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2008-05-28

Paco de Lucía 『Cositas Buenas』 (2004) までの歩み

先日のポーティスヘッドのエントリでマッシヴ・アタックの他にゼロ年代に感動したアルバムがなかったように書いたが、どう考えてもパコ・デ・ルシアの存在を忘れていた。『Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)』 (2004) だ。毎度おこがましいが、今回は未だ越える者のないフラメンコのギタリスト、パコ・デ・ルシアを紹介してみる。

1. 生い立ち

パコ・デ・ルシア (Paco de Lucía) は1947年、スペイン南部アンダルシア地方の港町アルヘシラスの生まれた。海を見て育った彼は「海を見ていないといられない」とインタビューで語っている。

アルヘシラスからはモロッコのタンジェへのフェリーが出ている。実は私は19歳の時に地中海を渡ってモロッコへ行ったときに立ち寄ったことがある。海と酒と音楽が調和した静かな街だった。時間が止まったかのように静かな街を、強い日射しに照らされながら歩き、夜は遅くまでバルで飲んだ。パコの大きな銅像が、海に向かってたっていた。この下で、下手なフラメンコを弾いて、地元のおっさんと楽しくやった思い出がある。

パコは若干12歳で兄とのデュオで初レコーディングし、世に認められ兄弟でホセ・グレコ舞踏団と共に世界を巡る。その歳にニューヨークでフラメンコの巨匠サビーカスと出会い独自のスタイルへ向けた助言をもらう。

19歳で初のソロ・アルバム 『La fabulosa guitarra de Paco de Lucía 』 (1967) をリリースする。このアルバムはリカルドやサビーカスの影響の強い、その意味では伝統に近い音色のフラメンコが聴ける。このアルバムで日本でもパコのことが知られるようになる。

2. カマロンとの出会い

軌道に乗り出したパコはここで一人の若い歌い手と出逢う。カマロン・デ・ラ・イスラ (Camarón de la Isla) だ。1950年カディスに生まれ8歳の頃からタブラオで歌っていたカマロンは、1968年からトレス・ベルメハスのタブラオに入門していた。

若い二人のデュエンデは一枚のアルバムを生み出す。『Al verte las flores lloran(君を見ると花が泣く)』(1968) はパコが21歳、カマロンは18歳の作品である。ここでアルバム・タイトルになっている冒頭の濃密な熱気に満ちた曲を聴いてみて欲しい。

意気投合した二人は1977年までに10枚のアルバムをリリースする。カマロンはスペインにおいて国民的歌手と言われるまでの人気を博す。しかし、若くして成功したカマロンはフラメンコの世界に身を崩してゆく。1992年にわずか42歳でカマロンは死んでしまう。死因は肺癌とも麻薬中毒とも言われている。彼の葬儀には10万人以上が駆け付けた。

3. フラメンコの革命

さて、カマロンの伴奏の一方で、パコは独自のスタイルへの追求を突き進めていった。その成果は『Almoraima アルモライマ』 (1976) に結実する。フラメンコの概念を転覆させたこのアルバムは20年以上経た現在もパコ・デ・ルシアの最高傑作との声も高い。ここでは冒頭のアルバム・タイトル曲のブレリアスを聴いて欲しい。

このスピード感溢れる革新的フラメンコはその後も続いてゆき、例えば 『Siroco』(1987) がパコの最高傑作と言われることも多い。とはいえ、私はそれほどの印象を受けなかったが。

5. フュージョンやクラシックへの進出

パコ・デ・ルシアの名をフラメンコの世界の外にまで有名にしたのは何といってもスーパー・ギター・トリオーでの活躍だろう。

1977年、フュージョン系ギタリスト、アル・ディ・メオラのアルバム『Elegant Gypsy (エレガント・ジプシー)』にパコは参加、二人は「Mediterranean Sundance (地中海の舞踏)」にて初の共演を果たす。これがパコのジャズ・フュージョン界での認知の切っ掛けとなる。ちなみにこのアルバムに含まれる「Battle with Devil on the Spanish Highway (スペイン高速、悪魔との死闘」は最速の速弾き曲としても有名である(この噂、本当?)。

アル・ディ・メオラ (Al Di Meola, 1954- ) は74年からチック・コリア率いるフュージョン・バンド「RETURN TO FOREVER (リターン・トゥ・フォーエヴァー)」に参加、76年の同グループ解散後、『Elegant Gypsy』が二枚目のソロアルバムだった。Wikipedia によれば彼は「ギタープレイヤーマガジン」誌の読者投票で四回も「最も優れたジャズギタリスト」に選ばれているらしい。力強い超絶速弾き、特にミュートさせた状態でのボコボコさせた速弾きが特徴的であり、この技は彼がまだ小さい頃、家族の迷惑にならないで夜中に練習している内に習得したものと語っている。

この「Mediterranean Sundance」の好演が切っ掛けとなりパコはジャズ・フュージョン界からも注目され、1979年にはパコ・デ・ルシア、ジョン・マクラフリンとラリー・コリエルと三人での共演が実現する。その後、アル、ラリーやビレリ・ラグエーンなどが入れ替わり参加し、史上例をみない豪華なメンバーによるギター・トリオは好評を博した。まあ要は腕に覚えのあるギタリストがアコギでギターバトルをしたかったのだろう。

ジョン・マクラフリン(John McLaughlin, 1942- ) はイギリス出身のテクニシャンとして知られるギタリストで、1970年代ジャズ・ロックシーンにおいて重要なグループ「マハヴィシュヌ・オーケストラ」のリーダーだった。超絶不思議フレーズを「いかにも何かありそうな」余裕の微笑みとともにいつまでもいつまでも繰り出し続けるのが特徴である。

完全に余談だが、マクラフリンはヒンドゥー教徒に改宗し、確かスリチンモイとかいう名前のヒンドゥー教の高名な指導者の弟子になった。同じく弟子になったカルロス・サンタナとは宗教上の兄弟であり、二人で白い服を来たあやしげなアルバムも家で見掛けた記憶がある。中身はいまいちだったと思う。おもえば面白い時代だった。

さて、バカ話はやめておこう。ここではライブ盤の 『Friday Night in San Francisco』(1980) から「Mediterranean Sundance」を聴いてみよう。

たぶんギタリストにとってはたまらないものがある熱演だが、ギターに興味のない人には冷い目でも見られがちな音楽でもある。それでも、このアルバムとスタジオ盤である 『Passion, Grace and Fire(情炎)』 (1982) は1995年までに計350枚も売り上げたらしい。その後、再結成され 『THE GUITAR TRIO』(1996) もリリースしている。ちょうど私は高校生で、十代の頃、同じくギター好きの叔父が遊びにくると、私がパコ、叔父がアル役でよく真似をしたものだった。

ちなみに、パコが取り組んだのはフュージョン・ジャズの世界だけではない。彼はスペイン民族主義時代の偉大な作曲家マヌエル・デ・ファリャに取り組み、1978年に『Interpreta A Manuel De Falla』、91年には同じく近代の巨匠ロドリーゴのアランフェス協奏曲に取り組み『Concierto De Aranjuez』をリリースしている。

6. 動から静へ - 歩み続けるパコ・デ・ルシア

1998年、50代を迎えたパコ・デ・ルシアは、亡くなった母親へのオマージュアルバム『Luzía』をリリースする。このディスクには、母に捧げたシギリーヤ、そしてカマロンに捧げたロンディーニャが入っており、この2曲でパコは初めて歌っている。悲しみと嘆きとが淡く底に広がった世界に、パコの死を悼むかすれた歌が響く。

2004年には5年間の沈黙を破り、 『Cositas Buenas』 がリリースされた。変幻自在とでも言うべきか。どう言えばいいのだろう。激しさもあるが、過去のようなそれではない。ごく薄く哀しみも感じるが、どこか無邪気な明るい楽しさもある。

この音に触れたときも、いわくいい難いサウンドの中に「ああ、なるほど」と感じた。彼なりの正直に世の中を見つづけた音がそこにあるのだと思った。ただ彼は歩き続けるのだろう。そう私は思う。未だあらわされていないニュアンスをあらわすために。

ちなみに「Cositas Buenas(コシータス・ブエナス)」とは「素晴らしい小さなもの」という意味である。

2008-05-26

Portishead 『Third』

ポーティスヘッドの11年ぶりのアルバム『THIRD』を聴いた。鬱だったのがすっかり吹き飛ばされてしまった。その感動をログっておく。

まいった。すげえ。すげえよ。

まず肉体的感覚。内臓が歓喜している。頭や目の疲労が遠い空に飛んでゆく。前腕のあたりにざわめき。不意に泣きたくなる。やっと俺は息を吹き返せた。深い息がつける。こうした呼吸を忘れていた。数年ぶりにやっと肺が緩やかに動き出し、内臓が動き出してくれた。

期待通りだったかというとちょっと違う。やはり11年たっているのだと感じる。だが、そこに不満はない。嬉しい。よいアルバムがリリースされて本当に嬉しい。正直に、生きててよかったと思う。本当に生きててよかった。本当にありがとうございます。彼らはもう解散なのだろう。それでよいと思う。結局、ライブは観られなかった。去年の暮れ、イギリスに行けばよかった。仕方ない。

この11年何があったのか。Massive Attack の 100th Window (2003) の他、何も無かった。それでバッハとブルースを聴いていただけだ。虚しく。死んだ過去の音楽を。まったく。僕のCD棚を見てくれ。なんだこれは? 俺はこんな男だったのか? 俺は死んでいたのか? なんだこれは?

ポーティスのサードのおかげで暫くはやっていけそうです。嬉しくて仕方が無い。本当にありがとう。

本当に世界は素晴らしい。どんなに腐っていても芸術は現れる。どんなに醜くても美は現れる。本当に世界は素晴らしい。本当に嬉しくて仕方が無い。

2008-05-23

金澤正剛『中世音楽の精神史』

バロックが好きな人は時代を下るよりも遡ると楽しいと思う。

ルネッサンス、アルス・ノーヴァと遡ると最終的にはアルス・アンティーカ、ノートルダム学派のペロティヌスとレオニヌス、あるいはヒルデガルト・フォン・ビンゲンあたりに行きつく。いまいちこの時代背景が分からないので、この本を読んでみた。

2008-03-10

頭蓋骨から復元したバッハの顔

バッハの顔を頭蓋骨から復元したらしい。

以前から伝わる肖像画はこちら。

若き日の肖像画(信憑性は低い)

こちらはバッハのお父様。

ちなみにバッハ一族の起源はハンガリーにある。一族的にはハンガリーに戻りたかったらしい。

そういえば、バッハの解釈・受容の歴史と近代の「作曲家」の成立、それとドイツ・ナショナリズムの形成あたりを絡めためちゃくちゃなレポートを若気の至りで書いたんだけど、どっかいってしまった。

参照

2008-01-22

雪舟「秋冬山水図」

東博にて「秋冬山水図」を見る。当初予想していた印象とは、全く異なる印象を与えてくれた。それは荒々しく、凄まじい ―― 更に言えば怒りに満ちたと言ってもいい――山水の景色であった。こうした印象について、いつものように妄想を書くことにする。

最初は静かな印象だった。

国宝室には静かに二つの掛け軸が掛かっているだけだった。その掛け軸に小さく張り付いている小さな山水画。これが本日のお目当ての雪舟「秋冬山水図」である。先日の等伯や応挙の屏風のような物理的大きさによる迫力はなかった。

私は即座に近くに寄った。いや、近寄りすぎた。そして、大胆な構図、力強さと繊細さを兼ね備えた線を私は確認し、なにかそこで「なるほど」と納得をしてしまった。「確かにすばらしい。が、ちょっと過大な期待をしていたかもしれないな」と。

だが違和感は残った。私は少し距離をとる。すると冬景図の方が一瞬にして完全に三次元的奥行きを持った景色として目に飛び込む。いや、もちろん三次元的に見えるなどというのは、ある程度の絵であれば当然も当然のことである。しかし、その三次元に感じる感覚や印象が通常とは異なるのである。通常の三次元に見えるのはあくまで遠近法的な処理に基づき、絵のレヴェルで奥行きを感じる。しかし、「秋冬山水図」では、絵のレヴェルではなく、その紙のレヴェルで完全に浮き上がって見えるのである。奥行きを「描く」のではなく、奥行きを「錯覚させる」絵なのである。


極度に強調された断崖の輪郭線が印象深い
雪舟「秋冬山水図」(冬景図)
(東京国立博物館 蔵)

再度近寄り、奥行きを見せてしまうその訳を考える。一つには強調された輪郭線。その過剰とも言えるほどに力強い筆線。そしてもう一つは視線誘導する確固とした構図である。その構図に基づいて、ぼやかすところ、強調するところがはっきりと分けられている。

しかし、強い奥行きに気がついてから、私はこの絵の孕むなにかに気をとられる。もう一度はなれ、雪舟の見せる景色を想う。見方としては、当然に若干の距離を取り、冬景はやや左から見て、秋景は右側からやや屈んで少し見上げるようにしてみると良かった。

何が私をひきつけたのか。それは、この景色、恐ろしいのである。凄い、凄まじいのである。冬の景色は、生命を奪いつくすかのように雪が大地を貪り、吹雪が生ける者を追いかけている。また、秋は秋で死体がごろりごろりと転がっているような景色である。その岩の表情、その山の表情――全ては生きている、それも肉食獣の如き猛々しさで息づいている。暮らしの中で、自然はこうも容赦なく襲い掛かってくるものか。

この絵は若いときのものか。私はそう感じた。この気迫、勢いと厳しさは尋常ではない。しかし、この細部を捨て、自らのできることにのみ力を注ぐことは、逆に円熟を経てからでなければできるはずがないことにも気づく。なにせその筆線のみにより獣のような岩を描くのである。しかし、この怒りともとれる凄さは、どう湧いてくるものか。


