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状況は刻々と変わり続ける。しかし、往々にして、状況の変化に人はついてゆけない。
20世紀は過ぎ去った。しかし、人々の考えは20世紀と変わらない。「現状」と「常識」とが、ひたすらに離れてゆく。
現行のシステムのほころびが、ますます明瞭なものになっている。
崩れ始めた栄華を戻す術はない。一歩一歩積み重ねた繁栄は一夜にして崩解するだろう。なぜなら、幸福は一歩一歩、足音を立ててやって来ものだが、不幸の足音に人は気づかぬふりをするからだ。
これは、現行のシステムが「いい」とか「悪い」とかの問題ではない。常に「いいシステム」も「悪いシステム」もない。うまくやったシステムは「いいシステム」であり、うまくいかないシステムは「悪いシステム」なだけだ。現行のシステムは過去に確かに成功した。しかし、過去に「いいシステム」であった現行のシステムは、現在では「悪いシステム」になってはいないだろうか。
登校拒否、学級崩壊、必修未履修、定員割れの大学、フリーター、ニート、すぐに辞める新入社員……。これらの問題は、一つのことを示しているように思える。それは、現在を生きる人間にとって、こうしたシステムが機能していないということだ。
ある個人が学校にあわないとか、ある個人が会社にあわないとかそういう問題ではない。学校が現状にあっていないのであり、会社が現状にあっていないのだ。最近の子供が学校に適合できないのではない。現在の学校システムが今の子供にあっていないのだ。最近の若者が会社に適合できないのではない。現在の企業システムが今の若者にあっていないのだ。
新しいシステム、新しい発想が必要なのだ。状況を打開せねばならない。修正で済ませるには、問題は私達の常識の奥深くに根差しているように私には思える。問題は技術的な問題ではなく、私達の発想のしかたの問題、私達の「常識」の問題であると私は考えている。つまり、私達には「発想の転換」が必要だ。
残念ながら、私には新しい発想を示す能力がない。ただ、私には以下の以外に道は無いように思える。
- 現実を直視すること。
- そこから、現実的なビジョンをうみだしてゆくこと。
一人一人がこうしたことをやっていく以外に道はないだろう。もう、欺瞞はやめよう。自分の目で現実を見よう。そして、新しい発想を展開してゆこう。
古い人間の言う「常識」や「現実」は、状況が変化した世界では的外れになりがちだ。古い人間の言う「常識」や「現実的な生活」では、世界は以下のようになってしまう。
- 資源は枯渇し、環境は汚染するだろう。
- 貧富の差は拡大し、享楽的な消費と絶望的な飢えに世界は覆われるだろう。
- 文化はことごとく商品化され、消費されてゆくだろう。
- 家事、娯楽、交友は市場のターゲットとなり続け、私達は商品を通さずに物事に接することは不可能になるだろう。
- あるいは、商品以外の経験をすることすら、できなくなるかもしれない。
古い人の教えなど捨てるしかないのではないだろうか。自分の目で現実を見て、自分の為すべき仕事をしていくしかないではないか。
私達は、古い人間の言う常識と現実を受けいれて生きてきたと思う。しかし、体の奥底、心の奥底では違和感を感じているのではないだろうか? なぜ、自分の本当の感性を押し殺しているのか? もしかしたら、私達のその感性にこそ、現在の問題を解決するヒントがあるのではないか?
私は自分の感性を信じている。古い人間の感性はあくまで昔のものだ。
「でも昔の人だって苦労して『現実』を受け入れたんじゃないか」とあなたは問うかもしれない。
そんなことはない!
古い人間には、自分の常識に対して、あなたが感じるような違和感などない。彼らは喜び勇んで資源を消費し、環境を汚染し、文化を商品にし続けているではないか。古い人間には、あなたが感じるような、迷いはない。
彼らが若い時に、登校拒否になったり、会社をすぐに辞めたりしただろうか? 彼らは喜んで仕事をしたのだ。彼らは喜んでオーディオを買い、テレビを買い、車を買ったのである。大量消費、大量生産万歳!
