2007-03-26

行住坐臥(4) 理想の坐り

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行住坐臥の肝はなにかと問われれば、私は迷うことなく「坐」と答えるだろう。坐こそは生活の本質である。日常の全てが「すわっている」こと。これが、坐の文化の国の本質であると信じている。

なぜ足を組み「坐る」のか?

問題はなぜ座ったのかである。椅子がなかったからではない。歴史上、日本に椅子が入ったことは何度もある。しかし、その都度、日本の家屋からは自然に椅子は排除されたのである。腰掛けることと坐ることは本質的には別のことであると思う。

勿論、人類に当初、椅子はなく、地面に腰を下ろしたことだろう。このことから「日本人は地面に腰を下ろしたことに満足して、椅子という智恵を生みださなかった」と考える人もいるかもしれない。

私はそうは思わない。

坐は人類の智恵である。椅子よりもはるかに高度な智恵である。そう私は訴えたい。

なぜか? その問いに答えるためにも、坐ることを確認しよう。

坐ることは腰を掛けたり、下ろしたりすることではない。もし、日本の坐が、現代人のそれのように、ただ地べたに腰を下ろした状態であったとしたら、確かに坐ることは智恵ではない。私が言いたい坐とはそのようなものではない。

坐とは足を組み、姿勢を正すことである。この方法、この智恵の全体のことを、坐と呼ぶのである。坐とは足を組むなかで、自然に人間の姿勢が正されるような、そうした坐り方なのである。つまり、足を組んで、姿勢を正そうとするのでは、坐の意味はない。その坐法をとれば、自然に姿勢が正されてゆくような、そうした坐り方なのである。少々大袈裟だが、こう言えば、坐が椅子以上の智恵だということは理解して頂けるだろうか。

強いて言えば、こうも言えるかもしれない。自然に姿勢が正されぬ坐り方など、坐ることではない、と。意識しないと姿勢が整わないというのは、座れていないからである。整った姿勢が楽になるような坐り方なのである。脱力しても、たとえ気を失ったとしても、いや、たとえ死んだとしても、会陰から百会がまっすぐに保たれる坐り方なのである。それが、理想の坐である。他に坐はない。

坐ることで、姿勢が整い、そして姿勢が整うことで、精神が安定してゆくことを、坐の文化を持つ国の人間は発見したのである。以下、「坐ること」や「坐」とはこの意味でのみ使う。

坐るのは安定する

ここで賢いあなたは、疑問が湧くかもしれない。「楽で、まっすぐがいいなら、寝ればいいじゃん? 楽だよー」と。

難問である。

当初、私は「そうしたら寝てしまうからではないか」と思った。これは間違いである。座っていても寝るときは寝るのである。そして気合しだいで臥せながらも、瞑想状態には簡単に入れるものである(というか、坐るよりも寝た方が初心者にはやりやすいと思う。別にそんな状態に入ったからエラいわけでも何でもないが……)。

私は大いに悩み苦しみながら、寝ることと坐ることを繰り返した。そして、数々の失敗と挫折の中から様々なことに気がついた(いつか書くかもしれない)。そして、実は寝る方が、脱力しにくいのではないかということに気がついたのである。つまり、完全に脱力した時にどうしても違和感が残るのである。

これは私が寝る脱力が下手なせいもある。特に腰のあたりの脱力が苦手である。しかし、私が個人的に考えるには、ヒトの腰はそもそも湾曲を描くものであり、寝て脱力すれば、この湾曲は失われる。そして、その湾曲が失われた状態というのは、ヒトにとって、理想的な状態ではないのではないだろうか? こう考えたのである(ただし、臥は、やはり行住坐臥の究極だろうから、次回にこうした問題も詳説する)。

そもそも、仰向けで一時間も二時間も集中(?)するのは難しい。そもそも、そんな長時間眠ってもいないのに寝ているというのは、精神的なかなかできるものではない。15分か30分もすれば確実に馬鹿らしさが襲ってくる。勿論、私が未熟だからかもしれないが(まあ、一体何に未熟なのかすら分からないが)。

また、私は床擦れなどの医学的な問題に無知だが、やはり、臥せてみじろぎしないでいると、むずむずしてくるものである。一度、本気で究極の臥に挑戦しようと努力して頂ければ理解頂けるものと思うが、どこか、違和感があるし、なんというか難しいが、頭と胸と腹の流れを感じるわけだが、その流れの線がよじまがっているように感じるのである。

***

それに比べると、坐のなんと安定することか。結跏趺坐などでは当然のように長時間静止できる。そもそも、座れば坐るほどに、姿勢が安定してくるのである。自己の内にある軸に(それは時計回りに回転しているように個人的には感じている)意識を合わせながら、沈みこむように下へ下へ脱力すれば、自然に、おのずから、すうーっと上に上にと伸びてゆくのである。何度やっても不思議である。個人的は、特に鳩尾の辺りと、首の辺りの脱力の感じがとても不思議である。両手は印を組むなり合掌するなり、ただ重ねて置くなりすればいい(用途による)。

そして坐禅や瞑想の真似事やら、読書やら思考やら勉強やらをするわけであるが、まあ、こんな胡散臭い話、誰も信じてはいけません、と一応書くが、それでも、当然のように読書のスピードも早いし(まあ、ちょっとね)、考えても鋭いし(これは、まあ、気のせいかもしれないけど……だって計りようないしね)、なにより確実に言えるのは記憶力がよくなるのである(これは本当です、はい。おすすめです。記憶力には持論があるので暇があれば、また書きます)(ちなみに、残念ながらパソコンは「坐」してはやってません。本は書見台があれば、ひょいっと手を動かすだけで済むけど、パソコンとか執筆は両手が動いてしまって軸がとれないから)。

科学的には分からないが、人間は脱力してても背骨のS字湾曲は保たれた方が違和感がないのだろう。実際、ちょっと仰向けに寝てみても腰のあたりは浮いてしまうのではないだろうか? 力を抜こうとすればべったりと背骨が地面に着くだろうが、案外、そうした状態は気持悪く感じはしないだろうか?

