本書は時間を有効利用する方法を200個あつめた本です。1955年に書かれた本であるが、PCやFAXの話が出てこないくらいで古くなっているとは感じませんでした。
大きく分けて以下のような分類になっています。
- 朝
- 日々の勤め
- 仕事を組織化する
- 一時には一事に専念する
- リラクゼーション
- 怠惰を排す
- 読書と記憶
- テクノロジーを利用する
- 雑務
- 主婦
私が興味を持ったポイントを書いておきます。

一人での貧乏旅行の心得 - G.A.W.という記事を見たら十代の時に3ヶ月ほどヨーロッパとアフリカ、パキスタンあたりを旅行したことを思い出した。その時の経験と知恵について書いておく。
ストレスから開放するための、有力な答の一つは「休日を休日として楽しむ」ことです。しかし、それは慣れないうちは難しいかもしれません。もちろん、お金も何もかかりません。ただ、少しだけ覚悟と準備が必要なだけです。
ストレスから開放されるにはどうしたらよいでしょうか。一つの答は苦しめているものから離れることです。休日であれば自由にストレスの原因から離れることができるはずです。
そのためには思い切って日常から離れることが大切です。とはいえ、これは遠くにいくということではありません。日常の複雑さと世話しなさから離れるということです。複雑でせわしないなまま、ストレスを開放しようと思っても上手くいくはずがありません。
だから休日には思い切ってシンプルでスローな一日を演出するのが効果的だと思います。そうした一日を生活に取り入れることで、ストレスを開放し、平日にしっかりと働けるようになるのだと思います。
シンプルでスローな暮らしに切り替えるにはどうしたらいいでしょうか。複雑でせわしない日常が私たちにしみついているので、なかなか切り替えられないものです。
一つのヒントとして、「3つのC」を無くすことを私は提案しています。それは以下のものです。
自分をストレスから開放してあげる日には、この三つを無くしてあげるのが大切だと思います。
まず休日なので「通勤」を無くすのは簡単と思うかもしれません。
ただ考えて下さい。休日であっても車や電車に乗るのでは、「通勤」と何も変わらないのではないでしょうか? 買物や旅先に「通勤」しているのではないでしょうか。
勿論、日々の暮らしに慣れているので、それが特に複雑でせわしないとは思わないことと思います。しかし車に乗ればせわしなく複雑な操作が必要ですし、騒音と他の人の中での判断に迫られます。電車の移動でも同じことです。乗り物に乗ることはストレスなのです。
これでは、あなたの心は休まりません。
できれば移動はしない方がよいでしょう。歩くくらいにして、ゆっくりとシンプルな一日を守ることが大切です。
旅行するのならば最低一日は乗り物に乗らない日を作った方がよいでしょう。
「通勤」を無くす予定を組めたら次はコミュニケーションを無くせるように計画しましょう。具体的には一切の通信機器の電源をオフにすることです。
理想的には一人がいいと思いますが、安心できる人とゆっくりするのはいいかと思います。大切なのは雑多なメッセージを一掃することです。
「急な連絡があったら」と思うかもしれませんが、人はそんなに急な連絡が沢山ある訳じゃありません。きちんと予定すれば数日間の間、連絡を断つことは可能だと思います。それに、自分を電話やメールから開放させておくために、信頼できる人間に連絡の仲介役を頼んでおくのもよいでしょう。家族がいればそれほど難しい問題ではありません。
常に電話が掛かってくる可能性がある環境では、無意識に常に電話に出る準備をしてしまうものです。あなたもふと電話が鳴った空耳がしたり、メールの着信があったような気がして鳴ってもいない携帯を見たりしたことがあるでしょう。そういうストレスの中ではリラックスできません。
ゆっくりと一日、自分との対話、大切な人との対話を楽しむべきです。そうした時間をしっかりと確保しなければなりません。
「通勤」と雑多な「コミュニケーション」の排除が成功したら、「コンピュータ」を隠して下さい。ここで「コンピュータ」とは情報家電一般を指しますので、テレビやラジオ、オーディオなども布で覆って下さい。
人からの着信がなくても、コンピュータを開いてネットで検索を初めたら元も子もありません。テレビやオーディオを聴いていてもメッセージが次々と飛び込んできます。
日常で慣れているから感じないでしょうが、ネットは細かい情報がめまぐるしくリンクしていてあなたの好奇心を刺激し続けます。テレビやオーディオも同じことです。常にせわしなくあなたを刺激して、少しでも目を惹こうとしているのですから。
思い切って情報家電に布を掛けて下さい。それだけで家が静かで広く感じられると思います。
3Cを取り上げられると「じゃあ、何をしたらいいの?」と思うことでしょう。ドライブもできないし、テレビもメールも電話もできません。それなら寝るだけになってしまう人も多いことでしょう。
その答は「何もしないこと」です。
あなたは「何もしないこと」ができるでしょうか?「何もしないこと」が心を癒すのです。つまり、「何もしないこと」がストレスフルなあなたに必要なことなのです。
何を想うでもなく坐ったり、何を見るでもなく外を眺めたり、どこに行くでもなく歩いたりする……。あなたは想像しただけで怖気づくかもしれません。「そんな無駄はしたくない」と考えるかもしれません。ただ、その無駄が必要なのです。
その途中で不安やイライラが出てくるかもしれません。そしたら、それを受け入れて、それも自分の心なんだと静かに眺めてゆくしかないでしょう。「飽きた」「無意味」などと、車のキーや電源ボタンへと手が伸びる言い訳が出てくることでしょう。そうした自分の心を眺めていると、本質的なストレスの原因が見えてくるものです。
ただ、あまりに刺激が欲しくなってしまったら、そうなったで仕方ないことではあります。無理をすることはありません。ただ、その際にもゆっくり、シンプルに行動するように気をつけて下さい。無意識に動くと習慣でせわしなく動いてしまいます。
それこそ、ゆっくりと、シンプルでゆっくりとして暮らしに慣らしてゆけばよいと思います。
現代では子供の時からゆっくりとしたシンプルな暮らしを経験したことが無い人が沢山いると思います。家庭、学校、会社……と常に人の気をつかい続け、一人になってもテレビ、ケータイ、ネット、オーディオ、ヴィデオが次から次へと刺激を与え続けます。頭は常に興奮しっ放しです。これでは脳が異常になるのは目に見えています。
早急にこうした現代人のために、しっかりとしたストレスを開放させる取り組み(「何もしない」ための取り組みですが……)が必要になるんじゃないかと思います。
例えばヨーガや気功、坐禅や瞑想、茶道や書道などは重要な文化として再び注目されることと思います。複雑さとせわしなさは、これから更に爆発的な勢いで上昇してゆくでしょうから。
少しだけ、部屋の模様替えをした。人生で何度レイアウトをかえたのか分からないが、今回は風水をヒントにしてみた。とても落ち着いた気分で「そりゃそうだ」という気分になった。全然よくわかってないのだけど、ポイントをメモしておく。
あとイスを「生気」という方向に向けることが何よりも大切らしい。僕の場合には偶然に壁に背を向けると生気という方角を向くようになった。こういう智恵というのも備えておくと、どちらでもいいことをさくっと決めるときに便利な気がした。
寝つきをよくするために心がけていることをリストアップした。
僕は眠るのが下手だ。それが僕の人生のかなりの負担なんじゃないかと思うことがよくある。
僕はたびたび夜中に目が冴える。特に午前2時だ。この時間に頭がキーンと研ぎ澄まされてしまうと、どんなに頑張っても寝つけない。そして、空が白くなってからやっと眠りに付くのだが、そうなると次の日の行動は冴えないものになってしまう。こうして、いろいろと失敗を犯していると感じている。
眠るのが下手なのは何故だろうか。そう考えると色々と原因が思い浮かび、対策も浮かんでくるものだ。僕は身体に詳しくない。だから迷信のようなものだが、睡眠に問題を抱える人に対し、いくらかは参考になるかもしれない。
