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清沢満之「我信念」を読んでみた。こうした文を現代の人はどう感じるのかに興味もあるが、まあ、とにかく私はいろいろと刺激を受けたので書いてしまった。
ポイント
最初に簡単に概略を理解できるようにポイントになる箇所にコメントを付けつつ引用してみる。
まず、著者は「如来」と「信念」が同じであると述べる。
私の信念とは、申す迄もなく、私が如來を信ずる心の有樣を申すのであるが、其に就いて、信ずると云ふことゝ、如來と云ふことゝ、二つの事柄があります。此の二つの事柄は、丸で、別々のことの樣にもありますが、私にありては、さうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とは、どんなことであるか、如來を信ずることである。私の云ふ所の如來とは、どんなものであるか、私の信ずる所の本體である。
そして、その<信念=如来>が平安を与えると述べ、次に以下のように、理屈をつきつめると結局何も分からないことが分かるのみであり(下手をすると生きてゆけない)、それが故に、つまり、それでもなお生きていること、そのことのために<信念=如来>が生じたと述べる。
研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。(……)何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなつた處で、一切の事を擧げて、悉く之を如來に信頼する、と云ふことになつたのが、私の信念の大要點であります。
次に、無能の「私」が私としてあることの、その根拠が<信念=如来>と述べる。無能でも、生きてゆき、死んでゆくということ、そのものの本体が<信念=如来>なのだろう。
私の自力は何等の能力もないもの、自ら獨立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本體が、即ち如來である。 (……)私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。
更に如来の平安が与えられる根拠に、如来の前に、善悪の別はなく、ただただ、全ては救済されると述べる。故に<信念=如来>の前では、ただ気の向くように、心の欲っするように生きてゆけばよいということになり、「私」は救済される。
無限大悲の如來は、如何にして、私に此平安を得しめたまふか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さるゝことによりて、私を救濟したまふことである。如何なる罪惡も、如來の前には毫も障りにはならぬことである。私は善惡邪正の何たるを辨ずるの必要はない。何事でも、私は只自分の氣の向ふ所、心の欲する所に順從(したが)うて之を行うて差支はない。其行が過失であらうと、罪惡であらうと、少しも懸念することはいらない。如來は私の一切の行爲に就いて、責任を負うて下さるゝことである。
清沢満之の文書にこんなふざけたコメントまがいをしたら叱られるかとおそれるが、もう少し書くことにする。
雑感
以下は私の雑感。
私も、人は知性を過剰に利用し過ぎると自殺すると思う。思考は、全ては「無意味」で「不条理」ということを教えるのみであり、無意味の中で言葉を語ることは端的に不可能となり、無意味であるが故の死のみを要請することになる。自殺したい人を論理/理性で救えないのはこのためであるし、決定版の哲学や宗教が論理/理性的に生まれないのもこのためであろう。とにかく、どんなに考えようが、本を読もうが、人の話を聞こうが、一切は「無意味」で「不条理」で「不完全」であり、そこに生きる意味など見出せないことが、思考により導かれる。
ここで死にたくなるのであるが、実は、そこで転換があるのだろう。というのは、そこで死ぬ人もいるとは思うが、私はなぜか「死ねなかった」のである。
理性はそれを「恐怖」「腰抜け」となじり「死への勇気」を鼓舞するかもしれない。「無意味な生と不条理な世界に別れを告げよ!」
そうした理性の声に脅されながらも、私は死ねず、いや死なず、現に今も生き続けている。そして、無意味で不条理な私と世界を、ただ、そうしたものとして受け入れているのである。ここで注意して欲しいのは、理性は原則的に無意味と不条理を排除するのであり、にも関わらず私がそうした私と世界を「受け入れている」ということは、理性ではない何かが、現在の私を支えているということである。
