2007-12-05

信と慈悲と

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信と慈悲は対立する。さて、私はどう考えればよいのだろうか。

そういえば何か似たような問題を書いたなと思い、ブログを検索する。 清沢満之「我信念」を読んでというエントリが見つかった。4月29日。随分と昔に感じるが、7ヶ月ほど前なだけなことに驚く。少し読んでみて、色々と思い出す。

かつて、私には信があった。信とは何か? 信とは、論理を超えて、己を圧倒する何者かである。更に言えば、私にとって信とは……まあ、それはどうでもいいが。

そして、私は慈悲に悩んだ。惻隠の情に悩んだ。哀れみの心に、同情に悩んだ。

いま私は思う。本当の慈悲とは、信から導かれるものでなくてはならない。いかなる事情であれ、信とは、全うされねばならない。信と慈悲とが対立した場合、信こそが優先されねばならない。

慈悲とは感情である。感情であるが故、部分最適化した行動を取り易い。全体での最善を逃す可能性が高いのである。優しさか、甘さかを判別することは難しい。慈悲を重視した場合、筋が通らなくなる。人が与えられる優しさには限界があり、優しさが必要な人は無限にいるのだから。

原則を重視する必要性を私は考える。部分最適ではなく、全体の最適化を達成するような思考を重視したい。そうした「線」を引くことをしなければ、予測も見込みもないままに、感情に流されていってしまう。そして、そうした原則のない行動は、結局は人から見てさえ良いものではない。つまり、優しいのではなく甘いということになる。結局は誰の利益にもならない。

時間の消費の目処や見通しを持って生きねばならない。確保しなければならない投資には、何があっても投資しなければならないし、その投資を守りぬくためにもリスクは充分に想定しておき、バッファを確保する必要がある。

原則に忠実であることが真に誠実かと思う。誠実とは何にも勝る。本当に「忍びない」とき、それでも信念を貫くか否か。それが本当に忍びないのか、それが本当に自分の信念に誠実な上での行動なのか。そうしたことを鋭く問いながら、生きねばならない。

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