(1) 22時以降に興味のあるメディアに触れない。 つまり、22時以降には強制的に本やネット、ビデオ、写真などに触れないようにするということだ。
考えてみたら、人間の頭というのは空腹時に働くわけで、夕御飯という最大の栄養を消化した夜中が頭が冴えるのは当然とも言える。エネルギーはあるのだ。だから、そのエネルギーには、火を絶対に付けてはならない。
(2) たまに夕御飯を抜く。これは、上の逆の発想。エネルギーを脳に与えないという作戦だ。おやつを多めに食べてみて、夕御飯を食べずに早めに布団に入ってみるとよい。次の朝は早くに目が覚め、朝食をおいしく食べられる。早寝習慣のよいブートストラップとなるはずだ。
ただ、あまりにもお腹が減ると眠れないこともあるらしい(ちなみに、僕にはその経験がない)。そういう人は、オーソドックスだが、温めた牛乳を飲んだり、フルーツを食べるとよいんじゃないかと思う。
(3) 蝋燭の日を作る。そもそも、夜に電気がついていることが脳を覚醒させてしまうのだと思う。毎日というわけにはいかないが、電気を使わない日を作るとよいと思う。日が来れたら蝋燭を灯すのだ。そして、お気に入りの音楽を聴いたり、ゆっくりとお酒を飲んだり、ストレッチしたり、瞑想したりする。
そもそも電気が使えないと、本も読めないし、ネットもテレビも駄目だ。当然に早寝するしかなくなるだろう。また、僕は友人が泊まりに来るときにも蝋燭にすることで、ついつい語り合いすぎて夜更ししてしまうのを避けるようにしている。
(4) 夕食後にパソコンを利用しないを日を作る。 これは毎日でもいいのだが、なかなかそういうわけにはいかないから。とかくディスプレイの光は脳を覚醒させると思う。だから、夕食の後にはディスプレイは見ないという日を作るとよいと思う。なにか書きたいことや調べたいことがあれば手書きのメモで残しておくとよいと思う。
(5) 瞑想する。 「またかよ」と思われるだろうが、瞑想は不眠にも効果的と思う。お腹の動きを感じていると、無意味な頭の興奮がおさまる。頭に血が昇っていると眠れないわけで、静かに腹に血が集まる瞑想は有効だ。別に怪しいモードになる必要はなく、呼吸のたびに自分のお腹がどう動くかを感じたり、首筋や肩に意識を集中して緊張を解くだけで十分だ。
夕食を抜いたり、蝋燭の日を作ることで、僕の生活は幾分かは改善されている。そして、早起きをして朝日を浴び、朝食をおいしく食べることができる。一日は気持ちよく始まるというわけだ。
ところで、朝食がおいしいというのは、一番しあわせで本当においしいと感じるのは何故なのだろうか。
以前、私は寝つきも悪く目覚めも悪かった。それが最近、両方よくなった。
寝つきがよくなった一つとしてヨーガや坐禅のようなことをしているからだと思う。頭に上っていた意識を腹に落とすことで緊張が解けたのだと思う。宗教的なのが嫌いな人は(私がそうなのだが)別にただ十分ほど、呼吸によって下っ腹が動いているのを意識し続けるだけで十分だと思う。
また、ヨーガをすることで背中が意外にガチガチになっていることも知った。こうした背中や腰、首や肩のコリをとることで睡眠の質も向上したのだと思う。忙しくても、前屈系を一つか二つ、ひねりを一つはやるようにしている。
目覚めが強くなったのは、大学時代に朝の駅のバイトをして毎朝六時前には必ず起きねばならないという状況を作ったのがよかったのかもしれない。「自分は朝に強い」という自己暗示ができている気がする。以後、朝に強いと人にも言うし、自分でもそう思っている。
そう言えば、暗示というのは不思議なもので、実際に効果がある。「明日は絶対に○○時に起きる」と念じながら寝れば、大概、その数分前には目が覚める。大切な日の朝、こういう経験をされた方も多いのではなかろうか。これにもコツがあって、時計のイメージを頭に浮かべるのがいいという人もいるし、枕を叩くのがいいという人もいる(起きる時間の数を叩く人と、眠る時間数を叩く人がいる)。
他には、目覚まし時計に「スヌーズ機能」とやらがついているおかげもある。耳慣れない言葉だが、目覚ましを一度止めても、もう一度アラームが鳴るような機能である。「あと五分」派の強い味方である。
あまりやっていないが、枕元に濡れタオルを置いておき、目覚めたら即座に顔をゴシゴシやるという手もある。顔を洗う手間も省け一石二鳥である。また、古典的だが、梅干や水差しを置いておくという手もある。
最近は短眠を習得したいと思っている。昔は寝られなくて、数時間で起きてしまい、憂鬱な朝に呆然とすることになるのが困りものだったが、最近はただのよく寝る人になってしまった。それはそれで有難いことで体調が良くなっているのだが、やはりベストは短眠ですっきりと充実して仕事をすることかと思う。
私は大食漢であるので、最近は、小食・節食を心がけて内臓を疲れさせないようにしようと考えている。これが効果があり朝に内臓が重い感じがなくなる。やはり食べ過ぎていたのだな、と感じるし、「気分」や「目覚め」などの大部分は、内臓の不快感に寄るものだったかと感じる。
ちなみに昨晩は食べ過ぎた。結果、内蔵が重くてなかなか起きられなかった。情けない。
正月に痛く痛感したことがあるので、愚痴だが書く。
世の中には二種類の人間がある。予定が立てられる人間と、立てられない人間だ。実は私は「立てられない」方の人間であった。しかし、最近は「立てる」人間になり、立てられない人間と一緒に行動するのが苦痛でたまらない。言葉の壁より、予定を立てられるか立てられないかの違いの壁のほうが、重要な壁に感じる。
予定が立てられるというのは、自分の行動の見積もりができるということである。例えば、人と夕食をとることにしよう。そのとき突然に、その夕食の後に会いたいという連絡が入ったら、予定が立てられる人なら、夕食の時間を見積もり、移動時間も含めて十分余裕のある予定を組み、夕食を共にする人にも一緒にすごせる時間をことわるだろう。
予定が立てられない人というは、行動の見積もりができない。先の例であれば、夕食の時間がどれくらい掛かるか分からず、連絡をくれた人にはいい加減な返事をし、夕食を共にする人の前で、その後に会いたがる人からの急かす電話を受けることになる。
予定が立てられず、常に次の予定に急かされている人を見て、私は自分が予定を立てられる人間でよかったと思う。
とはいえ、予定を立てるのは難しいことではない。行動にかかる時間を見積もる習慣の有無の差であると思う。例えば、食事にどれくらいの時間がかかるかを把握したり、それがどのような形態(例えばコース料理を食べるか、牛丼を食べるか)だとどれくらいかを日ごろから把握しているというようなことだけである。また、特に酒を飲んだ場合には、話す内容がある場合などで、見積もりをすることになる。
特に話にどれくらいの時間を掛けるのかは、話す内容も規定する。同じ内容であっても、三十秒、三分、三十分、二時間では、同じ内容ではないほどに伝達される内容の意味が変わってしまう。変なタイミングで長い時間を掛けるべき話題を選んでもだめだし、逆に長く話せるときに短い時間で十分な話題で引っ張ってしまうと無駄な気分になる(酒をのむとやりがちな失敗である)。
私は人と話す前には、話題と時間の目安を予めメモ帳に準備しておくことにしている。もちろん、メモ帳とにらめっこしながら話すのではなく、漠然と頭に入れておいてその場の流れで話題は変わるのであるが、ちょっとした間にメモ帳を見て、話し忘れた話題がないかを確認するのに使っている。これで、人と話して変な間ができたり、逆に無為な空談に時間を使い、話すべき話をするのを忘れてしまうことがなくなった。さらに、予め時間を見積もってあるので、切り上げるタイミングも明確であり(最初に「じゃあ、今日は何時まで」言ってある)、だらだらとすることもなくなった。
ほかに、見積もりというのは大げさだが、トイレに掛かる時間を見積もっておくのも重要だと思う。あと数分で電車が来るときに、トイレに行けるかいけないかという場面は多いと思うのだが、たまにそうした判断ができない人がいる。これはトイレが実はそれほどに時間をとらないことを知っていれば解決する問題だと思う。
