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2008-05-08

”ふれあい”が人間関係を壊す理由

私は《ふれあう》という言葉が嫌いである。なぜなら、それは端的に人間としての関係を損ねるということだからである。更に言えばコミュニケーションの否定である。

《ふれあい》では相互理解が起こらない

《ふれあい》状態では意見交換は起こらない。馴れ合いが起こるだけである。そして馴れ合いは相互理解を生み出さない。

こうした状態は、両者が均質であることが前提となる。

もしも意見が異なった場合、もっと言えば互いの意見の土台が異なった場合、こうした《ふれあい》ではどうなるか。

決まっている。それまでの力関係がそのまま反映されるだけだ。どちらかが(あるいは場合によっては双方が)無理に合わせるように振る舞っているということになる。

《ふれあい》の場では、「意見」の点においても「思考の土台」の点においても、《強者》は《弱者》を抑圧する。強者は弱者を簡単に黙殺できるのである。

ふれあいを求める心

私達は馴れ合いを好む。だから《ふれあい》を好む。端的に言えば、それは楽だからである。

また、効率的と言ってもいいだろう。少い言葉で意志が伝わる。コミュニケーションのコストが低い。これは素晴しいことだ。

しかし、それでも私は《ふれあい》を推奨はしない。そうした馴れ合い状況とは、相互の意見交換と異なる土台の確認という作業を通じてのみ生じるものであるからだ。そうした状況は結果として生じるに過ぎないものであり、ふれあおうとする姿勢とは欺瞞である。

帰属意識からの脱却

こうした馴れ合いの大きな特徴は、集団や共同体への帰属意識として捉えられるだろう。共同体の論理が則ち、馴れ合うための共通の土台なのである。

こうした共同体の論理が構成員を縛り、外部を排除することは、従来では有利かつ有効に機能したと思える。しかし、状況は変化し、このような共同体への固執は有効に機能しないばかりか、ほとんどの場合には有害である。

現在、私たちが構成するであろう組織や集団は、構成員を拘束するような性格の《論理=制度》を保有することは現実的ではないし、そうした《論理=制度》が外部を排除する性質であることは有害でしかない。

では、どうするか。

まず、私達は率先して自分や相手の思考の土台となるものを疑うということだろう。少なくとも帰属など鼻に掛けないことである。現在は、帰属により信頼の基準を置くような状況ではない。暴力に訴えないということは言うまでもない。

そして、私達は、相互が異なっているということを承認していつつも、人と人が、ある程度の距離の中で共に居られるということを学ぶべきだと思う。そして、常に互いの意見を参考にしつつも、批判を加えたり、拒否できるという安心感が信頼に繋がるのではないかと思える。つまり、こうした相手のコミュニケーション的な理性への信頼が、これまでの共同体の帰属意識を乗り越えるものなのだろう。

そうした懐疑と公共性の確立の結果として、安心し信頼したコミュニケーションがありえるのかもしれない。その結果として「ふれあい」と形容するような状況もあるのかもしれない。ただ何度も繰り返すが、これは結果としてであり、ストレートに「ふれあい」を賛美するような姿勢は欺瞞でしかないだろう。

2008-04-18

ヴィジョンを創造し、共有する対話とは

数字や論理は強力だ。それは会話を支配する。だからこそ、新しい価値を考えたり、未だに存在しない未来を語るにはふさわしくないことがある。人を惹きつける言葉は何か。もっと本能的で情熱的な思考が必要なのではなかろうか。鬱々しい気分を晴らすべく思い付いたことを熱く書いてみた。

  1. 計量的思考を批判し、アナロジーで思考する。ヴィジョン創造や共有においてメタファーは有力な道具となる。というか計量的思考も本質的に言えば一つのアナロジーに過ぎないわけで、一つのものに偏るのは危険である。数字は確かに説得する。しかし情熱を抱かせることはない。情熱を抱かせるのは人間の言葉、物語だけである。そして熱意を立ち上がらせる物語に類推思考は欠かせない。
  2. 常識や論理を懐疑し「正しさ」を再構築する。論理を外面化してもトートロジーを話すだけか、従来の常識を無反省に話すだけになる。常識とは集団が共有した知恵であり、生産的である反面、検証が必要なものである。常識が正しいなどという根拠はない。何故か人間にとって、それが正しいと思わされるということが起こるということだけであり、それは状況の変化にさらされれば、ただの屁理屈になる性格のものである。一方で、常に正しい論理は、たんにトートロジーであるだけであり、それは何も生みださない。「正しさ」の崇拝は危険であるか、不毛である。
  3. 自分を引き付けた言葉そのものを学び、説得力そのものを内面化する。誰しも人の言葉を聞いたり、読んだりして説得されたことがあると思う。その時に、説得された内容を検証することは勿論だが、その説得がなぜ起きたのか、その論理は何か、と問うことも有益である。こうした問いを通じて、論理を自分の内面にしてゆく。そうして生まれた自分だけの語り口が、結局は何かの価値を生み出し、人を説得するのだと思う。常套句とトートロジーによる外面化した論理では新しいものは生まれないし、結局は人を説得はしない。人は人にしか説得されないのだから。