雪舟「秋冬山水図」(秋景図)
(東京国立博物館 蔵)

そこでふと思いついた。応仁の乱と関係があるのではなかろうかと。雪舟は五十目前の頃、明に渡る。それは十年に渡る応仁の乱が勃発した直後であり、明で名声を博した雪舟が二年後に戻るも戦乱の都には上れなかった。時代はそのまま戦国の世へと向かった。雪舟が戦火をどう感じたかは分からない。ただ放浪の画家である雪舟の描く景色が凄まじいのは、応仁の乱から戦国時代へと向かう時代背景があってのことのような気がした。雪舟が秋冬山水図を描いたのは、こうした明から帰国し、己の技術にも十分に自信を持ち、かつ、怒りのようなものを持てた時代ではないかと思った。まあ、安易もいいとこだが。

また、彼の絵は禅とは何かを考えさせる。そもそも禅画とは何なのだろうか。宗教画とは何か。そういったことを考えてみたくなった。

2008-01-15

[CD] Karl Richter - Bach Sacred Masterpieces (10 CD)

Bach: Sacred Masterpieces

いい物を買った。カール・リヒターによるマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、クリスマス・オラトリオ、マフィニカト、ロ短調ミサがセットになったCD10枚組みのボックス・セットである。

マタイ受難曲は定番とも言われる58年録音。「CDジャーナル」データベースによれば

リヒター31歳の,極限までぜい肉をそぎ落とした迫真の名演。
まさしくそのとおりと思う。厳しい緊張感から湧き上がる、張りと深みのある音の圧力があなたを圧倒するだろう。

まずマタイを聞くなら、このリヒター58年録音のマタイを聞いてほしいと思う。それも聞き流すようなのではなく、対訳を見ながら歌詞も読み取ってほしい。更に新約聖書を紐解いてみよう。

マタイ受難は、新約聖書「マタイによる福音書」の26、27章のイエスの受難を扱っている。構成としては2部からなり、第一部はイエスの捕縛まで、第二部はイエスの捕縛、裁判、十字架への磔、墓の封印までを扱う。

その中でも中心は「ペテロの否認」である。かいつまんでおくと、イエスが最後の晩餐の席で、弟子たちに自分の「十字架に磔にされる」という運命を語る。そして弟子はみながイエスを知らないといって逃げることも予言する。中でもペテロは強く自分はイエスを助けると主張するのだが、イエスは「鶏が鳴く前に三回、私を知らないという」と予言する。実際にイエスがユダの裏切りにより捕縛されると、弟子たちは逃げるのに精一杯になる。ペテロもその一人であり、人々が「お前はイエスと一緒にいた」と言われると、「そんなことはない。私はあんな男は知らない」と言ってしまう。そして、ペテロが三度目の否認をしたとき、鶏が鳴き、ペテロはイエスの言葉を思い出し、外に出て泣くという話である。こういう「裏切り」についておもうのにもマタイは有益な題材となる。まあ、こういう話題は別の機会に。

ちなみに、リヒターの58年録音のマタイは日本版で普通に買うと五千円以上する(もちろん、ヨハネクリスマス・オラトリオも、それぞれ五千円くらいする)。もちろん翻訳の歌詞などがついてくるので価値はあるのだが、このボックスがいかに「安い」かが分かることと思う。

バッハ: マタイ受難曲
日本盤のマタイ受難。五千円以上する。

次のヨハネ受難曲は64年録音である。amazonにあるレビューによれば、リヒターによるヨハネ受難曲はこの録音しかないらしい。マタイよりも「個人的には」ヨハネを好むという人も多い。

クリスマスオラトリオは65年録音。これは普通に売っているの同じで、高校の図書館にもこの録音のLPが入っていた。聴いたことないが55年録音もあるらしい。それとマニフィカトは61年録音。

最後にミサ曲ロ短調は69年5月9日東京でのライヴ録音(日本の盤)。うちには61年録音のものがあった。それと比べると、ライブのためか勢いと迫力のある演奏。ただ、私の好みから言えば61年録音の方が静かで厳しい演奏なので好み。

以上、だらだらと書いたが、こうした演奏がとても安く聴ける。今なら中古で4500円でも手に入る。すごいことだと思う。本当に勝手なことを言うが、折角これだけ便利な環境に生まれたのだから、バッハのマタイやドストのカラマーゾフくらいは絶対に押さえておいたほうが良いと思う。その深さはハンパじゃない。本気で、一生楽しめるはずだ。

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2008-01-10

長谷川等伯「松林図」屏風はなぜ光を放っているのか

早寝早起きをしようと思い夕方六時に寝たら、零時に目が覚めてしまった。仕事を開始したら、午前十時にはすることがなくなってしまった。さて、どうするか。

なんとなしにネットを開きスケジュール帳を開く。そういえば、等伯と応挙を見られるのではないかと思った ―― 調べてみれば思ったとおり、等伯の松林図屏風も応挙の松雪図屏風も、まだ見られる。早速、出かけることにした。

そういうわけで等伯の松林図屏風について、妄言を少々。


長谷川等伯「松林図」屏風(東京国立美術館蔵)

昼頃、上野に着き、国立博物館へ向かう。縄文の土器と遮光器土偶に足を止め、飛鳥の仏像を抜けていると、奥に光るものがある。等伯である。

松林が光っている。確かに光っているのである。私は最初、あちらから光で透かしているのかと思った。もちろん、通常の明かりの元に置かれているだけである。

なぜか? 分からない。分からないが、ゆっくりと屏風に近づく。光の中に、明らかに三次元的な奥行きの中に、私は松林を知覚している。

私は更に屏風に近づかざるを得ない。

静謐 ―― と最初は感じる。緻密に描かれた松林は、明らかな生命力を感じさせつつも、あくまで静かに、幽玄な趣で風に揺れている。風? そう、風に ―― と感じたところで、松は風の中で揺れている。既に私は屏風から5メートル程のところにいる。近づけば、静謐に思われた松林は、どうしたことだろう、明らかに揺れ動いているではないか。そして、更に近づけば、緻密に描かれたと思われた松林は、激しい筆遣いで屏風に擦り付けられている一色の墨に過ぎぬではないか。

かくも荒々しい筆遣いの水墨画が、あれほどまでに静謐で幽玄な印象を与えるとはどうしたことか ―― 思うのは、全ては計算されているということ。緻密に描いたのでは、幽玄は描き得ないのかと思う。つまり、あらあらしいかすれの中にこそ、いや、そうした筆遣いを通じてこそ、静けさが訪れるのかと。


「松林図」屏風の一部(文化遺産オンラインより)

更に思う、やはり、現象とは形式であるのかと。すなわち、等伯が描いたのは筆遣いの痕跡に過ぎぬが、そこに形式が存在し、それが松林という現象をあらしめたのかと。つまり、もし、等伯が緻密に松林を描いていたならば、逆に「絵」であることが表に立ち、「巧みに描写された絵」にはなろうが、決して、松林という現象は立ち現れなかったのではなかろうかと。

巧みに描かれた絵は、絵であることを主張してしまう。等伯の絵に絵は存在しない。ただ、松林を立ち現せる、筆の痕跡、その何がしかの痕跡しか存在しないのである。それが離れてみたときに、現象を生じさせているのである。

なるほど、だから、光っていたのか ―― と、一人で合点がゆく。思うに、等伯は絵を書いてはいない、絵を見せてはいない。ただ、その痕跡の形式を受けた光が、人の目に届くところにおいての現象を求め、筆を揮ったのではなかろうか。

それをただの錯覚と言うかもしれない。そう、錯覚である。しかし、ここで重要なことは、錯覚をもって知覚せしむることと、緻密に描かれた絵をもって(結局は錯覚なのだが)知覚せしむることでは、どちらが、存在を立ち現せしめるかということである。いかなる写実的描写(つまるところは写真になろうか)よりも更に、等伯の絵が、我々の知覚において、現実の存在を立ち現させるのではなかろうか。実に等伯の松林の存在感は気味の悪いほどであった。

光の魔術師 ―― 等伯は、いや水墨画の傑出した作家は、「画家」と呼ぶより、「魔術師」と呼ぶが相応しいように思う。彼らの絵は、紙には描かれない。光の舞う空間に、あるいは光を知覚する人の心の内に、ある現象を描くのである。

いや、理屈は分かる。分かるが、果たしてこれは人の業だろうか。近くに来れば痕跡が見えてしまう奇蹟など、ナンセンスもいいところだ。あくまで、様々な地点からの幻視を狙い澄ました人の奇術と思う。むしろ、あくまでも天衣無縫たるダ・ヴィンチやフェルメールのごとき業が、神の業かと疑うべきものであろう。

ここで、くどくどとダ・ヴィンチやフェルメールについて語る余裕はないが、少し比較するとこれが面白い。彼らの絵は、一瞬の沈黙を描いている。まさに、絵なのである。特にフェルメールに甚だしいが、針を床に落とし、その小さいが鋭い響きが鳴り渡る瞬間の部屋の中の光を全て捉えてしまったかのような絵を描く。一瞬は静止し、永遠に世界は沈黙を鳴り響かせ続けている。


ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾の少女」(デン・ハーグ、マウリッツハイス美術館蔵)

等伯はどうか? 逆である。まったく逆である。絵は止まらない。動くのである。風は見えるし、聞こえるのである。気がつくと、屏風はない。描かれたものは無い。そう、絵ではないのだ。私は何を見ているのか? こう問えば、私は私の幻想を見ていることに気づかざるを得ない。そして、思う。しかし、それならば、世界もまた、実は、等伯のごとき、魂の宿った墨の痕跡で、できているのではないかと。

夢 ―― そう、夢かもしれない。それもいい夢ではない。悪夢とはいわぬが、なにか物の怪の支配する、そうした夢である。そうか、これは能の世界ではないか ―― 気がつけば当たり前のことである。その世界の質感は能のそれである。

能の時空の感覚とは、なにか「ありえないもの」がそのその場限りで一回的に立ち現れ、舞い、謡う。演技ではなく、神が、武人が、狂人が、鬼が、実際に現前し、明らかに行為をし、因縁を結ぶ、そうした時間・空間の世界である ―― 見られるもの、見るものは切り離されない。あらわれた因縁は、その場の共有において、結ばれてゆく。

この屏風もまた、見られるものではなく、ただ置かれてあるものとして、空間にあらぬものを現前させる。それが現象としての世界の安心を突き崩す。極めて醒めた思考で、あちらが本物ではないかと思わせてしまう。あるいは、私が生きる世界もまた、あの荒々しい墨の痕跡ではないのかと。

まあ、これは大げさであり、目は逆に緻密に描かれていないものを遠くから見たときに、逆に補完機能が自由になり、三次元の知覚を始めてしまうということなのだろう。見えないからこそ、逆に実在感というか世界感が増し、逆に「見えている」と感じさせる手法は西洋でもある。セザンヌや、あるいはキュービズムなどを考えれば、原理は水墨画と同じかと思う(いや、これは語弊があるな)。

とにかく、正月からいいものを見せてもらえた。これでしばらく絵画、あるいは現象について考えさせてもらえそうである。そうそう、来週は雪舟の秋冬山水図を見に行くことにしよう。

では、そんなこんなで。ちなみに、応挙の松林図も見たが、こっちはまた後日。

2007-10-13

歌舞伎の道に進んだ友人

本日は近くで秋祭りが行われており、会社の帰りに彼女と待合せ、神社にて神楽を観ることにした。そういえば歌舞伎の道に進んだ友人がいたことを思い出した。すっかり忘れていた。

彼は日系アメリカ人で、UCLAからの留学生だった。私の大学では、日本に不慣れた留学生の面倒をみるために、日本人学生を「チューター」として紹介する制度があり、私は彼のチューター」だった。

まあ、チューターとはいえ、彼は優秀だったので、日本語の面でも私が教えるようなことはほとんどなく、実生活の面でも、少々の事務手続を手伝ったくらいのものだった。まあ、渋谷のクラブで夜通し遊ぶ程度のことしか教えられなかった。いや、そこでもLAのクラブに通じている彼からは選曲や店のデザインの駄目出しばかりだったか。

そんな彼は歌舞伎に興味があり、留学生のまま歌舞伎の門を叩き、結局、UCLAを辞めて歌舞伎の世界へと行ってしまった。その時の入門に際しての文書を手伝ったのは、実にいい思い出である。なにせ歌舞伎の世界に向けた文章なのに、彼はいかにもショービジネスを成功させるビジネスマンのプレゼンのようなものを書いたので、内心かなり失笑しつつ文体や構成を手直した(ただ、「歌舞伎スター」という彼の言葉だけは面白いので残しておいた)。

私はそんな彼のことを今日まですっかり忘れていた。グーグルに彼の名前を打つとヒットがあり、Cultural News, July 2007, Japanese Summaryというページのロサンゼルス生まれのアメリカ人歌舞伎役者が、里帰りという文書で彼の消息が知れた。

東京を去った後の彼の動きは以下のようであったとのことである。

大阪の松竹上方歌舞伎塾の入門試験に合格、2年間の研修生となった。塾を卒業後は、歌舞伎役者、坂田藤十郎に気に入られて、坂田が率いる近松座の座員となった。金坂は、現在でも近松座の一員ではあるが、海外公演のときに一座に参加することになったため、活動の中心をロサンゼルスに移した。

