2007-03-06

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分かる人には分かって書く意味がないし、分からん人には分からんことを、また少々。

俺らは地球に立っている。いや、球なのかどうか知らないが、とにかく地面に立っているよね?

これ、行住坐臥の時に感じる? つまり「地面があるな」って感じを。

まあ、この意識レベルでバイバイの人だらけだろうけど、もし「うん、地面がある」という意識を持って行住坐臥できる人は更に考えないかな? つまり「んじゃ、地面って何だ?」とか。

まあ、考えんわな、おーけ。バイバイ。


まあいいや。

球だか面だか知らんが、まあ「地」と呼ぼう。

姿勢と呼吸を極めようと思えば、必ず「地」と、それに不随して「天」の問題は外せないよね? 俺たちは地の上、天の下で、構え、呼吸をしているわけ、というか、構えと息は一致してたりするんだけど、まあ、これはまた別の機会でも。

今回考えたいのは、この「地」とは何か? と。

これは重力の問題だ。あんま引力とかって知らんけど、確か引力ってのがあって質量が大きいと物質を引付けるらしい。んで、地球は十分にでかいので、俺ら人とかが引かれてるらしい。個人的には今でも「まじかよ?」って感じだけど、まあ、そういうことらしい。

んで、この地球の引力が重力なわけで、地球が俺らをひっぱるわけだ。んで、そのひっぱってるのが「地」なわけ。

だから土じゃなくても地球の引っぱる力を感じさせるものであれば、それは「地」になる。

つまり、「地」とは重力の主体、というか重力という力の存在そのものなわけだ。「力」とか「存在」「主体」「行為」とかの話もメンドイから別の機会に。


んで、「地」は重力として俺らに働きかける。それだけじゃない、空気やらも重力によって俺らにのしかかっている。

だから、俺らはそれらに姿勢をとる。それは、重力との関係だ。

人類よりも先に重力があり、人類は重力への関係を「這う」より「立つ」ことに求めた。

上へ上へと伸びることで、一見逆説的に、重力と和解したのである。そして、自らの体軸と重力の線を重ねることで、強い中心と軸を持って生きてゆくことになった。


歩くとき、軸を感じられるかどうか。この問いは、歩く時に「地」を感じられるかという問いにつながる。

地が自らの下で動いていること。自らが中心として静止しつつ、重力線と体軸を一致させつつ、足の下の地が動きさってゆくことを感じること。

地の上を歩くのではない。また、地が自分を引くのですらない。

自分が地を引きつけているのであり、地が足の下で動いているのである。

自らの中心と軸の変化の結果として、地が動くのである。これは重力とのたわむれであり、自らが重力を扱うことである。

ここにおいてはじめて、私達は「重さ」を理解し、「力」を理解するだろう。

あくまで、力は己の内部のものである。己の中心を外部に求めてはならない。

重さの力を扱うなかではじめて、私達は動くことを学ぶ。いや、逆か。動く中で、私達は重さを学び、力を学ぶ。

重さと関係しない力はなく、重さと関係しない動きもない。

動きの中に「重」と「力」があることは偶然ではないのだろう。

そして、そのためには、強い軸と中心の意識が必要である。


意味不明。