ところで、予定を立てるようになると、予定を立てられない人間と一緒にいるのがつらくてたまらなくなる。事前に何時に終わるのか分からない飲み会がつらくてたまらない。
このところ二連続で昔の友人と部屋呑みをしたのだが、いつ寝られるのかが気になるし、まあ、それはそれとしてせっかくの機会だからとその場に集中しているのだが、なんとなくだらだらとメールをしたり、ほかの作業をされたりすると、「俺が折角時間を割いているんだから、そんなことは別れた後でしてくれ」と殴りたくなる。というか、殴ってしまった。うーん。
やはり、集合時間を守らないやつは付き合えないし、集合したらその場に没頭して、解散時間にはさくっと別れる、こういう関係でいたい。だんだん、年をとると若いころのように体力勝負でだらだらとしてるのはつらい。
私は風呂が好きである。
しかし、温泉や銭湯の類は好まない。他人がいては、私にとって満足な風呂の浸かり方ができないからである。
私は湯船に頭までつかる。嘘ではない。本当に頭まで浸かる。天井を向いて、そのまま沈むのである。呼吸の必要があるので、結果として口と鼻だけを出して、あとは目も耳もお湯の中である。頭は湯に浮くので、首の力を完全に脱くこともできる。
こうして湯の中に口と鼻以外浸かると、頭皮や顔面が温まり、緊張が取れやすい。湯の中で軽くマッサージすると尚よいだろう。私は割に「ほんわり」とか「ぼー」っという状況を経験しない人間だが、この浸かり方をすると頭も顔もほかほかなので「ほんわか」とする。顔の緊張を取るために蒸しタオルなど使っているのなら、この入浴法を試すとよいと思う。
しかし、これはいくつかの手順を踏まないと、極めて迷惑な浸かり方である。なにせ頭皮が湯に入るので、髪が抜けやすい。だから、髪を拾うことにしている。加えていえば、髪が汚れていたら湯を汚してしまう。だから、頭を湯に浸ける前には頭を洗うか、最低限、濯がねばならない。
また、危険も多い。まず、何かの拍子に体制を崩すと、逆向きになった鼻の穴に湯が流れ込む。ほぼ拷問である。加えていうと、目を閉じている訳で、仮に寝てしまったとすると大変なことになるだろう。注意が必要である。
私の入浴はこれに終わらない。更に私は顔から潜るのである。さっきのが「仰向け」だったので、「俯せ」になるのである。
だいたい 5-8 秒ほど吸気して潜り、10-16秒ほど息を止め、20-32秒ほど息を吐く。これを何セットか行う。静かに潜る時もあれば、湯の中で魚になった気分でうねうねと体幹を動かしたりするときもある。
まあ、大体この二つは湯船でやることだが、他には冷水を浴びたり(小五〜高一までは毎日やっていた。高一の時、健康診断で不整脈が出たのでやめた。でも、最近は再びやるようになってきた)、湯に打たれながら前屈をしたりもする。前屈して伸ばした背中にシャワーを当てると気持ちいいのである。
こうしたことは、もしかしたら体に悪いのかもしれない。よく分からないので、真似しないことをおすすめする。
南直哉『日常生活のなかの禅』に性欲のコントロールについて具体的に述べてあるのでメモしておく。
1. 異性を見ない環境
2. 自然との接触 - 人工物に囲まれると自然を求める本能が内向して性欲になるとのこと。
3. 単調、単純な人間関係と生活 - ストレスが性欲を刺激する。
4. 野菜中心の食事と6時間程度の睡眠 - この程度の節食、節眠が妥当とのこと。
5. 坐禅 - 切り札とのこと。
6. 意志と生活スタイルを共有する仲間 - 最後にして最も重要とのこと。
ただ、こうした方法をもってしても駄目みたいである。
しかしながら、以上をそろえて実行しても、性欲を完全にコントロールすることは不可能である。ましてや性欲そのものを消滅させるなど、尋常な方法では無理であろう。
また、以前に読んだヨーガの本にも、禁欲とはかなりの覚悟を持ってしないと危険と書いてあったと思う。それに、こうしたことが「苦行」になってしまうと仏教の教えに反するとも思う。思うに、禁欲するのではなく、修行の進んだ結果、禁欲のようになるのだろう。
それなら、なぜ性欲のコントロールについてメモをしたかと言うと、上の方法はどれも取り入れたい生活のスタイルだからである。自然の中で単調に暮らし、節食、節眠しつつ坐禅をすること自体は、とても受け入れやすい。
私ほど貧乏な人間もいないと思うが、お金の心得を偉そうに書いてみる。参考にしないように。
節約とか大切だが、いざ使う時には「ああ、お金があってよかった」と思って使うのが大切である。まちがっても「あーあ、何でこんなことにカネ使わなきゃならんかねぇ……」などと考えながら使うべきではない。ロクなことがない。
無理矢理でもいいから「お金があってよかった」と心の中で唱えるとよい。そうすると、その消費で得た財なりサービスなりが楽しいものに思えてくるから不思議である。
「なんで、ここのビールは高いんだ」「あーあ、交通費だけで……」は禁物である。「お金があって、ここでこうして仲間とビールが飲めてありがたい」「こうして移動ができてありがたい」と無理をしてでも唱えるべきである。
金を使う時は楽しめ! 楽しむためには感謝しろ! である。
ちなみに人が使ったお金にも「なにも、そんな無駄なもの」はアウト。「それは、よかった」と言うべきである。
使ったお金に無駄もなにもない。ただ、あったこと、使えたことに感謝である。「それだけ使えてよかったね。楽しかったでしょ」
金を貸した時には、あげたものだと思うことである。「いくら貸しただろう」「いつ返してくれるだろう」などと思っていると、ロクなことがない。
そして返してくれた時には、感謝しよう。返すのは当然という態度だとロクなことがない。
ちなみに人に金を貸す時には大目に貸してあげるもんだし、「困ってるだろうから……」などと恩着せがましく言って貸すのはサイアクである。恩を着せようと思うと変な期待になる。期待を捨てれば心は平安である。
また相手だって「悪いなあ」と思いながら金を受け取ったのでは、ロクなことがない。「いい奴だな。ありがたいな」と思えるように金を渡さなければ、両方のためにならない。それなら、金を渡さない方がマシである。
「お前ならきっと大丈夫だろうけど、ちょっとは役に立つんじゃないかと思って」とか「いや、このお金、そっちの方がいい働きができるだろうから」とか言うのがコツである。きっと、いいことがある。
いつか「この金でお前の好きな温泉でも行って来い」とか「好きな○○でも買いなさい」と言えるようになりたいものである。
金がないときに限って、飲み会やらに呼ばれるものであるが、断わるべきである。間違っても借りようとしたり、ゴチ目当てになってはいけない。
また「金がないから」というのもアウト。当然、相手は「じゃ、出すよ」ということになってしまうじゃないか。
まあ、相手が率先してゴチしてくれるというなら、それほど目くじら立てることもないか。
お金を使うのは、それが投資となり、未来の自分に役立つから、自分を成長させてくれるから、楽しいのである。服も、マッサージなども、そう考えて使うとよい。
疲れた自分へのご褒美、慰謝と考えてお金を使うとロクなことはない。「あんだけ働いたんだから、こんだけ使ってもいいだろう」という発想は、何もストレスを解決しない。後ろ向きである。お金は前向きに使わないとロクなことがない。
人は成長にのみ本当の喜びを感じられると思う。浪費しても興奮や陶酔はあるだろうが、それはすぐに醒めてしまうだろう。
疲れたら休むべきであって浪費をしても特はない。
人間どういう訳か大きな買物をする時には太っ腹になる。普段は198円か268円かで大騒ぎして「賢い主婦」ぶる女性も、家を買うとなれば「キッチン充実」の一言で2198万円も2268万円もなくなる。「だって一生の買物だから」と言うならお値段も慎重にするべきである。これは女性にだけじゃなく、全ての人間にあてはまる問題である。
付言するならばそうして追加した設備が、その値段ぶんの満足を与えてくれることはない。使えば皆同じなのである。比較するから違いとして見える訳で、住み続ければそういうものなのだと受け入れられる。
