2007-01-16

行住坐臥 (3) 理想の立ち

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前回に続いて、現時点の私の理想の立ち方について。

実は、立つ方が歩くより理想作りが難しいと現時点では感じている。歩くことは、重心の移動であり、その効率化の理想は打ち立てやすい。歩くことの究極は、重心の軸を一定の速度で移動させること、滑ることにつながる。軸を身体を一直線につらぬきながら、足首、膝、股関節、腰などにかかる負荷を最低限にすることはイメージとしてはつかみやすい。

しかし、立つことは違う。

人は何故、立つのだろう? とついつい考えたくなってしまう。


現時点での私は、「立つ」ことを以下のように考えている。

伸ばした平らな手の平の上に、傘の柄を載せ、傘を逆立ちさせてバランスをとっている状態だと。

握らずに、ただ載せただけで、倒れないように、落ちないように、バランスをとっている状態だと。

それほど、不自然であり、長時間立つには技が必要なのではないか、と。


技術的には、骨盤を垂直に保つことがなにより大切なのは分かっている。

そして、これがまず難しい。

方法としては、恥骨と腸骨の三角形の平面が、垂直になるようにするのではないかと感じている。

そうすると、腹と背/腰の力の按配が安定する気がする。

方法としては二つあると思う。

一つは上からぶら下げる方法で、腹と背を胸からぶら下げるように脱力し、骨盤を揺らしバランスを確認しつつ、会陰を締め上げてゆき、肚をその上に重く落とす(載せる)という方法。

もう一つは、下から積み上げる方法で、内踝からの垂直線状に会陰が来るように配置し(そうすると恥骨はやや前になる筈。また、股関節はやや前に付いているので、股関節に張りを感じるかもしれない)、そして、その前方に出た恥骨のあたりを軸に肚を載せて揺らしながらバランスを図るという方法。

現実的には上の方法の組み合わせであり、そのどちらの方法でも、あとは、その肚の上に胸を載せ、首を載せ、頭を載せるということになる。

そして何より、傘を手の平でバランスさせて立たせているように、会陰の上で、骨盤や胸、首、頭をバランスさせて載せているとイメージする必要がある。頭頂から会陰まで、天高くから地中深くへと伸びる、無限に長い、銀色の細い棒が通っていると感じること。

本当にバランスが整うと、上半身が驚く程、軽く感じられる筈だ。


頭を載せるコツをもう少し詳しく書く。

まず顎の下を脱力し(耳から顎がぶら下がる感じで。そうすると顎の下が凹む)、次第に頭頂が糸で天に吊られているイメージで、垂直に高くしてゆく。

そして、首が真っ直ぐになるのを感じながら、第一、二頚椎のあたりを脱力する。

そうすると頭部は前にいろいろ付いているので、頭部が前に転がり落ちる感覚になると思う。それを感じながら、重心を調整するために、やや、頭部全体を後に水平移動させる。

そうすると眉間と耳を結んだ辺りに、頭部の重心を感じると思う。

その重心を前後左右に揺らしてみて、丁度、首の上に乗る場所を探す。

とても難しいが、うまく乗ると、頭部が「ふわっ」と上に浮く感覚があるのですぐに分かると思う。

私は二十代後半にして初めて首の上に頭を載せるのに成功したので、最初、ポイントを見付けられた時はかなり感激した。即座に肩凝りとはオサラバとなった。


逆に会陰は、内踝の上にすえる。

この状態では、感覚としては、やや前につんのめった印象があるかもしれない。

しかし、これは人体の前後の重心がそう出来ているからであり、安定させるには、膝を緩めていけばよい(ただし、この時も、骨盤の角度を垂直に保つこと。もちろん、膝を緩めなくてもよい。しかし、緩めない場合には、股関節への意識と、その柔軟性が必要である)。

以上で、立てる筈である。


しかし、下から考えて、内踝、会陰、肚、胸、首、頭、頭頂(百会)を一列に載せるというのは、なかなか出来るものではないと思う。

できたとしても、それを持続させるのは、並のことではない。

立つことは、口で説明するより、自分の体で感じてゆくしかない。(全部、そうなのだけど、特に立つのは)


