2009-12-22

最近のWindows環境(2)

最近、PCを新調したので、インストールしたアプリをメモしておく。

  • Dropbox: オンライン・ストレージ。こいつにアプリを入れている。
  • LogMeIn: リモートコントロール。非常事態用、かな。
  • PowerToys for XP Tweak UI: マウスホバーフォーカス移動したり、「~のショートカット」を消したり。
  • Bullzip: PDFファイルをつくる。

開発

  • putty: sshクライアント。dropboxにいれている。
  • winscp: ftpやscpのクライアント。dropboxにいれている。
  • MySQL Workbench
  • IE Tester: IEでのテスト用に。
  • TortoiseSVN

コンテンツ作成

  • Adobe Premiere: 動画の編集に。
  • Adobe Fireworks: 画像の編集に。最近まったくフォトショ・イラレは使ってない。

2009-12-20

超整理手帳バーティカルを買ってみた

昨年、最近使っている文具について書いたが、2つのノートについては実は遍歴を続けている。

スケジュールについては、今年は何を思ったか超整理手帳のバーティカルを買ってみた。

8週間の予定を一枚の紙で一覧できる上、週ごとの時間の一覧もできる。グリッドを一時間とみなせば普通のバーティカルの手帳と同様に使うことが出来る。

一方で買ってみて反省したのは、私は営業ではないので、それほど細かい仕事がないということ。これほどにスペースがなく、数カ月を俯瞰できるものでもよかったかと思う。例えば rido のジャバラ式手帳(参照)がよさそうにも思う。

とはいえ、それほど致命的な欠点でもないので、来年一年は使ってみようと思う。

大きなノートについては、A4の無地のリングノート(LifeのA4無地ノート G1386)がこのところの定番になっているが、コピー用紙を持ち歩く可能性もある(大学時代はコピー用紙だった)。

まあ、こんなところで。

Adobe Premiere のショートカット

動画編集をしたときのメモ。ショートカットキーを知ってると知らないでは作業効率が全然違う。ひとまず基本的なものだけをリストアップしておく。

; タイムラインを拡大
- タイムラインを縮小
C-kカット
PageUp前のカットへ
PageDown次のカットへ
Space再生・一時停止のトグル
l再生速度を早める
j再生速度をお染める
Delete削除してつめる
S-Delete削除(つめない)

2009-10-04

twitter をはじめた

なんだかよく分からないが、twitter をはじめてみた。というか、つぶやきを公開してみた。まあ、思いつきで書くので、さらに痛々しい表出にはなるとは思う。やめるかもしれないが、一応、アナウンス。 http://twitter.com/tezy

2009-06-15

仕事術

いくつか仕事術系の本を読んだ。自分にとって必要と思われるポイントをまとめてみた。

  1. 求められている結果を明確にする。 一日に三回「どうでもいいことに時間を使っていないか?」と自分に問いかける。PCや壁に貼るか、ポップアップ・ソフトを利用すると良い。明確な目的がないことからは全力で逃げる。それがどんなに心地の良い仕事であったとしても。
  2. 日次と週次の目標を決める。翌日の計画は前日の夕方までに、翌週の計画は金曜日のうちに決める。「一日に二時間しか働けないとしたら、あるいは一週間に二時間しか働けないとしたら何をすべきか」を考える。
  3. 計画には常に3割の余裕を持たせる。想定外を想定する。
  4. 一日の目標、あるいは一週間の目標を達成した後は帰るか、サボる。100m走をダッシュするように仕事する。ダラダラ働く習慣ができると、全力で目標に向かう姿勢を失ってしまう。もし、100mを走った後で「よし、今日は早いな、あと20m走ろう」というのであれば、走る姿勢そのものが変わってしまうだろう。
  5. 基本的に8時から19時の間しか働かない。無理は無理。ただしダラダラしたせいで目標が終わらなかった場合には頑張るし、時に徹夜も辞さない。しかし、基本で19時以降に働くのは生産性の点から問題がある。仕事は朝にやれ。残業は恥だ。
  6. 使用した時間を記録し、業務を効率化する時間を取る。週次、四半期ごとに振り返り、何が成果を生んで、何が無駄だったかを明らかにする。そして、成果を生んだ仕事を更に効率化するように考える。
  7. 文書やメールは二度読まない。 一度でアクションを片付け、目の前から消す。Gmail を使っているのなら、task 機能を利用して、常にInboxは空になるようにする。目の前においておくとノイズになる。それは思考を妨げる。

2009-03-08

「家」を生産する工場を見学して来た [PR by ブログタイムズ]

ブログタイムズさんよりセキスイハイムさん(www.tokyo816.jp)の蓮田工場見学会の記事広告の依頼を頂いたので、昨日は埼玉県の蓮田まで行って来た( [PR by ブログタイムズ] )。

「家」というと大工が現場で建てるものという認識があった。しかし、積水化学工業の「セキスイハイム」では、鉄骨でできた六畳ほどの大きさのボックスユニットを工場で生産し、そのユニットを現場で組み合わせることで家を建てるのである。これにより、高品質な家をプレハブを建てるよりも短い日数で建てることが可能となったとのことである。

当日の流れ

昨日はその工場生産の流れについての「社会科現場学習」のような一日となった。

近所である船橋の住宅展示場に朝9:20に集合すると観光バスが待っていた。周りを見ると小学生くらいの子供を連れた家族ばかりだ。子供がバスの周りを走り回る。子供のいない我々は自分たちが遠足気分である。「おやつはいくらまで?」とはしゃぐ。

9:30に出発したバスは途中で浦安の住宅展示場に寄り、11:15頃には埼玉県蓮田に到着。社員食堂にて、お弁当とお味噌汁を頂戴する。基本的にコーヒーやジュースなどの飲み物は各所ですぐに頂ける体制になっていた。おかげで普段あまり飲み物をとらない私はトイレが近くなった。また、託児所があるので子供が小さくても安心である。