なぜ、すわることで気持ちよく脱力できるのかは不明だし、そもそも力を抜いてまっすぐなど合理的じゃない。しかし、恐らく、人間は直立するように進化したのであって、その直立した状態での頭の働きがよくなるように作られているのではないかと思う(根拠なし)。湾曲が保たれた状態が自然であり、その状態で脱力することが神経や内蔵にもいいのだろうと勝手に考えている。

そして、重心の軸と体軸とが重なる状態というが理想なのではないかと思う。こうした重心と体の軸の知覚の問題は重要なので、この話は別の機会にまた詳しく書きたい。たぶん、重力の問題が坐における安定と関係が深いのだと思う。

実際に坐る

さて、こうして書いてきて、「じゃあ、どう坐るんだ?」と興味を持つ方もいるかもしれない。まあ「基本は結跏趺坐である」とか「呼吸が身体の動きとして感じられるようになれ」とか「鳩尾と首の脱力はバランスの……」とか、ごちゃごちゃ教えたいが、これは、どうも書くのは難しい。というかメンドイ(だからいつか書くかもしれない。私は普段は書くのが嫌いであるが、たまに発作のようにどうしても何でもいいから書きたくなる。こういう病気なのだろう)。

それに書いたとしても間違いが多いだろうし、お近くの禅寺かヨガスタジオに行くのが、確実であると思う。坐とは技であり、習得のために練習の必要があり(股関節や膝関節の柔軟性も必要である)、口で言うよりも実際にやってみて、できてる人に直してもらうのが早道である。そうすれば、ほとんど全員がこの技を習得できるものと私は考えている。

自分で理解できてない「歩き」や「立ち」はごちゃごちゃ書いておいて、理解できてるつもりになってる「坐り」は「じゃ、寺やスタジオへ行って下さい」と投げてしまって書かないというのは、本当に私の性格の悪さを示す好例だと、我ながら関心する。あくまで書く中で、自分のために整理したいのであり、ハナから人様に何か有益なことを教えようというつもりがないのであろう。まったく、困った男である。


ところで、ここまで書いておいてなんだが、私は禅寺やヨーガスタジオに行ったことはない。人など信用していないからである。また、ヨーガの本も坐禅の本も読むには読んだが、やっぱり、本など全然あてにしていない。完全に我流である。「おいおい」と思う人もいるだろうし「はは、そうだろお前みたいなタイプ」と察っしている方もいるだろう。だから、私の書いたことも信用しないで欲しい(ただ、最近は立つことや歩くこと、お辞儀などを人に習いたいな、とも思う)。

ただ、現在の私の感覚から言えば、実は坐とは結構、基本的な技術だから、これなら人に習った方が早かったな、という感じである。それほど間違いを教える人はいなさそうだな、というのが実感である。そして、本を見てもほとんどの人が同じようなことを書いてあるのであり、そうしたことからも、間違いをしている人が少ないのが分かる。

ただ、たまに変なことを書いている人は居るにはいる。いや、結構いるな……。うーん、書こうかな……。うーん……。あー……

うーん。

あー……。やめた。この人、有名すぎるし、「信者」多そうだもんなぁ……。うーん、ヒント出したら一発でばれちゃうし……

あー……

まあ、いいや、とにかく「自然に楽になる」「沈みこむと、不思議と浮いてきて、まっすぐ」「軸の意識(ただし無理してじゃなく、自然に。バランスの結果としての軸)」ということは一般に言えると思うし、これに反してるような教えは、ちょっとおかしいんじゃないかと思う。

坐というのは行住坐臥の肝であると始まって、なんだか、こう書いていると「簡単」みたいだが、なんというか「簡単」なものなのかもしれない。これは、足を畳み、手も組むなり置くなりするので、体幹だけに意識を向けられるからかもしれない。つまり、小手先になりようがない。だから、本来の意識になりやすいのだと思う。

こうした坐の感覚を十分に身体化させ、それを行住坐臥にいかしてゆくことが大切だろう。もちろん、坐禅や瞑想などもお好みでやるとよいかもしれない(胡散臭いと思う人はやらんでよいが、残念なことにこんな文章を読む哀れなあなたは、きっとほっといても瞑想とかしてしまうことだろう)。


ところで、「すわりがいい」とか「すわってる」とか言うように、昔の日本人にとってすわってることは大切であり、そして、その感覚はほとんどの人が持っていたんだと思う。「ハラがすわっている」という言葉の質感を日常で持っていた日本の昔の人に対し、「ふーん、なるほどねー」と思うし、まあ、結構、今からでも習得しようと思えば、できないことはねーな、とか思ってみたりしている。うむ、「ハラのすわった人」ってのに、ちゃんとなりたいもんだ。