2008-04-14

創造性とコミュニケーションには効率的ではなく効果的な活動が必要

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極めて何でもない話。書いてしまったので残しておく。

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まず言葉を整理しよう。結果に対する「質」的影響を「効果」と呼び、「量」的影響を「効率」と呼ぶことにする。従って、効果的活動は結果の質を高めるだろうし、効率的活動は量を増やすだろう。

私達は往々にして効率を求めてしまい、結果として効果を損ねている。確かに生産労働であれば効率が最優先されるのは当然である。しかし、創造性とコミュニケーションを発揮するべき状況で、効率を追うことは危険である。効率的な作業が、効果的な活動を抑圧してしまうからである。

ある上司と部下がいたとする。上司が部下に「頑張ってくれ。やればできる」と毎回励ます。部下は次第にやる気を失ってゆく。上司は今度は「やる気を出してくれ」と言う。部下はどう思うだろうか。

また、ある男女がいたとする。女が男に「かまってくれない」と不平を言う。男は「そんなことはない」と反論する。「だって、夕食も週に3回は共にしているし、休日も一日は家族のために充てているじゃないか。年に二回も旅行に行っているし。そのために僕がどれだけ努力をして時間を割いていると思ってるんだ」女はどう思うだろう。

量的な価値への関心は、創造性や人間関係を損ねることはあれ、満足させることはない。私たちの関心や興味は、最終的には質的な価値によってしか満足させられないのだから。

なぜ私達は効率を求めてしまうのだろう。すぐに思いつくのは、量的な価値は、定量的な測定がしやすいということ。一方で質を定量的に計算することは難しい。つまり、質よりも量の方が評価の基準となりやすいのだ。

だから結果を求めるよりも、人からの評価を求めるとき、私達は効率を追い求めてしまう。そして、己の労働を誇り、自己の正当性を強調する。求められているのが満足である限り、量的な追求は意味をなさないのにも関わらず。常に評価の基準は己を隠蔽しつつ、人々を物陰から支配し、やがて誰もが憧れる目的として君臨するものである。

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効果的な活動とはどうしたものだろうか。本当に効果のある活動のために留意すべきことは何か。よく分からない。そこで思いついたことをリストにするという逃げをうつことにする。

  1. 対話を重視する。会話のノイズを恐れないこと。何気ない世間話はもちろんのこと、表情、姿勢、仕草といった情報を交換していることが、大切な問題や思い切った意見を話すときに大きな助けとなる。
  2. 物語・ヴィジョン・成果を共有する。「自分が何をしようとしているのか」「その意味は何か」を問わない人間はいない。情熱を生み出すには劇的な物語が有効。それぞれの人間の未来を描いてゆく物語、組織全体の未来へ向かう物語、それぞれの仕事が顧客との関係で語られてゆく物語を共有してゆくことが大切だ。「こんなことをしていても意味がない」ではいい仕事にはならない。魅力的なヴィジョンを皆で共有するように努力したい。もちろん、こうした物語は対話を通じて創発されるものでなければならない。
  3. 「試み」を歓迎する。失敗も歓迎する。アイディアは「試み」としてうまれる。完全な「企て」つまり企画としては登場しない。試みに何かをする自由を歓迎する必要がある。もしも、試みの推奨で組織が上手くいかないのならば、それは組織のヴィジョンそのものか、構成員の能力に致命的な問題がある。
  4. その「管理」は本当に必要なのかを常に問う。対話はいつのまにか管理へと堕す。だからこそ常に「その管理」は必要なのかを問う姿勢が必要である。もちろん、ある種の効率の追求は推奨されるべきである。しかし、その効率の追求である管理が、創造性とコミュニケーションを奪っていないのかに常に配慮する必要がある。
  5. 個人が個人として作業に没頭できるようにする。個人が個人としての力を十分に発揮できるのは、彼が仕事に没頭しているときである。急かされたり、焦らされたりしている状況ではない。だから、一人一人が信頼され、自分への自身を持って作業に没頭できるような配慮が必要である。

一般には、以上とは逆の状況が起こりやすい。対話はなく、当然にヴィジョンの共有は起こらない。同時に新しいアイディアも産まれない。その理由は、そうしたことに割ける時間がないからである。一方で、想像やコミュニケーションとは無縁の形式だけの「管理」(会議と書類)には膨大な時間が割かれ、一人一人は怠慢を疑われつつ労働をチェックされ続け、仕事に没頭できる環境が与えられない。

と、いう訳で極めて何でもない結論。書いてしまったので残しておく。