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あるトラブルと思えそうな事態が起きたとき、人の反応は二つです。つまり、「まいったな」と思うか、別になんとも思わずに対処するかです。
言うまでも無く「弱ったな」と思わず平然と対処できる人の方が問題を解決できます。トラブルで混乱している人は能力があったとしても、混乱してしまったり、逃げ出したりしてしまうのです。
人生論でよく読む話ですが、トラブルが起きたときにも「なんだ。別に困ったことなんてないじゃないか」と思えたときに、人は次のステップに行けるという話があります。そして、平然とその課題をクリアできるという話です。だから、難題が降りかかってきても、それは難題の前で平然とできるように成長するチャンスと思って取り組めばよいということです。
しかし、これはまさに言うは易し行うは難しです。僕はやっぱり大したことないことで右往左往してしまうものです。
さて、この話を考えていると、僕は自転車に乗れるようになったときのことを思い出しました。
●「転び慣れなきゃ、自転車には乗れないもんだ」
僕が自転車に乗れるようになったのは祖父のお陰です。祖父が公園で特訓をしてくれたのです。
ですが、祖父は「習うより、慣れろ」の人なので、僕が七転八倒しているのを、ただ見ているだけでした。あるいは後ろから押して不意に放すだけでした。
僕は自転車に乗れるようになるまでに、何回も何回も転びました。
僕に自転車を教えてくれた祖父は「転び慣れなきゃ、自転車には乗れないもんだ」と何度もいいました。
「こんなに転ばなきゃならないなら、乗れなくてもいい」と僕はすねてしまったこともあります。また、僕は理屈っぽい方でしたので、自転車を乗っている人を観察して乗る方法を理屈で見つけたいという欲求もありました。
でも、じいちゃんは来る日も来る日も僕を公園に連れて行ってくれて、僕は何回も転びました。
最初のうちは生傷だらけになりました。しかし、そうして何回も転んでいたうちに、転ぶのが上手くなりました。終いには「転んでも全然平気」というくらいに転ぶのに慣れてしまいました。
自転車に乗れるようになったのはそれから僅か後のことでした。転ぶのが怖くなくなったために、下手な力みが取れたのでしょうか。ふわふわと僕の自転車は進みました。
祖父の言った通りでした。自転車に乗れるのは、転ぶのが平気になってからだったのです。
●失敗しても動顛しないために、失敗する
「成功できるのは一割もいない」とよく言います。まあ、成功の定義は面倒なので飛ばしますが、確かに人生九割以上は(当初の目標が達成できないという意味で)失敗の連続でしょう。
だから、そのうちに挑戦するのが厭になるのです。
僕の父親は僕が二十歳の頃「人生は闇だ。光なんて無い。変な夢を見るな」と諭しました。まあ、僕のことは自分のことなので分かりませんが、傍から見れば、父については、積極的に動けばチャンスが何度もあったように思えます。ですが、父は若い頃の仕事の失敗ですっかりしょげていました。以後、仕事では大きな賭けに出ず、会社は衰退に任せ、ただギャンブルばかりに熱くなっていたのです。
これは僕が自転車に乗れなくて転んでいた時「もう自転車なんて乗れなくてもいい」と泣いていたのと大差がないと思うのです。
人は転びたくない、失敗したくないのです。
でも、それだけじゃいけないのです。転ばなきゃならないし、失敗しなくちゃならないのです。転ばなきゃ転び方は上手くならないのです。そして、転ぶのが気にならなくなったとき、上手に物事を進められるようになるのです。
確かに僕のように何でも頭から入りたくなるものです。そこには失敗がないからです。失敗しないで成功したいものなのです。理屈を学び、筋道正しく進めば、転ばないように思えるものです。
世の中には一度も転ばないで自転車に乗れるようになった人がいることだと思います。スイスイと走れるでしょう。でも、そういう人って危ないでしょう。だって、転ぶ可能性ってのは付きまとう訳です。転び慣れてなければ、転んだときにどうするのでしょう。
大切なのは、転んでも大丈夫だと思えるようになることです。その準備をしておくことです。そうしたことから固めていった方が安全だと思うのです。
●失敗しても動顛しないことを学ぶ
様々なことに挑戦すれば、それだけ失敗も多くなることでしょう。それは当然です。失敗はするものなのです。
大切なのは失敗しても動顛しないことを学ぶことなのです。何が起きても、腐らず、平常心で物事に当たれることなのです。ピンチとはそうした能力を学ぶチャンスなのです。
何が起きても平常心で対応できること、これが与えられた課題を有効に利用する方法なのです。結果はいいのです。与えられた条件で十分に最善を尽くせればいいのです。