大体、車でもパソコンでも買うとなるとオプションを付けられそうになるが、そんなものは値段分の働きをすることはまずない。付けたら付けたで、それは使うこともあるかもしれないが、ないならないで問題は生じないものである。
是非とも冷静になってもらいたい。
また、皆が金がなくて困っている時にも「それじゃ、俺が」となりがちであるが、これもダメである。何の役にも立たない。金がないときには、ないなりの行動をするしかない。
それと商品が少額で「その程度なら」とか思って金を使うのもよくない。それが必要なら高くても払い、それが不必要ならどんなに安くても買うべきではない。
上ともからむが、そもそも家、車、旅行、外食さえ節約できればよい。あとは多少太っ腹でも問題ない。お肉が398だろうが598だろうが対した問題ではないのである。
チリも積もればとも言うが、そんなチリは一度の家・車・旅行・外食の贅沢で軽くふっとんで、その上おつりもくるだろう。
「旅行も外食も節約なんて」と思うかもしれないが、ゆっくり近所の森でも歩けば充分だろう。また料理の本を見ながら豪華な料理に挑戦するのだって良い。個人的には、親しい仲間と、夕日や月でも見ながら語らう方がよっぽど楽しいと思う。
「普段を切り詰めて、たまにの楽しみを」という戦略そのものを否定はしないが、それだと普段が苦しいだろう。ミスで切り詰めるのに失敗するかもしれない。そして、そうしたストレスがある毎日だと、「たまに」でハメを外し過ぎてしまうだろう。人間、タガが外れるとドバドバと無駄をするものである。
どうせなら、毎日がゆっくりと楽しい方が、私は好きだ。
上で「金がない」と言って飲み会を断わるのはよくないとも書いたのにも関連するが、そもそも人に金がないと言うことが間違いだろう。それは、どう考えても「金をくれ」に聞こえてしまう。
お金がないいな、と思っても、それで何が実際に困るのかを考えてみる。勿論、不利は不利である。ただ、そんなことを困ったと言うより前に仕事を探した方がよい。
日々きちんと仕事があるのにお金が不足していると感じるならば、それはお金がないのではなく、使い過ぎなのである。それを「困った」などと言うのではなく、「使い過ぎるほど使えてありがたいかった。それじゃあ、がんばって働こう」と考えるのである。発想一発で、困ったことも励みになるものである。
いつものように長々と書いた。ただ、くれぐれも私は全くの貧乏人であるので、アテにしないように。それだけはお願いしておく。
分散したスペースよりも、まとまったスペースの方が広さを感じさせてくれます。
また人間の目は優れたもので、そのスペースにホコリがあるかないかでも広さに影響を受けます。小まめにモップをかけましょう。
物の多い人は仕方ないですが、基本は低い家具が良いです。少なくとも入口からの対角線には低い家具を置いた方がいいです。背の高い家具は入口から見えない壁際に置きましょう。
分散させずに、端にまとめること。そうすることで中央にスペースが作れます。何故か進入経路に分散させる人がいますが、それは狭く感じさせるし、第一、部屋が使いにくいと思います。
第一印象は印象の大部分を決定します。故に入口からの眺めは確保しましょう。
進入経路に物を置く人はあまりいないでしょうが、念のため。中心は対角線の上なので、つまり中心には何も配置しないようにしましょう。ただ、背の低いものはあまり気にならないかもしれません。
背の高めな机や椅子も対角線から少しズラすと美しいと思います。
具体的には、小物を置く場所や、綺麗な棚、すっきりした机も印象がいいです。あるいは下のような鏡もいいと思います。
逆にベッドやゴチャゴチャした家電などを置くのはダメです。とても狭く見せます。
暗い部屋、重い空気の部屋は部屋を狭くします。明るく、軽い空気の部屋にするようにしましょう。そのためには掃除が大切でハタキで目に見えないホコリを落としましょう。こういうのが空気を決めます。
ちなみに窓を塞いだりしちゃダメですよ、念のため。
白や青など寒い感じの色が広くさせる。普通には白と淡い青系で統一し、そこに普通の木目の家具を置くのが楽だと思います。
家具も白や寒色系で統一しようと思うと金もかかる上、寒色系は統一させなきゃならないし、白は汚れやすいわで大変と思います。まあ、そうした色気で統一して、小さめ家具をステンレスなんかにして端々が光ると綺麗は綺麗ですが。
小物にはシルバーやクリスタルなどの光る物、あと酒瓶なども開放感を感じると思います。あとの小物は革物や基本黒系で無難に。
ダメなのは赤、澄などの暖色系。あとゴタゴタした模様、特にキャラクター物は狭く感じさせます。これらを捨てるか隠せば広く見える筈です。
どうしても光や奥行が足りない部屋の場合、部屋の中の綺麗な場所や物、あるいは外の景色を映らせるといいでしょう。
大きな鏡で外の景色を映り込ませたり、部屋の綺麗な場所を映し込ませると、かなり広い感じがします。ただ、フレームが部屋の雰囲気にあるものを選ぶのが難しいと思いますし、設置も難しいです。
小さな鏡も、その前に小物や観葉植物なんかが置いてあって、それが映っていると広がりを感じさせてくれます。
ただ夜中とか恐くないですか? 鏡って。私は使いません。
すっきりしたカーテンを高い場所から、床スレスレまで落とすと、カーテンのヒダが縦の線を強調し天井を高く見せてくれます。カーテンが品のよい物だったら効果は絶大。また、床までピッタリと合った長さのカーテンは、静かな安らぎを与えてくれます。
背の低い家具をコントラストで配置するのもいいでしょう。
小さなスポット・ライトを買って来て、本棚の脇にでもつけて、スペースを強調したい壁から天井に向けて照らします。壁や天井のスペースが強調され広さを感じるし、何よりも白熱灯の光が間接照明となり更に柔らかくなっているので気分が落ち着くはず。間接照明についてはあなたの知らない照明術 akiyan.comを読むのをお勧めします。
またローソクもいいと思います。夜はゆっくり間接照明やローソクで暮らしたいもんです。
尚、スペースをアピールするコントラストのためにポスターや小物などを利用する手もありますが、それは上級者向けということで……。私みたいのがやると、ちらかってるだけ、センスがないだけになってますんで、人には到底すすめられません。
ただ知り合いの妹がジャズメンのコラージュのポスターを入口から対角線の壁に貼っていたのは評価できました。ジャズメンの顔写真やアルバムを寒色系に変換して、それを小さくコラージュしたものです。
全体的には寒色系なので引いて見えるし、普通の絵画やポスターに比べると絵柄が細かく鮮明でないので、煩わしさを与えません。色使いもなかなかセンスのあるもので、個人の部屋に貼るのに最適でした。
逆に映画のポスターやバンドのポスターなどを貼っている人をよく見ますが、あれは個人の部屋に貼るもんじゃないでしょう。
あれは広告です。目を引くために作ってあるのだから煩わしくて仕方ありません。
例えば洗剤の「ア○ック」なんかのパッケージがA0のポスターになって部屋に貼ってあったら煩わしいでしょう? ポスターは宣伝なのでほとんど同じものです。
もちろん、それをコントラストに使うこともできるでしょうが、それはかなり広い部屋でしかできないでしょう。
あとはとにかくマメにホコリと湿気対策をすることです。無意識下でホコリと湿気は私たちに影響していて、その部屋の空気を決めてしまいます。窓を空けて換気して、ハタキでホコリを落とし、モップがけをしましょう。
道具の配置を決め、床と机など作業スペースの上には何も置かないようにする。作業スペースは広さがあるため物を置きやすく、しかも一度置き出すと際限なく物を置いてしまうのである。
これは仮想世界にも言え、デスクトップやホームディレクトリには物を置かないようにしたい。
収納スペースが保有できる物品の量を規定する。つまり、新規参入は常に古参廃棄を意味のである。簡単に言えば、買ったら捨てろということ。できれば収納スペースはギリギリではなく余裕があった方が優雅である。