結局は、互いのメタファーに共感できるような人間関係、アナロジー的思考を共有できる対話の場がないから、数字や論理、場の論理による思考が横行してしまうのだろう。意識的に「正しさ」を懐疑したり、アナロジーや物語を紡ぐような場を設けることが大切だ。

更にいえば、新しいものがうまれたり、信頼がうまれるのは、その人の言葉とその人自身が結びついた時だ。その人の経験、それを通じたその人の語り口、仄めかす比喩、それに基づく物語、こうしたものが総合されたものを、私は人の人格と呼びたい。つまるところ、人格とはその人が語る物語であり、その物語を可能にするその人自身である。と、ただのぼやきだが。

正直、気分が滅入った時には、なんというか、徒にこういう文書を書いていると気分が休まる。

効果的活動のための4つの場

どのようにしたら効果的な活動が実現できるのか? その鍵は「対話」が握ると僕は考えている。しかし、自由な対話は時に「場の空気」によって妨害される。それでは対話を促進するような「場」とはどういうものなのだろうか? いま思いつく4つの場をメモしておいた。

†
digi-log: 創造性とコミュニケーションには効率的ではなく効果的な活動が必要 では、創造とコミュニケーションでの成果をあげるための指針を書いた。効果的な活動に必要なことは対話を通じてヴィジョンを共有し、チャレンジを推奨しつつ無駄な「管理」をら、個人が作業に没頭するということであり、逆に、人が悪しき「効率主義」に陥るのは、人の評価を気にしてしまうからだと書いた。

効果的活動の柱となるのは対話である。対話こそがヴィジョンの創造とその共有を可能にする。対話こそが信頼を生み、管理の削減と、個人の試みや没頭を可能にする。対話はクリエーションやコミュニケーションにおける効果的活動に必要不可欠な、新しい価値の創造と共有、相互の信頼を生み出す根源となる。

ミーティングと個々の作業でも、対話は行われるように思える。しかし、それらは効果的に目標を達成しない。このことについて考えてみると、そもそもミーティングにも、それぞれの作業にも二つの性格があるからだということになる。全体として以下の4つの対話の場が必要となるように思う。

  1. ヴィジョン創造の場: 全体の物語が創発する場。個人と個人の創造性がぶつかる。試みが生まれてゆく。「これをすることに意味はあるのか」「目的は何か」「自分たちは何をしたいのか」が問われてゆく。問題解決の技術で書いたIに相当。
  2. ヴィジョン共有の場: ヴィジョンが共有され、個人の仕事の責任が明確となってゆく。試みは企画となる。メンバー間の信頼の調整も行われる。「どうすればいいのか」が問われつつ、不必要な管理が排除される。問題解決の技術で書いたIIに相当。
  3. 個人没頭の場: 信頼と責任に基づき、個人が作業に没頭する。自己裁量の枠内での試みが行われる。
  4. チームプレーの場: 集団で作業を行う。作業を通じてのヴィジョン共有や信頼向上が起こる。

上のように書いてしまえば何のことはない。しかし、現実的に「ヴィジョン創造の場」や「個人没頭の場」が確保されることは少ない。だから、うまくいっている職場には必ずと言ってよいほど、職場の外で、ヴィジョン創造のためにグラスを傾けるコミュニケーションの達人がいたり、個人没頭のために仕事を持ち帰る創造の達人がいる。多くの職場が、そうした隠れた少数の人に支えられている。しかし、往々にして「職場の外」で活動する彼らは通常の評価を得られないことも多い。