坂田藤十郎といえば歌舞伎の人間国宝で、例の「中村ガウン治郎」のことである(wikipediaを参照)。どうも順調に「歌舞伎スター」の道を進んでいるようである。

ところで、金坂は現在 中村雁京と名乗っているようであり、まあ、しっかりと「ガウン」の方も引き継いでいることだろう。いや、失礼。

日本では、伝統芸能への関心が急速に衰えていることを心配している。日本の伝統芸能に関心を持つ外国人が日本に来て、伝統芸を受け継ぎ、日本人に教える時代が来ている、と感じている。さらに、時代が進めば、日本人が、日本の伝統芸能を学ぶために、海外へ出かける時代が繰るかもしれない、という大胆な予測も立ている。

なるほど、大胆ではある。が、彼の言いそうなことである。飲み歩き、踊り明かした始発の電車で、さらにしぶとく芸術について語り合ったことを思い出す。

そういえば、今日は神楽を観た訳だが、観客が実に少ない。偶然通りかかった人も、足を止めることもしない。舞台表現の鑑賞能力はそれなりの年齢を重ねないと理解できないのは分かるのだが、明らかに普段テレビなどで流れている「音楽」よりも優れた音響表現にしても理解する耳はないようである。

(いや、この書き方はまずいな。別に趣味の問題であって、責める気はありません。ちょっと古典教養を知ったかぶりになっているイケ好かない奴だと思って笑い飛ばして下さい。)

まあ、そういう一般的な人が古典芸能を何故か好まないという謎は置いておいて(そういえば、以前、一流のヴァイオリニストが一流の楽器で一流の音楽をN.Y.の地下鉄で演奏するという実験があったのを思い出す)、このままでは演奏の側の高齢化が進み過ぎて、既に後継者を育てる時間も残されてはいないのではないかと思う。

私は(まあ、やったこともあるし、観るのも観るのだが)舞踏のことは分からないのだが、土着の音楽性を育てるのがどれほどに困難かは理解しているつもりである。まず、二十を過ぎてからでは無理と言ってよいと確信している。そして、一度、世代断絶をしたら、まあ二百年程度は趣向の回復にはかかるのだろうと無根拠に感じている。

人の営みの前に、人間の寿命のいかに短かいことか、と。

逆に言えば子供の時からやっていたら困難はない。今日も小学生ほどの子供が鐘を鳴らしていたが、実に大したものであった。たまに隣を向いて友人とおしゃべりをしながらの演奏なのだがブレることはない。周囲の大人の太鼓や笛が安定しているからとも言えるが、それにしても彼らの中に音楽が入っているからできる技である。彼らにとって、ブレることを心配する必要はない。自然にやれば、目をつぶってでも、おしゃべりをしながらでも、土着のビートを刻むことは朝飯前なのである。

しかし、こうした文化継承の質も量も低下していることだろう。まあ、こんな嘆きも意味がないか。

ただ、そうした文化継承の中に、非常にやる気のある外国国籍の人が増えている。彼らのやる気はすごい。とてもじゃないが、いやいややっている日本人では追い付けないだろうとも思う。金坂の歌舞伎熱はすさまじかった。

Youtubeに彼の演技があった。是非、見てあげてほしい。思う人ならば、思う所があるだろう。それにしても、数年ぶりに友人の映像を見て熱くなるものがあった。

高校時代の後輩で、本当に天才的な音楽的能力を持つ男がいるのだが、芸大の院を出た後には作曲家にならず(まあ、「なれず」)、電通に行くと聞いてガッカリしまくった後だったので尚更嬉しかった。

そういえば、日向の琵琶盲僧 永田法順は、どうなったろう。彼の唄は、その受け継がれた土地の営みの響きは、本物のブルースであったのだが。まさに、「ブラインド……」の世界である。

彼を最後に日向盲僧琵琶の系譜は本当に終わってしまうのだろうか。まあ、そうなのだろう。諸行無常とはいえ、実に惜しい。

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2007-09-02

サン・ハウスの衝撃

ふと今日はサン・ハウスの話をしたくなった。秋の音が聴こえる涼しい夜に、熱く乾いたブルースのうめきが突然に欲しくてたまらない。

正直に告白するが、私は高校生のときにサン・ハウスが分からなかった。聴いたのは、チャーリー・パットンとサン・ハウスがカップリングされた「伝説のデルタ・ブルース・セッション」だった。当時の印象は、様々な雑音の向こうから、かすかにがなりたてる歌声が聴こえるという程度ものだった。恥ずかしい。

それでも、サン・ハウスを分かっていると思っていた。良さはそれなりに分かっていた上で、「まあ、ああいう音楽だろう」という規定をしていたと思う。だから、ロバート・ジョンソンなどを聴いて、その解説に「ロバート・ジョンソンはサン・ハウスを超えた」などと書かれていても、あまり気にはならなかった。

数年前のことであった。私は激しくサン・ハウスにうたれた。場所は藝大の教室であり、高校時代の恩師の講義の席であった。当時、フリーランスのプログラマとなり時間に自由だった私は、連続講義の手伝いとして呼んでもらっていた。簡単に講義の準備を手伝い、あとは藝大の寮の一室で明けるまで酒を飲んだ。

まさか、そんな講義の席で、知っているはずのサン・ハウスに打たれるとは思ってもみなかった。見たのは、サン・ハウスの「再発見」後の映像である。

白黒のスクリーンに、やや老いたサン・ハウスが映し出される。彼はギターを構え、そして、軽く咳とも溜息ともつかぬ唸り声を出して、やや高く右手を挙げ ──

「アシスタント」として来た人間が、講義の資料を見て泣き出すというのは、どう考えてもおかしな話だった。いや、迷惑な話だった。

それでも、彼の音の前では、他に為す術がなかった。まさに神であった。彼は圧倒していた。細かい問題など全てを超えた演奏であった。

彼に圧倒され、私は己の小ささが痛かった。フォーム(姿勢)や音階、理論……ブルースの巨人は全てを踏みつけていた。私は彼の演奏の前で丸裸にされ、装飾品を纏わぬ己の惨めさを痛感した。いくら泣きやみたくても、泣きやむことはできなかった。

なぜ、彼の音楽はこれほどまでに私を打つのか? 私は彼の伝記や歌詞などに詳しくないので、ただ私の印象の話になるが、彼の悩める魂、深い業の呻きだからだと思う。彼は「捨てるべきではないとされるもの」を捨て、「進むべきではないとされる道」に進み続けたのだと思う。なぜか──分からないが、結局は他にはしようがなかったのだろう。

その後悔や悔いの呻き、しかし、それすらを受け入れるひたむきさ、そして受け入れつつも謝罪し詫び続ける哀しさ……こうしたものを、私は彼の音楽に聴いていると思う。不条理にして必然、必然にして不条理な、逃れることのできない人生を歩き抜いた男の響きが聴こえるようである。

思うにブルースマンは、なりたいと思ってなるものではない。なっちゃいけない、なりたくないと思いながら、嫌でもなってしまうものなのかもしれない。ブルースなんて歌いたくない、ブルージーに呻きたくないと思いながら、歌い呻くものなのかもしれない。いや、芸人になって旅をしたがった者も多かったらしいのだから、これは嘘か。

「奴隷開放」されて「資本主義」の世界にぶち込まれた「黒人」の心境なんて、私ごときが分かると言ったら、どう考えても嘘である。ただ、奴隷や農村強制労働の時にはあった共同体が崩壊してゆき、黒人が北米大陸を受け入れられないまま彷徨わなくてはならなくなったまさにその時、ブルースは美しい。

残念なことに、私は絶対にブルースを理解できないと感じている。先進国で信じられない程の物質とエネルギーを当然のように使い続けているせいもあるが、それだけではないだろう。分かる人は分かるだろうとも思う。私は分からないのだ。たとえ、「全て」を剥奪され、差別されながら社会の隙間を流浪することになったとしても。

それに、黒人にとっての福音(ゴスペル)の問題の問題が常にある。私は実はこの問題に関してキリスト教徒から見れば恐ろしい、全く危険な考えを持っているのだが、まあ、ここには書かないでおこう(いや、何が恐ろしいのかは分からないが。少なくとも私には何も恐ろしくも危険でもないが)。ゴスペルの問題はジョージア・トム(トム・ドーシー)の話でもする時のために取っておこうか。ゴスペルなしにブルースの理解はありえない。

サン・ハウスに福音、すなわちキリスト(救世主)の死と復活の問題について訊いてみたいものだ。牧師を捨て、ブルースに走った彼に。正当防衛とは言え、殺人者である彼に。

まあ、それもとにかく、私がブルースを理解できないのも、それはまた幸福なことか。ブルースは「悪魔の音楽」なのだから。

2007-09-01

古い友人と会った

本日、友人と会った。

古い友人である。高校時代の友人であり、彼は卒業後に京都に行った。東京に残った私とは高校卒業以来会ってはいなかった。おおよそ10年ぶりの再会である。

優秀な男と一言では片付けられない男であり、どこか「やみ」(闇/病み)を持った男であった。高校生の私は、そうした彼の目の奥でチリチリする、暗い焔が嫌いだった。そう言えば、高校の教師は、彼が容貌や雰囲気において吉行淳之介に似ていると言っていた。

そう、古い男でもあった。麻雀の「マナー」に拘るあたり、昭和の男である。卒業文集において「雀鬼」でも「雀豪」でもないと記しているが、ともかくも雀荘にこもり、友人宅で飲み明かし、寝癖のまま、寝不足の赤い目をして学校に現れ、睨みつけるように、いや見下げるように、人々を見ていた。

いろいろな事情から一緒にいた時間は長かったが、あまり話さなかった。話しても、クラシックやロック、ブルースなどの音楽の話をするだけだった。彼は音楽に異常に詳しく、異常にのめり込んでおり、そういうところも嫌いだった。私が異常と感じたのだから、かなり異常なのだと思って間違いない。

それがどういう訳か、今日会うことになった。いくつかの偶然のタイミングが、彼の好奇心を刺激したのだろう。

会って驚いた。彼の興味や問題意識などが自分のそれと近かったのである。その射程、その方向性において、ほとんどドンピシャかと思った。本ブログの読者なら充分にご理解頂けると思うが、私の興味や問題意識の方向性や射程が合うことは絶望的に稀有なことである。

そして、彼もまた、同級生を馬鹿にしきっていた。嫌いだったのである。だからこそ、東京を去り、京都へと向かったのだろう。まあ、京都だろうがアメリカだろうが、状況が変わることはなかろうが。

私が彼を嫌いだっのは近親憎悪だったか、とも思い浮かぶ。高校時代を思い出すと、自然に笑みが浮かぶ。

音楽や文学、絵画、哲学などにのめりこむ若者は希少種である。私の高校では、アニメ・マンガ・少女マンガ、ゲーム、スポーツ(サッカー、野球)、ギャンブル(競馬、パチンコ)、グラビア女優などに興味を持つ者が多いに繁栄していた。そんな中、新潮のドスト本の、悲愴や苦悩、深い闇を表現するためにのみ存在するかのようなドストの顔は、いつ集中攻撃にあってもおかしくない代物だった。少女漫画を読む人間に、自分の感性を殺して、なぜそんな「おもしろくない」が「権威あるもの」を読むのか、媚びているだけではないかと責められたこともあった。そして彼は私の机に少女漫画を山と積んだものだった。

それこそ私はエロ本に隠れてカントやドストエフスキーを読んだものだった。いや、そりゃエロ本も好きだったが。そう言えば父が冗談じゃなく「正直、お前がエロ本でも読んでくれたら、俺は嬉しい」と言ったことがある。確か高校生の頃だったか。いや、お父さん、読んでましたし、オナニーもしてましたよ。安心して下さい。

彼もそうした希少種として、息を殺して暮らしていたのだろう。だから、私は彼の異常な音楽熱を見ても、彼の哲学、文学などへの興味は気がつかなかった。彼も私の読書内容には気づいていなかったようである。そして、互いに、なぜにそれほど音楽が必要なのかも了解し合ってはいなかった。

彼にとってもまた、音楽とは苦悩である。断言できる。苦悩という源泉がなければ、なぜ、甘美な光に焼かれるということが起ころうか。苦悩という源泉がなければ、なぜ、社会への適応という利点まで捨てまで、執拗に音楽を求めようか。人間の野生の本能が、音楽を、苦悩を求めるのである。彼の野生の本能を高校生の私は見抜けなかったのである、私が本能的に芸術を求めたのを少女漫画を勧めた友人が見抜けなかったように、

そもそも音楽とは苦悩の源泉であり、文字通り、苦悩そのものである。そもそも苦悩を求めぬ人間はいない。より深く、より鋭く、より熱い苦悩を、人間は求めるのである。これは悟っていない全ての人間にあてはまる。人は苦悩のうちに生まれ、苦悩を渇望し、苦悩を味わい、苦悩のうちに死ぬのである。しかし、いや、だからこそ、そこにおいてこそ、寂静たるニルヴァーナがあるのである。音楽は癒しでも救いでも断じてありえない。音楽の中、絶望の先にある沈黙を聴かねばならない。そう私は感じている。

いや、こんな話は彼とはしなかった。というか、こんな文は無意味に単語を並べたに過ぎない。ただ、彼の感覚や経験・知識などが充分に共に語って嬉しく、楽しめるものだっただけだ。まあ、酔ってただけと言われたら、返す言葉もないが……。

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2007-08-12

「悪」があるのに「音楽」はありえるのか

「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

地下生活者さんがNHK-BS「死の国の旋律〜アウシュビッツと音楽家たち」という番組を取り上げていた(地下生活者の日記 - 沈黙に抗って)。その中からゾフィア・チンビアさんという、アウシュビッツ絶滅収容所の囚人オーケストラのメンバーの言葉を孫引く。

私は自分から逃げていました。

私は、何度も自分に言い聞かせました。
「アウシュビッツの後、どう生きていけばいいのか?」
「私の人生に、そして世界にどんな意味があるのか?」
「人間に意味はあるのか?」
あの場所からは、今も絶望の叫びが聞こえています。