あるいは収納を増やすことも考えられる。ただ、家具は床や壁を食うのであり、家具自体が部屋を狭くすることにも留意が必要。部屋が倉庫になってしまう。多くの物を持ちたいのなら広い部屋に住まねばならない。それが叶わぬなら、それほどの物を持つべき富を持っていないと諦めるべきだろう。
とにかく無駄に物を買うべきではない。また、不要物は即座に捨てるべきだ。
カテゴリやジャンルによる分類はかなりのコストがかかるので個人の場合、簡単に破綻する。規定の場所への出し入れが面倒なだけじゃなく、分類基準そのものが作業進行につれて変化してしまうからである。
そこで、個人の場合なら、作業の状況で整理した方がよい。つまり、未確認、未着手、作業中、完了、放棄、委譲などのステータスで物を分類した方が管理も簡単だし、作業もはかどる。単純に空間的に時系列に並ぶのが良いと思う。
特に大量に情報が流入し、破棄せねばならない状況なら、分類しているのはコストの無駄だ。
これは、いわゆるデヴィッド・アレンのGTD (Get Things Done)や野口悠紀雄推奨の「押し出しファイリング・システム」と同じ方法論であると言えると思う。詳しくは、[書評] 3分LifeHackingに書いてあるGTDのリンクや[書評]「超」整理法を参照して欲しい。
例外は、長期間固定した整理基準を持てる物の管理(例えば文房具など)や、複数の人との環境の共有の場合である。こうした場合にはしっかりと分類基準を定め、コストをかけて管理してゆかねばならない。
これは、入力(入手)、分類、整理、作業、提出、検索、レビューなどの作業の各段階を、明確に区別して行動することを意味する。
特に入力と分類は混同しがちであり、入力時に分類しようとすると、入力にはストレスがかかりフルに入力できなかったり、あるいは、分類が適当になってしまう。
データの入力だけでなく、洗濯物をタンスにしまう時もそうだ。持って来たままガボっとタンスに入れるのではなく、一度床に置いて、引出しの中身も分類しつつ、仕舞えば効率的だ。仕上がりが丁寧であり、かつ、時間も短かい。
また、整理と検索とレビューも混同しがちである。探しながら整理したり、検索してレビューした気になってしまう。個人ではジャンル利用の整理は必要ないということにして、検索の時には検索、レビューの時にはレビューに専念した方が効率的と思う。
雑多な情報を最初に分類しようとすると破綻する。ひとまず一つの「入口」を決めておいて、そこに何でも入れられるようにした方がよい。分類するにしても大雑把な方がよい。
つまり「受信箱」「避難所」「その他箱」などを作り、参入した書類、洗濯し終わった服、買物などを置けるようにしておく。折を見て、その中身を減らしてゆけばよい。
また、なにかを分類する時には「その他」のスペースを作ることも忘れてはいけない。
パソコンの中の情報やノートの中の情報だと、その情報の操作は頭の記憶に頼るしかなくなってしまう。閃きは結局頭の中で起こるが、記憶は苦しいストレスとなる。
人間は「どこ」と「いつ」は直感的に反応できる。つまり高速でありストレスがない。これを利用しない手はない。
アイディアを生んだり、レビューする時には、情報を物理的にした方がよい。つまり、集めた情報をカードにしたり、チャートを書いたり、印刷物にして綴じたりして、机や床の上などに、どばっと並べてみると良いだろう。ディスプレーを覗き込んだり、ページをくっていた時にはない発見がある(digi-log: 3時間でレポートを書く方法も参照)。頭の記憶を視野を超えて広がる空間に置かれた紙がサポートしてくれる。
また、ファイルやカードを並べる時もジャンルではなく時系列にすることで、物理的な位置と時間経過が一致するので効率がよい。ファイルやカードを日々さわっていると、そうしたものが身体化してくるのが分かる。
音楽や文書もHDにつっこんでいると、何がそこに「ある」のかが分からなくなり、それはそれでストレスになり効率が悪い。CDに焼くなり印刷するなりして物理的実在にしておいた方がアタマに楽だと思う。
今回はシンプルにパソコンと付きあう方法について考えてみたい。以下の文書を書いて分かった方法論の基礎は以下である。
デスクトップは部屋における床と基本的に同じであると考える。つまり「最低限のもの以外」は置かないことである。床に物を置き出すと際限がないように、デスクトップにアイコンやショートカットを置きだすときりがない。よって基本は最小限にすることである。
それを実現するにはファイル保存のコツがいる。2を読んで下さいな。
ファイルの保存は誰もが大概カテゴリーとかジャンルで保存する。そして崩壊する。理由は分類作業そのものが手間なのと、分類体系そのものが作業をする中で変更してしまうからである。
個人の場合、カテゴリー分類をする必要はない。それは他人に公開したり共有する場合に必要なものであり、個人では、分類の枠組みを考えたり、それを変更したりする手間を考えると割に合わない。また、仕事をする中で、分類の枠組みそのものが変更になってしまうことは往々にしてあり、その移行の手間も馬鹿にならない。
私はカテゴリー分類をしない。ただ、まったく分類をしないのも使いにくい。その代わりに、そのドキュメントの状態で分類をしている。
方法は簡単である。私はLinuxを使っているが、基本的にはドキュメント用のフォルダを作り、そこに仕舞うことである。私の場合、~/doc (My Documentに相当)以下には、
使い方は以下の通りで、大体理解してもらえるかな。
こうした操作をすれば、ひとまず、作業中のファイルやフォルダはすぐに見つけられる。つまり、未分類なものはINBOXにあり、現在進行中はデスクトップかホームディレクトリにある。あるいは、プロジェクトになっているものはPROJECTフォルダにある。このプロジェクト・ディレクトリの中身もホームディレクトリにリンクしておけば、簡単である。ただし、くれぐれもデスクトップのリンクは最小にしておく必要があるので注意。
あとは作業の終了や放棄に従いARCHIVEやSOMEDAY、あるいはFRIENDSやTRASHに放り込めばよい。ファイルを見つけるのが大変になりそうに思うかもしれないが、高度な検索機能と変更日時による並べ代えができるので普通は問題は生じない。ただ、「分類」は「探すため」というよりも「分類」する中で発見をするために行う場合もあると思うので、次の節ではそのことに触れたい。
ちなみに、docフォルダ以外には、musicとmediaとlibとtmpフォルダなどがある。musicは自作の音源が保存され、後は以下の通りである。
+ media(外部取得のメディア)
- music
- video
- document (主にPDF)
+ lib(設定ファイルや簡単なスクリプトなど)(設定ファイルは規定の場所にシンボリックリンクしている)
- etc (設定ファイル)
- dotfile (設定ファイル)
- bin
- cgi-bin
- shell
- emacs
- tex
+ tmp (消えても問題ないもの)
- src (一時利用しているソースなど)
- log
そうして数々のドキュメントやプログラムが保存されてゆくが、段々とSOMEDAYやARCHIVEに雑多にファイルやフォルダが保存されてゆく。これは、これで良く、その上でフォルダを作って分類しようとすると、簡単な分類程度なら良いが、はまるとただの時間の無駄となる。「分類」には人をハメてしまう魔力があるので注意が必要である。
もし、何かを探したいのなら全文検索すればよいのだが、探すというより、眺めたい時があるものである。つまり、自分の作業を概観したり、自分の書いたものから新しいアイデアを見い出したいと思うものである。
こういう時には別途ドキュメントを作成した方がよいと思う。一見、無駄に見えるが、結局は時間労力の節約になる。つまり、
これで、簡単文献データべースの完成である。好きに並べ変えたり、抽出したり、グラフを作ればよい。楽しい楽しい夢の世界である。中途半端にフォルダを掘ったりしていては分からないことも発見できるし、何よりもフォルダを掘ったり消したりコピーしたりするよりも時間の節約である。
