2007-01-12

行住坐臥 (1) はじめに

このエントリーをはてなブックマークに追加
インドブーム雑感 2006/12/27にて「体のやることはつまるところ行住坐臥につきる。つまり、動く、立つ、座る、寝る」と書いた。この点について、最近の雑感を少々したためた。

意拳という中国拳法がある。

創始者の名は王向斉といい、彼は「国を代表する達人『國手』であると人々から賞賛されていた」。そして彼の創始した意拳は「中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳とも呼ばれる」 [1]

その「中国武術の精髄」である意拳は、他の中国武術と違い「套路を持たない」。つまり型稽古がないのである。

「修行法としては站樁(タントウ、立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる」。

つまり「立つ」ことで、適切な姿勢が自然に身に付け、それにより「気」の力を得ることが修行の中心となるのである。

また、その意拳を学び、太気至誠拳法を創始した澤井健一も、「立禅」と「這」(ハイ、ゆっくりと粘り這うように歩くこと)を修行の根本とした [2]


武術とは、ひとつの身体の究極である。

その武術において、「立つ」と「歩く」がこれほどに注目されることは、注目に値する。

立つことができ、それで歩ければ十分ということだろうか。そして、手は後からでもついてくる、ということだろうか。

考えるに、戦いにおいて、力(筋力)や技は有効である。しかし、力(筋力)には限度があり、状況は無限にあるが故に技も無限にあり、全ての技を身に付けるのは不可能である。

力でもない、技でもない、本質的な力が求められるのである。

あらゆる場において有効な力とは、身に付いている姿勢と「気」ということになるのだろうか。


また、昨今の深層筋「ブーム」にも目を向けたい。

深層筋とは表面にある筋肉と異なり、意識的に動かすことが難しい筋肉である。姿勢保持や呼吸などにも関わり、力も強く、持続力もある。

それ故、使えるか使えないかの差は、非常に大きい。

深層筋を鍛える/意識するためには、動作を遅く、長く行わなければならないとのことである。

「立つ」と「歩く」によって得られる力の一つに、この深層筋の力があると私は思う。


長い時間、立ったり、ゆっくり歩いたりすることは、実は難しい。

普通の立ち方でも歩き方でも、なかなかできない。特に意拳で行われるように、踵を浮かした中腰で両手を顔の前に上げて立ったり、這うように歩くのは、普通は長時間はできない。

立てば直ぐにふくらはぎや太股前部、腰の筋肉が痛くなるだろうし、歩けば軸がぶれてしまうはずだ。

これは表面の筋肉を使っているからであり、軸の感覚が弱いからである。

「立つ」と「歩く」を鍛えると、表面の小さな筋肉を自然に使わないようになり、奥の大きな筋肉を使えるようになる。また、軸の感覚も安定する。


日本の芸能の多くは「摺り足」を重視する。

これは、深層筋をフルに使い、軸を安定させて歩く結果なのだろう。

高く足を上げるのは無駄なのだ。

足を前方に運ぼうとすれば、脛の表面の筋肉の働きでなく、深層筋の力で自然に爪先が受くはずだ。そうすれば、踵を付けたまま、滑らかに重心の移動に合わせて足を運べる[3]

そして、その効率的な所作に日本人は美を見出したのだろう。

どうように能が武士階級のものであったことも注目したい。彼らは見るだけでなく、自身も演じたのである。つまり、深層筋を有効に利用した歩きを自身も練習するための場でもあったのだろう。


この行住坐臥の文化について、ちょこちょこと書いてゆきたい。

最後に偉大な人の言葉を二つ。

荘子

真人の息は踵を以ってし、衆人の息は喉をもってす

王向斉

拳とは何か? 拳とは力を奮い起こすことである。局部の方法ではない。

行住坐臥(2) 理想の歩き 2007/01/12 行住坐臥(3) 理想の立ち 2007/01/16 行住坐臥(4) 理想の坐り 2007/03/26 行住坐臥(5) 理想の臥 2007/03/28

notes

[1] 以下 wikipedia の各項目より
意拳(いけん・yi quan)とは王向斉によって創始された中国武術。 中国武術の精髄を集大成した拳法との意味で大成拳と呼ばれることもある。(意味には別説あり。) 中国武術は複雑な套路(型)を持っている門派が多いが、意拳は套路を持たないことを最大の特徴としている。 修行法としては站樁(立禅)によって架式(適切な姿勢)と内功を練ることが中心となる。 また散手(組手)を積極的に行っており実戦武術としての評価も高い。 意拳の流れを汲む武術として太気拳(太気至誠拳法)、 韓氏意拳、 心会掌 、神意拳などがある。
王向斉(おうこうさい・王薌齋1886年 - 1963年)は、中国の武術家。意拳の創始者。

少年時代に形意拳の代表的な達人であった郭雲深の閉門弟子(最後の弟子)となり、武術を学ぶ。 その後、南北をめぐって数々の中国武術を研究し、そのエッセンスを抽出して創意工夫の末に意拳を創始する。 実戦でのずば抜けた強さから当時、国を代表する達人「國手」であると人々から賞賛されていた。比武(試合)においては、王がただ相手に軽く手を触れたように見える何気ない攻撃を繰出しただけで、相手はまるで落雷に遭ったかのような衝撃を受けて倒れてしまったという。また対戦相手は王の動きを目で捉えることができず、まるで顔が七つあるかのようにも見えたという。

王の著名な弟子には姚宗勣、澤井健一などがいる。

[2] 木村文哉『武道的身体のつくり方』(2005、河出書房新社)に「澤井健一から、盧山が習った稽古法は『立禅』と『這』だけだった、と盧山は言う」とある。 [3] 多くの摺り足では踵が受くが、それは不自然に思う。

浮かしたとしても、それは脹脛の力ではなく、足首の曲がる限界まで来て、結果として踵が浮いているという状態だろう。体を動かす力に使う程、脹脛は強くない。

宮本武蔵『五輪の書』に以下のようにある。

足のはこびやうの事は爪先を少しうけて踵を強くふむべし、足の使ひやう時によりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し、足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて是三つ嫌ふ足なり、此道の大事に陰陽の足と云ふことあり是れ肝要なり、陰陽の足とは片足ばかり動かさぬ物なり、きる時、引時、受る時までも陰陽とて右左ゝゝとふむ足なり、返すゞゝ片足ふむことあるべからず、能々吟味すべきものなり

尚、踵を浮かす健康法というものがあるらしいが、私は賛成しない。踵を浮かせば、脹脛に疲労がたまり、ひいては大腿四頭筋が固まり、最終的に腰を痛める筈である。その影響は首にもいくだろうし、膝も壊しかねない。

そうした人の脹脛にあるツボを押すと激痛が走るものである。ここでのコリは、漢方やアーユルヴェーダで考えると、冷え性や頭痛、便秘などの原因になる。

同様にハイヒールも良くない。これも「足を細くする」などと言っている者がいるが、上述の結果となるに決まっている。