さて、腹ごしらえが済んだところで、実際の説明会である。

最初は、ボックス型のユニットの強度を見せ付けてくれた。その六畳の鉄骨の箱を5メートルの高さまでクレーンで吊り上げ、自由落下させたのだ。私の記憶が確かならば、6畳の鉄骨のユニットの重さは1トンを超えていたはず。それを3階近い高さから地面に叩きつけるのだ。「まあ大丈夫だろう」と思いながらも、臆病な私は万が一に備えて後ろに位置し、衝撃により飛散物があっても怪我をしないように備えた。

もちろんそれは杞憂であった。落下した鉄骨のユニットはビクともしなかった。対角線の計測をしても1ミリの変化もしなかったのである。記憶があやふやだが、この強度であれば関東大震災の4倍にも耐えられると仰っていたような気がする。そして阪神大震災でセキスイハイムの住宅が倒壊した事例は一つもなかったと。少なくとも通常の地震におびえる必要はまったくないのだろう。

クレーンから自由落下で強度を見せ付けられたあとは工場見学である。巨大な工場で鉄骨のユニットが完成されていく流れをみるのである。私の受けた雑駁なイメージとしては、自動車の工場のようなものである。まず鉄骨の枠を強固に作りあげ、最後に仕様書に従い内装と外装を備えるのである。詳細は省くが、各要所にて強度と耐久性の高い技術を使用しているとの旨の説明を受けた。なんでも飛行機の製造に使うような高い電力と力を使った接合をするらしい。最後には外壁材にバーナーの炎を当て、その不燃性と断熱性をアピールしてくれた。

私は建築に不案内である。が、確かにこの設備が整えられた工場で生産されるような強度と耐久性を、個人住宅建設の現場で実現することは難しいかと思う。これなら火事も地震も怖くない。維持コストや光熱費も浮くことだろう。途中からは恋人もすっかりセキスイハイムの家に魅了されたらしく、今の家をケチにリフォームするのではなく、セキスイハイムにしたいと言い出した。

その品質もさることながら、説明自体の満足度も高かった。工場を歩きつつ、各所に設置されたディスプレイから映像が流れる。説明は無駄に長くなく、椅子も備えてある。一つ残念なことと言えば実際に動いている機械や人間を見ることができなかったことくらいだが、それは別に稼動している工場の説明会が準備してあるらしい。

こうして15時頃に終了し、バスで帰路につく。渋滞のため船橋に戻ったのは17:30であった。

家を建てることを検討しているのならば、休日の一日を費やしても十分に元が取れるのではないかと思う。

余談

さて、全くの余談なのだが、帰り道のバスの中で「風の谷のナウシカ」を流していただいた。少しこのことについて書きたい。

ナウシカを見るのは久々で、その素晴らしさに改めて驚嘆したのであるが(恋人は隣で泣いていた)、その「ナウシカのメッセージ」と「セキスイハイムの家を建てる」がかけ離れていることにある種のおもしろさを感じた。

セキスイハイムの家は堅牢な家を望むからであると予測するのだが、これは「自然を押しのける」発想が連想されやすいと言えば言えない事もないと思う。エコだ太陽光だ家中をつねに暖める床下暖房で冷え性や心臓発作のリスクが低減するなどと言えど――その素晴らしさを非難する気はさらさらないにしても――ナウシカを見ていると、こりゃあ人間のエゴだよな、という気にさせられる要素がある。

実際に私の彼女のモデルハウスを見て上がっていたテンションは一気に冷めたし、周囲の子供も「新しい家」で騒いでいたのが、途中のトイレ休憩では「ナウシカ、ナウシカ」と言いながら走っている始末であり、恐らくはその両親もナウシカを見て何か消費や生産とは逆のレイヤーの問題意識を感じていたのではないかと予測する。

映画が終了しエンディングの音楽までが流れ終わった後の、反省に満ちた静寂に包まれたバスの中があまりに滑稽であり、私は失笑する自分に耐えるのに必死だった。私がセキスイハイムの人間ならば宮崎映画はやめることは確かだ。

しかし、だからディズニーを流せばいいとか言うわけでもない。ナウシカでいいと思う。所詮、物語はビジネスよりも弱い。勝ち負けで言えば常に負けるものである。我々は ナイーヴな良心の声など押しつぶし、火と鉄の力に酔いしれ続けていくのである。

2009-01-18

自分の希望を叶えるには、まず人の有能感を満たすこと

十代の頃、僕はファミレスでバイトをしていた。和食でちょっと高めのファミレス。こう言えば、大体どの店か分かってくれるかもしれない。

僕は深夜枠で働いていた。閉店は2時。次の朝の大学のことも考えると一秒でも早く店を閉め、家に帰りたかった。

しかし、夜のファミレスにはなかなか帰らない客が来るものだ。僕は彼らから多くを学べた。

それは大概、五十過ぎのおっさんだった。

日本酒を頼み、ちびりちびりと呑む。そして、ぽつりぽつりとつまみの注文を入れる。そして、いつも閉店時間よりも遅くに帰るのだ。

僕は若かった。僕は彼に「閉店時間は2時になっておりますので、宜しくお願いします」と言ったことがある。

失敗だった。

おっさんはぶちきれた。――俺は客だ。頼んだ酒を呑んでて何が悪い?――その夜は眠らせてもらえなかった。

こういうおっさんは一人ではなかった。

世の中にはいるものだ。深夜の住宅地のファミレスで、一人酒をのむおっさんというものが。まあ、今なら彼らの気持ちが分かるが。

ところで、僕は考えた。どう言えばいいのかを。どうすれば、僕は早く家に帰れるのかを。

結論はシンプルだ。彼らを満足させればいいのである。充実感を、自信を、有能感を取り戻させればいいのである。

彼らは――そして今となっては僕もかもしれないが――人のしがらみと組織の論理の中に溺れ、自分の存在感を掴めていないのである。虚しく、打ちひしがれているのである。

そうでなければ、自分の家で家族の前で酒を呑めばいいではないか。そうでなければ、会社の傍で同僚と酒を呑めばいいではないか。

そうした彼に、僕は「閉店時間」という理屈をこねた。既に彼らはルールの中で溺れている。それをなおさら若造ごときに理屈を捏ねられれば、平日の深夜とはいえ、朝までクレームを言いたくなるのも人情というものである。

