2007-08-12

「悪」があるのに「音楽」はありえるのか

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「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

地下生活者さんがNHK-BS「死の国の旋律〜アウシュビッツと音楽家たち」という番組を取り上げていた(地下生活者の日記 - 沈黙に抗って)。その中からゾフィア・チンビアさんという、アウシュビッツ絶滅収容所の囚人オーケストラのメンバーの言葉を孫引く。

私は自分から逃げていました。

私は、何度も自分に言い聞かせました。
「アウシュビッツの後、どう生きていけばいいのか?」
「私の人生に、そして世界にどんな意味があるのか?」
「人間に意味はあるのか?」
あの場所からは、今も絶望の叫びが聞こえています。

***

「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

「音楽の不可能性」「沈黙としての音楽」「音楽としての沈黙」こうした言葉を私は、まあ、弄んでいたとも言える。頭でっかちな愚か者である。こうした頭でっかちは、何の役にも立たないものである。また、レヴィナスじゃないが、死者について云々することもまた悪としか言いようがないし、ヘーゲルじゃないが、真の悪とは自分の周囲すべてに見出す眼差しのことだとも言えるのだから。何しろ、私はアウシュヴィッツを体験した訳ではない。しかし……と書きたいが、書かないことにする。

だから、もし、あなたがこうした悩みを持っていないのなら「なにを理屈っぽく悩んでんだか」と、スルーして欲しい。これは、そうした悩みに取りつかれてしまった愚かな苦しめる人、ある意味で病気の人にのみ向けて書いている。現在の私の状態を記すことが、そうした人に何らかの役に立つかとも思うからである。

***

折角なので、脱線して高校時代の昔話をしたい。

そういえば、予備校の進路指導の先生に「君は一体なにを悩んでいるの?」と訊かれ「音楽の不可能性」と答えた記憶がある。「沈黙の音楽という矛盾の中以外に音楽がありえないことだと思います」というのが、その時の私の主張だったか。

「悪が存在するのに!」と私は何度か怒っていたと思う。私の怒りもまた欺瞞的なものであるが、その欺瞞さにも気づいているからこそ、私は苦しかったとも言える。いや、欺瞞にしか伝わらないことのもどかしさに苦しんだと書くべきか。「君が悪を経験した訳じゃない」と彼は答えていた。

思えば、いい人だった。総白髪の下に笑う、優しい目を思い出す。「沈黙の音楽」に対しては「そりゃ、音楽は音が出ないと駄目なんだから」「結局は、娯楽なんだから」と、親身に答えてくれた。特待生として無料で通っている私に、何度か数時間単位で話相手になってくれた。とても感謝している。

当時は受け入れられなかった彼の意見も、今は何個か受け入れらる。中には、確実に正しいと今なら思える主張もある。そのうちの一つは「録音はしない方がよい」ということだ。いや、これは難しすぎる問題なので置いておこう。ただ一言書くとすれば、「記録装置」と「芸術」とは本質的に矛盾するということにでもなるか。いや、それもまた間違いである。

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私は音楽を練習する傍ら、大学時代はドイツ研究の学科に在籍し、ドイツの思想と歴史を学んだ。一般のメディアで流通できる悲惨さをはるかに越える「学術用」の映像や写真、統計資料や数多くの告白など細かい記録等にも目を通す機会を得た。一方、私の哲学的興味の中心は両者ともナチスとの関連を考えざるを得ない思想家であるニーチェとハイデガーだったが、一方でベンヤミンやアドルノ、レヴィナスやアーレントなども学ぶ機会を得た。

ふと思い出すと懐しい。エンゲルハルト・ヴァイグルのアドルノやライプニッツなどの授業は人気がなかったが、素晴らしかった。ドイツ人の教授により英語で行われるゼミには、私を含め二人しかいなかった。ドイツ語、ラテン語、英語のテキストを読みつつ、もどかしさの中で、かじりつくように教授の話を理解しようと努め、また、私の解釈を述べた。熱意の前に、言葉の壁は低く、薄いものである。私にとっていくらか堪能な日本語や英語で行われた他の授業よりも、こうしたドイツ語を軸に行われた授業の方が今となっては重要であり、他では学べなかったであろう重要なことをいくつも学べたという充実感を思い出す。数少ない「大学で哲学できた」記憶である。ヴァイグルの著作はいずれ本ブログでも取り上げたい。

