2007-01-12

行住坐臥 (2) 理想の歩き

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私の現時点での理想の歩きについて

まず、なぜ立つよりも歩くが先なのかと問うかもしれないが、人間は立ったら歩いたのではない。歩いたから、立ったのである、と答えたい。

ま、そんなわけで、歩くことはとても大切です。ヴィパッサナー瞑想とかでも歩く瞑想が初心者に一番やりやすいと書いてあるし。

ま、そんなこんなで。

効率的な「歩き」は、ロボットのようであり、アボリジニーやネイティヴ・アメリカンのようでもあり、能や相撲のようであり、黒人のダンサー [1] のようであると私は考えている。

そして、現時点での私にとっての理想の歩きを言葉にすれば以下のようになる。


身は真っ直ぐに伸ばし、かと言って、腰を反らせたり尻を突き出したりせず、

尻、肛門、恥骨、肚、臍に力を込め、とはいえ胃のあたりの腹は空洞のよう力を抜き、

胸を進行方向に向け、とはいえ、胸を張るわけではなく、

脇を締め、肩の力を抜き、

そのまま足首から前傾させて重心を前に移動し、軸足は、踵で踏みながら、重心を感じつつ、

爪先が浮いて来た前足を、肚で滑らせるように運ぶのである。

そして、前足を今度は軸足とし、踵を踏みながら、その足の中で重心が移動する感覚を大切にしながら、同様に腰で後ろ足を運ぶのである。

膝は自然に緩め、必要があれば伸びるのも構わない。特に、歩幅を広くとった時や重心が高い時のの後ろ足の膝は伸びるだろう。

また、常に、足首より、膝頭が前にあるべきと私は考えている。そうで無ければ踵が踏めない。前足であっても膝頭は踝より前方に位置する。つまり、脛骨は常に前傾する訳だが、そうでなければ、前進にブレーキをかける力を生むだろうし、その摩擦や衝撃は膝や足首、腰などに負担をかける筈だ。

踵は常に地面に着くべきであるが、足首の曲がる範囲を越えて膝が前に出てしまい自然に踵が上がるのは問題ないと考える。特に、深い踏み込み、強い前傾姿勢では、足首の曲がる範囲を越えるため、踵は浮くだろう。

思うに、「歩く」とは、踵を前に出すことではない、踵で体を押し出すことである。

また、足が体を運ぶのではない、肚で足を運ぶのである。

どんな状況であれ、つまり、前傾であれ後傾であれ、前進であれ後進であれ、軸は常に安定させる。つまり、どの方向から急に押されても、対応できる姿勢でいることが大切である。

また、理想的には、頭は全く同じ速度で、ブレることなく、進行方向に移動する。「歩く」ときには、どんな状況であれ、頭は常に軸の上にある筈であり、その軸の移動を足裏で完全に意識しつつ進むのであるから、頭は完全に一定速度で進む筈である。前に進むのであれば、頭は上下左右にブレることはない。鏡に向かって前進すれば、頭が静止しているように見える筈である。

私はそれが最も効率のいい歩き方であると現在は考えている。

まあ、ゆっくり、じっくり長い時間をかけて身に付けるというか、自然になってゆくというのが大切ですので、別にこれを読んでも仕方ないとは思いますが [2]


notes

[1] 音楽における「白さ」について 2006/11/01 で以下のように書いた。
脊椎という体の中心から感じられるリズムかどうかが重要なのだ。首、背骨、骨盤という中心を動かしたリズム感だと「黒い」と感じるのだ。逆に言えば、中心が動かず、小手先を動かすのでは「白い」と感じることになる。

踊りで考えると分かりやすい。たとえば手を挙げるとする。ただ、手だけで手を挙げるのが「小手先」であり、足腰の振りで手が自然に挙がるのが中心からの手と言える。音が「こーゆー音がココに出てればオーケー」というのが小手先であり「ノリに合わせてたら自然にソコに音が出た」というのが中心からの音と言える。

この文でも書いた通り、黒人か否かが大切なのではない。体幹で動くか小手先で動いているのかが、大切なのだ。

本文での「黒人ダンサー」というのは小手先で動いてない踊り手という意味だ。残念なことに、現代では黒人であっても小手先のダンサーをよく見掛けるようになった。 [2] ここんとこ、できることは自然の観察のみ 2006/12/09に詳しい。

ある動作に対し、注意を向け続けることで、身体の方が自然に合理的な動きを獲得するのである。これは身体を用いる動作のほとんどに言えることだろう。

意図して動きや意識を変えようとしてはならない。それは「わがまま」であり、「無理」を生むことにしかならない。いや、幾分かは練習にはなるから無益ではないが、それでは本格的な身体意識、身体動作の向上にはつながらない。

「わがまま」つまり「我が思うまま」に動かすのではなく、「ありのまま」「あるがまま」が大切なのである。そして、そのためには、身体の意識・感覚・動作などの観察しか私達にできることはないと肝に命じよう。変化という「自然」を見て取ることしか私達にはできない。