僕は、そうした彼らに言葉を変えた。――どうぞ、ごゆっくり、と言うしかないことが分かった。そして、注文の度に、声を掛ける。褒めるのである。彼らの自信と有能感を与えなおすのである。

――あなたはしっかりとした大人だ。毅然とした大人だ。大変なことはあるかもしれない。もう二度と会社には行きたくないのかもしれない。もう二度と家には帰りたくはないのかもしれない。もう二度と自分の布団に入り、うなされたくはないのかもしれない。もう二度と太陽を見たくはないのかもしれない。

しかし、である。それでも、大人なのである。男なのである。既にあなたはそうして乗り切ってきているではないか。あなたはできるのだ。あなたは有能なのだ。有能だからこそ、悩みはあるものなのだ。

こうしたことをメッセージするのである。そのメッセージは「どうぞ、ごゆっくり」に尽きているのである。

――あなたは有能だ。休むことだけなのだ。休めばいい。ゆっくりとすればいい。それだけが、必要なことなのだ。

そうすることで、彼らは自信を取り戻しやすくなり、その自信は「しっかりとルールを守る」という行動を呼ぶ。彼らは自分から閉店時間を気にするようになり、時間前には帰るようになった。

そうして、僕の時間には悩めるおっさんが増え、何人かはよく金をくれた。

そして、住宅地なのに宴会の予約がわんさと入るようになり、そうしたおっさんは僕の制服の隠しにチップを突っ込んでくれた。宴会が入れば一晩で数千円はチップが稼げ、一度は3万円になったこともある。ちなみに宴会でも僕は他のバイトじゃしなかった便宜を図った。これは別の機会に。ファミレスバイトでも稼ごうと思えばチップで稼げるものである。

そうする中、僕が金に汚いという噂が流れ、ちょうどレジから20万円ほどが消え、僕のせいじゃないかと疑われ、いずらくなって辞めてしまった。チップのお金はキッチンの人も含めて公平に分割したが、それでも僕がかすめとっていると疑うものなのである。稼げない人間は常に稼げる人間を詐欺師か犯罪者だと思うものである。今でも思い出す。ある日、千円しかもらえなかった日に十人で分割した際に、はっきりと彼らは僕に対して猜疑の目を向けたものだ。

そういえばニーチェが言っていたかな?――貧しいものには与えるな、奪わせるのだ、と。与えると彼らは僻むのである、と。

2009-01-01

失敗しても動顚しなくなったとき、初めて人はそれが出来るようになる

あるトラブルと思えそうな事態が起きたとき、人の反応は二つです。つまり、「まいったな」と思うか、別になんとも思わずに対処するかです。

言うまでも無く「弱ったな」と思わず平然と対処できる人の方が問題を解決できます。トラブルで混乱している人は能力があったとしても、混乱してしまったり、逃げ出したりしてしまうのです。

人生論でよく読む話ですが、トラブルが起きたときにも「なんだ。別に困ったことなんてないじゃないか」と思えたときに、人は次のステップに行けるという話があります。そして、平然とその課題をクリアできるという話です。だから、難題が降りかかってきても、それは難題の前で平然とできるように成長するチャンスと思って取り組めばよいということです。

しかし、これはまさに言うは易し行うは難しです。僕はやっぱり大したことないことで右往左往してしまうものです。

さて、この話を考えていると、僕は自転車に乗れるようになったときのことを思い出しました。

●「転び慣れなきゃ、自転車には乗れないもんだ」

僕が自転車に乗れるようになったのは祖父のお陰です。祖父が公園で特訓をしてくれたのです。

ですが、祖父は「習うより、慣れろ」の人なので、僕が七転八倒しているのを、ただ見ているだけでした。あるいは後ろから押して不意に放すだけでした。

僕は自転車に乗れるようになるまでに、何回も何回も転びました。

僕に自転車を教えてくれた祖父は「転び慣れなきゃ、自転車には乗れないもんだ」と何度もいいました。

「こんなに転ばなきゃならないなら、乗れなくてもいい」と僕はすねてしまったこともあります。また、僕は理屈っぽい方でしたので、自転車を乗っている人を観察して乗る方法を理屈で見つけたいという欲求もありました。

でも、じいちゃんは来る日も来る日も僕を公園に連れて行ってくれて、僕は何回も転びました。

最初のうちは生傷だらけになりました。しかし、そうして何回も転んでいたうちに、転ぶのが上手くなりました。終いには「転んでも全然平気」というくらいに転ぶのに慣れてしまいました。

自転車に乗れるようになったのはそれから僅か後のことでした。転ぶのが怖くなくなったために、下手な力みが取れたのでしょうか。ふわふわと僕の自転車は進みました。

祖父の言った通りでした。自転車に乗れるのは、転ぶのが平気になってからだったのです。

●失敗しても動顛しないために、失敗する

「成功できるのは一割もいない」とよく言います。まあ、成功の定義は面倒なので飛ばしますが、確かに人生九割以上は(当初の目標が達成できないという意味で)失敗の連続でしょう。

だから、そのうちに挑戦するのが厭になるのです。

僕の父親は僕が二十歳の頃「人生は闇だ。光なんて無い。変な夢を見るな」と諭しました。まあ、僕のことは自分のことなので分かりませんが、傍から見れば、父については、積極的に動けばチャンスが何度もあったように思えます。ですが、父は若い頃の仕事の失敗ですっかりしょげていました。以後、仕事では大きな賭けに出ず、会社は衰退に任せ、ただギャンブルばかりに熱くなっていたのです。

