だから、私よりも既に早い人にはあまり参考にならないかと思う。

読書が遅いならテレビを見た方が効率的

「テレビは時間あたりの情報量が少ないから本を読もう」などと言う人がいるが、それは人によるとしか言えない。一冊に何時間も掛かるようならテレビを見た方が効率が良いと思う。事実、よくできたドキュメンタリーの時間あたりの情報量は通常の本よりも確実に大きい。それに映像や音声は書籍では触れられない。いつも思うのだが、読むのが遅い人が読書を礼賛しても、なんの意味もない。

「速く読むのもいいが、それじゃあ文章を味わえない」と思うかもしれない。それなら漱石や芥川、鴎外が大量な書物を素早く読んでいたことをどう考えるべきか。そもそも、一定量の読書がなければ、文章を味わうもなにもないと思う。それに速く読めるようになっても、遅く読むことは出来るのである。

若い人は早いうちに、早く大量に本を読むコツを身に付けて欲しいと思う。

1. 同じ本を何度も読む

まず、誰にでもすすめられる速読練習法である。

一度読んだ本を二度目に読めば、当然早く読み終わる。三度目には頁の印象すら覚えているかもしれない。四度目には頁を見ただけで、内容があちらからやって来るだろう。

こうして何度も読んでいくと、最終的にはパラパラとめくるだけで、本を通読することができるようになる。

「そりゃ、何度も読めば内容を覚えているんだから、パラパラめくるだけで通読した気になるのは当然だ」と思うかもしれない。

しかし、考えて欲しい。いや頭で考えるのでなく、心で感じて欲しい。「なぜ、頁を見ただけで、内容が飛びこんでくるのだろうか?」いったい、その時、何が頭の中で起きているのかと。これが、初めての本でもできるようになれば、かなりの速度で本が読めるようになる筈である。

文字を追わないでも、ただ頁を見るだけで内容が飛び込んで来ることが出来ることを確認して欲しい。それは記憶に補助されているが、それだけではない。どこかで意識の底で頁の内容を把握している筈である。ならば、その意識の底の把握能力だけで「ああ、この頁はこんなこと書いてあるな」と感じるようになれば、かなりの速度で読める筈である。

繰り返し読むことによる高速化は、速読体験の基礎となると思う。是非、お気に入りの本を何度も読んでみて、その感覚の変化を吟味して欲しい。

2. 一日に数冊を無理しても読む

速読をしようと思っても、読む量が人並ならば、速度も向上しない。必要に迫られて能力は開花する。ならば、少し無理そうな冊数を一日のノルマにして、ガバーと読むようにすると、適度なストレスがかかり、速読を体が覚えてくる。

具体的には、一時的にでもいいから一日10冊以上は読書すべきかと思う。それくらいの量の読書をしようと思うと、読書の方法も変わってしまうし、質も変わってしまう。ただ、理解も関係なく、頁をめくり続けていればよい。どちらかと言うと、文字をきちんと追うよりも、ぼんやりと頁を見ながらめくるとよい。頁を見て内容を知覚する直感能力、勘を養っているのだ。

また、多量の読書が与える知識が、他の本を読む速度を向上させるだろう。

3. 後から読む、でたらめに読む

これも私が無意識にやっていた読書練習法。

私は生まれ付きひねくれているので、たまに本を後の頁から読んだ。最初は意味不明にしかならないかったのだが、ある日、何度も読んで、頁を見るだけで内容が飛び込むようになっていた小説を後の頁から眺めてゆくと、意味が分かることに気がついた。小説を後から読んでも、きちんと時間が逆に流れる小説になったのである。面白くて一人でとても興奮した。

また、小説でなくとも、普通の本でも後から読める。前提→事実→結論というような流れの文章は、結論→事実→前提と読んでいっても理解はできる。「雨が降ったから、家で寝ていた」が「家で寝ていた。雨が降ったから」でも理解できるのと同じである。

更にひねくれている私は、ちょっとした文書なら逆からでも読める。文ごとに視野に入れて、内容を把握し、文書の論理・時間構造を逆にたどるのである。

この遊びの何がよいかと言うと、文字をきちんと追わないと意味が把握できないという偏見を脱却するためである。「桃太郎は旅立ち、仲間と出会い、鬼を倒した」という文章は「鬼は桃太郎によって倒された、その前には仲間を集めがあり、その前には旅立ちの日があった」という風にも読めるのである。

