2007-08-21

変化に適応するための3つの能力

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もっとも強い者が生き残ったわけではない。
もっとも賢い者が生き残ったわけでもない。
もっとも変化に対応できる者が生き残ったのだ。
チャールズ・ダーウィン

というわけで変化に適応するための能力について考えてみた。

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変化を乗り越えてきた人類

生物は常に変化し続ける世界を生きてきた。ある者は変化に適応できなずに滅び、ある者は変化を利用して栄えただろう。

それでは、繁栄した人類は適応の苦しみからは脱却したのだろうか? 残念ながら、人類がこれほどに排他的に覇権を握っているにも関わらず、変化の中で適応しなければならないのは、現代の我々でも同じことである。

確かに我々には「寒さ」や「外敵」といった初歩的な適応能力が問われることはほとんどない。それでも、我々は騒音、大気汚染、食物汚染、日光不足、運動不足といった生物的ストレスに適応しつつ、対人関係、金銭管理に関する社会的ストレスにも適応しなければならない。これらは直接にアレルギーや精神病、成人病の原因である。

専門性を高めるだけでは変化に対応できない

更に高度に情報化した時代では、特権的な技能や知識は即座に流出し陳腐化する。故に、職能を差別化し、特権を維持するためには、常に新しい技能や知識を開発し習得し続けなければならない。競争は熾烈である。

もちろん、職能の差別化や特権を求めないという生き方もあるだろう。実は個人的には、国際能力主義は嫌いであり、田舎で無為に「どうにか/なんとか」暮らしたいとも思っている。また、情報化の果てにはそうした職能の差別化を図るのが無意味となる時代が来るのではないかとも思っているし、既に「能力」という考えそのものが無効に近づいているとすら感じている。

しかし、今、既に日本にある何かを維持しようと考え、更に「情報化による特権的職能者の消滅」という妄想を否定したときには、差別化された職能による特権を求める必要がある。これが「専門性」を高めるという教育の根拠になる考えと思う。

さて、ここで考えたいのだが、専門性を高めることは変化の時代での適応力を増すことになるかどうかである。確かに「強く」「賢い」人材にはなるかもしれない。しかし、適応できる人間とは無縁である。もちろん、「いい人材」であること自体が適応であるし、専門性を高める中での経験が変化に強くする側面があるとも思う。

変化に強い3つの条件

ここで根本的に考えてみたい。変化に強い人間とは何か? 今の私には3つのことが思い浮かぶ。

一つの重要な要素に学ぶのが早いことがあげられると思う。新規状況でも必要な技能と知識を習得できる人間は変化に適応できるだろう。

次にアイディアが湧くことだろう。経験したこともない試練の前にしたときには、誰も何も教えてはくれないし、自身の知識や経験も役に立たないだろう。そんなときには、自身の「閃き」以外には何も助けてはくれないのである。

最後には管理力があることだろう。あるいは一般的に言う「実行力」と言ってもよい。つまりは、構想を具体的なものに仕上げてゆく能力である。あるいは「調整力」でもよい。スケジュールを調整したり、人間関係での便宜を図る能力と言ってよいと思う。時間やカネ、人という資源のコントロール能力である。

こう書いて気づいたが、基本的に私の考えの構図は

「技能/知識」 + 「アイディア」 + 「資源 (時間+カネ+人)」
が何かをするには必要なので、それぞれを獲得する能力である
「学習能力」 + 「発想力」 + 「管理力」
を磨けばよい、という風にまとめられると思う。

重要なのは、「技能/知識」や「アイディア」を持っていることそのものが重要ではないということである(もちろん、あるにはあった方がよい)。それだけでは変化に適応できない。問題は、それらを扱うための、更にメタな能力が必要であるということである。

メタの能力をつける教育を

思うに教育とは、こうしたメタな能力を開発するためにするべきではないかと思う。人生で直面する問題は多岐に渡り、その全ての問題に対する解答を勉強する時間はない(そもそも、解答が準備できない問題がほとんどである)。だからこそ、答を記憶させるような教育をするのではなく、問題と答そのものを生み出す能力をつける教育が必要なのである。

「いい答案を書く能力」のために塾に行くのでは、自分で新しく知識を付ける方法というメタな能力を習得できなくなってしまう。これでは受験に「過剰適応」するばかりであり、他の環境での適応が難しくなる。むしろ、劣悪な状況で自分で工夫をして勉強すれば、「どうやれば、習得できるのか」という能力が開発される。そうしたメタな能力が、「次の学習」で役に立つのである。

同様に教育の現場でアイディアを生んだり管理する能力を鍛えるとよいと思う。子供はクリエイティヴである。状況さえあれば、かなりの数のアイディアが次々と浮かぶ。そうしたアイディアを日記のようにメモしておくことで、年齢と共にくる発想力の衰えをやわらげられるのではないかと思う。また、イメージ・ストリーミング(思い浮かんだことを次々話す)や自動筆記(思い浮かんだことを次々書く)で想像力を保てるだろうし、各種瞑想も発想力を鍛えるのに有益と思う。

そして、子供の時から金銭、時間、人間関係の管理能力をつけるのもよいと思う。予定帳と日記で時間を管理し、おこづかい帳でお金を管理する習慣を持てば、かなり有益になると思う。早い時期から「内輪でない」コミュニケーションの仕方、つまり面接や、人前で話したり発表することを練習しておけば、様々な局面で役に立つと思う。

これは何も子供の教育に限らない。むしろ大人こそ、こうした能力が必要なのである。新しいことを学ぶこともできず、アイディアも湧かないのであれば、状況に適応はできない。時間やカネにルーズであれば、成功することは言うまでもなく難しいし(私はヘタである)、「内輪でない」人とのコミュニケーションができなければ、職を得ることすらできない。

変化の時代だからこそ、目先・小手先の努力はさておき、意識的にメタな能力、底力にコストを割く必要があるだろう。能力の性質上、急激な向上は望めないかもしれない。しかし、持続的な努力はいつか実を結ぶだろうし、その実は死ぬまで輝くことと思う。それに比べ、小手先の実の賞味期限は極めて短かい。

キーワードは3つである。学習力、発想力、管理調整力。ただ、これを鍛えるためにも具体的なチャレンジが必要である。様々な分野に果敢に挑戦することが必要となるだろう。安定した環境では、これらの能力は鍛えられない。

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変化は避けることができない。ならば、自らが変化すればよい。自らが変化する者は変化に苦しまないのである。果敢に変化に挑戦してゆき、変化を受け入れて生きてゆきたいものだ。