***

「『悪』があるのに、『音楽』はありえるのか」こう高校時代から悩んでいた。私は沈黙するしかないのではないかと思っていた。高校時代の私は音楽が不可能であると思っていた。

「音楽の不可能性」「沈黙としての音楽」「音楽としての沈黙」こうした言葉を私は、まあ、弄んでいたとも言える。頭でっかちな愚か者である。こうした頭でっかちは、何の役にも立たないものである。また、レヴィナスじゃないが、死者について云々することもまた悪としか言いようがないし、ヘーゲルじゃないが、真の悪とは自分の周囲すべてに見出す眼差しのことだとも言えるのだから。何しろ、私はアウシュヴィッツを体験した訳ではない。しかし……と書きたいが、書かないことにする。

だから、もし、あなたがこうした悩みを持っていないのなら「なにを理屈っぽく悩んでんだか」と、スルーして欲しい。これは、そうした悩みに取りつかれてしまった愚かな苦しめる人、ある意味で病気の人にのみ向けて書いている。現在の私の状態を記すことが、そうした人に何らかの役に立つかとも思うからである。

***

折角なので、脱線して高校時代の昔話をしたい。

そういえば、予備校の進路指導の先生に「君は一体なにを悩んでいるの?」と訊かれ「音楽の不可能性」と答えた記憶がある。「沈黙の音楽という矛盾の中以外に音楽がありえないことだと思います」というのが、その時の私の主張だったか。

「悪が存在するのに!」と私は何度か怒っていたと思う。私の怒りもまた欺瞞的なものであるが、その欺瞞さにも気づいているからこそ、私は苦しかったとも言える。いや、欺瞞にしか伝わらないことのもどかしさに苦しんだと書くべきか。「君が悪を経験した訳じゃない」と彼は答えていた。

思えば、いい人だった。総白髪の下に笑う、優しい目を思い出す。「沈黙の音楽」に対しては「そりゃ、音楽は音が出ないと駄目なんだから」「結局は、娯楽なんだから」と、親身に答えてくれた。特待生として無料で通っている私に、何度か数時間単位で話相手になってくれた。とても感謝している。

当時は受け入れられなかった彼の意見も、今は何個か受け入れらる。中には、確実に正しいと今なら思える主張もある。そのうちの一つは「録音はしない方がよい」ということだ。いや、これは難しすぎる問題なので置いておこう。ただ一言書くとすれば、「記録装置」と「芸術」とは本質的に矛盾するということにでもなるか。いや、それもまた間違いである。

***

私は音楽を練習する傍ら、大学時代はドイツ研究の学科に在籍し、ドイツの思想と歴史を学んだ。一般のメディアで流通できる悲惨さをはるかに越える「学術用」の映像や写真、統計資料や数多くの告白など細かい記録等にも目を通す機会を得た。一方、私の哲学的興味の中心は両者ともナチスとの関連を考えざるを得ない思想家であるニーチェとハイデガーだったが、一方でベンヤミンやアドルノ、レヴィナスやアーレントなども学ぶ機会を得た。

ふと思い出すと懐しい。エンゲルハルト・ヴァイグルのアドルノやライプニッツなどの授業は人気がなかったが、素晴らしかった。ドイツ人の教授により英語で行われるゼミには、私を含め二人しかいなかった。ドイツ語、ラテン語、英語のテキストを読みつつ、もどかしさの中で、かじりつくように教授の話を理解しようと努め、また、私の解釈を述べた。熱意の前に、言葉の壁は低く、薄いものである。私にとっていくらか堪能な日本語や英語で行われた他の授業よりも、こうしたドイツ語を軸に行われた授業の方が今となっては重要であり、他では学べなかったであろう重要なことをいくつも学べたという充実感を思い出す。数少ない「大学で哲学できた」記憶である。ヴァイグルの著作はいずれ本ブログでも取り上げたい。

極論だが、日本語で行われる西洋哲学の授業は、何の役にも立たないと思う。レヴィナス、アーレント、ハイデッガー、ベンヤミン、ヘーゲル、カントなどを読むゼミにも複数参加したが、結局、何も得られなかった。僭越甚だしいが院生や教授のコメントを聞いても「くだらん」としか思えなかった。「翻訳」になり「哲学」にはなりえないとでも言おうか。ゼミ「もどき」のおままごとにしか感じなかった。思考と言葉は切っても切り話せないのだから、授業を日本語で行うのなら、日本の思想家をテクストにすべきと思う。ただ、それもこれも、私が悪いのであって、大学は現在の状況での需要と供給があっている訳であり、それはそれで問題がないのだとも言える。それに私が「悪い生徒」であることだって否定はしない。悪い生徒だったから勉強できなかったことを否定はしないが、良い生徒になって勉強できても仕方ないとも思うので後悔はない。そう言えば、哲学で院に進んだ友人は「どこに行っても哲学はできないよ、哲学研究だけだよ」と常に悲しそうにしていた。彼も順調に悲しさを乗り越え、順調にPh.Dを取った頃か。

また、アドルノと言えば、日々悩んでいて死にそうに見えた同じ学科の先輩が「矢野君、僕は分かったよ」と一言言って、『否定弁証法』だったか『啓蒙の弁証法』だったかを持って踊りながら廊下に消えていった光景を今でもはっきりと思い出す。彼はどうなったろう。院に進んだか。結局、家の寺でも継いだか。それとも、やはり死んだろうか。

***

大学での授業の他にも、19の時、私は歐州を周遊しつつ、最初の絶滅収容所のあったダハウなどにも足を運んだ。二度もネオナチ風の若者にからまれる経験もしたし、ベルリン郊外の老人に明らさまな人種差別をされる経験も得たし、騒がしいネオナチの集会のすぐ側で一泊する幸運も得た。

パリからのベンヤミンの足跡を追い、スペインのポルボウという街の海岸にある彼の墓に花をたむけた。ベンヤミンの自殺、彼の絶望を少しでも知りたかったからか。ポルボウは、芸術と都市、メディアを考え抜いた偉大な思想家が死ぬには、あまりにふさわしくない街だった。街の人は誰もベンヤミンを知らなかったし、観光案内の女性ですら、すぐに分からず、「有名な哲学者」と言って「ああ、あそこか」という感じで教えてくれた。墓参の後、砂浜に面した田舎臭いレストランは地中海の海の幸を味わわせてくれた。新鮮な魚介をトマトソースで煮ただけという単純な料理をオレンジの香りがひきたてていた。私は白のスペインワインを飲んだ。海が美しかった。

***

脱線から戻るが、私は、そう悪を思いながら、芸術を思った。悪とは……は、まあ、置いておく。

現在の結論を書くと、やはり「音楽」は「不可能」なのであろう。それは「幸福」が「不可能」であるのと同じだろうし、「永遠」が「不可能」であるからである。まあ、一切皆苦で諸行無常というやつである。しかしながら、その「不可能性」こそが、「音楽」が「音楽」であることを「可能」にしているとも思い続けてはいる。しかし、これは欺瞞であり、やはり不可能は不可能なのである。他の人は知らないが、私にとっては、私にとってだけは、音楽とは一つの欺瞞に他ならない。欺瞞じゃなく音楽と出会える人もいると思うので、あくまで私にとってだけの話である。こうした理解が私にとっては一番妥当な所になっている。

もし、読者の中にこうした悩みを抱えて生きている人がいるなら、私は応援を惜しまない。そういう人に向かって、更に書くと以下のようになるか。

無力であり不条理であること。ただ、そこに打ち拉がれていること。そこだけを忘れなれば、もしかしたら、奇蹟としての赦しや救済が与えられるのかもしれない。しかし、そんなことは「ありえない」し、望むこと自体が冒涜的である。恥知らずである。こんなこと書いただけで、つまり「奇蹟があるのでは」と思うだけで、死んだ方がいいかとも思う。恥に震えながら、ただただ、責められ続け、打ち拉がれ続けるということなのだろう。そういう人になれ、という訳ではない、そうじゃなくて、既にあなたがそういう人だった場合に、もう、それはそういうこととして受け入れなさいということだ。自分の繊細さまで責めていると、体がもたない。

一切の娯楽は無効であるとするなら、現代の人間活動のほとんどは無効になるだろう。悪が存在するのに、そして自らが悪になるかもしれないのに、いや、自らが悪だというのに、娯楽は可能だろうか。娯楽を否定することは、人間の否定だろうか。

恐らく、人間は娯楽を排除しても生きてゆける。私はそう信じる。自我や所有や欲望を投げ捨てても、生きてゆけるのだと思う。だから、娯楽の否定は人間の否定ではないと信じる。しかし、これも娯楽を楽しむ人に言う台詞ではない。欲望と所有に万歳の人、娯楽が娯楽として存在する人、音楽が音楽として存在する人はそれでいい。そういう人に向かって書くのは、無益であるし、暴力である。私が向かって書いているのは、そうではない人、娯楽が娯楽でない人、音楽が音楽でない人だけだ。

ただ、一人、精進してゆくしかないだろう。

***

なんだか、意味も分からないが、長くなったのでこの辺にする。

最後に誤解しか与えないだろうが、ペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」のアフィリエイトリンクを貼っておく。メシアンも、なにか貼りたいな。

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2007-07-28

このところ、やってる音楽について

無駄に音楽の自分の音楽の背景なんかをぼやいてみる。

自分はギターを弾く。その中でブルースとフラメンコに強い興味を持った。この二つはかなり自分なりにコピーをしていった。

だからロックを弾くにしても、その二つの影響が必ず出てくる。ロックのビートでブルースっぽく弾くと、いかにもブルース・ロックのペンタ一発みたいになるし、フラメンコっぽくなると、どことなくサンタナっぽくなる。どちらも嫌いじゃない。でも、別に深入りするほど好きじゃない。考えてみりゃバンドしてる訳でもないから、やる機会もないし。

ロックをやるのならパワーコードだけでおしまいになるような曲の方が好きだ。ニルヴァナのスメルズとか、ポリーを一人寂しく口遊んでみたり、叫んでみたりする。ただ、ほんとうに、タマにだ。

あとは、パコのアルモライマのブレリアスの半端なコピーをたまに弾く。ブレリアス以外には最近は弾かない。大学時代にはセビジャーナス、タンゴス、ソレアスなどもやったが疎くなった。やはり、踊りと唄がないとフラは話にならない。楽しくない。

ブルースをなんとなく弾く。中学校の時からのhey, heyやbefore accuse of me なんかのクラプトン、アンプラクトのコピーをポロポロと弾く。クラプトンなんて馬鹿にしてるんだが、どうも始めが彼だったから手になじんでしまっている。それに「白人のブルースは駄目だ」なんて言う元気も、もうないよ。

あとRJの数曲、サンハウスのデスレター。ただ、デスレターはテンション高くないと弾けないから、あまりやらない。それに調弦変えなきゃならんし。なんとなくで、RJのsweet home chicagoを唱う。せつない。でも、ざっくざっくと前に向かう気はする。あと、ジミヘンをアコギで静かに弾く。リトルウィングとかヘイジョーとか。

他に大学時代にボサノヴァのサークルにもいさせてもらったので、ボサノヴァも弾く。これが恥ずかしながら、結構好きだったりする。同じくジャズも恥ずかしながら、たまに弾きたくなる訳で、そういうジャズなコード進行をボサノヴァっぽく弾くのは、結構好き。実は口では馬鹿にするが、結構好きである。そういえば、一時はウェスやジャンゴのコピーもしてたが、全然弾かないなあ。

最近は「You'd be so nice to come home」を一人寂しくボサっぽく弾いてみたりする。そして、大学時代のボサのヴォーカルの女の子を思い出したりもする。女の子の伴奏は楽しかった。

フラメンコでも唄と踊りの伴奏は楽しかったし。また、やりたいが、機会はないだろうな。

思い出すと迷惑かけたことしか出てこない。本当に申し訳なかったと思う。

最近は琵琶とか三味線っぽいフレーズを取り込みたいと思っている。案外すんなりとギターでも琵琶フレーズは弾ける。ただ、ギターは「さわり」がないから独特の「ビーン」という音にならない。ギターでの琵琶や三味線の物真似はむなしい。

なんだか、根無し草だな、とか。一つの自分の土着の音楽をやれてたら、どんなにか、楽しかったろうな。

2007-06-28

[書評] 琵琶盲僧永田法順 / 川野楠己

最後の琵琶盲僧、永田法順のドキュメンタリー本。彼の出生から出家、修行、師匠の死、結婚と一生を追いかけている。周囲の人々、特に御婦人の描写もある。

他に盲僧琵琶という消えつつある歴史も解説。この説明がなななかで、伝説や口伝なども収録していて、学術的な説明にしあがっている。日本の伝統音楽の一つに、盲僧の活躍があったことは確実なのだろう。

日本音楽の根強い流れの一つに仏教音楽の影響があるが、それも仏教が声明などを各地の寺で演じていたことの他に、琵琶法師が各地で平曲などを披露したのもあるのだろう。そうした芸能としての放浪の坊主が、虚無僧尺八は勿論、あるいは説経節などの芸能にもつながっているのか。

日本の芸能を考える人にはぜひ読んで欲しいし、なにより彼のサウンドを聴いて欲しい。日向の土と風を感じることと思う。強烈なブルーズだ。祈りと歌の本質がそこにはある。

興味は尽きない。ただ、その盲僧琵琶の流れは尽きてしまうのだが。

2007-06-19

はじめてのyoutube ギターでバッハのシャコンヌ

はじめてyoutubeに動画アップしました。とは言え、音声ファイルに文字を載せただけなので、「動画」とは言えないシロモノですが。

演奏は2005年の正月あたりのものです。本当はもっと最近の演奏を載せたかったのですが、残念ながら録音がありませんでしたので、これを載せてみました。



結構、動画を載せるのは楽しそうなので、ハマりそうです。また楽器触りたくなりました。

あ、曲は大バッハのシャコンヌの前半です。今度後半もアップするかもしれません。

ま、ヘタクソですけど、笑って楽しんでくれると、ありがたいですね。感想も貰えると有難いです。

2007-06-17

おすすめ音楽CDトップ10

影響を受けた文豪、思想家、芸術家などに続いて、必聴の名盤と思える音楽CDベスト10のリストを作ってみる。例によってジャンルごたまぜ。自分の好みで並べます。

1. タチアナ・ニコラーエワ, バッハ:フーガの技法 (1967, 1992)