そうじゃなければ印刷してしまうのも手である。全部印刷して簡易製本してしまうのが何よりもオススメだが、単純に最初の一頁だけを印刷して、机の上にカルタのように並べて、いじってみてもよい。新しいアイデアが湧いて来てくれると思う。
ファイルシステムが革新的に進化しない限り、表計算ソフトや印刷して並べる以上に、簡単かつ効果的な仕事の概観や分類は不可能と思う。
私はネット経由で取得したものをほとんど保存しない。印刷できるなら印刷するし、焼けるなら焼くし、カセットテープに入れたりする。
特にある程度まとめて印刷して簡易製本してしまうのは、かなりオススメである。目が楽だし、読むのは早いし、分類も本棚利用なので簡単である。もちろん短かい文書はディスプレイで読んでいるが、ディスプレイだけで読むとなると、ネットの文書は短かい文書しか読まない習慣が気がつくとできていることだろう。
ちなみに、カセットテープはオッサンたる私には非常に便利である。語学や講演などの一定の長さがあり「CDに入れるほどでもないけど、いつか聴くかなぁ?」的なmp3はカセットに録音して並べておき、高校生の時のヘッドホンに付っこみ散歩のお供にする。そして、必要なくなれば上書きする。これである。講演を途中で止めても、また再生を押せば、止めた所から聴けるのである。すばらしい。物理的実在インターフェイス万歳である。少なくとも無駄にダウンロードしておいてHDに置いておくのも精神衛生上悪いし、作業しながらの流し聞きは、あまり頭に入らない。
以上のように、私はネット経由で取得するメディアも少ないし、しかも、それも悉く物理的に実存させるので、HDでヴァーチャルに管理はしない。一時はCDをmp3やflacにしまくったが、全部消した。そうした聞き方ではタレ流しになってしまうのである。ま、そういうのは、それでもいいが、それならネットラジオで充分かと。
それでも、あえて言うならば、こうしたメディアはファイルシステムで管理しようとしては絶対にいけない。PDFなら文献管理ソフト(Jabrefなど)、画像なら画像管理ソフト(picasaなど)、音楽や映像ならジュークボックス型音楽再生ソフト(amarokなど)で管理するべきだろう。ウェブページは難しいが、firefox の scrap ソフトを利用するのが一見すると良さそうに見えた(使ったことないが。ウェブについては次節で述べる)。
ただ、どれもインターフェイスとしての完成形態にあるとはとても思えず、一般的で個人的な用途には、まだまだ本棚やCDラック、カセットなどには勝てないんじゃないかと思う。目も疲れるし。
ウェブサイトをいかに管理するのかという問題は常に人々を苦しめている。ブラウザ付属のブックマーク管理ソフトから、外部のブックマーク管理専用ソフト、更にはソーシャル・ブックマークまでが存在し、人々はそれらをさしたるヴィジョンもなく利用し、破綻し、結局グーグルに頼っている。
私はブックマーク整理をあきらめている。どうせアドレスが変われば何の役にも立たない。分類しようが、タグだろうが何だろうが、長期的に見れば破綻するのである。
また通常の情報源としているのはRSSリーダーであり、ネットをふらふら辿って面白いサイトを探すということがほとんどない。
現在私は、はてブとブラウザ付属のブックマーク機能のみを利用している。そして、はてブの方は自分で管理するという意図は一切なく、人に「こんなページあるよー」と見せるためである。
一方、ブラウザのブックマークでは、単純にそのブックマークをした理由で分けている。例えば、現在のフォルダ分けは以下のようになる。
だいたい説明を読めば私が何をしているのか理解して頂けると思う。やっているのは以下の通り:
以上のようにしておいて、日付やトピックのやつは定期的にちらっと覗いてみて、古ければあっさりと捨ててしまうとよい。どうせ昔のブックマークなど役に立たないのである。捨てるのも面倒ならば、「済」に放り込み、見えないようにすればよいだろう。どうせグーグル様がいるのである。
上記のようなあっさり管理にしてから、常にすっきり、さっぱりになってくれたし、情報摂取に際して充分に実用的と感じている。なんだか「俺様スゴくね?」な文ばっかりでアホみたいだが、ブクマ管理で苦しんでいる人は是非。
パソコンやネットというのは、それ自体が与えてくれる情報もあるのだが、その情報を得るための情報、ある操作を実現するための情報が必要になる。ブクマも情報を得るための情報であり、それは上記のような方法で解決したが、案外、パソコンを使う上でのコワザも増えるものである。
こうした情報を印刷したり、手書きでメモするのもアホらしい。コピペで簡単にメモしておいて、必要な時に出せればよい。どうせパソコン使うための知識であり、パソコンを使う時以外には何の意味もない情報である(逆にパソコン関係以外の情報は積極的に印刷し、手書きのメモを加えるようにしている)。
私はいわゆるChangeLogメモを利用している。これは一つのテキストファイルに何でもメモを書きこんでしまうという方法である。有名な方法であり手法は確立しているので、知らなければググって欲しい。Winな人なら専用ソフトで一発で開いてメモできたり、秀丸にマクロしこめば幸せになるだろう。また、EmacsやVimでも簡単に書けるので幸せである。
この際、カテゴリ分類を私はしなくていいと思う。粗い分類は最低限の役にはたつが、結局は最低限の役にしか立たず、あっても無くても同じである。直近のメモを参照するのもエディタの検索を使えばよいので簡単に参照もできる。また、時間や場所の記憶というものは人間とても強いので、一枚のテキストに書かれたメモならばかなりの速度で発見できる。わざわざ分類するメリットは見えにくいし、カテゴリ分類を気にするあまり、あっさりメモすることが出来なくなる危険性がある。また、一週間くらい前のメモを見るとカテゴリを書き直したくなったりしてしまい、何をやってんだか分からなくなってしまう。
とは言いながら、時間記憶に頼るのも限度というものがある。一年以上前のメモはかなり記憶もあやふやだし、メモしたことすら忘れて、同じ情報をググったりしてしまうものである。それに昔の情報だと適切なキーワードが思い浮かばず「あー、あれ、あれ、うー」となってしまう。ほとんどボケたジーサンであるが、人間そんなもんである。
そこで私は一年に一、二回はメモを分類整理している。その際に、最初はスクリプトを書いたりもしたり、最初にメモする時に書いていたカテゴリを利用したりもしたが、現在では、アウトライナー(アウトライン・プロセッサ)にコピペして、それを手で分類することにしている。手間のようだが、メモするたびにカテゴリを分類したり、それを枠組みが変更するたびに書き直したり何だりしているよりは、年に一、二度、アウトライナーで自分の一年間のメモと戯れるというのもよいと思う。
方法は簡単であり、一つ一つのメモをノードに切り分けてしまい(ここはスクリプトを書けると一瞬だが……)、次に項目を立ててゆき、それにドラッグ・アンド・ドロップすればよい。大概のアウトライナーで簡単にできる操作であると思う。
こうして分類をしておけば、参照する時に多いに楽である。
「なら、最初からアウトライナを使えばいいじゃん?」と思うかもしれない。私も一時そう思ったのだが、それは最初から分類する必要があるということであり、書いたり調べたりするたびに分類のインターフェイスと付きあうことになり、結局、分類をゴチャゴチャとやるという時間の無駄に陥るのである。
入力と分類、検索と概観などを意識的に分けることが、こうした無駄からの脱却につながるのだと、私は結論している。
上記の方法でかなりシンプルかつ効率的にパソコンを利用できるんじゃないかと思う。もちろん、こんな方法はありふれた誰でも知ってる方法かもしれない。また、これよりよい方法があるだろうとも思う。つまり、現在の私にとっては満足のいく方法とは言えるというだけで、これがベストだと言って、皆に押しつける気は微塵もない。それじゃ宗教だ。
ただ、一つのアホウな私の無駄な苦労の結果として、上記のような認識があったのだと参考にして欲しい。
Simple is best.