これは僕が自転車に乗れなくて転んでいた時「もう自転車なんて乗れなくてもいい」と泣いていたのと大差がないと思うのです。

人は転びたくない、失敗したくないのです。

でも、それだけじゃいけないのです。転ばなきゃならないし、失敗しなくちゃならないのです。転ばなきゃ転び方は上手くならないのです。そして、転ぶのが気にならなくなったとき、上手に物事を進められるようになるのです。

確かに僕のように何でも頭から入りたくなるものです。そこには失敗がないからです。失敗しないで成功したいものなのです。理屈を学び、筋道正しく進めば、転ばないように思えるものです。

世の中には一度も転ばないで自転車に乗れるようになった人がいることだと思います。スイスイと走れるでしょう。でも、そういう人って危ないでしょう。だって、転ぶ可能性ってのは付きまとう訳です。転び慣れてなければ、転んだときにどうするのでしょう。

大切なのは、転んでも大丈夫だと思えるようになることです。その準備をしておくことです。そうしたことから固めていった方が安全だと思うのです。

●失敗しても動顛しないことを学ぶ

様々なことに挑戦すれば、それだけ失敗も多くなることでしょう。それは当然です。失敗はするものなのです。

大切なのは失敗しても動顛しないことを学ぶことなのです。何が起きても、腐らず、平常心で物事に当たれることなのです。ピンチとはそうした能力を学ぶチャンスなのです。

何が起きても平常心で対応できること、これが与えられた課題を有効に利用する方法なのです。結果はいいのです。与えられた条件で十分に最善を尽くせればいいのです。

[書評]1日24時間をどう使うか/レイ・ジョセフ

本書は時間を有効利用する方法を200個あつめた本です。1955年に書かれた本であるが、PCやFAXの話が出てこないくらいで古くなっているとは感じませんでした。

大きく分けて以下のような分類になっています。

  1. 日々の勤め
  2. 仕事を組織化する
  3. 一時には一事に専念する
  4. リラクゼーション
  5. 怠惰を排す
  6. 読書と記憶
  7. テクノロジーを利用する
  8. 雑務
  9. 主婦

私が興味を持ったポイントを書いておきます。

  1. 朝は熱い飲み物とシャワー。昔の人は梅干と水差しを置いたというし。枕元に電気湯沸かし器を置いておいてタイマーセットすると良さそう。 朝起きるコツ も参照。
  2. 服をハンガーにかけておく。箪笥ってのは無駄ですよね。
  3. 入浴は茶匙一杯の芥子を入れた38度のお湯に20分。今度試してみます。
  4. 電気毛布を用いる。体に圧迫を与えないで眠るのがいいので、分厚い布団は駄目らしいです。今度試してみます。
  5. 台所は「貯蔵と準備」→「流しと食器洗い」→「調理と配膳」の順序にすること。
  6. 配膳と後片付けに配膳車を使う。確かに。そうすれば台所とダイニングをうろうろしないで済む。鍋も載せちゃえば尚効率的。

「やりたいことがあるのに時間がない」という人は、それを実現する方法のヒントをこの本から得られるかもしれない。勿論、この本の全てのアイディアが有効ということではない。しかし、自分の生活を見直すよいきっかけになることと思います。

関連記事

  1. 時間を家計簿のように管理する
  2. 私の書類整理方法(ファイリング・システム)
  3. 寝付きをよくするために
  4. シンプルに暮らす(3) 「整理」のための6つのルール
  5. シンプルに暮らす(1) 部屋の整理は"フローとストック"で

2008-12-24

2008年に書いた記事のまとめ

2008年には160本以上の投稿をした。過去を反省するためにも、ジャンル別と時期別にまとめてみた。

また、月別に見ていくと以下のようになる。

一年が終わる。

今年の今頃は何を考えていたかと思いブログを見ると 信と慈悲と という文が見つかった。なんだ、こんなことばかりを考えていた一年だったなと思う。今はどちらかというと信念の一元論ではなく、それが究極において一致するのであり、慈悲に背く信もありえないと思っている。

その前には 古い友人と会った東京を軽蔑し、京都へ去った友へ古さを求めた、若き日の私たちへ という友人ものが続いている。これは今日書いた 友人の回復を祝う と同じようなものだ。後ろばっかり見ているようなものだ。

が、そうして後ろを見ると自分が少しでも成長しているのが分かる。それが自信につながっているのは間違いがない。

友人の回復を祝う

「ホームレス」と呼ばれた友人がいる。

中学生の頃の友人である。彼は身だしなみ、殊に頭髪に無頓着であり、同級生は彼の頭を見て「葱坊主」とか「いが栗」「馬糞うに」などと呼んでいた。中学校を卒業する頃には最終的に「ホームレス」と呼ばれていた。

別にいじめとかではない。そこには親しみがあったし(事実、彼を「馬糞うに」と命名したのは彼の恋人であったし、彼女こそが頻繁に彼を「うに頭」「葱坊主」と呼んでいた)、彼は彼で全く身だしなみへの無頓着さを改めようとはしなかったのだから。

そんな彼と久々にゆっくりと酒を飲む機会がこのところ続いている。

実はこの彼こそが私の第一の友人である。コンサルからプライベート・エクイティーの世界へといった友人、メキシコからの友人も大切な、本当にかけがえのない友人だが、それでもやはり私はこの「ホームレス」と呼ばれた友人を愛してやまない。

中学卒業後、彼はギターの専門学校へと進んだ。ギター製造ではない。演奏家への道を歩んだのである。

実は彼と私は三年間、同じギターを演奏する部活動に所属していた。私が部長で指揮者であり、彼は副部長でコンサート・マスターだった。四重奏の折には、私がファーストであり、彼がセカンドであった。本当に息のぴったりとあった演奏ができた友人だった。彼ほどに音楽の喜びを共に分かち合えた友人はいない。