堂々の一位はニコラーエワおばさんのフーガの技法。

静謐な息遣いの満ちた空間に純粋に積上げられるフーガ。時に静かに染み出すように、時に激しく突き刺すように、深く重い彼女の音が舞う。

その音楽によって空間は支配され、ただ人間は息を呑むのみ。深い海の底か、高い天の上かは知らないが、ただ力強い生命力が満ちている。

本当はメロディアの1967年録音の方がいいのだがCDがないので、ひとまず92年ハイペリオン盤を推薦する。

2. カール・リヒター, バッハ:マタイ受難曲

二位にはリヒター先生が来るに決まっているのだが、曲はどうしよう。個人的には「音楽の捧げ物」や「パルティータ」、更にカンタータやオルガン作品なども外せないが、ここはマタイ受難をあげておく。

CDも複数あるし、DVDもある。ただ58年録音のこれがベストだろう。また、映像で観るのをお薦めする。圧倒の一言である。

カール・リヒターを聴くという経験は、熱せられて青白い炎をあげる、緻密な細工が施された鉄の網に全身を包み込まれ、そのまま、胸の奥までバラバラに焼き切られてしまうということと言える。
とアホなこと書いたが(参照)、それは、理性が支配し、そこに感情が従うから可能なことだ。

リヒターはバッハの音楽の「秩序」そのものに語らせようとする。そしてその客観性においてのみ、神の如き「秩序」は現前し、聴く者を圧倒する。

3. ギドン・クレーメル, バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ (1980)

シャコンヌの演奏のいいものを知らない。しいて挙げるとすれば、この1980年録音の方のクレメルだろうか。とても良い演奏だと思う。もちろんソナタとパルティータ全曲収録の2枚組もある。

勿論、好みがありシェリングやシゲティ盤、あとスークあたりも外せないだろうが、個人的にはあっさりし過ぎに感じる。

あとピリオド楽器には私はあまり興味を感じないのだが、機会があれば聴いてみるべきだろうか。

4. Massive Attack, 100th Window(2003)

ここでマッシブ・アッタクを入れる。この一曲目 Future Proof は個人的には歴史に残る名作と思っている。その意味で、発表から数年だが私にとってのクラシック(古典)であり、一生聴き続けると思う。

私の先生は彼らの音楽を

自分の現実から目をそらさず、自分が今そこに存在する事に必死に絶える彼らの表現は、地方都市から世界へと発信し、遠く離れた異国の若者たちに指示されて行く。しかし、更に悲しい事には、このような発信と共有とを可能にした、発達したメディア社会そのものが、彼らをより深刻な闇へと突き放して行く。
と評している。

叫んでも、逃げだしても、ラリっても、自殺しても何にもならない時代の、ディジタルな叫びは、現代に当然生まれる表現である。そして当然生まれる表現であればこそ、そこに高い芸術性が生まれるのは必然であろう。

別にネガティブでも何でもなく、そうした現実からやっていくしかない訳だし、何よりもこれは音楽であり表現の問題であり同情とかそういう問題ではないことに注意して欲しい。単純に、4番目にいい音楽であるから、4番目に入れた。

また現在これが私が評価できる最も最近の音楽となっており、これ以降も興味はあるのだが、なかなかアンテナが低いこともあり、見つかっていない。

5. グレン・グールド, ゴルトベルク変奏曲 (1955,1981)

かなり迷うが、結局はこれだろう。若いときのもいいが、個人的には晩年のでいいと思う。

できれば聴き比べてみると良いだろう。若者の溌剌とした精悍な演奏は、晩年の孤独に老いた妖しい光によって締め括られる。元々削られたように正確な彼の音は、更に削ぎ落とされ続けた年月を経て、逆に仄かだが深い光がにじみだしている。

それを老年の衰えとは私は思わない。

6. Nirvana, Nevermind (1991)

かなり迷うが6位はニルヴァーナに送りたい。一曲目の Smells Like Teen Spirit は世界を変えた……筈。

「売れる」「有名になる」ことを受け入れられない彼等の音楽の苦悩を思うもよし、昔のように単純に叫べない怒りをカートがいかに叫んだのかを聴くもよし、「古き良き」アメリカの歌をいかに現代の若者が伝承したのかを聴くのもよいだろう。あるいは、「否定」を聴くかもしれない。

ただ、少くともスメルズは一般に思われる程パンクで過激な音ではなく、メロディーラインも「ポップ」である。

そこでアメリカの歌が問題になる訳で、そうなるとトーマス・ドロシーやレッドベリーを呼ばなきゃならない訳で……。まあひとまず、アンプラグトのカートが唱う Where Did You Sleep Last Night を聴いてみて下さい。地下生活者の日記 - 気狂いブルースにyoutubeの動画が貼ってあります。

7. Jimi Hendrix, Electric Ladyland (1968)

7位じゃ低過ぎるだろうが、ジミヘンの登場である。

彼のアルバムはどれもベスト盤のような出来で、ライブはライブで彼のギターの真骨頂を見られるし、死後にリリースされ続ける自分のスタジオで録った音源もまたおもしろい。だが普通に考えれば、このエレクトリック・レディーランドになるだろう。

特にVoodoo Chileはどう考えてもブルーズの一つの到達点だそうし、Little Wingは彼が死ななければ生まれたであろう、ロック(白人)もソウル(黒人)も越えた未来の音楽を予感させる。

8.Janis Joplin, Cheap Thrills (1968)

スタジオ録音では、彼女の真骨頂たる語りと歌の混在したパフォーマンスが味わえないのであるが、私にとって、ジャニスと言えばSummertimeであり、Ball and Chainであるので、その二曲をおさめたチープ・スリルは彼女を代表するアルバムと思う。

そりゃ、ビッグ・ブラザーの演奏は下手だけど、フル・ティルト・ブギーのPearlがいいかというとそうでもない。何か違うのである。ビッグ・グラザーには、なんというか混乱の中を、その混乱を受け入れつつ、新しい何かを生みだそうとするエネルギーに満ちていると思う。

ただ、やはりジャニスはライブ映像を見て欲しいとは思うが。語りと歌が混在する中に、本当の表現とは何かという問いの答があるように思う。

9. John Coltrane, Selflessness featuring My Favorite Things (1963)

ここで、コルトレーンの登場である。

ジャズである。パーカーもモンクもバドもガレスピーもいるが、いやいやマイルスとか言う人もいるだろうが、コルトレーン、しかも至上の愛などを差し置いて、このアルバムである。

このアルバムの一曲目マイ・フェイバリット・シングスは、数少ないジャズ・セッションの「熱気」を収録したテイクだと思う。ジャズに複雑な理論は必要ない。ただスウィングし、ひたすら音と音、リズムとリズムがぶつかればよいと思う。そこに人を震えさせるものがある。

もしパーカーやガレスピーで秀逸な録音があれば、そちらになるかもしれないが、不勉強で発見できていない。少なくともパーカーは本当に凄いのだが、録音が悪いのでリストには挙げられない。

10. Son House, The Complete Library of Congress Sessions(1941-1942)

遅すぎる登場で、こんな下のランクに書くなら書かない方がいいんじゃないかと思うが、それもあんまりなので一応のせる。

本当は、この人も映像で見た方がいいのだが、それだと歳をとっているので、このアルバムを聴けば彼の音楽の幅が分かると思う。

救われない悩める魂を抱えながら、それを必死に詫びながら、そして赦しと救済を求めながら、それでも逞しく生き抜いてゆく、強く、甘く、せつない男の世界があると思う。本物の表現である。

いや、これどう考えても1位か2位だろ……。うーん……。そうだ、もう一枚ジャケを貼っておいて赦してもらおう。 彼は1988年まで生き続け、様々のものを見守り続けた。

有名な所では、彼はロバート・ジョンソンに強い影響を与え、また彼が成長し彼を超えていったのも見ていたとされる。また、ロバート・ジョンソンを含めた多くのブルーズマンの死にも出会った。一緒に暮らしていた女性が死んだこともあった。

変化の時代だった。機械化によって黒人の農村社会は崩壊し、黒人は都市化していった。そして、ブルーズも都市化し、エレキ化していった。

彼は変わらなかった。彼は音楽のスタイルを変えなかった。エレキは持たなかったし、レパートリーも広げなかった。

時代が彼の音楽から離れると、彼はギターを離れ、ただ農村の労働者になるのである。

そうして、白人のブルーズファンに発見されれば彼らに演奏をしたし、民族音楽研究の若者が現れれば彼らに演奏をした。何も変化はない。媚びることもない。いつものブルーズ、本物のブルーズだ。

デルタ・ブルーズの父、サン・ハウスはそうした男である。

なんだかウイスキーのCMみたいになってしまったが、時代を超え、変わらぬ本物として生き抜いた男を、私は尊敬してやまない。


そんなこんなでおすすめCDトップ10は修了。

え? モーツァルトは? パットンとかロバジョンいないですが……。オイオイ、レッドベリーは? パコちゃん(パコ・デ・ルシア)やピアソラ先生は?

まあハナから無理ですな。

2007-04-02

ロックの歴史(2) ロック誕生〜60年代後半

前回の記事である「高校生のための芸術講座(2) ブルーズ(ブルース)の歴史」まででコアなデルタとテキサスのブルーズの概観はできた。そして、それがアメリカ社会の都市化に合わせてシカゴ・ブルーズやモダン・ブルーズになることを簡単に述べた。

さて、それでは予告通り、今回はロックの歴史である。既にロックなんて君達ガキの音楽というよりはオヤジのものという感覚があるかもしれない。現にアメリカではロックの人気をヒップホップが越えたと聞いている。しかし、それでも尚、未だにブルーズフィーリングを受け継いだロックが若者を魅了し続けているのは事実だろうと信じている(君達が知っているか知らないが、最近でもThe White Stripesなどは結構、昔の曲をやっている)。簡単な概説に過ぎないが、君達が少しでもアメリカの歌心の深い伝統のようなものを感じてくれれば幸いである。

ヒルビリー(カントリー&ウェスタン)とフォーク

まず前回がブルーズのみであり白人が完全無視されていた。しかし、ロックを語るためには当然、白人の影響を抜きには考えられない。簡単な説明をしたい。色々あるが、ここではそれは「ヒルビリー」と「フォーク」の二つをひとまず簡単に眺めておくことにしよう。

まず「ヒルビリー(Hillbilly)」とは簡単に言えば、アパラチア山脈周辺に昔ながらの生活を続けるアイルランド移民の民族音楽であると言える。アイルランドと言えば「酒と女と唄」なわけであり、彼らも本国を離れ、山で暮らすうちに音楽も変化したのである。特徴として軽快なリズムでフィドル(速弾きなヴァイオリン)やバンジョー、あるいはマンドリンなどの音が彩りを加えている。このヒルビリーが元になり「カントリー&ウェスタン」となったと単純には言えると思う(現実にはこういう話は単純ではないので難しい。アメリカには様々な移民がいて、それらが複雑に影響し会ったのだろうから)。アメリカの田舎の白人が集まって陽気に踊ったり、あるいはタフなカウボーイが酒場で惚れた女を思い出している場面の音楽を思い浮かべてくれればよい。まず、こうした音楽伝統があったのだと理解して欲しい。

次に「フォーク(Folk)」というジャンルがある。今話しているのは70年前後の「反戦フォーク」ではなく(勿論、それにも繋がるが……)、「アメリカの伝統フォーク (American Traditional Folk)」 である。勿論、ラテン・アメリカのフォルクローレでもない。フォークという語は元々「民族」という意味であり、その意味から言えば民族の唄、民謡というのが原義であろう。このジャンルはそれこを奥深く、私も何が何だか分からないのだが、ひとまずジャズやブルーズなどの黒人ジャンルではなく、1910年前後以前にアメリカで自然発生したり、クラシックとは異なるコンセプトのもとに作曲された音楽と言えるかもしれない。よく分からない。ひとまず、学校でも習うフォスターの音楽のようなものを思い浮かべてもらうといいかもしれない。かと思うと全然曲調の違う曲も沢山あるのだが……。

何も知らない高校生の君を混乱させても仕方ないから、ひとまず図式的にこう理解してもらいたい。まず、ヒルビリーというアイルランド系のノリと哀愁ある音楽があり、フォスターの曲のような叙情の曲があった、と。まあ、こんあ話は与太話だから真面目な君はジャンル分けを自分で調べてみるとよい。そこには泥沼が広がっている。ジャンルなどというのは、後世の人間が勝手に付けたただの言葉なので、自然発生の音楽の場合、そんなもんである。ひとまず、君の理解を促進するため、私の話はかなり正確じゃない。こんな与太話、絶対に信じちゃ駄目だし
絶対に人に話してはならない。

こんな言葉より、実際に「アメリカ伝統音楽の父」のレッド・ベリー (Lead Belly, 1888-1949)(黒人)(Internet Archiveに音源あり)や、ウッディ・ガスリー(Woody Guthrie, 1912-1967)(白人)などを聴いてもらうしかないかな。まあ、それは入口なんだろうね。ボブ・ディランは「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウッディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべき」と言っているらしい。

