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本日、友人と会った。
古い友人である。高校時代の友人であり、彼は卒業後に京都に行った。東京に残った私とは高校卒業以来会ってはいなかった。おおよそ10年ぶりの再会である。
優秀な男と一言では片付けられない男であり、どこか「やみ」(闇/病み)を持った男であった。高校生の私は、そうした彼の目の奥でチリチリする、暗い焔が嫌いだった。そう言えば、高校の教師は、彼が容貌や雰囲気において吉行淳之介に似ていると言っていた。
そう、古い男でもあった。麻雀の「マナー」に拘るあたり、昭和の男である。卒業文集において「雀鬼」でも「雀豪」でもないと記しているが、ともかくも雀荘にこもり、友人宅で飲み明かし、寝癖のまま、寝不足の赤い目をして学校に現れ、睨みつけるように、いや見下げるように、人々を見ていた。
いろいろな事情から一緒にいた時間は長かったが、あまり話さなかった。話しても、クラシックやロック、ブルースなどの音楽の話をするだけだった。彼は音楽に異常に詳しく、異常にのめり込んでおり、そういうところも嫌いだった。私が異常と感じたのだから、かなり異常なのだと思って間違いない。
それがどういう訳か、今日会うことになった。いくつかの偶然のタイミングが、彼の好奇心を刺激したのだろう。
会って驚いた。彼の興味や問題意識などが自分のそれと近かったのである。その射程、その方向性において、ほとんどドンピシャかと思った。本ブログの読者なら充分にご理解頂けると思うが、私の興味や問題意識の方向性や射程が合うことは絶望的に稀有なことである。
そして、彼もまた、同級生を馬鹿にしきっていた。嫌いだったのである。だからこそ、東京を去り、京都へと向かったのだろう。まあ、京都だろうがアメリカだろうが、状況が変わることはなかろうが。
私が彼を嫌いだっのは近親憎悪だったか、とも思い浮かぶ。高校時代を思い出すと、自然に笑みが浮かぶ。
音楽や文学、絵画、哲学などにのめりこむ若者は希少種である。私の高校では、アニメ・マンガ・少女マンガ、ゲーム、スポーツ(サッカー、野球)、ギャンブル(競馬、パチンコ)、グラビア女優などに興味を持つ者が多いに繁栄していた。そんな中、新潮のドスト本の、悲愴や苦悩、深い闇を表現するためにのみ存在するかのようなドストの顔は、いつ集中攻撃にあってもおかしくない代物だった。少女漫画を読む人間に、自分の感性を殺して、なぜそんな「おもしろくない」が「権威あるもの」を読むのか、媚びているだけではないかと責められたこともあった。そして彼は私の机に少女漫画を山と積んだものだった。
それこそ私はエロ本に隠れてカントやドストエフスキーを読んだものだった。いや、そりゃエロ本も好きだったが。そう言えば父が冗談じゃなく「正直、お前がエロ本でも読んでくれたら、俺は嬉しい」と言ったことがある。確か高校生の頃だったか。いや、お父さん、読んでましたし、オナニーもしてましたよ。安心して下さい。
彼もそうした希少種として、息を殺して暮らしていたのだろう。だから、私は彼の異常な音楽熱を見ても、彼の哲学、文学などへの興味は気がつかなかった。彼も私の読書内容には気づいていなかったようである。そして、互いに、なぜにそれほど音楽が必要なのかも了解し合ってはいなかった。
彼にとってもまた、音楽とは苦悩である。断言できる。苦悩という源泉がなければ、なぜ、甘美な光に焼かれるということが起ころうか。苦悩という源泉がなければ、なぜ、社会への適応という利点まで捨てまで、執拗に音楽を求めようか。人間の野生の本能が、音楽を、苦悩を求めるのである。彼の野生の本能を高校生の私は見抜けなかったのである、私が本能的に芸術を求めたのを少女漫画を勧めた友人が見抜けなかったように、
そもそも音楽とは苦悩の源泉であり、文字通り、苦悩そのものである。そもそも苦悩を求めぬ人間はいない。より深く、より鋭く、より熱い苦悩を、人間は求めるのである。これは悟っていない全ての人間にあてはまる。人は苦悩のうちに生まれ、苦悩を渇望し、苦悩を味わい、苦悩のうちに死ぬのである。しかし、いや、だからこそ、そこにおいてこそ、寂静たるニルヴァーナがあるのである。音楽は癒しでも救いでも断じてありえない。音楽の中、絶望の先にある沈黙を聴かねばならない。そう私は感じている。
いや、こんな話は彼とはしなかった。というか、こんな文は無意味に単語を並べたに過ぎない。ただ、彼の感覚や経験・知識などが充分に共に語って嬉しく、楽しめるものだっただけだ。まあ、酔ってただけと言われたら、返す言葉もないが……。