こうした感覚を養うと、読書が「文字を追う」から違った次元になってきて、かなり速くなると思う。

4. 目次を眺めて内容を予測する

読むのが遅い人は本を一つの塊として見ていない。延々と続く文字の羅列である。

この状態を脱却するには、目次を利用するのがよい。目次を眺めれば、本の凡その枠組みは理解できる。そうならば、目次を眺めて内容を予想してみて、その後で本文を読んで予想と実際がどの程度違ったかを考えるようにすると、本を一つの塊として認識するようになる。

そのためには、本を読む前に、目次を暗記するとよい。目次に知らない単語があれば調べておく(本文を見る)。そうして目次を暗記してから、頭の中で本の全体像を思い描くのである。

読書後には再び目次を見て、当初の印象とどのように変わったかを吟味するのである。

5. 読了後に本を思い出す

本当は友人にどういう本だったかを語ると良いのだが、なかなか難しい。そこで、一人でぼんやりと空でも見ながら本の内容を想起するのである。出来ることなら、頁の映像を思い出し、更には何個かの文章も思い出してみるとよい。

ただ全体としては細部にこだわらず、どういう枠組みの本だったかを思い浮かべられればよい。その点でも目次の暗記は役に立つだろう。

6. 姿勢を正す

別にいつものノリで書くわけじゃない。結局、読書の一番のロスは固定した悪い姿勢で疲れてしまうことなのだ。

一冊に30分かかるなら、30分は姿勢を保持しなければならない。2時間なら2時間、姿勢を保持しなければならない。ただ、普通は姿勢を保持できない。机からソファー、ソファーからベッド、ベッドから夢の中へと読書空間は移動し、多大なロスが生じる。気を抜くのだから、確実に読書の集中は奪われ、速度は落ちる。

そこで、最初からよい姿勢に気をつけるのがよい。結局は背筋を伸ばして、顎を引いて、頭頂を床にぶっさすように坐ることである。勿論、書見台も利用したい。

そこで固定した姿勢で集中できれば、かなり時間の面でも精神面でもロスが少なくなる。

坐って姿勢を決めたら「よし、読了までは動かないぞ」と肚を決めて読書に望むのもよいと思う。読書坐禅である。そのうち「悟るまでは動かないぞ」と言って瞑想し出すのもよいかもしれない。

おわりに

以上のことを私は速読の練習というより、遊びとしてやって来た。やってみると楽しいものであり、読書の方法が変わり速度が速くなる。よろしければ試してみてもらい、感想を教えて欲しい。

ただ、結局、一番の速読を身に付ける方法は、大量に読まなければならない状況に身を置くことだろう。職業だけでなくとも、学生ならば旺盛な知識欲が読書能力に刺激を加えるだろう。人間の必要に追われての適応能力は高く、また堕落の適応力も高いのである。

関連エントリ

読書法(3) 6つのありがちな間違い

[本文]

2007-06-27

坐禅で読書

坐蒲の代わりにクッションを買ってみた。なかなか安定して坐れる。身体を動かさないようにするのは簡単になる。

次に譜面台を書見台にして本を置く。書見台を使うと良い姿勢で本が読める。

そして静かに印を組み、呼吸を整えて、ページを眺める。すると自然に読書の速度は早くなってゆく。

片手はページを繰るのに必要だが、他の部分を動かすことはなく、心身が集中してゆく。

こうして姿勢を正して呼吸を整えると、読書も一つの瞑想のような気がする。軽い瞑想状態で読書することになる。>

そうするといつもと読書の感じが違う。

2007-03-29

読書法(3) 6つのありがちな間違い

妙なハイペースで読書法を書いてきた。簡単に言えば「高校時代は小細工抜きに、幅広く読め。その時新刊書店で売っているニセモノに気をつけろ」ということだ。

そのため読書法(1) 読むべき本を知るでは「全集や世界の名著と図書館の司書を利用しろ」と書き、読書法(2) 本の読み方では「ただ、ひたすら多読し、気にいったものは何回も読め! 音読しろ! 書き写せ! 著者を友達にしろ!」と説いた。

とにかく「お勉強」で読むことだけはやめてほしい。そんな読書は何の役にも立たない。つまらないと感じながら読書をする義務はない!