R&B (リズム・アンド・ブルーズ)から白人ロックン・ロールの成立 (1950年代)

さて、こうして白人の状況も分かったら次に、知って欲しいのは戦後の黒人音楽のもう一つの流れである。というのは、都市の黒人が皆マディーやハウリンだった訳じゃない。都市で、ある程度白人を視野に入れて音楽的に成功してゆく黒人がいたのである(本当は戦前も沢山いるのだが、省略)。そうしたデルタ・ブルーズと比べたら洗練されて甘くノリがよく、親しみやすい音楽を広く「リズム&ブルーズ」と呼ぶ(また、既にそうした音楽を「ロックンロール」と呼ぶことも可能であるし、R&Bの意味が変化した現代では、そちらの方がよく聞かれる)(ここにはニューオリンズ・ジャズの影響も忘れられないが、ジャズはまたいつか)(そういやゴスペルの話はどこでする?)。

ロックンロールの系譜をたどるとすれば、有名なのは、ファッツ・ドミノ (Fats Domino, 1928-)、「ロックの生みの親」リトル・リチャード (Little Richard, 1932-)、「Johnny Be Good」のチャック・ベリー(Chuck Berry, 1926-)などである。

さて、そうした黒人の音楽のR&Bをラジオなどで聴いた白人の若者は魅了される。これが「ロック第一世代」とも言うべき面々であり、ここにロックンロールが始まった(あるいはロックンロールではなく、ロカビリーとも言う。これは Rock と Hillbilly による造語である)。

ここでかのエルヴィス・プレスリー(Elvis Presley, 1935-1977)が登場する。君達は知らないかもしれないが、エルヴィスとは、一定以上の年齢層にとっては神であるので注意が必要である。抜群の歌唱力でリトル・リチャードやアーサー・クラダップ(黒人ブルーズ歌手)などのR&Bを歌うほか、ビル・モンロー(白人カントリー・ブルーグラスの巨人)などを歌うのも、ロックンロールの成立を考える上で興味深いと思う。

残念なことに、君達はエルヴィスと言えば「ラブミーテンダー」であったり(いや、あれはあれでスゴいけどね……)、復活後のラスヴェガスでの中年の脂ぎった映像かもしれない。それは違う。勿論主観の問題もあるだろうが、彼の初期の若々しい映像を見れば、現代まで続くロックのヒーローの原型は間違いなく彼であることに気付くだろう。エルヴィスはロックを語る時に避けては通れない。是非、黒人色の強かった初期のものから聴いて欲しい。

白人の音楽としての「ロック」と黒人の「ソウル」の成立 (1960年代)

ここからが、本題である。エルヴィスら「ロック第一世代」の影響を受けた次の世代の白人が、ロックをより自分達のものにしてゆく。そしてバンドを組み、自らの思いを曲にするという現在にも繋がるスタイルが成立する。かくして白人の音楽としてのロックは本格的に産声を挙げ、60年代後半の高みへと向かうのである。

その一方で、黒人達の間では「ロックンロール」ではない「R&B」も引き続き続いてゆき、その一部は「ソウル」へと向った。アメリカの黒人達は、「白人のもの」のロックとは異なる表現を求めたのである。また、ジャニスやジミヘンを考える場合、ブリティッシュ・ロックの影響などというより、そうした黒人のR&Bシーンを考えるべきだろうし、何より、ブルーズの伝統の文脈で理解した方が理解しやすい。ジミヘンもジャニスも強くデルタやクラシック・ブルーズからの影響を認めている。

The Beatles (UK)
ポールとジョン。基本その一。
The Rolling Stones (UK)
キースとミック。基本その二。いかにも。
Jimi Hendrix (1942-1970) (US)
孤高の天才ギタリスト。彼を越えるギタリストは現在出ていない。イギリスで売り出さないといけなかったのは、ロックの世界では珍しい黒人だからかもしれない。私は中学生の頃から必死に真似している。
Janis Joplin (1943-70) (US)
ロック史上最大の女性歌手。私は小学生の時に惚れた。「Summer Time」が死ぬほど好きである。
Led Zeppelin (UK)
キンクス、フーなどを原型とした「ハードロック」の様式をディープ・パープルらと共に確立してゆく。私はこういうのに、あまり興味はないが、たまに何気なく「天国の階段」を弾いている自分に気付き驚くこともある。
Grateful Dead (US)(Internet Archiveに音源あり)
「ラブ&ピース」で有名なフランシスコの反戦ムードの中で熱烈な支持を集める。「ヒッピー」って言葉を君達は知っているだろうか? 彼らは「ヒッピー」文化の音楽的中心である。未だにアメリカのロック・シーンで熱狂的な独自の地位を保ち活躍している。

ライブ音源の配布をフリー(パブリック・ドメイン)としており、録音機材を持ち込む客のために録音用のブースを作っているほどである。こうした録音し音源を配布する者は「デッドヘッズ」と呼ばれる。インターネットでの楽曲の配信が普及した昨今、音楽と著作権の問題を考える上でも存在感を示している。

簡単に見れば、ビートルズ、ストーンズというイギリス初のロックがアメリカのロック市場に殴り込むという形が前半に起き(もちろん、ビーチボーイズも忘れてはならないのだろうが、私はあまり好きではない)、一方、後半は、アメリカの反戦、反権力の空気がフォークやロックと手を結んでゆき、「自由」や「愛」「平和」を歌うロックは激しい高まりを見せたと言えるだろう。

その一方でその激しさゆえの行き詰まりも早くも見え(青少年の非行や麻薬常習、ライブでの死者などの問題)、一方で商業主義との勢力との戦いも熾烈となる(ロック・テイストなポップスが次々と作られていった)。そんな中で70年からジミヘン、ジャニスとドアーズのジム・モリソンが次々と死んでしまう(死因はドラッグの過剰摂取とされる)。かくしてロックは方向の見直しが行われ、既に確立した演奏のスタイルや技術を元にし、より多彩な表現へと70年代のロックは向かってゆくだろう。


ここまで読んでくれて御苦労様。どうもありがとう。

ロックの歴史を一から書き起こすなんて無茶もいいとこで、前回では一回で現代まで書くようなことを書いたが、無理な話だった。ここで一度切ることにする。

実はここはいい切れ目なのである。それと言うのも、60年代でロックは死んだという意見が根強いからである。一方、60年代のロックを「60年代ロック」と呼ぶことで相対化する意見もある。

ロックの本質に思いを馳せ、それが終わったとか変わったとか考えるのは君の自由である。そうしたことを考えるのも時には役に立つ。しかし、時代は常に変化し続け、変わらないものなどあるはずがない。もし、君達が昔のことばかりを気にしているのを見たら、私は悲しい。「ロック」が何であれ、つまり、それが終わったにしても、続いているにしても、君達は自分の音楽を見つけ、それを歌って欲しい。もし無ければ自分で生み出して欲しい。

「ロック」なんて、ただの言葉に過ぎない。君達は自分の人生を生きているのであり、音楽とはその君達の人生の中で、君達が育ててゆくものなのである。君の人生に関係のない音楽なんて、君には関係がないじゃないか。君が本当に満足する音があるかもしれない。君が本当に満足する歌があるかもしれない。そして、それは君達の世代が皆求めている音かもしれない。「ロック」だとか「パンク」だとかのコトバなんて関係ない。ただ、君の人生が、君の心が、音楽を感じれば、それでいいんだ(だから、こんな奴の書いた文章を信頼してはいけない)。

ただし、こうした考えは伝統をないがしろにすることではない。伝統と言っても上から押しつけられたものの話ではない。そんなものは捨てていい。私が言いたいのは、人々があることを長く営んでいった中で、自然に残って来た伝統だ。人類は長い歴史の間、歌を歌い続けてきた。様々な地域の様々な時代で、君が想像もできないほどの幅広い音楽があるだろう。様々な表現や情感、技法や作法がある。そうした伝統を知ることはとても力になる。だからこそ、もし君にロックが必要ならば、ロックの伝統を感じることで、より表現が本質的になると思う。

しかし、それもあくまで君の音楽に役に立つかどうかの問題であって、無理して学ぶ必要はない。ただ面白ければ聴けばいいんだ。つまらなければ、聴かなくていい。単純なことだ。まあ、私は君がブルーズやロックの伝統を面白がって学んで、その音楽を楽しんでくれることと思っているが。

そうした伝統を学ぶ中で、私は君に学んで欲しいことがある。生きる上でとても大切なことだ。それは「謙虚さ」だ。私は謙虚さを学ぶのが遅くとても苦労した。だからこそ君達には早く学んで欲しい。

歴史や伝統に残るものは常にそれなりのものがある。しかし、つまらないと感じる時もあるだろう。そういう時には、ただ、その場を立ち去るだけでいいんだ。「つまらない」と主張する必要なんてない。君のような若造がそんなことを言ったからって何になる? その人達は、何年間も歴史や伝統を積上げて来たんだ。君のようなガキの話なんて聞く耳を持つ訳がない。

歳をとると色々なことが分かってくる。これは真実だ。そして、君もいつか君の歳では理解できなかったような物事に触れ「ああ、あの時は理解できなかったな」と反省することがあるだろう。そういう経験を何度も積むとね、私のような生意気で傲慢な人間ですら「私はいつも未熟で、いつになったら……」という気分になるものだ。巨大なものに触れ続ければ、自分の小ささは明らかなものになる。しかし、これは自信を失うことじゃないんだ。誤解しちゃいけない。ただ「謙虚さ」を知ったということだと、私は考えている。

できれば君は無言で立ち去る前に、こう言うといい。「私はまだ未熟で分かりません」と。君はまだ自分の未熟さを知らない。だから、こう言うのは嘘をついた気分になるだろうし、とてもつらい。しかし、いや、だからこそ、君にはこのセリフを言って欲しい。大人の中には優しい者もいる。いや、自ら未熟と言う若者に、誰が厳しくするものか。大人は君に優しく教えてくれる筈だ。その魅力、その歴史、その重みを。勿論、教えてくれるから君が理解できるとは限らない。しかし、君はその大人の話から多くのことを学べる筈だ。どれだけ深く多くの情熱をそれが集めてきたのかを。そして何より、それがその人にとって、その人の人生にとって何であるのかを。

この時、賢い君は感じ、理解するかもしれない。自分の未熟さを。そして「謙虚さ」の本当の意味を知ってくれるかもしれない。いや、是非そうであって欲しい。謙虚さを知るのは早ければ早いほどよい。それは君の自信や人からの評価を傷つけはしない。自らの未熟さを受け入れることは力なんだということを、賢い君はすぐに理解するだろう。

それでは次回は70年代から現代までのロックを概観したい。それでは。

更新履歴

2007-03-31 作成

2007-04-02 Internet Archiveへのリンク追加(グレートフル・デッド、レッドベリー)

ロックの歴史(4) 70年代〜現在

今回は、皆さんお待ちかねの70年代から現代までのロックを眺めてみる。これは高校生の君達が生きている現代まで繋がっている。だからこそ、君達は私の判断が間違っていることに気がつくかもしれない。なにしろ君達が生きている時代なのだから。ただ、そうした中から君達は歴史を語ることがいかに困難であるかを感じて欲しい(これでは、ただ自分を弁護するようだが)。

70年代

音楽はとても多彩になる。

  1. 既に確立している「ハードロック」が本領発揮する一方、
  2. クラシックやジャズを取り入れた「プログレッシブ・ロック」が活発となり(ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、ユーライア・ヒープなど)
  3. 妖しい化粧とコスチュームの「グラムロック」(T Rexやデヴィッド・ボウイなど)が次々と現れる。
これらはほとんどUKのバンドである。聴けばわかるが、さすが病んだ国イギリスと唸らされる。この「テクニカルで妖しい」系譜は現代まで続いていると私は思う。私はたまにピンク・フロイドやクリムゾンを聴くことはあるが、ほとんど聴かない。

また、これもUKが中心だが、「縦ノリ」なビートの重さの追求は「ヘビー・メタル」を生んでゆく。この歴史を簡単に流すと、ブラック・サバスやマウンテンに始まりジューダス・プリーストが様式を確立し、その後、アイアン・メイデン、モントリー・クルー、メタリカに受け継がれてゆく。現在でも根強いファンがいて、HR/HM [ハードロック/ヘビーメタル] として独自の地位をしっかりと持っている。君のクラスにも一人くらいヘビメタファンってのはいるんじゃないかな? 大概、髪の毛が長めで痩せた奴であり、妙に信者勧誘に熱心である(ただの私の偏見である)。私は聴かない。

後半では逆にそうして複雑化するロック・シーンに抵抗するかのように、ニューヨークやロンドンなどで暮らす、貧しい白人の不満の叫びは「パンク・ロック」を生んでゆく。特にセックス・ピストルズはパンクの伝説として語り継がれている。私は心情や方向性としてはパンクは大正解だと思うが、残念ながらその音楽性の低さからあまり聴いていない。ちなみに、そのストレートさこそがパンクの良さなのであって、私はパンクを全然分かってない男と言える。よく私は友人にいじめられるので、君達はしっかりとそこらへんを理解して、いじめられないようにして欲しい。

あと、クィーンも抜けないはずだが。私はあまり聴いていない。

考えてみりゃ、私はほとんど70年代を聴かない男らしい。そんな男がこんな文書を書いていいのか不安である。こんな文書を信じて軽い気持で人と話すと、好きな人は異常に好きなので、とんでもない喧嘩になることがある。注意が必要である。

一方でアメリカでは何があったかというと、ウエスト・コースト・ロックやサザン・ロックを挙げておきたい。

  1. サザン・ロックのオールマン・ブラザーズ・バンド
  2. ウエスト・コーストのドゥービー・ブラザーズや、
  3. 「ホテル・カリフォルニア」のイーグルス
などである。