彼は「ホームレス」と呼ばれていたが、無骨な男ではない。確かに外見は気にせずに、ギターやゲーム、アニメなど自分が好きな分野にのめりこんでいた。今であれば「ニート」と綽名されたことと思う。が、実際は女よりも女らしい、繊細な男である。その優しさや柔らかさは女性を惹きつけたものだった。

そう言えば、その同じ部活動にいたある女性に、私は目も眩むほど激しく恋をして中学から高校にかけて七回も振られたのだが、その彼女も彼のことが好きだった。

中三のある秋の午後、教師の何気ない一言から、彼がギターの専門学校へ進むことを知った日のことを思い出す。

私は激しく泣いた。

悔しかったのである。彼は私に内緒で進路の準備を進めていた。私は裏切られたと思った。私は彼が普通の高校に進むとばかり思っていた。そして、以前と同じようにギターを弾けるのだと思っていた。そして、私が都内の有名私立校や国立高校を受験する手前、プライドから自分の受験する高校を言わないのだと思っていた。私は自分がギターから遠ざかるのに、彼がギターの道へと進むことを処理できなかった。そして、以前と同じように彼とギターを弾けないことを理解できなかった。

彼との気持ちを処理できぬまま、私は受験を迎え、その受験は成功し、卒業し、入学した。周囲は英雄のように、その受験の成功を祝った。

しかし、私の気持ちはギターに残り続けた。いや、彼との関係の複雑さに私の心は引き裂かれてしまった。しかし、そんな心境を誰が理解してくれるはずもない。両親はギターを弾き続ける私をひどく叱責した。

いや、それでも、私には私を救ってくれる恋人がいた。彼女には感謝してもしきれない。彼女がいなければ、受験を成功裏に終わらせることもできなかったろうし、私はおかしくなってしまっただろう。高校に入学するまでの春休みは私にとって友情の面では最も悩ましくもあったが、同時に恋愛の面では最も甘美であった。

高校に入り、私は何の希望も持てなかった。ほどなくして彼女とも別れてしまった。いま思えばこれは大失敗だった。何の精神的な支えも失ってしまったからだ。

混乱の中、私は彼を罵倒したこともあった。裏切り者と呼んだかもしれない。また、彼に懺悔したこともあった。私の横暴さ、傲岸さが、彼を黙らせてしまったのかもしれないのだと。また、私は芸術や音楽について彼に説教をぶったりもした。

しかし、どう話しても私の心は救われなかった。ただ、彼のギターの腕が上達し、私の指がどんどんと動かなくなっていくことだけが確かだった。その氷のような現実に私は何度も泣いた。

そうでなくとも、私と彼と会う時間は限られていた。彼は遠くの寮に入ってしまったからだ。そこでギターを練習し、めきめきと実力を付けていった。彼を賛美する噂は次々と耳に入ってきた。

私は混乱した。彼の音楽は尊敬されてゆき、私など吹き飛んでしまった。私の音楽は無いも同然だった。

彼は優秀だった。そして異例の早さで前座ではあるがステージを獲得したのである。

私は更に混乱した。私は彼の成功をどうしても喜べなかったのだ。最も大切な友人、最も愛している男の成功をどうしても喜べなかったのだ。私は部屋に灯りも付けず、ベッドに座り、自分の指を見つめ続けた。敢えて言おう。私は彼の失敗を祈りすらしたかもしれない。いや、そんな真似はしなかったと信じたいのだが。

私は彼のステージには行かなかった。本当に情けない男である。彼に笑顔を送る自信が無かったのである。いま思えば嗤えるのだが、代わりに旅行雑誌で自殺の名所を探すような体たらくであった。

それで、彼はどうなったか? 彼のデビューはどうなったのか?

彼はそのステージから逃げたのである。それも何の連絡も無く。

当然に彼は激しく叱責された。そのまま彼はフラフラと練習にも励まず、ゲーセンにしけこむ男となった。そして逃亡癖が付き、機会があってもドタキャンばかりをするようになった。

彼はその学校を中退した。

一説によると、彼と同居の先輩が彼の演奏や獲得したステージを妬み、彼をいじめたらしい。それで彼の細い神経は切れてしまったらしい。そして、その後、彼と同期の男が始めた音楽教室で講師として住み込みで雇われたが、結局はゲーセンしけこみ、使い物にならなかったらしい。また、その後、国内で有名なギター演奏家にも目を掛けられて、めったに弟子を取らないその演奏家の下でも習った時期があるらしいが、結局はそこでもその他の弟子たちとの人間関係を乗り越えられず、迷惑を掛ける形で逃げ出してしまったらしい。

いや、私は真実を知らない。

こうして彼はギターの道を諦めた。

その代わり、彼はマンガの道に人生を見出した。が、それでは食えないので就職をしたり、自動車工場での期間労働者になったり、フリーターになったりしたのである。彼は逃げるように方々を転々としていた。彼とゆっくり話すなどできないし、たまに話せば私が説教臭くなり、話がこじれるばかりとなった。

そして彼は今年、体を壊した。一人暮らしを続けることは出来ず、実家に戻ることになったのである。彼は数ヶ月病床に伏し、最近になって復活したらしい。

こうして私に連絡が来たのである。幸い、私は実家のそばで暮らしている。

私は彼とゆっくりと話しができるようになった。数度会うと次第に価値観や表現の相違が和らげられていく。次第にスムーズに話せるようになる。

気が付けば二人ともギターから離れてしまった。そして私は小説を書き、彼はマンガを描いている。そうした二人がどうにかこうにか創作について話し、美しさや感動、面白さ、あるいは生きることや、愛することについて語り合えるというのは不思議であり、本当に貴重である。

いや、また彼とゆっくりとギターが弾ける日も近いのかもしれない。全ての確執を乗り越えて。昔のなじみの曲を。そうであればありがたい。

私は人生に何も望んではない。ただ、彼と、先に話した振られ続けた女性と三人でギターを弾ければそれでよかったのだ。本当にそれしか望んでいなかったのだ。が、私のエゴが、私のプライドが、それを邪魔していたのだろう。全く月並みなオチで馬鹿馬鹿しいが、こんなところで。

