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内容はとても素晴しい。図書館で借りたのだが、購入しようと思っている。
ただし、以下の二点で「不誠実さ」を感じてしまった。些細なことだが、述べさせて頂きたい。
まず、題名についてである。本書は、題名が予想させる昨今流行の「禅的生活」系の本と異なり、非常に哲学的内容である。思想書、哲学書と言ってよい。禅のエッセンスをちょこっと取り入れて生活を潤わせましょ、なんて本ではまったくない。
こうした一般に開かれたような題名をつけてしまうと、少し禅に興味を持った人が手に取ってしまう危険性がある。そうすると「やっぱり禅は訳が分からん」となって禅という世界への第一歩のアクセスを失ってしまうだろう。
本書の本論の冒頭を写しておけば、私の言いたいことが伝わるかもしれない。
第一章 「根拠」の外部へ - 本物の「自己」とは何か気楽な「禅のすすめ」を求めている人は他書も手に取った方がよいかと思う。
1. 「私」に根拠はあるか
「自己決定の破綻」本章ではまず、存在の根拠を設定するような形而上学的なものの考え方や語り口と対照することで、私が考える釈尊や道元禅師の思想のユニークさを提示しておこうと思う。
これは本書の価値を貶めるものではない。自己や他者とは何かについて倫理的、存在的に悩む人は極めて少数である。ならば、そういう自己の問題を考えたい人が手に取りやすい題名を付けるべきである。
事実、本書の題名では私が仮に書店で見ても、本書を開くことすらしなかったと思う。本書を読めたのはamazonの書評のおかげである。読みべき人が目につきやすい題名にするべきだろう。
もう一つの問題点は、本書の思想の重要なベースがレヴィナスとラカンにあるのは私には疑いようもないのだが、どこにもレヴィナスのレの字もないことである。
[書評] 道元 - 自己・時間・世界はどのように成立するのか / 頼住光子では著者は井筒俊彦の意識と本質に関する分節─無分節理論の影響を最低限はしかるべき形で記していた。
しかし、本書ではそうした目立った記述は見られない。レヴィナスを知る人が本書を繙けば、著者の仏教理解のベースにレヴィナスが流れていることにどうしても気がつく。それが、あたかも仏教の思想、著者の解釈としてレヴィナスの考えが出てくると知的に信用ができなくなる。一言レヴィナスを触れてくれれば知的に信頼ができるので、残念である。
そう思いググってみた。著名なレヴィナシアンの内田樹のブログに仏教ルネサンスという記事があった。
老師は永平寺での修行の日々のあいま、87年にすでに拙訳『困難な自由』を読んでおられた古手のレヴィナシアンだったのである。 (……) だが、まことに意外なことに、どうやらレヴィナスと仏教は「相性」がよいようである。 ヨーロッパ的知性からすれば「存在するとは別の仕方」とか「絶対的他者」というのは思量の困難なものであろうが、仏教ではそれこそが中心的な論件である。
もし著者がレヴィナスと原始仏教の経典、曹洞宗の伝統的な教義、道元思想などの境界を的確に指摘しつつ、恐らくは多分に存在する著者自身のアクチュアルな思想を述べていただけたら、本書は更に素晴らしい名著となったことと思う。
ただ、上の二点は非常に些細なことと言えば、些細なことである。本書の内容を損なうものではないと言える。
この頃、忙しかったので、購入後に精読をして改めて内容についての書評を載せたいと思う。