こんなことを書いていると、自分のやった失敗も含め、ありがちな間違いについて書いてみたくなった。

1. つまらない本を無理して読むはやめよう

有名な本でもよくある。義務感で読みたくなるものだが、まだ自分には早かったと思うか、「歴史が間違っている!」と叫んで早急に本棚に戻すこと。まあ、それでも読んでしまうこともあり、読んだら読んだでおもしろかったということもないわけじゃないから、強制して「戻せ」という気はもちろんない。ただし、「つまんねーな」と思いながら読んで「ああ、無理してでも最後まで読んでよかったよ。さすが歴史的名作だ」という気分になったことは私は一度もない。「け!有名なくせに最後までつまんねーよ」がオチである。

2. スカスカな本を「スゴそうだ」と勘違いするのはやめよう

これは新書でよくある。なにやらすっげー最新のことが書かれていて、その智恵によって人類の未来が変わっていくようなことが書かれている本がある。まあ、本は売り物だから、ある程度の誇張は仕方ないが、昨今、特に大袈裟で紛らわしい本が多い気がする。でも、残念ながら、大半の本は最後まで読んでも「で、何がそんなにスゴいの?」という気分で終わる。一番すごかったのは「まえがき」と「帯」というパターンである(つまり、作家より編集者に才能があるパターン)。残念ながら、本を発見する技術がないうちは、かなり騙されやすい。純粋に世界の平和を願う高校生ならなおのことである。

新書を読むならば、本当に定評のある新書がよい。詳しくは司書に聞けば答えてくれる。司書と話すのに気後れするナイーブな君は、ひとまず昔の新書を読むとよい。図書館であるならば汚れている新書を読めば間違いない。残念ながら最近は薄い新書も増えたが、そもそも、新書は良書を薄利多売で普及させるために存在しているのであって、分野も充実しているし一定の線を保ったものが多かった。また、有名な学者の本は、やはりそれなりである。

3. 「教科書に載ってる本読むなんてダッセー」という勘違いはやめよう

これは私がそうだった。国語の教科書や歴史の教科書に載っている本はわざと避けた。「有名じゃないけど、俺が自分で見つけたんだよ。やっぱり、よかったよ」とかアイドルオタクじゃあるまいし、メジャーなものを避ける理由なんて全然ない。どうもガキのうちは「俺のもの」「私が見つけたもの」という意識が強いが、そんなことは小さい問題である。そもそも教科書に載るくらい凄い本なんだ、と素直に手に取るべきである。そういう本は、現在の社会が作られる上で(高校レベルの教科書に載るくらい)大きな働きをしたのであり、そうした本を味わうことは、現在の社会を知ることにもつながる。特に、ガキは自由とか愛とかそういうことを考えがちだが、そういうことは西洋の近代からの影響なわけで、そこら辺を読まずにそんなことぼやいても、ただのアホなJ-POPにしかならない。

4. 「岩波って汚なくね?」という偏見はやめよう

君が普通の高校生なら岩波に偏見なんてないだろうが、残念なことに、私は岩波に偏見があった(誤解を避けるため、どういう偏見かはここに書かない。近くのおっさんに聞いてみよう)。現在では「アホか、俺」という偏見である。また、岩波は古いので図書館で見掛ける本が物理的に汚ないだろうが、それも「ああ、偏見、偏見。文字は読めるし」と乗り越えてほしい。岩波は新書も文庫も素晴しい。是非、片っ端から手に取るべきである。

現代の図書館の最大の問題は、価値ある新書や文庫が汚れていることである。これは評価が高く、多くの人に読み継がれたことを示すのだが、現代のガキにとっては手を出しずらいと思う。我々おっさんは「最近のガキは、甘ったれてる!」と普段は発揮してない男らしさを、ここぞとばかりに発揮しないで、たいした値段じゃないんだから、価値ある新書と文庫は美しい新品を図書館に入れるべく努力すべきと思う。ただ、若者も、汚れに負けず、価値ある本を読んで欲しい。慣れれば大した問題じゃない。

5. 「なんか漢字が変な本って、日本がヤバかった時の本でしょ? 読まないでいいよね」という偏見もやめよう

これは「おい!『言ふ』ってなんだよ? 『言ふ』ってさ!」という歴史的仮名遣いにも共通する問題である。ちなみに「ん? いふ? if?」という君はママのおっぱいがお似合いである。

広く読書をすれば、新潮や岩波の文庫の中にはそうした表記になっているものがあるのに気がつくだろう。また、君の学校の図書館にある、漱石や鴎外の全集も旧字旧仮名のものを入れている筈だ(そうであってほしい)。

実はこの問題は高校生の君が感じているよりも深い問題であり難しいのだが、ひとまず、古典の先生あたりに「旧字の漢字の一覧表ってありますか?」と言えば(あるいはネットで探せば)、漢字の問題はクリアするはずだ。君はその表を見て「ああ『舊』は『旧』なんだー。へー」と思ってひたすら覚えればよい。変更があった漢字の数は多くない。また、昔の字形を覚えれば漢字の知識が飛躍的にアップするだろう。