まさに、時代と彼らの感性は一致していたのだ。そして、今も生活スタイルの基本は全く変えず、退職するやいなや、迷わずに消費を続けているではないか。古い人間に、私たちが感じるような迷いなど存在しない。見えている世界が違うのだ。
それにひきかえ、私たちはどうだろう。私達は迷いの中で、学校に行き、会社へ行く。自分の感覚を「現実」の名の下に押し潰す前に、本当にするべきことは他にあるのではないか? 私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか?
状況は常に変化する。古い人の時代は終わった。20世紀の物語は幕が下りたのだ。今度は、私たちが自分の物語を作り上げる番ではないのか? 今度は私たちが現実と常識を打ち立てる番ではないか?
考えて欲しい。古い人の言う「現実的」は本当に現実的なのか?
「環境なんて考えたら飯が食えない」という考えは現実的なのか? 今の日本で食事が、環境や資源の問題を越える問題なのだろうか? 現実的に考えたら、私達が為すべきなのは、食事の心配よりも、環境や資源の問題なのではないか? むしろ、今のままでは近い将来、本当に「飯が食えない」ことになるのではないか?
本当に自分の目で見た現実に対し、自分の心で考えてほしい。私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか? 古い人の言う「現実的」は本当は昔話なだけではないだろうか。
私は、現代の本当の現実を考えたい。そして、現代の本当の現実を生き抜きたい。
現状は問題だらけであり、企業や国家はそれを解決できない。新しい方法が必要なのではないのか? どうだろう? 私達が古い人では考えないようなことを考え出さなかったら、いったい誰が考えてくれるのだろう?
「未来をどう生きるか?」「どういうビジョンを持つのか?」これは私達の問題である。私達一人一人の問題である。古い人は関係ない。彼らがそんなものを提示することは有り得ないではないか。企業と国家は古い人の道具だ。彼らがどうして問題を解決できるのだろう?
そもそも企業と国家は万能ではない。人類にとって最善のシステムでも、永遠に続くべきシステムでもない。市場と国家による社会の管理は、たかだか100年程度の現象に過ぎない。もちろん、有益なシステムであり、いきなり無くすというのは非現実的だ。しかし、物質的成長を目標とした市場と国家のシステムは、十分に役目を果たしたのではないだろうか? なぜ日本政府はGDPの成長を未だに最優先課題にしているか問うべきではないのか? 私達は本当はこう考えているのではないだろうか。「それは何年も前の問題であった」と。
今、私達に求められているのは、企業と国家への労働ではなく、それを補い、それに代わるシステムなのではないか? それに代わる未来のビジョンではないのか? 新しいシステムを生む想像力こそ、私達に求められているのではないだろうか?なぜ、本当の現実に目を向け、自分が為すべきと思うことに、おのれの力を使わないのか? 目の前の明かな問題があるというに、なぜ、古い人間の言う「人生の公式」なんぞに何故したがうのか?そんなことをしても、ただただ搾り取られるだけではないのか?
問題は山積みである。逆に言えば、これは、あなたのやれる仕事が多いということである。教育、医療、介護、治安、環境、資源、文化、交流……国家や市場が対応できない問題にきりはない。問題があるということは、国家や市場に代わって、それを補う仕事を生み出さねばならないということである。現実の難題と解決してゆくこと、これこそがが本当の「仕事」である。古い人のための社会を維持して、搾取されることが「仕事」ではない。
仕事は誰がやるのか? 誰が、現実の難題を解決するのか?
それは、私達がやるのだ。古い人間に新しい発想はできない。私達以外に誰が問題を解決するのだろう?
私たちは強大な古い人に育てられてきた。だから、彼らにとっての常識、彼らにとっての現実を乗り越えるのは難しいかもしれない。
彼らは私達の新しいシステム、新しいビジョン、新しい生き方を認めないかもしれない。しかし、それは仕方ないことだ。それが世代交代ということだ。世代交代とは、決して、私達が古い人たちの同じ働きを継ぐということではない。世代交代とは、現実の変化にあわせて、以前の世代を乗り越えることに他ならない。そもそも私達にとっての古い人は、それ以前の日本人の生き方への否定だったではないか。
私達は乗り越えねばならない。私達は新しい生き方を開拓せねばならない。現実の問題は目の前に迫って来ているのだから。