2006-12-02

気付き続け、必然の中を自在に生きる

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うまく書けるか分からないけど、 禅的な生活の理想について語ってみる。

俺の禅の理想をひとことで言うと、 常に、 一瞬たりとも途切れることなく、 心に何が起きているのかを気付き続けられるようになること、 ということになるかな。 五感や意識の変化を常に認識し確認し続けられるようになることといえる。

私達の意識への入力はとても少ない。 普通に考えて五感があり、 それ以外は思考とか感情とかがある程度と言える。 外界からの入力を五感が感じ、 それと平行して思考や感情が起きている。

この常に変化する五感と、 どこからか知らないが湧いてくる思考や感情を制御することはできない。 五感が感じたことは、 どう考えても感じてしまったわけだし、 考えたこと、 思い付いたことはどう考えても考えてしまっている。 また感情だって、 その感情になってしまったらどう考えてもそうなっている。

「その感情なかったことにしよう」とか「この考えやめ」とか「この匂を感じてるのやめ」とかは意識だけで制御できない。 それは既に与えられた状況であり、 感じてしまったものは感じてしまったのである。

この常時変化する外部と内部からの入力を監視し続けることが、 ひとまずの俺の禅の目標ではないかと思う。

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例えば皿洗いをしているとする。 皿を手で感じ、 足は床を感じているだろう。 もちろん、 もっと細かいことを身体が感じているだろう。 一方で頭や心も動き続ける。 あることを思い出して頭にきたりすることもあるだろうし、 ぼーとしていることもある。 この後なにをするか考えだすかもしれない。 こうした状況の変化の全てに意識を向けて確認しておくのである。

こうした状況の中で、 皿を落として割ってしまうかもしれない。 「あっちゃー」と思うかもしれない。 そうしたら「俺は今『あっちゃー』と思った。 悔しがった」と確認する。 「はは、 いま上の空だったからそりゃ落とすわな」と思うかもしれない。 それもそう思ったんだと確認する。 「ああ、 俺は阿呆だ。 皿も洗えない」と思ったんだったら、 そう思ったんだと確認する。 事柄も内面の変化も全て確認してゆく。

確認し続けていると、気付くことも多くなる。「皿が落ちた」→「滑った」→「指先の意識が鈍くなっていた」→「集中していなかった」というような連鎖が一連の流れとして一瞬のうちに出てきたりする。そうすると「はは、そりゃ落とすわな」という「あきらめ」とかいう気分になる。世界は必然の連続であることに気付けば、無駄な思念の入る隙はないというわけだ。

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一瞬も途切れることなく、内面、外界の現象を気付き続け、必然の連鎖を気付き続けられることが、ひとつの理想となる。その必然の連鎖こそが因縁とか業ということになるのかもしれない。また、滑てが因縁ゆえ「空」ということになるのかもしれない。