ただし、間違っても「この漢字読めません」と言ってはいけない。「辞書をひけ」と言われる可能性がある。常用漢字の制定の問題を正確に説明できる古典の先生は既にほとんどいない。この点でも国語の問題は難しい。

仮名遣いは古文の授業を普通にやっていれば、小説や哲学を読む程度なら問題はないだろう。あまり深いことは考えずに読んでいれば、それなりの良さが自然にわかってくることと思う。ただし「戦前の文学は旧字旧仮名で読まないと醍醐味がない」などとは人に言わない方が無難である(たとえ、そう感じたとしても。そういうことは二十になってから)。ましてや、通常の文章を旧字旧仮名で書いてしまうと、先生に怒られるはずだから、やめておこう。

この漢字や仮名遣の表記の問題は、政治的で文化的な、とても難しい問題なのでここで説明はしない。あまりこうした問題に高校生が深入りしてしまうことに、私は責任がとれない。興味があればネットで調べるなり、司書か古典の教師にアドヴァイスを受け、本を読むのもいいかもしれない。ここでは読むべき本も挙げないことにする。

ちなみに、コンピュータの字形と一部の新聞で使われる字形、書籍で使われる字形などは、実は確固とした状態ではなく、それぞれ流動している。目敏い君は読書する中でそれを発見し「あれ、この字、形が違うな。なぜ?」と思うかもしれない。すまないが、大人の世界は大変なのである、とだけ理解しておいて欲しい。あまり、若いうちにそういう問題に深入りするようなことは書きたくない。君が思っていたほどには、世界は確固としたものではないのだということだけを知っておけばいいと思う(もちろん、何事も考えるのはいいことであり「考えるな」と言いたいわけじゃない。ただ「これを考えろ」とは言いたくないだけである。字形や表記の問題は泥沼だと私は感じている)。

話が逸れたが、私が言いたいのは仮名遣や字体の問題はあるが、君たちはそれを学び(大した勉強じゃない)、乗り越えて欲しい。旧字旧仮名の文章は読めるようになっておいて損はない。是非、臆せず、トライして欲しい。

明治は日本文学の高みである。まだ、たかだか百年前後しか経っていない。是非とも君達はその本質を受け継いで欲しい。

6. 「あの人(思想)ってヤバいんでしょ? 読まない方がいいよね」という偏見を捨てよう

固有名を出しても大丈夫か不安だが、マルクス、共産主義、また、そうした影響下の文学(プロレタリア文学)は「ヤバっ!」という感じだと思う。あとヒトラーや戦前の日本の人達などのファシスト、戦後の「右翼」と呼ばれる人達なども同様だろう。

そうしたものを積極的に読めという気ももちろん毛頭ないのだが、そういう本も別に避ける必要はない。幸い日本は思想の自由は保証されているのでどんな本を読んでも罰っせられることはない。「どんなことを書いているんだろう?」という好奇心は十分に発揮できる。自分の考えをまとめる上で、ある程度主流じゃない考え方も見ておくと、奥行きがますことと思う。ちなみに私はそうした本のいくつかは、とても面白く読んだ。

***

なんだか、最後の方はちとやばそうな話になりましたが、別に気にせず読みたくなければ読まないでも大丈夫です。とにかく、自由に情熱的に読書をして欲しいものだと思います。

関連エントリ

読書法(4) 読む速度を上げる6つの方法に続く。

[本文]

読書法(2) 本の読み方

前回の読書法(1) 読むべき本を知るでは、高校のときの思い出を語った。まあ、だいたい以下のようなポイントを書いた。

  • 文学全集や世界の名著シリーズを、飽きたらポイしながら、何回か繰り返す。そうすると全体の流れが分かり、理解が深まる。
  • 図書館の司書に読むべき本を教えてもらう。
  • 新刊書店はあてにしてはならない。店員もあてにしない。
  • 本は買えれば買うに越したことはないが、無理する必要はない
  • 思い入れのある作家は揃えると嬉しい(文庫で出てる作家なら結構可能)

今回はその続き。基本的な本の読み方については 本全体を把握する本の読み方『本を読む本』で基本的な本の読み方を学ぶ などを参照ください。

図書館の司書と仲良くなる

まあ最初に前回のを補足すると、新刊書店でおもしろそうな本を探すというのは、中学の時から本を読んでいて本を選ぶ勘が鋭い人ならばともかく、普通の高校生では、面白そうで全然つまらないニセモノを掴む可能性が高い。まあ、途中で「あれ? これ全然つまんねーや」と思ったら捨てればいいのだが、結構、高校時代というのは真面目なもので、「いや、きっと、分からない俺が悪いんだ」とか「せっかく買ったんだ、勿体ないから読もう」とか無駄な資金に続いて、無駄な時間まで浪費してしまうものである。くれぐれも「ホントは面白くないんだけど、無理して読みおえて、友達に『面白いぜ』とか言ってしまうニセモノ」だけは読まないように。