個人的にはオールマンのデュエイン(デュアン)・オールマンのスライドも好きだし、ドゥービーの「Long Train Runnin'」や「Listen to the Music」での細かい刻みは好きだし(ただ、これはR&Bを見ればもとがあるのだが……)、「け、あれかよ」とか思いながらもやっぱりクリーンサウンドで哀愁のあるアルペジオフレーズと「ういっ!」というディストーションサウンドを基本に忠実に使う「ホテル・カリフォルニア」はやっぱり良さがあると思う。これは私がギター好きだからというのも大きいと思う。ただ、「それで彼らが何か新しい音楽を生んだか?」と訊かれれば「うーん」と悩み「いいえ」と答えてしまうだろう。

またクラプトンが参加した、南部バンド、デレク&ドミノスの「いとしのレイラ」も私は大好きだが、ドゥエイン・オールマンのスライドが特に注目されるので、クラプトンの文脈というよりここに書いておく。ちなみに、デュエインのスライドも辿ればT-ボーン・ウォーカーあたりにつながり、エルモアに抜けるだろうし、やっぱり、そこら変のR&Bとモダン・ブルーズあたりはもうちょい知っておかないと、人様に文章を書いてはならないとつくづく痛感する。

こうして70年代は多彩なジャンル・様式を確立した時代で、中には現代にも続くロックの様式も含まれている。特にUKの分野の発達は目覚ましく、ロック通ぶるなら、押さえないわけにはいかないだろう(何度も言うが、私はあまり興味はないが)。

80年代

80年代前後には新しいジャンルや様式が形成されるというよりは、個性的な実力派が続出し「ニューウェーブ」と呼ばれてゆく。これはスティングのポリス、イギリスの歌姫のケイト・ブッシュ、パンクをうたう東独のニナ・ハーゲンなどが注目される。

またロックを「白人の音楽」として無視して来た黒人からもプリンスが登場した他、一般に「ワールド・ミュージック」呼ばれるのだが、非西欧社会からもロックの影響を強く受けつつも民族的な要素を持った音楽が発信されていった(ヨーロッパのジプシー社会からジプシー・キングス、マリのサリフ・ケイタ、南アフリカのマハラティーニ&マホテラクイーンズなど)。

一方、違う文脈で別の機会にR&Bから説明たいのだが、ラップやヒップホップもこうした背景を元に生まれていることも記しておく。

あと、アイルランドのU2(Internet Archiveに音源)やアメリカ・ロック演歌としか思えないブルース・スプリングスティーンなど、ちょっと従来の文脈とは違うロックバンドも成立していった。

ヘビメタな重さと、ポップなメロディーとをほどよく組み合わせた上に、高音のヴォーカルと、高度なギターテクを誇示するようなバンドも90年代前半あたりまで、よく売れた(ガンズ・アンド・ローゼズ、エアロスミス、ボンジョビ、ミスター・ビッグ、エクストリーム、ドリームシアターなどなどなど)。同時に、速弾き超絶技巧ギタリストがなぜか流行り、ヴァンヘイレン、イングウェイ・マルムスティーン、インペリテリなどが「誰が世界で一番最速か」を競っていた。今となっては何が何だかよく分からない。

こうして80年代は高度なテクと優れたセンスに支えられ、様々な人々が様々なことをやったが、結局何があったのかよく分からない。ただ、個人的な思い出から言って、ガンズなどはとても懐しいし、インギーの真似もよくやったので、悪くいうのもあれだが、今のインギーなどを見ると「一体、何だったんだ」という気分になる。そう、ガンズも一体何だったんだろう。音楽とはそういうものかもしれないが。

(あとR.E.Mとか書かなきゃ)

90年代から現在

もう書くのに疲れてやめたいが、あと一息なんで書くことにする。

とにかく個人的にはニルヴァーナ(Nirvana)である(Internet Archiveに音源あり)。グランジである。オルタナティブ・ロックである。ヴォーカルのカート・コベイン(コバーン)(Kurt Cobain, 1967-1994)は死んでしまったが、パール・ジャムやアリス・イン・チェインなどまだ元気な筈である。時代背景としては上述の「高音ヴォーカル、超絶テク・ギター」や商業主義などへのアンチテーゼであり、ある種「パンク」である。しかし、上述80年前後のパンクと異なり、ヴォーカルの歌唱力が凄まじく、難しいことはせずにストレートでカッコいいリフ、マジで真剣なドラムとベースは「そうだよ! これだよ!」という気分にさせてくれる。ドラム、ベース、ギター&ヴォーカルのスリーピースでばっちり決めている。シンプル・イズ・ベストである。ギターソロも難しいことはしないが、逆にそれがかっこよく思う。

若者文化を変えた「Smells Like Teen Spirit」や「Rape Me」が必聴なのは勿論だが、「When Did You Sleep Last Night」も必聴である。この曲から、レッドベリーやトーマス・ドロシー(Thomas A. Dorsey, Georgia Tom,1899-1993、「ゴスペルの父」)などのアメリカン・トラディショナル・フォークやゴスペル、「ロックンロールに行かなかった」R&Bなどに興味を湧かせ、100年単位で育まれたアメリカの歌に思いを馳せるのもいいだろう。深い深い世界である。深過ぎて何が何だか分からないが、そのうちこの分野も書きたい。

ただ先日若者に「ニルヴァナ? ああ、あの古いロックですね」と言われた。現実は厳しい。

あと特筆すべきはビョーク(Bjork)(Internet Archiveに音源)だろう。ギターもベースもドラムもなく、サウンドはまったくロックではないのに、なぜかロックなのである。ただの天才少女として終わるか、新しい音楽を生むかは、私はまだ分からない。

さて、90年代は、ニルヴァナとビョークなどにより新しいジャンルへ向かった時代だったと思うが、一方で終末を感じさせる年代でもあったと思う。

  1. まず、マリリン・マンソン(Marilyn Manson)(Internet Archive)。ハードロックからメタルの終点であり、「ああメタルは、これで終わりだな」という気分にさせてくれるんじゃないだろうか。
  2. 次にケミカル・ブラザーズ。音楽はまるでオモチャ。音楽的可能性を捨てて、ただ遊んでいる風であり「ああ、こういうのも終わりなんかな」という気分にさせる。
まあ、個人的な感想だが。

あとはUKでレディオヘッド(Radiohead)(Internet Archiveに音源。Creepもある)とかオエイシス(オアシス,Oasis)(Internet Archiveの音源)とかも外せないだろう。

ただ、UKシーンで私がアホみたいに注目しているのは、ブリストルである。別名「踊れないダンスミュージック」。

  1. まずポーティスヘッド。ヴォーカルのベスの歌唱力の高さが、表現の閉塞感を鬼気迫るもにしている。私はジャニスの次に彼女が凄いと思う。
  2. マッシブ・アタック(Massive Attack)(Internet Archiveに音源あり)の「Future Proof」では、冷たいシンセの電子音が逆に既に私達が肉体化してしまったことを教えてくれ、ギターは生き物のように呼吸し時に叫ぶ。パンクのように叫ぶことすら疲れてしまったような閉塞感、しかし、それでも未来に向かわなければ人間は生きてゆけないことによる深刻な闇の激しいサウンドは、これまでの人類史上存在したか疑問である。

こうして90年代から現代は古い音楽が整理され、新しい音楽に着実に向かっている時代であると私は感じている。あくまで個人的な感覚から言えば、

  1. いかにも超絶技巧なヴォーカルとギター、いかにもなシンセの音などは否定。そんな目新しさにはアキアキ(全員。特にニルヴァナ。ブリストルも「自然に感じる」シンセの音。ケミカルはそれを逆手に利用)
  2. 若者連帯したムードは微塵もなく、深刻な精神的な闇、社会の閉塞感が歌われる(全員)
  3. 「売れたい」ことも否定し、「真剣」に音楽している(ニルヴァナ、ブリストルに顕著)
  4. オケやシンセの導入によるバンド概念の変更(ビョーク、ブリストル)
などの特徴があると言えると思う。まあ、あまり真剣にこの問題考えてないから、本気にしないように。だいたい問題は「音」であって、こんなアイデアの問題ではない。

アホみたいにハイペーズで書いて来たので、絶対いつか書き直す。少なくとも90年代から現在はもっと書かねばならないだろう。だから、たびたび、このサイトを見にきてくれると嬉しい。

何度も書くが、こんな駄文を信用しないように。そもそも、音楽においてジャンルなどの言葉は後付けで、それも商売のために生まれたものばかりである。言葉で音楽を語るなんていうのはバカらしいところもいいところである。

なぜ、こんな文章を私が書いたか、分かるだろうか? それは、こういう文書を私が高校生の時に欲しかったからである。音楽に入る中で、CDを片っ端から聴いていたのだが、ライナーノーツだけじゃ断片的で、簡単で大雑把なロックの歴史の概説が欲しかったのである。でも本を読むのは疲れる。パンフレット程度の分量で、ある程度ロックを概観できる文書がとても欲しかった。そして、正確さなんてどうでもよかった。結局、大切なのは音楽で自分が何を感じるかなので、大雑把に見渡せればそれでよいと思う。

この講座では、出来る限り大雑把に全体を見渡せるように配慮し、本来書きたいコメントを半分にした(そうすれば、全体の分量は半分になるから)。まあ、こういうアホのような文書を読みたい高校生が現在いるかどうか分からないし、もっとよい文書がネットにはあふれていることだろう。それに、こんな泡沫ブログなんて見付けることも大変で、結局、埋もれてしまうことだろう。

しかし、こうした文書を書くことは、自分のロックの歴史を整理するのにとても役に立った。だから、まあ、書くことが、私だけには最低、有益だったのだから、まあ、それでよしということにしておこう。

では、最後に、読んでくれて、どうも読んでくれてありがとうございました。

更新履歴

2007-03-31 作成

2007-04-02 Internet Archiveの音源へのリンク追加(Nirvana, Marilyn Manson, Radiohead, Oasis, Bjork, Massive Attack)

ロックの歴史(1) ブルースの歴史

高校生の君達が知りたいのは、クラシックや日本伝統音楽ではなく、きっとロックだと思う。そこでこれから四回に渡ってロックの歴史を追いかけてみたい。今回は、ロックの歴史を押さえるために、北米黒人音楽、それもブルースの話をしたい。

なぜか?それはロックだけでなく、現代のポップ音楽の潮流の源泉が、この北米黒人音楽にあるからである。つまり、ロックだろうがR&Bだろうがヒップホップだろうが、元をたどれば、この世界に来るからである。元を知っておくのも悪くはなかろう(別に知っていたから偉いわけじゃないが、無駄な混乱は減るものである)。

まあ、高校生の君達の大半はよさがすぐには分からないだろう。が、中には耳が付いている者もいるかもしれない(あまり期待はしていないが)。そうした君の為にも、音源を見つけ次第、貼りつけてゆくつもりだ。また、今は網羅しようという気ないから穴だらけのリストだが、いつか更新するかもしれない。たまに覗いてみて欲しい。

戦前ブルース (1920-40年代)

カントリー・ブルースあるいはデルタ・ブルースとも言う(ただし、正確にはデルタだとテキサスやアラバマ、ジョージアや南北カロライナが入らない言い方になってしまう。この「デルタ」は「ミシシッピー・デルタ(ミシシッピー川の三角州)」のことである)。詳しい発祥は不明だが、南部の大規模農場で(奴隷のように)働いていた黒人が生み出した音楽である。楽器はアコースティック・ギターとブルース・ハープが特徴的である。

都会に出てレコーディングをした黒人もいるにはいたが、多くの場合は黒人相手の酒場での演奏であり、踊りの伴奏であった。そのためあまり録音は残っていない。それでもローカルなレコード会社の録音が残っている場合もあるし、忘れてはいけないのは、アメリカ議会図書館(Library of Congress)のアラン・ロマックス(Alan Lomax)の大規模なフィールド・ワークによるものも多い。ちなみに、Library of CongressのAlan Lomaxコレクションのページでは、アメリカ南部の他、スペイン、カリブなど彼のしたフィールドワークのコレクションの一部を見られる。写真や音源の一部もこのページから視聴でき、その中にはLeadbellyのMidnight Specialもある。

なぜ20年代からかというと単純である。その前は録音がないからである。ちなみに、クラシック・ブルースというのもあるが、これはややジャズに近いと思うので他の時に解説する(本当はR&Bやジャニスの説明に絶対必要なのだが……)。また、シティー・ブルースなど紹介すべきものは腐るほどがるが紹介しない。黒人音楽はデルタしかなかったなどとは夢にも思わないように。また、下の人しかいなかったなどとは思わないこと。一部の一部である。

ブラインド・ウィリー・ジョンソン (Blind Willie Johnson (1897-1949)
正確に言えばゴスペルの人であるが、迫力のダミ声と、護身用のナイフから繰り出されるスライドギターの音は、まさにブルースのそれである。中でも暗くエネルギーに満ちた「Jesus Is Coming Soon」や「Trouble Will Soon Be Over」は必聴である。君には、闇が聴こえるだろうかか、それとも光が聴こえるだろうか?ちなみに「Blind」は盲目という意味である。 Internet Archiveに音源あり
チャーリー・パットン (Charlie Patton, 1891(1887?)-1934)
「デルタ・ブルースの父」として有名。特にウィスキーや煙草で喉がかすれたような、がなるような声が特徴。多くのブルースマンに影響を与えたが、中でもシカゴ・ブルースのハウリン・ウルフへの影響は特筆すべきだろう。有名な話だが「A Spoonful Blues」のスライドギターはちゃんとSpoonfulと言っているように聴こえる。 Internet Archiveに音源あり
サン・ハウス (Son House, 1902?-1988)
二十代半ばでチャーリー・パットンに影響された彼は、牧師をやめてブルースマンとなり、以後「悩める魂」を歌い続けた。特に「Death Letter Blues」での気魄の演奏は時間や空間の感覚すら狂わせ、空恐ろしい、夢の世界のようになってしまう。

