2008-05-04

文体形成とテクノロジー

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文体形成における手書きとパソコンについての妄言。

手書きもパソコンも関係ないという意見がある。どちらも同じ文書が出てくるのだという。

それはある意味でそうなのだろう。文体にたいして特に意識のない人、あるいは既に自分の文体が確立している人は、手書きであれワープロであれ関係ないのかもしれない。この点に僕は触れない。

しかし、文体の確立過程をパソコンで行った者はそれが分かる気がする。あるいは最初の創作をケータイで行った者にも言えることだ。彼らの文章からはカタカタという音が聴こえてこないだろうか。例えば、僕はある芥川賞作家の文章を読むと不意に IME の変換ウィンドウが目の前に見える気がする。あるいは、いくつかのライトノベルはワードの画面がちらついてしまったり、ケータイのボタンの触感が浮かんでしまったりする。

これは、ただの妄想だろうか。恐らく妄想だろう。その作家がパソコンで文書を書いているかどうかを僕は知らない。もしかしたら手書きなのかもしれない。文体形成が手書きだったのかパソコンだったのかも分からない。古典を模す文体が、その当時の人々とは少し違っていて、それが結局、僕に違和感を与えているだけかもしれない。

また僕はラノベをよく知らない。現代の人の文体というものそれ自体が、僕にはワードやIMEの変換ウィンドウやケータイのボタンという質感を与えているのであって、全然、文体形成とは関係ないのかもしれない。その可能性は十分にある。

それでももう少しだけ言うのならば、古典を模したような小説には「不道徳」という印象を受けた。いや面白いことは面白い。別にそれはそれで問題ない。ただ違和感がある。ある種のジャンル小説としてなら十分といえる。

たとえばある小説では「未知」なるものは語られないように感じた。既視感。この物語で語られることは予め知っている。胡蝶が誘う夢と現の世界。夢で出会う女。幾ばくかの迷信と伝承。僕にいわせれば、それは文藝というよりは純文学的というジャンル小説なのだ。

そこに疑問が残る。その疑問を紐解いてゆくと「不道徳」という言葉が出てくる。これはどういう意味だろう。いや面白ければそれでよいのかもしれないが。実際最後まで読ませてくれたわけだし。

私は日本語について無知なのでよくわからない。それでも、この小説が持つ、ワープロでカタカタと変換されてゆく字句の気持ち悪さを感じてしまう。言葉が紡ぎだされていないと感じる。しかし、これは僕の妄想なのだろう。もし、本当に僕の感じた違和感が存在するのなら、こうしたことをそれなりに実力のある作家なり編集者なりが注意するのだろうから。

しかし、更にもう少しだけ言うと、最近の何人かの《文藝》は悪戯を感じる。悪戯にはやっていいものと悪いものがある。これは人を騙しおおす可能性があるので、やらないほうがいい悪戯だと思う。

それに引き換えると、正面からワープロの文体であることを自覚している作家のいくつかは肯定できる。つまりラノベはラノベでいい。少なくとも彼らには不道徳という印象はない。彼らは、それでしか語れないような表現を為しているように思う。

こうして書いているとクンデラか誰かの言葉を結局は思い出す。たしか、新しい実存を描き出さない文藝は不道徳だというような言葉だったと思う。そういうことなのかもしれない。