だから、はっきり言って、新刊書店なんて相手にしない方がいいと思う。それならば、司書さんに、人類が長い間「うん、これは面白い」と言い続けてきた本を教えてもらうのがよっぽど効率がいい。勿論、時代が変われば感性が変わる部分がないわけじゃない。が、予想以上に人間の基本的な性質は変わることはないらしい。人の欲望なんて結局同じであり、愚かさも異なることはなく、また、高貴さも変わることはない。結果として、ギリシア時代のものが、現代の日本の若者が面白く読めるということが起きるのである。まあ、いくらかは言葉や表現の翻訳に加えて、時代設定の翻訳は必要だが、それほど難しくはないだろう。その程度で読めなくなるようなものであれば、それが本質的な何かを描いた本でないからであり、そうであるならば歴史に名を残すはずはないだろう。

繰り返し読む本しか買わない

上と矛盾するが、私は生意気だったので、司書さんと仲良くしながらも、新刊書店で本を買った。これは失敗談である。私はなけなしのバイト代をはたいで、無駄な本を買い「あー、全然、おもしろくねー」「うすっぺらい!」「おい! 結論がねーぞ! 結論が!」「あおりだけじゃーん」と嘆いていた。いくつかの新書は確かに知識を与えてくれたが、そんな本なら買う必要はなく図書館で借りて一度読めば十分であると断言できる。

金のない高校生にとって、買う本は繰り返し読むのは鉄則である。つまり「一生読む!」と確信する本でない限り、買う必要はないだろう。

「ちょっと待て、俺は書き込みをしたいんだ」という人もいるかもしれない。一度しか読まない本をマーキングして読みたいツワモノな高校生なんて嫌いだが、アドヴァイスをしよう。

まず、ポストイットでかなりの部分代用できる。次に、時間があるんだから、メモは十分にとればいい。これで高校生レベルの読書は対応できる筈である。研究とか仕事で本を読む歳になったら、そういう心配は別にすればいい。今は、ただ、読めばいい。小細工はいらない。そういう読書が知性として二十を過ぎたあたりから溢れてくるだろう。そうなりゃ、いい女がほいほいよってくるぞ。本当だ。そして痛い目を見て更に芸術にはまり込むことだろう。これは完全な法則である。

本を書き写す

そうだ。なんなら一度、本を一冊、全文書き写してみたらいい(俺は何度かやったことがある)。本に書き込みをすると記憶に残るとか中途半端なことを言うのなら(いや、そんなこと大人になってからでいい)、高校生なら、ばりばり、メモをとって、感想文を書いて、気にいった本は一冊まるごとノートに写せ。そして、それを音読しまくれ。惚れこんだフレーズは暗記しろ! 窓から空に向かって叫べ!

そうそう。おれはやらなかったが、書き抜きノートを作るのもいいかもしれない。「書き抜き」なんて俺には小細工に感じるが、まあ、妥当な作業かもしれない。これは、本を読んでいて気にいった文に印をつけておいて、後でそれをノートに写すのである。俺は一冊写すことをかなり勧めるが、まあ、普通の高校生はそんなヒマないと言うだろう。まあ、仕方ない。でも、それならば書き抜きノートくらいは作るべきだ。書き抜きながら読書をしたら、そのノートが宝であり、本は図書館に返してもいいだろう(ちなみに、俺が筆写したのは購入した本だけだったが)。金と時間を有益に利用する権利は君にある。

そういう若者なら既に溢れんばかりのエネルギーを安い大学ノートに書きつけていることと思う。そういう、ゴチャゴチャした、多くは恋愛や友情、正義や芸術、進路や人類の将来を意味不明に書きつけたノートは宝である。決っして捨ててはならない。

小細工を教えるのは嫌だが、一つだけ教えたいことがある。それは三冊を一冊にまとめた方がよいということだ。大学ノートが三冊くらいになったら表紙を破り捨て(いや、綺麗に取ってもいい)、ノリで三冊をくっつけて、ホームセンターで買って来た製本テープを背表紙に貼るとよい。大学ノート一冊では薄過ぎるので紛失の可能性があるからだ。是非、やっておいた方がよい。俺は何冊ものアホなノートがどっかに行ってしまい、いつか家族に発見されるのではないかとヒヤヒヤしている。そんな不安は君たちにさせたくない。

