2006-10-30

気づきを与える根源

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あくまで雑感として

ここんとこ、ロゴス(翻訳語としては理性)とか、精神とか、ブラフマン(梵我、真我)とか、考えてた。

まあ有名な話として、アートマン(自我)とブラフマン(梵我)の合一とか言うわけだ。あるいは、自己の精神のうんちゃら的どうしたによって、絶対精神、あるいは絶対理性として神になる、とかね、まあ、こんな話がある。

んで、最近の瞑想の結果、自己の感情や思考の流れを観察できる自分がいるな、と気が付いた。んで、この「自己の感情や思考を観察できる自分」ってのが、理性や精神であり、ブラフマンなんじゃないかなーとか感じた。
「瞑想だー」とか言ってただ座る。座るとヒマだから、いろいろ心に湧いてくる。

しかし、どんな感覚や知覚、感情や思考が湧いてこようが、それを客観的に観察できる、気付ける自分がいる。

座っていて「あー足が痛くなってきた」とか「あー呼吸してるなー」とか「あーカントが言うアレソレは……」とか色々な感覚、知覚、感情、思考が湧いてくる。

「うーん、この座ってんのって時間のムダじゃね?」みたいなのとか「あー、そーだ、あれやんなきゃ」みたいなのとか「あれは問題だよなー」みたいなのとか「お、車が通ったぞ」みたいなのとかが一瞬一瞬、次から次へと湧いてくる。

からだは常に痛みや快楽を基本に様々な情報を与え続けている。床に面している臀部や足は一瞬一瞬ごとに重さを感じ、時には痛みを感じるし、背骨、首、腕もそれぞれ、休むことなく知覚を続けている。

こころも同じだ。様々なことを思い出すし、外で音がすれば、「あれは何だろ?」と思い「ああ、車だ」と思う。いやな事を思い出しもするし、いいことを思い出したりもする。常にうつろい、とどまることがない。

こころは判断するだけじゃなくて、全然関係ないことを思い出す。そして、思考を始めたりもする。そして思考は感情に影響を与えたりもする。

しかし、それらを観察できる自分がいる。一瞬一瞬うつりかわる心身を観察できる自分がいる。「あ、今考えてるな」とか「あ、今むかついてきてるな」とか観察して気付ける。そして、観察して気付くと痛みや雑念は姿を消す。きちんと気付けると、とらわれなくなる。

今だけに集中できる自分がいる。これは本当に純粋な意識だ。過去や未来に惑わされずに、今だけを観察し、状況に気付ける意識がある。そして「ああ、そうだな」と気づいて、状況を受け入れ、なんだか満足できる。

その意識は感情に対しては理性的だし、思考に対しては慈愛に満ちている。「あ、むかつき始めた」と気付けば「まあ、仕方ないか、ああいうもんだ」と落ち着ける。あわれみ、いつくしみ、しずけさ……こうした目を持ってその場その場に向かえる純粋な意識が自分にあると感じる。

この純粋な意識、観察し気付ける意識は感情でもないし、思考でもない。「気付き」は自分の予想できないところからやってくる。どこからやって来るのだろう?まあ、もちろん分からない。

実を言うと私たちには分からないことだらけだ。私たちは次の瞬間に体がどんな知覚をし、心がどんな感情に支配され、頭がどんな思考に支配されるか、それすら全く予想もできない。常に身体感覚や感情、思考に「襲われ」続けていて、自分で制御なんて全くできないと言ってもいい。

そして同様にいつくしんだり、あわれんだり、気づいたりして、現実を受け入れる力がどこからやって来るのか、想像すらつかない。

しかし、分からないながらも、その気づきは必ずやって来て、自分と状況を和解させてくれる。あわれませ、しずかな気持にさせてくれる。そうして明晰に思考もできるようにさせてくれる(感情がたかぶっている時に思考はできない)。

この気づきの力を与える根源を神と呼ぶならば、これは私にとって受け入れやすい、神の定義となる。純粋に「いま、ここ」に向かい静かに観察し、受け入れ、いつくしめる力の根源。

人間はどうしてだか知らないけど、しずかにいつくしむことができる。この「どうしてだか知らないけど、できてしまう」こと、その経験的な事実に、不便だから名前を与えると神となったんじゃないか、と思う。

もちろん、私は宗教家ではなく、よくわからない。ただ、素朴に、そう思う。そして、素朴に祈りたくなる。キリスト教とか仏教とか神道とか、特定の宗教に関係ない。

ただ、素朴に、全ての人が、その場その場を静かに観察し、気づき、ほのかに仕合わせを感じるようになって欲しいと願う。その力がどこからやって来るのかは分からないけど、確実にやって来る。その力を与えるなにか(まあ、「神」と呼ぶとイメージ的にぴったりなんだけどね)、その何かに対して祈りたくなる。その何かの力が満ちれば本当にありがたい。

人は「愛そう!」と思っても愛せない。「慈しもう」と思っても慈しめない。その「何か」が力をふっと与えてくれるから、自然に愛し、慈しめる。それは運命なんだろうと思う。もちろん、その何かの声を受け入れる姿勢がないと駄目なんだから、努力がいらない、というわけじゃないんだけど、気づけるための偶然がとても大切なんだと思う。理詰めじゃ「愛」は出てこない。

だから、祈る。そしながら、現実の「いま、ここ」、その場その場に向かう。