そこで、立つ練習をすることしかないと私は思う。

少し負担の大きい立ち方をすることで、体が「その姿勢じゃツラい」というのを学ばせる方法だ。

具体的には、「空気椅子」か「股割立ち」をする。


空気椅子とは、膝を曲げて、椅子に座ったような姿勢で立つことだ。

余裕があれば、踵を浮かして立つのもよいだろう。

股割立ちも、膝を曲げる運動であり、効果は空気椅子と同じだ。

まず、足を広く開き、次に、足を股関節から外旋させ、足首と膝を同じ方向に向ける(決して、足首や膝を回転させてはならない。股関節だけを旋回させること)。

次に腰を落してゆく。理想的には膝と膝の水平線上に恥骨が来ることだが、股関節の柔軟性がそこまで無い場合は無理をしない。

この股割立ちの方が臀部や肚の力具合が掴めやすいかもしれない。

この姿勢で、踵を浮かすと蹲踞の姿勢となるだろう。


この姿勢は膝に極端に負荷がかかる。

だから、もし、やるならこれから言うことに、本当に注意してやって欲しい。もし、以下のことが出来なかったり意味が分からないなら、やらないこと。


まず、最初は少しの時間しかやらないこと。次に、無理はしないこと。痛みがあれば、絶対に即座にやめること。

そして、これがこの姿勢での体操の肝なのだが、これは足の負担を臀部の負担に移行させる練習なのだと思って欲しい。

落ちて来る体幹の重さを会陰で上に押し上げ、曲がってくる足を臀部と肚の力で押し返すのである。決して足の力を鍛える運動ではない。

普通の感覚で空気椅子をすれば膝に負担が掛かり、膝や太股前部が疲労するだろうが、そうではなくて、臀部と肚の力で足をコントロールして引っ張るようにして欲しい。

踵を浮かした場合も、脹脛の力で浮かすのではなく(そんなことをすれば脹脛はすぐに疲労する)、足首の可動域の限界まで足首を曲げることで、自然に足首が浮いてしまうという状況にすること。そのためには膝を曲げる必要がある。

膝は疲れやすいし、壊れやすいが、肚や臀部はとても強力だ。弱い場所よりも強い場所を使うことを、自然に体で身に付けて欲しい。

そして、そうする中で骨盤を立たせる姿勢が自然に身に付くのではないかと考えている。

とにかく、空気椅子や股割立ちは、体幹を鍛え、強力な骨盤のコントロールを学ぶ運動であることを忘れないように。


上記の運動が正しく行われた場合、確かに疲れるかもしれないが、立ったり歩いたりするのが「軽く」感じることと思う。

立つのも真っ直ぐと感じ、歩くのも床の上を滑るように感じると思う。

これは、勿論、急に負荷が減ったことによる負荷の錯覚や、疲労による麻痺が原因というのもあるだろう。

しかし、無駄な筋肉を使うのをやめた結果であることも見逃せない。体が立ち、歩く効率良い方法を学ぶのである。

そうしたら上記の立つことの説明にあるような身体のパーツを串刺しにするイメージをもって立ってみて欲しい。

きっと、浮くような軽さを感じられる筈だ。


立つことは、こうした運動と確認との繰り返しの中でやっとできることなのかもしれない。

ただ、結果として、やはり、前につんのめる印象は残ると思う。

ほうっておくと、前に倒れそうになり、それが故に、歩き始めてしまうのだ。

これを膝を曲げることで解消してもいいが、歩き出す直前の状態としてキープしておくのもいいのかもしれない。

そうすれば、すぐに動き出せることで、フットワークの軽さも光るし、動くのが億劫でなくなる。

現代人にとっては、どっしりと安定立つよりは、恥骨がやや前に張った状態でやや不安定さは残るが、膝の負担はなく、すらりといつでも動けるように立つのが、いいのかもしれない。

どちらがいいのか、現時点の私には分からない。本当に一長一短に思う。


しかしながら、「理想の」と考えている以上、時代や目的で立ち方があるのは私にとっては気持ち悪い。

やはり「理想」は一つであるべきと信じる。

前回だって様々な歩きがあるのを承知した上で、一つの歩きを「理想」としたのだから。

この文書というかブログは現実の話をしているのではない。

理想の話をしているのだ。

そもそも、殆どの人間がそれなりに生活に問題ない程度に立てていることくらいは私だって知っている。


考えるに、結局は立つとは、歩くことと坐ることの中にあるものと納得するしかないのかもしれない。

膝を曲げれ安定させるのは坐ることの途中ととれるし(事実、「空気椅子」や「股割立ち」「蹲踞」は坐ることに近い)、膝を伸ばせば、歩く一瞬前という感じだ。

考えれば考えるほど、立てば立つほど、理想の立ちは見えてこない。

そして考えれば考えるほど、行住坐臥という言葉の中で、住という字の坐りの悪さを感じずにはいられなくなる。


なぜ「住」なのか?

私はアホでバカで本当に恥ずかしいのだが、分からない。

そして調べることもせずに、妄想で考えて申し訳ないのだが、「住」とは「行」と「坐」との関係の中でのみ、立つにしかならないのではないだろうか?

考えるに、「行」とは行くことであり移動である。また「坐」とは、一箇所に腰を据えて落ち着くことである。

住とは、移動もなく、かといって、腰を据えるでもなく、ただ、「いる」「とどまっている」ということでしかないのではないか?

少し言葉にひっぱられ過ぎたかもしれない。


結局、現時点の私には立つことはよくわからない。

「自然体」は、私にはほど遠い。

残念だ。