せせこましいことを考えず何度も読む

読書が役に立つとか、そういう、せせこましいことは考えんでよろしい。まあ俺は、マーキングのための記号やら線やらをシステマチックに案出したが(これはいつか書くかもしれない)、そんなことは必要になったらやればよく、「あー、こういうことやると後で有益そうだな、ふむふむ」なんて小細工はしないでよろしい。

とにかく何度も読むことである。私は最初の通読の後には、ランダムにページを開いて、そこから前後に読み、イメージをふくらませていった。ランダムアクセスの他、最後の章から読んでいった本もある。高校生にとって小説も哲学も同じである。ただ、せせこましいことを考えずに、ひたすらおもしろがって読めばいい。お勉強する必要はない。

黙読だけではない。音読するべき文章もあるだろうし、筆写すべき文章もあるだろう。暗記するべき文章もあるだろう。それに対して感想文を書くのもいいし、フレーズをつけて唄うのもよいし、ヘンテコな絵を描くのもよい。とにかく、エネルギーだ! 気合だ! (俺はそんな高校生嫌いだが)

一人の作家にはまる

その上で、一人くらいのお気にいりが出てきたら、そいつをおっかろ。まあ、伝記くらい読むのもいいかもしれない(俺は小学生の時を除いて人の伝記を読んだことがないが)。そいつが、どういう思考経路をしているのか作品から読み取り、そいつを架空の友達にすればいい。そういう尊敬すべき友達を何人か持つと楽しくなる。ネットでアホな友達を作っている場合じゃない! ガキの「趣味が似てる」「感性が好き」なんてどうでもいい! 若いんだったら、巨大な思想家や骨太な文豪、天才的な科学者を友達にしろ!そして叫べ!

「分かる! 分かるぞ、お前の気持!
お前のことは俺が世界で一番良く分かる!
お前のここの部分をこれだけ深く理解できるのは、世界で俺だけだ!」

(まあ、そういうガキのときのイメージはただの勘違いではあるのだが、それはそれ、これはこれである。若いのだから勘違いを恐れるなんて小さいことをする必要はない。私は責任はとらないが)

おもしろくない本は読まない

ただ、とにかく、面白くない本は無理して読まないことである。これだけは、くれぐれも注意して欲しい。だから、とにかく一流と呼ばれる本は、片っ端から開いてみるといい。んで、つまらなれば棚に戻せばいい。文学や哲学だけじゃない。画集や写真集だってあるだろう。数学や物理の本だって開いてみるといい。コンピュータ・サイエンスの本や工学の本、政治や経済の本、様々な分野の書物が存在する。そのうちのどれかが、君の心を鷲掴みにするかもしれない!

しかし一度読んでつまらなかったからと言って、二度と見ないというのはやめた方がいい。歴史に残った本であれば、何度かチャンスをあげた方がよい。そういう意味でも全集のようなものは何度かトライするよよいと思う。ふとした拍子に、その本の面白さに気が付くことがあるものだから。とくに、文学や哲学は、何度かチャンスをあげた方がよいと思う(ただ、結局、どの分野でも一流の本であれば、文系も理系も遥かにこえて、分野はジャンルも越えてしまい、ただただ人類の優れたものがあるだけである場合が多いとは思う)。「人間であること」つまりヒューマニティーの奥深さは、若いうちが一番理解しやすいと思う。

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2007-03-26

読書法(1) 読むべき本を知る

アドラー『本を読む本』の書評を書いたら、読書について少々書きたくなった。私なりの読書法を書いてみる。一般的に読むべき本については必読書150を参照。

全集を片っ端から読む

私は高校時代、図書館にあった全集を端から順番に借りていった。面白かったら読み、かったるくなったら読むのをやめ、すぐに次の本に進んだ。性格上、中途半端なことは苦にならなかった。そうして日本や世界の文学全集と世界の名著シリーズを撫でていった。こうしたプログラムを周期的に繰り返していた。そうして、ほとんどの本は途中で投げたが、何冊かは読了した。

今思うと、これはよい読書だったと思う。私は読書の友もいなかったし、読書法の本を読むこともしなかった(その時間あれば、一冊読むよ、という気分だった。故に『本の読み方』を読んだのは二十を越えていた)。しかし、歴史に残っている本を義務感ではなしにパラパラと眺めることで、自分の趣味が形成されていくのがよくわかった。

何度か全集を順番に借りてゆくと、以前は興味がわかなかったものが面白かったり、全然理解できなかった哲学書が急にすんなりと理解できたりした。そういう面白さもあった。そして、文学や哲学というものが、歴史として流れているのであり、一冊の書物すらも、その歴史として理解しなければ全然理解できないのだということを感覚的に理解した。