無駄なものを持たないこと、掃除をすること

このところ、家の掃除をしている。その家は、祖父が住み、叔父が住んだ家だ。

そこには大量の物が溢れている。方向性も何もない。ただ次から次へと買い、捨てられず、溜め込んだように思う。そして収納に収まらないと収納家具を買い、壁に棚を付けていたのだろう。例えば食器棚が二つある。老人の一人暮らしに食器棚二つ分の食器は必要ないだろう。

掃除というのは、過去を整理し、自分がどう生き、どう死ぬかを考えるには最適な活動である。

私は二人の親戚が残した汚れと物に向き合いながら、幾許かの思い出を回想する。その家の汚れとは彼らの生き方の汚れに他ならない。本棚や日々の食事を見て人柄が分かるのならば、その家を掃除すれば自ずとその人は見えるものである。

自分の暮らす環境とは原因であり結果である。つまり、人は自分が暮らす家の影響を受けて仕事をするわけであり、よい環境であれば良い仕事、悪い環境であれば悪い仕事になる。そして、そうした仕事の結果として、再び良い環境か悪い環境が与えられる。親戚の家を見て私は彼らという人間をより深く知れた。

人間が生きることはホメオスタシス的なプロセスなのである。高く登る人間はどこまでも高く、堕ちてゆく人間はどこまでも落ちる。人は好循環をしているか悪循環をしているものだ。そして、そのプロセスが生きることそのものなのである。そうした「傾き」を業と呼んでもよいのかもしれない。

私のプロセスはどうだろうか? 己の志の追求、他者への慈悲という狭間で高みへと近づくプロセスを歩んでいるのか? それとも?

それはこれから暮らす家がどのような環境になるかに掛かっているし、それはやがて見てすぐ分かる答となるだろう。だからこそ、掃除や修繕、改築に手を抜くことは出来ない。小手先の結果ではなく、プロセスの「傾き」が重要であり、住環境はその「傾き」に大きく影響する。

私の実家の部屋は私を支えてくれた。あの机、あの本棚は明らかに私の身体の一部である。私の部屋があのような部屋でなかったならば今の私はない。この点において、私は両親への感謝を惜しまない。

掃除をしつつ決意が新たになることがある。シンプルなことだ。常に捨てて生きるということである。人は捨てなければならない。捨て続けなければならない。捨ててさえいれば、醜悪さを残すことはないのだ。溜め込むことなく、捨て続けていれば、人にも喜ばれ、風通し良く生きられるのである。

そして、汚れに蓋をするのではなく、その汚れの中に入り込み、己が手で掻きむしらなければならないということである。つくづく思うのだが、汚れた場所は人間が汚したのだ。しかし、だからと言って、汚れることを恐れて何もしないわけにはいかない。それはガキだ。人は汚さずには生きてはいけない。だからこそ、その汚れに蓋をせず、しっかりと向かい合うことを放棄してはいけないのだ。少なくともそうした瞬間を迎える前に死んではならないのだ。

ごたごたと私腹を肥やそうと溜め込んでいては、汚れは募るばかりである。それに蓋をしようとまた物を買い込み、棚を作れば、風通しが悪くなる。方々に影が出来る。闇が出来る。人は賢い。己が思うより賢い。隠した汚れは、どう取り繕うとも、透けて見えてしまうものである。気がつけば生きる空間が闇になってしまうのである。人生そのものが気まぐれなガラクタまみれになってしまうのである。

私は本当になすべきことをしているのだろうか。要らぬものを求めてはいないだろうか。終わったものを捨てられているのだろうか。汚れに蓋をせず、清めているのだろうか。

2008-12-17

海外貧乏一人旅の心得

一人での貧乏旅行の心得 - G.A.W.という記事を見たら十代の時に3ヶ月ほどヨーロッパとアフリカ、パキスタンあたりを旅行したことを思い出した。その時の経験と知恵について書いておく。

準備編

  1. 保険に入る: 海外には日本では考えられないほどにスリ、強盗が存在する。スリならば金を取られるだけだが、リンチ強盗ならば怪我をするし、パスポート強盗(日本のパスポートはマドリードでは1999年当時で10万円相当と聞いた)ならば足止めを食ってしまう。差別的な物言いで心苦しいが、ジプシーやイスラム移民の多い地域に行けば被害に遭わない可能性のほうが低い。保険は必須だ。逆に保険さえあればパスポートを盗まれた瞬間に贅沢な暮らしを始められる。僕は「いやー、やられちゃいましたよー」と言って包帯を巻いた日本人に、酒を奢ってもらったことが二回ある。クレジットカードを作れば海外旅行保険はついてくるが、きちんと条件などを確認すること。
  2. 貴重品袋を隠し持つ: 旅先では常にスリや強盗、泥棒に気をつけねばならない。僕は財布とは別に防水性の貴重品袋を準備し、旅行の間ほとんどずっとパンツの中に入れておいた。中には米ドル、日本円、パスポート、クレジットカード、キャッシュカードなど。
  3. パスポートのコピーを所持する: 海外ではホテルの受付や警察官などに身元確認のためにパスポートを要求されることがある。が、いかさまホテルは存在するし、いかさま警官も存在する。そういうときはひとまず「パスポートは他の場所にある」という旨を言いながら、コピーを見せるとよい。僕は便利に感じた。また、パスポートを盗られた場合にもコピーがあれば再発行手続きが簡単になると思う。
  4. 必要なものは現地調達: もし読者が旅行道具を揃えていないのならば、あなたはラッキーだ。現地で調達すれば安上がりだからだ。日本の物価は高いので日本で買うことはない。僕は寝袋とバックパック、服、アーミーナイフ(十徳ナイフ)などは現地で調達した。成田からは高校の時の通学に使ってた鞄とギターだけを抱えて飛んだ。
  5. クレジットカードを作る: 基本。普通にVISA。カード会社の現地電話サポートはかなり便利。日本語で話せるし、飛行機の予約とかもしてくれる。
  6. 海外でも引き落とせる口座を作る: 僕は日本にいるときにシティに口座を作った。そこに金を入れておけば、ヨーロッパはもちろん、アフリカでもパキスタンでもお金を下ろすことができて便利だった。
  7. 国際学生証を作る: いくつかの施設を学生料金で利用できる。確かユースホステルも安くなったはず。
  8. 楽器を持ち歩く: 旅行の鉄則は荷物を少なくすることだが、僕は国内・国外問わず個人的な旅行にはギターを所持することにしている。特に貧乏旅行の場合、言葉が通じなくても音楽一発で仲良くなったりできるのはお金じゃ替えられない思い出となる。モロッコへ向かうフェリーのバーでギターを弾いて、そのまま意気投合したカサブランカの青年の家に泊まりに行ったという思い出もある(まあ、それは今おもえば危ないけど)。自分を表現する道具はあった方がいい。