単純に言えば、いま欠けている場があれば、そうした場を確保すればよいということになるか。つまりバランスを取ることだろう。人間の関係には様々な対話の場が必要であり、ある状況で行われた対話が、他の状況での対話を促進する。必要な場を確保することがリーダーの役目ということになるのだろうか。

2008-04-14

創造性とコミュニケーションには効率的ではなく効果的な活動が必要

極めて何でもない話。書いてしまったので残しておく。

***

まず言葉を整理しよう。結果に対する「質」的影響を「効果」と呼び、「量」的影響を「効率」と呼ぶことにする。従って、効果的活動は結果の質を高めるだろうし、効率的活動は量を増やすだろう。

私達は往々にして効率を求めてしまい、結果として効果を損ねている。確かに生産労働であれば効率が最優先されるのは当然である。しかし、創造性とコミュニケーションを発揮するべき状況で、効率を追うことは危険である。効率的な作業が、効果的な活動を抑圧してしまうからである。

ある上司と部下がいたとする。上司が部下に「頑張ってくれ。やればできる」と毎回励ます。部下は次第にやる気を失ってゆく。上司は今度は「やる気を出してくれ」と言う。部下はどう思うだろうか。

また、ある男女がいたとする。女が男に「かまってくれない」と不平を言う。男は「そんなことはない」と反論する。「だって、夕食も週に3回は共にしているし、休日も一日は家族のために充てているじゃないか。年に二回も旅行に行っているし。そのために僕がどれだけ努力をして時間を割いていると思ってるんだ」女はどう思うだろう。

量的な価値への関心は、創造性や人間関係を損ねることはあれ、満足させることはない。私たちの関心や興味は、最終的には質的な価値によってしか満足させられないのだから。

なぜ私達は効率を求めてしまうのだろう。すぐに思いつくのは、量的な価値は、定量的な測定がしやすいということ。一方で質を定量的に計算することは難しい。つまり、質よりも量の方が評価の基準となりやすいのだ。

だから結果を求めるよりも、人からの評価を求めるとき、私達は効率を追い求めてしまう。そして、己の労働を誇り、自己の正当性を強調する。求められているのが満足である限り、量的な追求は意味をなさないのにも関わらず。常に評価の基準は己を隠蔽しつつ、人々を物陰から支配し、やがて誰もが憧れる目的として君臨するものである。

***

効果的な活動とはどうしたものだろうか。本当に効果のある活動のために留意すべきことは何か。よく分からない。そこで思いついたことをリストにするという逃げをうつことにする。

  1. 対話を重視する。会話のノイズを恐れないこと。何気ない世間話はもちろんのこと、表情、姿勢、仕草といった情報を交換していることが、大切な問題や思い切った意見を話すときに大きな助けとなる。
  2. 物語・ヴィジョン・成果を共有する。「自分が何をしようとしているのか」「その意味は何か」を問わない人間はいない。情熱を生み出すには劇的な物語が有効。それぞれの人間の未来を描いてゆく物語、組織全体の未来へ向かう物語、それぞれの仕事が顧客との関係で語られてゆく物語を共有してゆくことが大切だ。「こんなことをしていても意味がない」ではいい仕事にはならない。魅力的なヴィジョンを皆で共有するように努力したい。もちろん、こうした物語は対話を通じて創発されるものでなければならない。
  3. 「試み」を歓迎する。失敗も歓迎する。アイディアは「試み」としてうまれる。完全な「企て」つまり企画としては登場しない。試みに何かをする自由を歓迎する必要がある。もしも、試みの推奨で組織が上手くいかないのならば、それは組織のヴィジョンそのものか、構成員の能力に致命的な問題がある。
  4. その「管理」は本当に必要なのかを常に問う。対話はいつのまにか管理へと堕す。だからこそ常に「その管理」は必要なのかを問う姿勢が必要である。もちろん、ある種の効率の追求は推奨されるべきである。しかし、その効率の追求である管理が、創造性とコミュニケーションを奪っていないのかに常に配慮する必要がある。
  5. 個人が個人として作業に没頭できるようにする。個人が個人としての力を十分に発揮できるのは、彼が仕事に没頭しているときである。急かされたり、焦らされたりしている状況ではない。だから、一人一人が信頼され、自分への自身を持って作業に没頭できるような配慮が必要である。

一般には、以上とは逆の状況が起こりやすい。対話はなく、当然にヴィジョンの共有は起こらない。同時に新しいアイディアも産まれない。その理由は、そうしたことに割ける時間がないからである。一方で、想像やコミュニケーションとは無縁の形式だけの「管理」(会議と書類)には膨大な時間が割かれ、一人一人は怠慢を疑われつつ労働をチェックされ続け、仕事に没頭できる環境が与えられない。