今はどうか知らないが、私の時代は全集が不毛の時代だった。「なんで、そんな昔のカスみたいの読んでんの?」という時代であったし、「そういう西洋的な『普遍』とかの時代は終わったんだよ。『全集』という響きに西洋的な理性主義を感じる」という時代だった。別に私はそうした意見と議論する気はない。「うん、そうだね、そうだと思うよ」と言う。

だから、全集を読めというつもりはない。別に文学や哲学を読めというつもりもない(本当だ!)。ただ、読書で何かを得たいのなら、ある程度の分量の本を、ある程度の時代に渡って、ある程度の回数読みこまねばならないし、そうやって下地を作れる時間を得られるというのは高校がせいぜいだろいうということだ。そうした力をこの時期につけておかなければ、必要になったときに苦労するのではないだろうか? 私は瞑想などを別にすれば、読書の技術がなければ思考などできないと思うし、言っちゃ悪いが、読書してる人としてない人はすぐに分かるし、その思考も(私の個人的な視点から言えば)明瞭に区別できるものだ。

図書館の司書と仲良くなる

そして若い人には図書館の利用方法を是非とも覚えてもらいたい。私は高校時代に図書委員長であり司書の人と仲良しで、様々な便宜を得た。司書は、図書館情報学のプロであり、検索能力は素人の比ではない。公共の図書館でもリファレンスサービスを利用しない手はない。相談さえすれば、どの分野であれ、有益な書物を必ず教えてくれるはずだ。

そう、少なくとも、新刊書店には絶対に期待しない方がいい。店員は完全に素人だし、おもしろいように見える本が並んでいるだろうが、断言してもいいが、そのうちのほとんどは何の役にも立たない。そうした「おもしろそうに見える、でもホントは全然つまらん本」しか読んだことがなければ、読書なんてどうでもいいただの趣味になってまうだろう。

買うか買わないかは本質的な問題ではない

よくある論争で本は買うべきか否かというのがあるが、以前は完全に「買う派」だったが、最近は、どちらでもいいと思うようになった。

理由の一つに、読んでる本を全部買っていたら財布が追いつかない上、部屋の床も抜けるからである。最近、床を心配して、本の六割を処分して、それでも本棚四つにばっちり詰まっている本を見た時、このままいくと、俺は図書室が必要になって、そのうち図書館が必要になるんじゃないだろうか、と感じた。

もう一つの理由として、図書館が便利だからである。インターネットで予約ができて、必要な本を揃えておいてくれるし、電話一本で延長もできる(そうすれば一カ月)。だいたいネットとにらめっこしながら良さそうな本をリストアップできる利点は大きい。本屋ではできないことだ。それに、つまらない本を拾っても頭に来ないし、軽い気持で借りた本が大当たりということもある。やや専門的に理解を得ようとしたら最低十冊程度は目を通したいが、そういう時にも適当に検索であたりをつけて、ゴソっと借りてガバーと読める。

と、書きながら、本棚を眺めると金の無い高校時代に買ったヘッセやドストエフスキー、カミュ、ニーチェの文庫本がいやでも目に入る。手にとると、紙はすっかり茶けているし、表紙はボロボロだ。金がないのに、本当に苦しい思いをしながら、岩波や新潮などの文庫本を買った日々を思い出すし、そうした文庫本を学ランにつっこんで、満員電車の中で必死に読んでいた日々を思い出す。だから、つまらなかったら本気で頭にきた。そして、そうした本は何度も何度も読んだ。十回以上は読んでるのもある。

当時、「これくらい知ってなきゃ」という本は全集に頼っていたが(そして、それらは飽きたらすぐにポイしたが)、本気で読みたい本には身銭を切った。明確に「図書館で借りて読む本」と「本気で読みたい本」というのがあった気がする。というか新潮に入っていたからだけかもしれない。今となってはよくわからない。ただ「これは一生読むな」という感覚であり、最後は「よっしゃ、新潮で出てるのは全部揃えちゃおー」というコレクターな気分だったのかもしれない。

やっぱり、買うのも悪くはないな、とも思う。というか、欲しくなったら買えばいいし、欲しくもないのに義務として買うってことはないってことかな。ま、つまらんが。

なんというか、本当に歳とったな、とドストエフスキーの文庫本見てたら、ね。はは。

関連エントリ

アドラー『本を読む本』で基本的な本の読み方を学ぶ

読書術についての古典的な名著であり、一度は目を通しておくべき本かと思う。本を読むことに新しいも古いもないので、内容的にはいま読んでも古い所は全くないし、逆に古くなっているところに、私たちが失いかけている大切なものを読み取ることができるかもしれない。