── この言葉を私が理解したのは、完璧さを追い求めて苦しんだ後のことだった。そう、その夢は敗れた。複雑にするのは簡単であり、シンプルに保つのは難しい。では、どうすればいい? 現在、その一つの答は「フロー」と「ストック」の区別であると思っている。
常に部屋が散らかっている人がいる。きっとあなたの周りにもそうした人がいるだろう。少し観察してみれば分かるが、そうした人にはいくつかの傾向がある。
観察を通じて私が気づいたことは、物を「フロー」させているのか、「ストック」しているのかが分かっていないということだ。
どういうわけか掃除下手はフローのものをストックしてしまい、ストックがフローにうずもれている。そして「掃除する」と言うと、フローを手に取りにくい配置に付かせてしまったり、ストックを手に取りやすい場所に並べてしまったりするのである。
また、家具というストックを「模様替え」と称して動かすことを「掃除」と勘違いして、ちっとも部屋が綺麗にならない人が読者の周りにもいると思う。そうした部屋には決まってフローに対する「受信箱」や「避難所」は存在しない。
はっきり言ってフローを「元に戻」したって意味はない。そうした部屋は使いずらく、結局はすぐに混乱する。そして「俺はきれいな部屋だと仕事ができない」とか何とかぬかすのである。適当に片付いた部屋は美しいだけでなく、効率的なのであるのだが。
フローへの適切な対処とは常に廃棄し続けることである。その為には同種のフローを一箇所で受け止め、適宜、必要なストックを抽出し、早急に廃棄するシステムを確立すればよい。
基本的に、フローに対処する場所は手に取りやすく、操作に手間がかからないことが肝要である。フローを手間のかかる場所に入れてしまうと混乱が生じ、ストックされてしまう。これが所謂「ゴミを溜めこむ」現象である。
次にストックに対しては、比較的手間のかかる場所でもよいから、正確に配置を決定し、使ったら戻すことを励行することが肝要である。ストックを流動的に部屋に転がすと混乱の元である。
こうした問題に対処するルールは簡単でありシンプルと思う。
これをもう少し詳細にリストすると以下のようになる。
さて、それでは個別に考えて行こう。
基本的に、壁には何も付いていない方がよいと考える。
特にフローの情報を貼るのは最悪の結果となる。
よくコルクボードや黒板を利用して情報を目につかせようとする人がいるが失敗する。何年も前のライブのフライヤーなんかを貼るのがオチである。また、その周囲にヘンテコなオブジェかなんかを付け出したら、センスの悪さを主張するだけである。部屋にボードは貼るもんじゃない。
壁にフローの情報を貼るのがダメなの理由は、手間がかかるからである。磁石やらピン、画鋲、あるいは水性ペンやチョーク、黒板消し……こうした道具が即座に取り出せ、かつ、仕舞えない限り、黒板やコルクボードの類は機能しないのである。こうした環境を維持管理コスト対効果を考慮すれば、個人での利用に向かないことが分かる。こうした道具は複数の人間に情報を周知する必要があるときにのみ、意味を為すのであり、個人で使う道具ではない。個人の情報管理はノートで充分である。
壁にストックされる情報源といえばカレンダーや時計だろう。これくらいは壁に備えてもいいかもしれないとは思う。ただ個人的には、どちらも卓上の物を利用した方が、作業中に見やすいし、カレンダーなら書き込みも楽だ。それにシンプルで実用的なカレンダーを貼って予定を書き込んでおくのも見た目が悪いし、かといってアートなカレンダーを貼るのも難しい。また、自分の部屋なのに、時間や日付を確認するのにガバっと振り返るのもアホだろう。カレンダーよりも予定帳や日誌を利用した方がよいと思う。
あと壁のストックといえば、ポスターや心得書きなどがあるが、これも勧めない。壁面が余っていて寂しいからという理由でヘンテコなポスターなど貼るべきではない。そのままであれば品位のある空白であったろう壁面が一気に安っぽくなる。もちろん、それなりのポスターなどを選べればいいのだが、これが結構の出費と探す手間を覚悟しないと難しいのである。簡単には、有名画家のレプリカを額付きで買えばいいのだが、これも日本の住宅事情では浮いてしまう可能性も高い……。言うまでもなく自作の心得書きや書なども余程自身がなければ、やめた方が無難である。
机はフローが激しく混乱しやすい。かといって、道具というストックも豊富に存在するので、掃除ヘタは必ず机周りでコケるのである。
フローに対しては散在させず、一つの書類トレイを準備しこれに当て、適宜、ファイルしてストックしたり、捨ててゆくことが大切である。また引出しはストックの場所と心えて、道具しか入れないこと。そして机の上は純粋に作業スペースとして確保することである。
まず、百円ショップに行き、引き出しをしきるプラの板とペーパートレイを買って、スーパーで段ボール箱ももらってきて欲しい。
そしたら、机の上、引き出しの中の物は全て一度段ボール箱に入れ、捨てられる物は捨て、最低限必要な物を取り出した後、日付を書いて押入に放り込む。そして、その箱が一年たったら箱を開かずに捨てる。これでスッキリした筈だ。掃除の基本は、まず、おもいきってゼロにすることである。
次に引き出しの中をプラの板やトレイでしきり、そこに最低限の道具をしまう。使う道具を選び、ゴミをしまわないこと。なにより道具の場所はきちんと確定すること。場所の確定がゴミを紛れ込ませるのを防ぐ。
深い引き出しにはファイルくらいは入れてもいいが(というかファイルを入れるためにあるのか)、他の引き出しには絶対に道具以外は入れるないように。特に引き出しにフローのものを入れると確実に破綻する。理由は引出しの開け閉めが手間だからである。
ペーパートレイを机の上なり、本棚なりの上に置き、これを未整理の書類入れと確定し、それ以外の場所に書類を置かないようにすること。また、このトレイ内の書類は適宜ファイルする習慣を作ること。また捨てたらいいのか分からないものに対する、一時非難トレイも作っておくとよいだろう。
机の上は理想的には何も置かないのがベストである。ただトレイやペン立て、ノートを置く必要もあるだろうし、更にファイルや本、カードボックスを置く必要もあるかもしれない(私は机のそばの本棚にそれらを置いているが。ちなみに、日付スタンプも置いている。日付を入れるのが楽である)。最低限の道具以外には置かないようにしたい。
書類フローをトレイとファイル・システムで対応できるようになれば机の混乱は無くなると言っても過言ではない。そして、道具の配置を決定し、そこに戻すように心がければスッキリとした作業ができると思う。作業後には、書類はトレイかファイルにあり、道具は所定の場所に戻るので机の上には何もなくなる筈である。
床には家具以外は置かないこと。マガジンラックなどは、フローとストックを混乱させるので捨てるべきである。またタンスの上や押入などに一時避難場所を作ることで床や机に物を置くことを避けられるだろう。これも床の上は机の上と同様に考えておくとよいと思う。
服は一定期間内ではストックなどだと捉えて対処する。故に配置を正確に決め、収納できない分量をストックしないことが重要である。
まず、床の上に全ての洋服を畳んで並べ、それを種類別に分類する(ウール、セータ、下着……)。そうすると明らかに着そうにない服がゴロゴロしているだろうから、捨てるものは捨て、捨てられないなら段ボール箱に日付を書いて押入に放り込む(一定期間経過後廃棄)。
今が夏なら冬物は押入にしまい、夏物のみをタンスにしまう。この際、タンスの引き出しを全部床に並べて、最善のしまい方を探求すること。そして、種類別の配置を決定した後は、それに従うこと。これは机の中の収納と同じである。
もし、しまえないならタンスのサイズか服の量に問題がある。あるいは、夏と冬ではなく、春夏秋冬で入れ替えが必要なのかもしれない。
単位季節あたりの服の量はタンスの収納力よりも小さいことが必要である。つまり、タンスの追加を考えない場合、服を買ったなら捨てる必要があるということである。このことを肝に命じないと、必ず服の管理は破綻する。
ファイルしなければ書類は溢れる。トレイの上の書類は即座にファイルに組み入れることが大切である。またフローの書類なのかストックなのかを見分けることも大切である。
まず、安くクリアホルダを大量購入し、剥せるラベルとファイルボックスをいくつか購入しておく。書類をホルダにはさみ、ラベルを貼り、それをボックスに入れればよい。立てるだけで整理したと考えて差し支えない。あとは、そのボックスの置き場所を机の上か本棚、あるいはその両方に作ればよい。
これで押し出しファイルシステムになるので個人のフロー書類の管理にはこれで万全である。使ったものを手前にしまい続ければ、自然に使わないファイルは遠くに流れてゆく。たまに遠くに流れたファイルを見て、捨ててしまえばよい。
あとは少数のストックの書類を他の場所にインデックス式に管理しておくと更に万全である。勿論、そうしたホルダに目立つ印をつけておけば、押し出しファイルの中に入れておいても、さほど問題はないだろうが……。
とにかくメモは散在させないことが大切であり理想的には一冊のノートで対応するのがベストだと思う。ただ、スケジュールはカレンダーになっていた方がみやすいので、その併せ技がベストと思う。