現地編

  1. 旅行案内所(tourist info)に行く: 地図やパンフレットを貰える。ガイドブックは必要ない。ついでにお姉さんに美味しいレストランと安いホテルを教えてもらう(通常はユースホステルでいい)。
  2. 駅で日本人、いなけりゃアメリカ人かドイツ人を見つける: 初めての街は不安が多い。そこで駅でこれから帰国する日本人を見つけて耳寄り情報を拾うと良い。少なくとも電車やバスの乗り方はしっかりと聞いておいた方がよい(特にドイツは要注意。警察に捕まってからでは遅い!)他にも貴重な経験談を教えてくれるし、場合によってはガイドブックやまだ使用期限のあるチケットなどをくれる。特にパリではかなりの確率で地下鉄のパスやルーブル美術館のパスを入手できる。アフリカなど日本人がいない場合は、アメリカ人かドイツ人がよい。彼らは「相手が理解するまでコミュニケーションを継続させる」という我々日本人からすると不思議な特性を持っているので、情報を得たいときには非常に便利である。ただしドイツ人の中には強い人種偏見を持つものがいるので注意が必要だし、単純に情報を信じてはならない。
  3. 朝に気をつける: 本当に痛い犯罪に遭うのは朝である。当時、スペイン都市部では首絞め強盗が横行しており、僕がすれ違った実に八割を超える日本人が被害にあったのだが、彼らは皆、朝に襲われていた。旅行者の到着するのが朝で、宿探しのために貴重品から何から全部持ち歩いていることを知っての犯行である逆に深夜に金品を持って移動する人間は少ないのだ。彼らは早朝の駅でカモを見つけると携帯で仲間を呼び寄せ、人通りの少ない通りで十人ほどのチームプレイで襲い掛かり、日本人を気絶させ、全てを奪うのである。早朝に街に到着するのは危険だ。昼過ぎに到着するように計画すべきだし、万一、早朝に到着した場合は駅のロッカーに荷物をしまって宿を探すべきである(ロッカーが安全という意味ではなく、見た目が旅行者っぽくなくなるから)。
  4. 各種受付のお姉さんは取り合えず口説く: 国にもよるのだろうが、ラテン系な国(スペイン、イタリア、フランス)で受付などのお姉さんと話す場合には、日本人の感覚で言えば、取り合えず口説くようにする。勿論、別に本気で口説くのではなくきれいだとかなんだとか言っておく。かなりの確率で得をするし(バーなら一杯おごってくれたり、ホテルだと部屋が良くなる)、逆に言えば、ぼさーっとしてると気持ち悪がられるっぽい。慣れるまで気恥ずかしいが、気軽に声をかけるのが大切。ただし、間違ってもイスラム圏で気軽に女性に話しかけてはならない。

海外貧乏旅行のことを昔は「バックパッカー」と呼んでいた。大きなバックパックを背負っているからついた名前だ。ただの貧乏旅行なのだが、僕はそんな貧乏旅行に憧れ、バイトで貯めた金で見よう見まねで成田から飛び出した。

その三ヶ月間の旅は苦労の連続だった。楽しい思い出、美しい思い出も豊富にあるが、例えば、ニュルンベルクで風邪をひき、ミュンヘンで麻薬中毒者に絡まれ、パリでホームシックになり、ミラノでは電車到着が遅れて乗り換えできずに駅で眠り、バルセロナでは首絞め強盗に怯え、モロッコでは異文化そのものに神経が磨り減り、スイスでは麻薬中毒者にたかられ、ケルンではパスポートが取り上げられる危機に遭い、ベルリンではネオナチに絡まれ、フランクフルトでも騙された。

でも、まあ、ありきたりだけど、やっぱり行ってよかったと思う。

でも、別に人に勧めるかと訊かれたならば絶対に勧めはしない。それはとても危険だし、精神的にも肉体的にも疲れることだからだ。僕の今の肉体と精神力ではもうあの貧乏旅行には耐えられないと思う。僕は人にはパックの旅行をお勧めする。快適だし、料金だって結構安い。それでヨーロッパの遺産や人々に触れ合うことは十分にできると思う。

本当に馬鹿みたいだけど、僕が一番感動したのは結局は海外ではない。ルーブルで圧倒的な存在感を持って天へと飛び立とうとするサモトラケのニケよりも、青白く澄み切ったアルプスの山脈よりも、激しい太鼓のリズムに天を焦がさんばかりに燃える炎が揺れ続けるマラケシュの夜よりも、トーマス教会で聴いたバッハよりも、それらよりも何よりも、パキスタンから飛び立った飛行機がフィリピンを経由して日本上空に入り、白く弧を描く九十九里浜が見えたときの感動は、本当に馬鹿みたいだが、深く、忘れ難い。まあ、それは別の機会に。