事件以降、私は端的に理性に信頼することをやめてしまった。「理性」と「私」は違うことを学んだのかもしれない。現在の感覚から言えば、「私を殺すもの」は「敵」であり、故に「私を殺そうとする理性」も「敵」なのであると言えるかもしれない。私は最大の敵、つまり確実に自分を容易に殺せることができる敵が、自分の内部にいることを発見したのである。
無意味で不条理な私と世界を、それにも関わらず支える何かを私は直感したとも言える。うまく言えないのだが、「無意味で不条理な私と世界」は、そうであるにも関わらず、いや、そうであるからこそ、美しかったし、美しいとしか言えないのである。逆に、ただ美にうたれたのかもしれない。順序はよく分からないが、高校生の私は、絶望し、絶望したからこその美に打たれ、それによって「無意味で不条理な私と世界」を受け入れたのかもしれないし、「無意味で不条理な私と世界」を受け入れた瞬間に美に打たれたのかもしれない。一瞬の直感であった、星空に吸い込まれれるような。
美とは完全性であり、それは不完全性を排除するのではなく、包みこむものであり、端的に言えば、いかなる有限をも包み込む無限であり、その点で、世界そのものである。よく理解できない人は、まず、死にたくなって、その後、死に場所を求めて山に入り、ふと星空を見ると理解できるんじゃないかと思う。ただ無意味な無限が全てを包んでいて、ひたすらに「美しい」と叫ぶのが聞こえると思う。そして、その叫び声の主はいつもの自分ではない何者かなのである。少なくとも理性ではない。おかしな話だが、空が叫んでいるように聞こえるかもしれない。
こうした私にとっての「美」が満之の説く「如来」かと思う。全てを絶望の底に投げ捨てて、それでも尚、どうしても、己の力ではどうしようもない根源から湧いて来てしまう、絶対的な受容の内に感じられる、ただ、ひたすらの無限。こうしたものが、如来であり、私にとっての「美」かと思う。いや、よく分からないが。
高校時代の私も満之と同じように(おこがましい!)、「美」を「信仰」した。今はしていないのだが、当時は自分一人で宗教をやっていたと今では思う。どういう信仰・信念かというと「美がある」ということである。あるいは「美である」かもしれない。とにかく、世界とはすなわち美であり、美があるということである。そういう宗教であった。理性の声は全ては無価値と叫んだが、その無価値な存在(私と世界)「に美がある / が美である」 と直感することに私は救済を感じていた。
これは決して、肯定的だったり、満足に向かう信仰ではなかった。「ああ、美しいね」ではないのである。ただ、絶望があり、その全てが投げ捨てられ、それでも、ただ、ひたすらに私と世界があるということ、ただ、その点の悲愴にのみ、美な訳だからである。絶望しながら、美においてのみ救済される、いや、絶望しているからこその美に救済されると言うべきか。
加えて言うと、この美は私の音楽理解にとって中心的な概念でもある。小学生の時、学校でバッハの管弦のポロネーズを聞いたのだが、その時、私は一般的な意味での「音楽の美しさ」ではなく、そうではない「美」を聞いてしまったように思う。音楽はひたすらに終末へと向かう。ことに、通奏低音は美しく響きながら、近い将来の確実な終焉へと、はっきりと一歩一歩進む。そこに私は「はかなさ」というか「不条理」を聴いてしまうのである。音楽は生であるとして、当然そこに死があるのである。避くべからざる必然性の網の中で、「不条理」に音楽は終末へと向かうのである。そうした避くべからざる必然性の網を感じさせない音楽に興味はないし、その網の中で「不条理」「はかなさ」を聴けない音楽に興味がない。そして、バッハのいくつかの作品は、そうした不条理の中、必然的な「死」へと向かう壁の前で、そこを全く避けずに挑み、そして軽やかな奇蹟を見せてくれ、サン・ハウスはその「必然的かつ不条理な」死へとまっすぐに向かい、そして、そこで、更に彼は「詫び」るのである。この二人の音楽は深過ぎて、はっきり言って意味が分からない。
ところで、その信仰はいつのまにかやめてしまった。エネルギー供給源としての文芸書やCDの供給が減ったことためかもしれないし、歳を取って感性が鈍ったためかもしれない(とは言え、サン・ハウス理解はわりかし最近なのだが)。思えば、最近の不調は、こうした「捨て身の、ただ、ひたすらの美への信仰」のようなものが無いことに起因しているのかもしれない。以前に書いたdigi-log: 気づきを与える根源では「美」という言葉は使わず「愛」を生みだす根源などという言い方になっている。これは最近、音楽や小説から離れ、瞑想やヨーガに傾いているからだと思う。
近い内、禅か真宗のどちらか、あるいは両方を学べると思う。何か、そういうことなのかもしれない。何が「そういうこと」なのかもよく分からないのだが。