極論だが、日本語で行われる西洋哲学の授業は、何の役にも立たないと思う。レヴィナス、アーレント、ハイデッガー、ベンヤミン、ヘーゲル、カントなどを読むゼミにも複数参加したが、結局、何も得られなかった。僭越甚だしいが院生や教授のコメントを聞いても「くだらん」としか思えなかった。「翻訳」になり「哲学」にはなりえないとでも言おうか。ゼミ「もどき」のおままごとにしか感じなかった。思考と言葉は切っても切り話せないのだから、授業を日本語で行うのなら、日本の思想家をテクストにすべきと思う。ただ、それもこれも、私が悪いのであって、大学は現在の状況での需要と供給があっている訳であり、それはそれで問題がないのだとも言える。それに私が「悪い生徒」であることだって否定はしない。悪い生徒だったから勉強できなかったことを否定はしないが、良い生徒になって勉強できても仕方ないとも思うので後悔はない。そう言えば、哲学で院に進んだ友人は「どこに行っても哲学はできないよ、哲学研究だけだよ」と常に悲しそうにしていた。彼も順調に悲しさを乗り越え、順調にPh.Dを取った頃か。

また、アドルノと言えば、日々悩んでいて死にそうに見えた同じ学科の先輩が「矢野君、僕は分かったよ」と一言言って、『否定弁証法』だったか『啓蒙の弁証法』だったかを持って踊りながら廊下に消えていった光景を今でもはっきりと思い出す。彼はどうなったろう。院に進んだか。結局、家の寺でも継いだか。それとも、やはり死んだろうか。

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大学での授業の他にも、19の時、私は歐州を周遊しつつ、最初の絶滅収容所のあったダハウなどにも足を運んだ。二度もネオナチ風の若者にからまれる経験もしたし、ベルリン郊外の老人に明らさまな人種差別をされる経験も得たし、騒がしいネオナチの集会のすぐ側で一泊する幸運も得た。

パリからのベンヤミンの足跡を追い、スペインのポルボウという街の海岸にある彼の墓に花をたむけた。ベンヤミンの自殺、彼の絶望を少しでも知りたかったからか。ポルボウは、芸術と都市、メディアを考え抜いた偉大な思想家が死ぬには、あまりにふさわしくない街だった。街の人は誰もベンヤミンを知らなかったし、観光案内の女性ですら、すぐに分からず、「有名な哲学者」と言って「ああ、あそこか」という感じで教えてくれた。墓参の後、砂浜に面した田舎臭いレストランは地中海の海の幸を味わわせてくれた。新鮮な魚介をトマトソースで煮ただけという単純な料理をオレンジの香りがひきたてていた。私は白のスペインワインを飲んだ。海が美しかった。

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脱線から戻るが、私は、そう悪を思いながら、芸術を思った。悪とは……は、まあ、置いておく。

現在の結論を書くと、やはり「音楽」は「不可能」なのであろう。それは「幸福」が「不可能」であるのと同じだろうし、「永遠」が「不可能」であるからである。まあ、一切皆苦で諸行無常というやつである。しかしながら、その「不可能性」こそが、「音楽」が「音楽」であることを「可能」にしているとも思い続けてはいる。しかし、これは欺瞞であり、やはり不可能は不可能なのである。他の人は知らないが、私にとっては、私にとってだけは、音楽とは一つの欺瞞に他ならない。欺瞞じゃなく音楽と出会える人もいると思うので、あくまで私にとってだけの話である。こうした理解が私にとっては一番妥当な所になっている。

もし、読者の中にこうした悩みを抱えて生きている人がいるなら、私は応援を惜しまない。そういう人に向かって、更に書くと以下のようになるか。

無力であり不条理であること。ただ、そこに打ち拉がれていること。そこだけを忘れなれば、もしかしたら、奇蹟としての赦しや救済が与えられるのかもしれない。しかし、そんなことは「ありえない」し、望むこと自体が冒涜的である。恥知らずである。こんなこと書いただけで、つまり「奇蹟があるのでは」と思うだけで、死んだ方がいいかとも思う。恥に震えながら、ただただ、責められ続け、打ち拉がれ続けるということなのだろう。そういう人になれ、という訳ではない、そうじゃなくて、既にあなたがそういう人だった場合に、もう、それはそういうこととして受け入れなさいということだ。自分の繊細さまで責めていると、体がもたない。

一切の娯楽は無効であるとするなら、現代の人間活動のほとんどは無効になるだろう。悪が存在するのに、そして自らが悪になるかもしれないのに、いや、自らが悪だというのに、娯楽は可能だろうか。娯楽を否定することは、人間の否定だろうか。

恐らく、人間は娯楽を排除しても生きてゆける。私はそう信じる。自我や所有や欲望を投げ捨てても、生きてゆけるのだと思う。だから、娯楽の否定は人間の否定ではないと信じる。しかし、これも娯楽を楽しむ人に言う台詞ではない。欲望と所有に万歳の人、娯楽が娯楽として存在する人、音楽が音楽として存在する人はそれでいい。そういう人に向かって書くのは、無益であるし、暴力である。私が向かって書いているのは、そうではない人、娯楽が娯楽でない人、音楽が音楽でない人だけだ。

ただ、一人、精進してゆくしかないだろう。

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なんだか、意味も分からないが、長くなったのでこの辺にする。

最後に誤解しか与えないだろうが、ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」のアフィリエイトリンクを貼っておく。メシアンも、なにか貼りたいな。

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