一度すたれた後も農場で働いているのを白人に「再発見」されたため、映像も残っていて、豪快なスライドギター演奏も拝むことができる。再発見前の録音も、アメリカ議会図書館アラン・ロマックスの録音も、再発見後の録画も全てチェックして欲しい。チャーリー・パットンと共にロバート・ジョンソンに影響を与えた。私はサン・ハウスが一番のお気に入りである。 Internet Archiveに音源あり

スキップ・ジェイムス (Skip James, 1902-1696)
「再発見」組の一人。ピアノもギターも両方こなせる天才である。音楽は「Hard Time Killing Floor Blues」で特に発揮される、さまようような、負けたような、独特のかすれ声が疲れた君を魅了するだろう。 Internet Archiveに音源あり。
ロバート・ジョンソン (Robert Johnson, 1911-1938)
最も有名なブルースマンである。ストーンズやクリーム(クラプトン)、ツェッペリン、ボブ・ディランなどロックの立役者に巨大な影響を与えたことは、今時そこらの猫でも知っている。勿論、ブルースマンに至ってはエルモア・ジェイムスやマディー・ウォータズに直接指導したこともあり、影響は幅広い。

「Crossroad Blues」が有名だが、どれも必聴である。図書館に入っていなければ Robert Johnson くらいは入れてもらってもいいのではないだろうか。初期の多くのロック・ミュージシャンが「RJを知らない奴とは話したくない」と言っているが、普通の高校生の君は真似をしていると友達がいなくなるから注意。 Internet Archiveに「Phonograph Blues」「Love In Vain」の音源あり

ブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson, 1893-1929)
今まではミシシッピーの人間だったが、この人はテキサス系のブルースの元祖と言えるだろう。デルタ・ブルースとは違う、乾いた味わいがある。レッドベリーやライトニン・ホプキンスらに直接影響を与えた。もちろん盲目。 Internet Archive に音源あり

ミシシッピー・ジョン・ハート(Internet Archiveに音源あり) など、もっと載せるべき人間はいるのだが、まあ、デルタ周辺の基本的な人のみということで。

シカゴ・ブルース (1950-1970年代)

戦前の巨人がひしめいたデルタ・ブルースの世界は40年代に急速に終息する。大規模農場は機械化し、黒人労働者が不要になり、過去の黒人コミュニティーも崩壊したからである。黒人たちは仕事を求めメンフィス、シカゴと北上し、トラックの運転手や自動車工場で働くことになる。中でもシカゴでのブルースマンの活躍は特筆すべきものがある。

デルタ・ブルースと異なり楽器は電気化される。エレキ・ギターの強烈な音量に、アンプリファイされたブルース・ハープ、それにドラムとベースという編成になる。白人向けに「洗練」した者もいるが、ここでは南部臭さ、泥臭さを残した人間を紹介する。

エルモア・ジェイムス (Elmore James, 1918-1963)
ロバート・ジョンソンの弟子の一人。ミシシッピー・デルタの出身でデルタの項目に入れてもいいのだが、エレキだし、こっちでいいかと思った。「Dust My Boom」などで聴ける強烈な三連のスライドギターリフで後のロックギタリストに大きな影響を与えた。また激しく、甘い歌声も胸を熱くさせる。
マディー・ウォーターズ (Muddy Waters, 1915-1983)
「Hoochie coochie Man」で知られる「シカゴ・ブルースの父」。デルタ出身。エルモア・ジェイムス同様、RJから技を盗む。私は違ったが、普通はストーンズを聴いて、マディーを聴き、そしてRJというのが標準的なロック青年の系譜である。
ハウリン・ウルフ (Howling' Wolf, 1910-1976)
マディーと同じくシカゴ・ブルースを支えた巨人。毒のあるダミ声はパットンの影響を強く感じさせる(実際、パットンに直接習ったこともあるらしい)。そのダミ声とヒューバート・サムリンのキレのあるギターが組み合わさったサウンドには悪魔も逃げだすだろう。
ライトニン・ホプキンス (Lighting' Hopkins, 1912-1982)
「テキサスの不良おやじ」「永遠の不良中年」である。シカゴ・ブルースの人じゃないが、ここに(項目の作り方はいつか見直すべきだな)。レモン・ジェファーソンに習ったらしい。デルタな泥臭さではなく乾いたキレと渋さが最高にかっこいい。ラフな服装に黒いサングラス、葉巻を咥えて「ハハハ」と不敵に笑う様も最高にかっこいい。私の高校時代のアイドルである。 Internet Archiveに音源あり
ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker, 1917-2001)などもここに挙げるべきだろうが、どうしよう?

モダン・ブルース (1970-1980代)

一時廃れたブルースが、イギリスの若者の心をつかみ、ストーンズやヤードバーズなどを生むと、再びブルースはブームとなる。シカゴの巨人たちの他、「再発見」組も注目される中(これはフォークの文脈との絡みもある)、より聴きやすいブルースも支持を集める。B.B.キングやアルバート・キング、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュなどである。いわゆる「ブルース・ブーム」であり1980年前後に我々極東の島国にも余波が来た。

ここら辺になるとかなり聴きやすいが、個人的にはあまりブルースらしさを感じないように思う。君はどう思うだろうか? それに彼らを取り上げたら、ジョニー・ウィンター(Johnny Winter, 1944-)やスティーヴィー・レイヴォーン(Stevie Ray Vaughan, 1954-1990)などテキサス出身の白人ブルース・ロックなども私は扱いたくなってしまう。

それにこの時期には「ロック」が成立しているので、現代の若者は「ロック」の方に興味を持つだろうから、そちらを優先する。まあ、とにかく、表に出てこようが出てこなかろうが、我々が知ろうが知るまいが、ロックの後にもブルースは脈々と受け継がれているのだと記憶の片隅に入れておけばよいだろう(特にデルタでは昔ながらのスタイルがかなり残っているらしい)。


次回は軽くヒルビリー(カントリー&ウェスタン)と、今回は省いたR&Bの二つを押さえ、ロックンロールが形成され、それが白人の音楽としての「ロック」となるところを追い、そこから現代までを追う予定だ。え? クラシックや日本伝統音楽の講座? 大丈夫。言われなくても、そのうちやるから。

変更履歴

2007-03-30 作成

2007-04-02 Internet Archiveの音源へのリンク追加

2007-04-02 Library of Congress の Alan Lomax Collection へのリンク追加

2007-07-08 「ブルーズ」を「ブルース」に表記変更

2007-03-31

ロックの歴史(3) 復習

前回と前々回の復習

さて、前回と前々回を軽く復習しよう。つまり20年代のブルーズから60年代後半までのロックの話だ。やや黒人と白人、アメリカとイギリスの話が混乱しやすいから、そこに注意しながら整理してみよう。

簡単に言えば

  1. 黒人のブルーズと白人のヒルビリーとのハイブリッドでロックンロールが誕生し
  2. それがイギリスで白人のバンド音楽としての「ロック」となり
  3. 60年代後半アメリカでの激しいロック文化となったんだったね。

まず前々回の「ブルーズ(ブルース)の歴史」では「デルタ・ブルーズ」と「シカゴ・ブルーズの主に二つの話をした。

  • まず、アメリカ南部、特にミシシッピ・デルタやテキサスの黒人達が「ブルーズ」特に「デルタ・ブルーズ」「カントリー・ブルーズ」と呼ばれる音楽を戦前に確立した話をした。サン・ハウスやロバート・ジョンソンなどがいたね。
  • 次に、戦後にそうした黒人が農村から都市に流入する中で音楽も電気化していった話をした。これが「シカゴ・ブルーズ」と呼ばれるんだったね。ここにはマディー・ウォーターズ、ハウリン・ウルフがいたね。テキサスのハウリン・ウルフも忘れちゃいけないよ。
ここまでは演るのも聞くのも黒人だ。

次に前回の「ロックの歴史(1)」では「ロックの成立までの話」と「60年代後半の高まりと行き詰まり」の二つの話をしたね。

「ロック成立までの話」は全部で四つの話をしたね。

  1. まず、戦前に成立した「ヒルビリー/カントリー&ウェスタン」と「フォーク」という白人音楽を簡単に紹介したね。
  2. 次に50年代の都市では、黒人音楽の中でも、デルタ・ブルースと言うよりニューオリンズ・ジャズなどの軽快で親しみやすい音楽の影響を受けたR&Bが成立していった話をした。これは白人も聴いたんだったね。
  3. 三番目に、その黒人のR&Bと白人のヒルビリーの影響下に「ロックンロール/ロカビリー」が誕生したんだ。「ロック第一世代」の白人の若者達だ。「ロックの神様」エルヴィス・プレスリーの登場だね。ここまではアメリカの話だ。
  4. 最後の四番目に、60年代「ロック第一世代」の影響下にイギリスの若者がバンド音楽としての「ロック」を成立させる。白人音楽としてのロックの誕生だ。ここでビートルズやストーンズが出てくる。彼らはアメリカ音楽に深く学びデルタやシカゴのブルーズも貪欲に取り入れるんだ(クリームなど)。

以上がロック成立までの話だ。後は60年代後半のアメリカでの高まりと行き詰まりの話になったね。

  1. まず、イギリスからの逆輸入としての影響もある中で、アメリカでもロックやブルーズが激しく高まったんだったね。ここで登場するジャニスやジミヘンは私の一番のお気に入りだ。特に反戦・反権力ムードのサン・フランシスコで様々なバンドが活躍をしていったんだ(ドアーズ、グレイトフル・デッドなど)。勿論、フォークのボブ・ディランも忘れられないが、フォークはフォークで難しいのでまたいつか。
  2. 次に、急速に過激化したロックは、商業主義との関わりの問題や、60年代の終わりのジャニス、ジミヘン、ドアーズのジム・モリソンの麻薬過剰摂取によると言われる死などの事件の中、それまでの見直しをしてゆくことになり、質が変わってゆくんだ。ここが「ロックは死んだ」と言われる所以だ。

さあ、ここまでが前回までの話だ。御苦労様。かなりシンプルにいい加減に図式化しているんだけど、それでもなかなか複雑だね。

復習の補足

これだけシンプルにしてるから漏れた話だらけなんだけど、中でも注意が必要なポイントを二つだけ挙げておく。「ソウル」の問題と「ジャズ」の問題だ。勿論、詳しくは別の時に話したい。

まず、R&Bとソウルの話。R&Bがロックンロールとなり白人の「ロック」となる中、60年代の黒人達は自分達の表現を求め、彼らの一部はR&Bをロックとは違う形で変化させてゆく。そして60年代後半に「ソウル」が生まれてゆく(R&Bの意味の範囲は広く定義が難しい。ただロックンロールにならなかったR&Bは明確に存在し、続いていったし、今も続いている。これはブルーズも同じことだが、R&Bの表現は非常に多彩であり言葉にするのが難しい)。差別され続けた都市の黒人がここでようやく「ブラック・イズ・ビューティフル」「兄弟よ語ろう」と叫び、自分達を肯定した音楽を生みだしたんだ(ブルーズは「憂鬱」という意味だからね)。このソウルはやがてファンクやラップ、ヒップホップへと繋がってゆくんだ。ただし、そのベースは常にR&Bと呼べば呼べてしまう。

次に、ジャズの話は簡単に二点だけ触れておく。

  1. まず、ジャズは50年代に最盛期を迎え、60年代にジャズで鍛えたレベルの高いホーンやドラムなどのプレイヤーが、アメリカのロックやソウルに影響を与えたこと(勿論、逆にR&Bのプレイヤーがジャズに行ったのも多い)。
  2. 次に、70年代にロックが行き詰まりを見せる中、ジャズとロックの高次の融合が叫ばれ「フュージョン」と呼ばれる音楽が生まれたこと。
この二つは記憶のどこかに入れておいてもいいかもしれない。

さあ、復習は以上だ。ごくろうさま。次から70年代からのロックを見てゆこう。

2007-03-30

芸術講座(1) 日本美術概観

シンプルに一時代に一人を紹介しておくことにする。そして基本的に東京にある絵を紹介する。あまりゴチャゴチャ紹介すると書くのも読むのもメンドいからね。コメント書いてあるけど、ただのぼやきなので気にしないように。

室町 雪舟(1420-1506)

巨人である。説明不要。日本美術史の最高峰だろう。ただ、上野へ行くべし。

  • 「秋冬山水図」 東京国立博物館 (画像 wikipedia)
  • 「破墨山水図」東京国立博物館

安土桃山 長谷川等伯 (1539-1610)

画風は私の好みにぴったりである。美しく、味わいがある。下のリンクを開いてドキっとしない奴とは私は話が合わないだろうと思う。

  • 「松林図」屏風 東京国立博物館 (画像 wikipedia)
  • 「竹林図」屏風 東京国立博物館

元禄 尾形光琳(1658-1716)

ただ完璧さがある。画が「平面」であることを逆に活かした雅があり、凛とした空間を漂わせる。

化政 丸山応挙(1733-1795)

写実的な完成度と色合いの妙のレベルの高さは、誰にでも明らかな日本絵画の一つの到達点であろう。

明治 狩野芳崖(1828-1888)

絵画を越え、日本の思想・宗教までも感じさせる圧倒的存在感のある作品である。

大正・昭和 速水御舟(1894-1935)

日本独特のすごみと繊細さの同居を感じる。この時期の有名な画家は多いが、私は御舟が好きだ。


詳しくはWikipediaでも図書館にある画集でも読むとよい。また、折角日本に生まれたのだから実物を見ておいて損はないと思う。若いうちに、ぜひ。