2008-11-12

通夜(3)

人が死ぬたびに、一々文章にしているのも馬鹿みたいだとは思うが、先月26日に叔父が死に、10月28日が通夜だった。65歳、自殺であった。


そう言えば、前回、葬式に言ったのは2月のことだった。中学校の部活の先輩で30歳を少し過ぎたばかり、子供が二人いた(通夜(2))。

今回は65歳、先月に癌の診察を受け、余命は一年とのことだった。尤も本人への告知はなかったが、それとなく知っていたと考えるべきだろう。私が先月に顔を会わせたときは元気そうであった。その内面までを見る眼力は、もとより私にない。

彼は神社に務めていたのだが丁度、幾許かの退職金が振り込まれた。その金が死ぬ一つの切っ掛けとなったようだ。彼はその金で葬式の手配を済ませ、病院の外泊のある日、娘の家のドアノブで首を吊った。どちらかというと突発的な、癌の苦痛から逃れるための自殺であったらしい。

通夜は簡素この上なく、ただ小田和正が流れていた。不謹慎この上ないことだが、あの甘ったるい高音には聴くたびに苦笑いがもれて困る。

自殺あるいは「自死」については [書評] 自死という生き方 / 須原一秀6つの自殺への誤解 に書いたことと未だに変化はない。自殺した叔父と、もしかしたら死について話す機会があったらばとすら思う。

叔母が「あっぱれな死に方」と言っていたのが印象深かった。死については価値観の究極であるだけに、さまざまな見方があり、その価値観がその人の生き方をいかにも反映させていると思った。