2008-04-06

[書評] 自死という生き方 / 須原一秀

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「本が好き」から頂いた本。読んで戸惑う。人間とは「自らの死」にまで、主体性を発揮するものなのだろうかと。

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縁の遠い人が、本書に書かれていたような理由で死んだ。一昨年の夏の終わりだったか。自殺と聞き、その「死因」となる嫌な話を聞きたくないなと眉を顰めたが、死因はあっけらかんとしたものであった。――人生の楽しみは十分に味わった。後は老けるだけで、自分も嫌だし、人にも迷惑をかける。だから、まだしっかりとしたうちに死にたい。こういう書き置きが、首を吊った自室の机に置かれていたらしい。享年は七十に届くか届かぬかという頃であった。

健康的にも経済的にも人間関係的にも問題はなかったという。話に陰は微塵もない。からりとしている。それ故であろうか、ご家族の立ち直りも早かったらしい。この話を伝えた私の恋人もその死を是とする。このあっけらかんとした感じに、気持ちの悪さを私ははっきりと感じた。が、元より会ったこともない人の話である。保留にして胸の底に沈めた。人の死に対し、是非を論じても詮無きこととして。

そうこうしている内に、新聞の広告で本書を度々目にした。興味を持っていたところに「本が好き」の献本リストにあがっているのを見つけた。これを機会にと思って送ってもらった。しかし、私にとってはいい本ではなかった。

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まず私個人の視点として「事後的な死の肯定」と「事前の死の推奨」は異なることを述べておきたい。

私は個人的に自殺してしまった人に対しては敬意を表することに決めている。自らの死に向き合い、覚悟を決め、周囲の迷惑の少い方法を選んで逝った人には、事後的な死の肯定をする者である。 ―― ですから、自決した著者には素晴しい死に様であったと敬意を表します。また、父であり夫でもあった著者の突然の死を受け止めているご家族の方にも賛嘆の言葉を送ります。私は著者の個人的・主体的判断に対し、事後的に難癖を付けようとするものではございません。これだけはくれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。

さて、この本は一人の個人の「遺書」でもあるが、同時に一つの「自殺肯定論」である。つまり「事前の死の推奨」である。一般論として「老人道」に殉した自死を認め、それどころか推奨する本である。結論から言えば、こうした性格の本書に対しては、私は反対する言葉しか出てこなかった。

たぶん本書が以下のような本だったら私も好意的だったのだと思う。――ありがたいことに私は家族にも健康にも仕事にも恵まれ、存分に人生を謳歌させてもらった。何度も「ああ、もう死んでもいいなあ」という時があった程だ。それでおこがましいんだけど、この歳になると人生に対しても、自分に対しても「高が知れたもの」と思えて来てね。我侭を言って申し訳ないが、後は自分が幸せな内に、つまり自分がしっかりした内に、人様に迷惑を掛ける前に、自分でケリを付けたいんだ。それに病気も老いもやっぱり怖くてね。僕には現代延命医学によって限界まで「生命維持」されるのが「人間らしい」とはとても思えないんだ。そうなる前に死にたいんだよ。僕の最後の我侭を赦してくれ――

恐らく、私の遠い縁の人も、そして本書の著者も、心情としてはこうした所なのではないのだろうか。こうした「遺書」なら私は事後的な死の肯定をした上で、延命医療と安楽死・尊厳死の問題について考え、技術に対し生命倫理思想が追いついておらず、そのままでは「人間らしい死」を遂げられぬ時代の犠牲者として死を悼むことができたと思う。

ただし、事前的な死の肯定を否定する私は、そういう人に対しても、残酷かつ無責任にも「駄目だ」「死ぬな」と言うのであり、そして、その人の苦しむのを見たり、立ち直るのを見たり、結局は自殺したりするのを見るのであろうが。

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私が理解し難いのは本書の「老人道」という観念である。これについては私は正直よく分からない。筆者によれば、官僚的幕藩体制の中で自尊心と主体性を維持すべく「死にたがり」になっているのが武士道らしく、老人道とはこの武士道に似たものであり、武士道的切腹と同じく、「自分らしさと自尊心と主体性」を維持すべく行われる自決であるということだ。

この「自決」は、その他の「自殺」と老人道的自死は峻別される。だから筆者は自分の死が経済的・健康的・人間関係的な要素がないことを強く重視する。あくまで自らの老人道的な主体性が侵された時に、死をもって応じるという姿勢のようである。

老人道を生きる人間は、「病気・老化・自然死」というどうしようもない体制の中で、「そんなものに翻弄されてたまるか!」という気概をもって「自分らしさと自尊心と主体性」を維持し続け、最後までその気概を維持し続けているという証のために死んで行くのである。

それだけでは観念的な自殺としか思えないのだが、筆者にはもう一つ老人道には必要な要素があるという。それは人生や自分の高を、その極みにおいて体得しているということである。つまり、「人生の高」「自分自身の高」も体で納得する必要があり、青年期にありがちな頭で観念的に理解しているだけでは駄目なのだと説く。そこで始めて命を捨てられるという訳か。老人となるまで生き抜いて初めて、病老死に苦しむ前に「主体性」に殉じる権利もあるというところか。

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思想が前向きであるのはよいことだと思う。しかし、死を事前に肯定する思想はあっけらかんとしてて、私にとっては気持ちのよいものではなかった。

殊に「厭世的」な考えに対する批判には絶句した。厭世的な物言いは、苦しみつつもなお生きることに向かうのであり、生を肯定する。死を勧めはしない(例外はあるのを知っているが)。

よく分からないが、投げ込まれて、打ちのめされてゆきつつも、主体性を発揮してゆくのが人生ではないのだろうか。最終的に病老死苦すら肯定できるようになるような気がする。誰だって、どうしようもない事態に足をすくわれ、それでも猶、それを主体的に引き受け、生きてゆくのではないのだろうか。美しくはないが、それでもそうして醜く、無益に、苦しみながら生きてゆくのではなかろうか。

本当に生きられない時には体が死んでくれるだろう。自分で体を殺すのは結局は観念による肉体の殺害であると思う。人間は「自らの死」にまで主体性を発揮する必要はあるのだろうか。それは結果として殺してしまった場合には仕方がないにしても、殺すことは殺すことであり、赦すにしても、許すことはない。

以下の点は示唆的だった。

  • 自然死では、眠るようようには死ぬことは例外的である。殆どの場合、非常に長い時間、激しい痛みに苦しむことになる。しばしば、身体を動かすことはできず、排泄物を垂れ流し、意識も朦朧とした状態で数年間も生命維持されることになる。相当の覚悟が必要になる。
  • こだわりを捨てれば青年期・壮年期はいいものだ。「青年と壮年の読者に言いたい。こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。そして、運と健康と工夫によって、その期間は相当に長いものになるかもしれない。しかし、その先は誰にも保証できない。」

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