A5かB5の開き易いノートを購入し(パタンと閉じるのはダメである)、常に机の上には置いておき、それに一切を書くのがよい。使う前にページ番号をふるとよいことがあるかもしれないが面倒なら別によい。これが、メモ情報の受信箱となる。
次にスケジュール帳も準備しカレンダーの代わりに開いておくとよい。できればTODOも書けるのがよい。別に書けなくても、余ったページに書いたり、ポストイットを貼ればすむ問題なのでどちらでもよい。
この二冊で、メモ、スケジュールとTODOを全部管理してしまえばよい。机の上に広げられることや、持ち歩きに便利なこと、デザインが気にいることが大切である(アドレスブックも必要だが、これはPCで管理すればよいだろう)。
時間の管理には「野性的感覚」を必要とすると私は信じるので、電子ツールは適さないと思う。またアイディアを練る時も同様の理由から電子ツールは適さないと思う。まあ私がオッサンだからであり、若い時からそうした道具に親しんでいる人は違うのかもしれないが。
ちなみに、メモ帳からカードを作ってカードボックスでごちゃごちゃいじったり、PCのアウトラインエディタやデータベースなどで管理するのもいいと思う。
まず一般には蔵書管理なんてことはしなくてよい。本棚における物理的存在で充分である。
ただそれは本をストック的に管理できる場合のみであり、全ての本を本棚に置けない時、本をフローのように扱う時に問題になる。段ボールにしまった本や捨てた本は、やっぱりカードにでもしておかないと記憶のかなたにすっとんでしまう。一時は蔵書命みたいなことを吹聴していた私も住宅事情の前には敗北するしかない。
こうした問題に対処すべく、簡単な読後感や要点を書いたカードを作るのもよいだろう。同様に図書館で読んだ本や立ち読みで読んだ本もカードにしておいた方がよいだろう。書誌情報はインターネットで簡単に取得できるので手で書く必要はないと思う。
ネットの蔵書管理のサイトを利用すうのもアリといえばアリだが、カードをボックスのなかでいじっていた方が記憶に残る気がする。身代わりは、いかに情報が少なくとも、やっぱり物理的存在の方がよいと思う。
ただ、それも読む分量が一定の時であり、カードを作るのは手間である以上、フローに対処するには向いていない。結局は破綻するのだから、そんなもんだと思って気楽に考えるのがよい。どうせ全てを記録はできないのだから。
テレビは捨てろ……と言いたいが、必要ならば、しかるべき家具の上に鎮座せしむるべし。個人的にはPCで見るのは、かえってダラダラと見てしまうんじゃないかと思う。ダラダラでなければきちんと時間をとって見るのはよいと思う。
オーディオは専用の器具を利用するのがベストと思う。一時はセッセとmp3やらflacやらにしてHDに溜めこんだが、やはり電子化し仮想的な存在というのは扱いずらい。というか、音楽がタレ流しになってしまう。CDという物理的な制約が「聴く」という行為を意識的にしてくれる訳で、タレ流しも防止され、「聴く」楽しみも逆説的だが増す。
同様にCDをデジタル化して物理的に不在にしようとしたが、結局はCDは並べておいて、そのジャケットを眺めながら音楽を選んだり聴いたりするのが楽しいという結論になった。
たぶんDVDとかもデジタル化するよりは物理的に存在させとくべきかと思う。
文房具はストックの道具であるので対応が簡単だったが、小物はその性格が難しい。
「うわ! これいい」と思って買ったものが、早くも一週間もたつと新鮮味が薄れ、三ヶ月も経つと「?」になるのである。そういう意味ではフローであるので早急に廃棄すべきなのだが、一度ストックしたものを人間なかなか捨てられないのである。また人から貰ったり、思い出の品だったりと掃除の敵の中でも最もタチが悪い。
連休の一日目の朝に、部屋の小物(小物と言うが大きくてもよい。要らなそうな家電とかも)を一度床に並べてみるとよいかもしれない。そして、それを分類して、捨てられるなら捨て、次に収納の引出しを並べて、そこに配置してゆく……。これは服の整理と同じ作戦である。
ただし、服であれば季節毎に流動させ一定期間ではストックと捉えるという作戦は功を奏するが、小物は季節も何もないので、意識して捨てる必要がある。これが難しい。
一度、何もなかったことにして段ボール箱にしまって、廃棄予定日付を書いて押入に入れるのもアリとは思うが、本質的に使うアテのないものだから捨てるのが分かりきってる以上、この作戦を遂行するにも心理的葛藤があるだろう。
ただ言っておくが、三年以上一度も使わないものは、恐らくその先の三年間も使わないであろうし、十年先も使わないだろう。いや一生使わないだろう。一生使わないものを何故保管するのか? 使わないならゴミではないのか? ならば理性をもってして、怠惰に流れる情緒に一撃を加えるべきである。さあ、立ち上がれ!
とはいえ……やっぱ……。
まあ、完璧な片付けは人間できないものである。そこは、仕方ない。あきらめよう。
考えてみれば、掃除とは、メモ、書類、書籍、服、小物、家具などを部屋に流動させることなのだろう。その意味では全てはフローしている。ただ、それを一定期間においてはストックとして配置を決め、使ったら戻すことで対応する。しかし、それも、用途を終えたら廃棄する流れの中にあるのである。掃除下手とはゴミを溜めこむ人間であり、廃棄の流れをどこかで切ってしまう傾向を持った人間なのだろう。
なんだかな……。最近、俺はトイレ掃除をしている。
やっちまった……。俺、こういう人間にはなりたくねーんだよな、と思ってたワケなんだが、つくづく業が深いというかなんというか……まあ、この一週間ほど、朝起きたら自室の床を水拭きして、その後トイレを掃除している。彼女ん家でもコソコソと、朝の六時からアホのように便器をこすっていた。
はあ……
分かるかなぁ、俺の気持。俺は「信心深い」ってヤツが大嫌いだったんだぜ? それが最近じゃ「整体」だの「ヨーガ」だの「仏教」だの「業」だの……最後はトイレでウンでも付けようってのか?
そう、俺はアホウだな。うん。アホウだな。あったりめーだ。
ふむ。んで、開き直ってこの一週間で俺が経験したことを少々
「なんでトイレ掃除?」そうあなたは訊くかもしれません。実は、私にもよく分からないのです。宝くじを当てた人や、金持ちや芸能人(たけしとか)の何人かががトイレ掃除をしていて、それで幸運が舞い降りたと言っていたのは存じております。また風水でも水回りや玄関を大切にすることは存じております。
しかしながら、それに直接影響されて掃除をしようということになったのではございません。もちろん、間接的、つまり無意識な影響があったことは否定いたしません。
なんというか、朝起きて「するべきだろう」という気分になってしまったのでございます。そして、一度したら習慣のようになってしまったのです。
そうしたトイレ掃除は私に何かを与えるものであったのは間違いございません。だから続けているのでしょう。それは何なのか? 私はそれを言葉にしたいと思います。
まずトイレとは汚れた場所でございます。その汚れに正直に向きあいますと、色々と考えさせられるものでございます。
当然のことですが、トイレは最初から汚ないわけではございません。トイレを汚すのは私たち自身なわけです。つくづく、私ども人間が活動するということは、汚すということなのだと痛感してしまうわけでございます。
私どもが活動すると汚れるわけなのですから、掃除をして汚れを払わねばならないのです。これは、何もトイレに限った話ではございますまい。組織でも制度でも、人が活動すると汚れがたまるのでございます。ですから、時を見て、私どもは汚れを払わねばならないのでございます。トイレ掃除とは、こうした当然のことを、つくづく朝っぱらから痛感させていただける訳なのです。
そして汚れを取るということは、我が身を汚しながらでなければできないのでございます。自分の手などを汚さないような掃除の仕方では汚れを取ることなどかないませぬ。汚れそのものに我が身をつっこむようにしなければ、汚れを払うことはできぬのでございます。
これもつくづく考えさせられることでございます。我が身を可愛いのは当然です。我が身を汚したくないのも当然でございます。しかしながら、それでは身の回りの汚れをとることはできないのでございます。
よろしいでしょうか。我が身かわいさに掃除を怠れば、身の回りはどんどん汚れてゆくのです。それでは生きてはゆけぬでしょう。それゆえ、私どもは、時に汚れ、身の回りを改める必要があるのでございます。汚れることを嫌っていては、私どもはゴミの中で生きてゆく他ございますまい。
汚れねばならぬのなら、ありがたく汚れさせていただくより他ございますまい。汚れを払い、美しくなる様を見させていただけることに感謝するより他ございますまい。そうした心にならせていただいたことに感謝するより他ありますまい。
そうであればこそ、我先にと我が身を汚れになげうち、一心に汚れを払わせていただくのでございます。
はは。こんな文書いて、ちと鬱だが……ま、これ、おもしろいな。あ、冗談だかんね? 影響されてトイレ掃除とかしちゃダメよ?
ま、そんなこんなで。