四段階の読書

本書においてアドラーは四段階の読書を提唱している。

一つ目は「基本読書」。すなわち、本当の基礎となる単語や文法に基づいて読むということ。これは基本中の基本。

二つ目は「点検読書」。書名、目次、序文、後書き、後付けなどから、本の内容、対象、程度などを点検するというもの。この段階を確実にすることで無駄な本を読む時間を減らせる。

三つめは「分析読書」。いわゆる精読であり、二つの方向から書物の内容を自分で再構築するというものだ。

片方はトップダウンな理解だ。つまり、著者の主張から、その本のアウトライン、著者の問題などを理解してゆくというもの。もう一方は、ボトムアップな理解であり、キーワードを探し、著者の用語と和解し論証をチェックしてゆき、大きな著者の主張を確認してゆくというものだ。

このトップダウンの理解とボトムアップの理解はある程度の次元で出逢うわけで、そこまで読み込むのが精読ということである。そして、こうして読めたら批評をするというのが読者の義務になるということだ。

四つ目は「シントピカル読書」と呼ばれるもので、この本の目玉といえるだろう。この読書法は、ある一つのトピックに対して、複数の本がどういう返答をするかを読み取って、その答を統合してゆくというものだ。手順としては、ある質問を設定し、その質問への回答を提供する本を探す。そして、必要な部分を読み込んで、複数の書物の間で概念を整理する。最後に、その書物から読み取れた答を組み合わせてゆくという流れになる。書物の側の論理の流れではなく、自分が設定した問題意識に対して本を従わせる主観的な読書ということができると思う。

客観的読書から主観的読書へ

さて、こうしたアドラーの読書法を振り返ると、清水幾太郎『本の読み方』と大枠が同じ事に気付く。

清水は客観的読書法から主観的読書法へと変化したと述べていた。つまり、丹念に客観的にノートをとっていたのが、テーマや問題意識にそって、あくまで自分を主体に本を読むようになったということだ。これはアドラーの「分析読書」から「シントピカル読書」への移行と同じことだろう。

本を読むのが時間つぶしでなく、問題を解決のためであるならば、その問題意識を明確に読書するのが有益なのは明かだ。

ただし、この本で清水はそれでもやはり客観的に著者の主張を拾う読書の時期がなければならないと述べていた。つまり、精読ができなければ複数の著者の意見を組み合わせることなどできないわけで、最初から主観的読書やシントピカル読書をするというのは現実的ではない。

私は、アドラーの順番で必要にせまられながら、自然にステップアップしてゆくのがいいのだと思う。無理に読書の能力を高めようとしても得る所は少いように思われる。

シントピカル読書を可能にする「シントピコン」

アドラーはシントピカル読書のためには、まずそのトピックを扱った本のリストを探すのが困難であると指摘する。ある程度の良書を読まなければ良書かどうかを理解する点検読書の能力はつかないものであるが、最初は点検読書の能力がないからどれが良書が分からない。

アドラーはこの問題に対し、名著の主題項目索引を作ることで少しは解決するだろうと述べている。これを彼は「シントピコン」と呼ぶ。この索引では世界の名著について、例えば「愛」が論じられているのはどの本の何ページかが記されているのだ。読者は、この索引から主題を選び、その主題に対する、天才の議論を効率よく読むことができるのだ。

この「シントピコン」は夢物語ではなく、実在する。『Great Books of Western World』の索引がそれである。アドラーはGreat Books of Western Worldたるべきテキストを選定し、トピックについての索引を作成したのである。

私は購入していないので詳細は分からないが、ブリタニカ・ジャパンには以下のように書いてありとても有益そうだ。

グレートブックス・オブ・ザ・ウェスタン・ワールドは過去の歴史的作品から20世紀の傑作まで、それぞれの作品・作家を紹介した西洋史コレクションとも言えるものです。西欧世界の1.文学 2.数学 3.歴史・社会学 4.哲学・神学などの諸分野の著名な作品517編・作家130人を収めた大全集です。また、グレートブックスならではのシントピコン索引は、知識のデータベースとして活用できます。

こうやって方法論を吟味し、かつ、実際にシステマチックな教材も作りあげてしまうところに、いかにも古きよきアメリカを見る気がするし、そうしたアメリカの底力を感じる。

notes

精読については 本全体を把握する本の読み方 という記事があります。

シントピカル読書については 一つの問題についての並列読書 という記事を参照ください。


本を読む本

  • モーティマー・J. アドラー、 C.V. ドーレン
  • 講談社
  • 861円
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