と、いう訳で極めて何でもない結論。書いてしまったので残しておく。

2007-11-24

デスマでのプロマネで感じた3つの改善点

ある現場でプロマネをさせていただいた機会があり、プロジェクト管理について思ったことを書いておきます。

(1) 対話は投資 - もっとも効果的で有効な情報伝達方法は会話

今回の失敗の大きな部分はコミュニケーション上の失敗によるものと思われました。

その現場でのプロマネの前任者は OSS な BTS で、客との課題管理から不具合改修や要望の管理に利用していました。改善のために必要な質問も BTS 上で書かれるため、即時性のあるコミュニケーションが図れず、意思の疎通が十分でないまま時間が流れ続け、土壇場になって仕様が詰まっていないという状況になっていました。

また、内部の基本的なコミュニケーションも BTS でのアサインと IM であったため十分な客側の要求がPGに伝えられず、要求と実装に齟齬が発生し続けていました。

同時に、開発者と顧客が直接 IM や BTS でコミュニケーションが図れてしまい、情報が分散し、全て顧客に情報を晒してしまうという問題もありました。

今回の PM の経験を通じ「対話は投資」ということを実感しました。また、

開発チーム内で情報伝達を行う効果的で有効な方法は、Face to Faceによる会話である。
というアジャイルソフトウェア開発の原則も想起致しました。

(2) ヴィジョンを共有すること

前項と深く関係しますが、関係者のミーティングがきちんと開かれることはなく、私がプロジェクトのメンバーに紹介されるミーティングすらありませんでした。私は個別のPGと会話をして関係を構築しましたが、PGはSEに対し軽蔑に近い感情でいました(「あいつらプログラム分からない」「うちのSEはSEの面汚し」)。

PGにプロジェクトの全体の流れは把握する機会はありません。PMやSEはリソースとしてのPGを取り合っており、PGは一つの仕事をすれば、即座に他のプロジェクトの仕事を任されるという状況であした。プロジェクトへの専任はおろか、自分の出したバグを自分で改修することもできず、作った人が見たらすぐに直せるであろうバグを、ソースの理解から始めなければならないという状況でした。

上記の状況下ではPGがプロジェクトへのモチベーションを維持することは難しく、また、自己のプログラマーとしての成長の機会も奪われています。PGは「前のとこよりはマシだから」といいながらコーディング作業に従事していました。

こうした対話を通じ、以下のヴィジョンを提供・共有することの重要性を痛感しました。

  1. 自己のプログラマーとしての成長のヴィジョン
  2. プロジェクトの成功のヴィジョン
  3. 会社の成功のヴィジョン

(3) 開発者に集中状態に入る状況を与えること

以下の状態に置かれたPGは、当然集中状態に入れません。

  1. 営業やSE, PMの電話や怒鳴り声
  2. 常に飛び交うIM、メール(しかも見ていないと「見てよ」と怒られる)
  3. SEから急に割り込みで頼まれる緊急のタスク

集中状態に入れないことで、PGはかなり無駄な時間を過ごしていることに気がつきました。

十分なコミュニケーションによって一定量の仕事をアサインした後は、PGは静寂に包んであげるべきと強く感じました。

一人のプログラマは「うるさいやつらはどっかにやって、開発メンバーがちゃぶ台を囲んで、濃いコミュニケーションをとりながら開発ができたら」と言っていました。

営業・マーケティングの視点も重要ですが、開発者にはとにかく集中状態に入る権利を与えるべきと感じました。

2006-11-22

孤独のコミュニケーション

簡単にメモ。別に二つに類型化してどちらかを批判したいわけじゃない。

よくある「コミュニケーション」
→ 伝達より娯楽が目的
→ 個人より「場」を重視
→ 集団の中に個は埋没。個人の「役者化」
→ 言葉すら集団化(ex. オヤジギャグ、ギャル語、2ch語)

「ショッピングとは最大の娯楽である」
「コミュニケーションとは最大の娯楽である」
→ 「報酬系快楽」の悪用

孤独のコミュニケーション
→ 自己の奥底から湧き上がる言葉
→ 理解と不理解のギリギリを渡り合う
→ 孤としての個がぶつかり、偶然としての場ができる