そもそも貧乏旅行に憧れるのは贅沢の裏返しであり、それは僕が昭和の質素で勤勉で下品な男にある種の憧れがあるからでもある。はっきり言ってそんな憧れは不要である。いや、もっとはっきり言って、先進国の人間が貧乏に憧れることほど下衆な話はないと言っていい。貧乏なつもりで旅する日本人とは、現地の本当に貧しい人から見れば嫌味以外の何者でもないだろう。彼らが本気で日本人を憎み、日本人に襲い掛かるのも無理はないとすら思う。歩いてみれば分かるが、それほどに経済が成り立っていない地域というのは、信じられないほどに絶望そのものなのである。脱色された街に、行き場のない若者の苛立ちだけが立ち込めているのである。

行くべきではない。繰り返す。行くべきではない。少なくとも安易な気持ちで行くならば、首絞め強盗に遭うくらいは安いものであり、注射針強盗に遭ってキャッシュカードから全額引き出され、クレジットカードのキャッシング枠限界まで借りさせられ、おまけにエイズをうつされてしまっても仕方がない。だって、被害の場合には保険でカバーできるのであり、僕らの実際の懐へのダメージは少ないのだ。そして、そのことを彼らは知っている。だからこそ、彼らも良心の呵責も少なく、気兼ねなく大胆な犯行に及べるのである。

世界を見る? 馬鹿馬鹿しい。まずは自分の足で、日本の土を踏んでで立派に生き抜け。まずはしっかり勉強しろ。そして稼げ。女を愛して食わせろ。十代の若造がふらふら歩いた程度で何が見える? ただ強い日本円に頼っているだけじゃねえか。そもそも知識も教養も洞察力も足りないばかりで、訪れた都市の目の前の経験を何も理解できてねえじゃねえか。建築も美術品もどうにも解釈できてねえじゃねえか。断言してもいいが、お前が探しているものは絶対に見つからないよ。いくら旅をしても、世界の裏まで行っても結局はお前逃げているだけなんだよ。分かるか? 分からねえ? だよな。お前は本当に自分で失敗しないと分からない馬鹿野郎だもんな。

僕は、少なくとも現代の若者は、僕よりももっと賢く、しっかりと現実を見つめているものだと信じたい。

が、中にはいるのだと思う。バイトで貯めた程度の金しかないのに、パック旅行では行けない範囲を旅したいという若造が。困ったものだ。

そして、困ったことに、僕はやっぱりそういう人間とばかり話があうのだ。

困ったものだ。

2008-12-16

日々の食事の済ませ方: ドイツ風・日本風

最近、久々に自炊をしている。

自慢をするほどでもないが、僕は自炊が苦にならない。というか、これはやり方というか思想の問題であり、誰でもある程度のバラエティーがあり、栄養価のある食事を、安価にしかも簡単に行うことができるのだと思う。

ちなみに、僕は大学時代の前半である十台に大学の寮に住んでいた。そこで知り合ったメキシコ人やドイツ人は大の親友であり、食生活でも影響を受けた。特にドイツ人の生活力、規律は感動することばかりであり、大いに参考になった。

そこで、今回は和風とドイツ人風の二つを紹介する。試してみて欲しい。

作りながら食べる

自炊の場合、大事なことは料理をするのではないと思うことである。料理が趣味の人はいざ知らず、キッチンでごちゃごちゃとやるのは面倒なことが多い。僕は料理の時間はほぼゼロで食事を済ませていた。

どうするかというと食卓の上で作りながら食べることにしている。場合によってはテレビや本を読みながら、食事を準備しつつ食事を済ませていることもある。行儀が悪い? まあ、そう思う人はコツコツやって下さいな。

■ ドイツ人のサンドイッチ

ドイツ人はサンドイッチを常食していた。彼の冷蔵庫には常にゆで卵と生野菜が準備され、時々にチーズやハムなどが転がっていた(それに肉も転がっていたが俺に食わせてくれたことはない)。

しかし、彼はほとんど料理をしなかった。

彼の部屋に遊びに行って腹が減ると、彼は冷蔵庫からレタスを数枚、人参などの野菜も一かけらほど取り出し、水で洗い、木のボールに置く。次にその時々にチーズやハム、ゆで卵などを取り出し、別の皿に置き、そのボールと皿を二人の間にある食卓に置くのである。食事の準備はそれだけである。

で、僕たちはそれらを食パンに挟み、マヨネーズなどで味付けして食べるのだが、これが案外においしい。テープルには小さなナイフがあり、大きな食材はその場で各々が手元で切る。加えて、牛乳を水のように飲み、粉末のスープ(コンソメとバターでコクを出す)やトマトの缶詰を利用したスープ、時には彼が作りつけておいたシチューや麦のおかゆのようなものも食べた(これはうまくなかった。ホワイトソースは ホワイトソース レシピ|KaBaの簡単料理等を見て自分で作っておくと良い)。で、食後にはほぼ必ず果物を食べた。勿論、その場で自分の分を剥きながら。

僕は初めてこの食事を経験したときにその効率性に驚いた。野菜不足の心配ゼロの食事がこんなに簡単にできるとは! 野菜不足を心配して野菜炒めを作っていた俺は何だったのか! ていうか、こいつがんがんハムとチーズ食いすぎ! ゆで卵何個食べてんだよ? あー、俺にも肉くれ、肉!

毎日サンドイッチで飽きそうだが案外に大丈夫である。マヨをドレッシングに変えられるし、中身も人参をトマトに替えたり、きゅうりに替えたりもできる。ハムやツナ缶、チーズ、ペースト、ピクルスなどを選ぶと中々に豊富な味の世界がある。僕は彼のお陰でチーズやペーストについては少しだけ詳しくなった。

特に僕が関心したのは、彼が常にゆで卵を常備していたことである。彼と買い物に行くと、ひょいひょいと生野菜とフルーツ、肉(これは自分ひとりで焼いて食うので絶対に俺にはくれない)を買い、家に帰ると卵はそのままゆで卵にしていた。あるいは帰ってきてそのままシチューを作り始める。こういう習慣が身についているのは結構なことだ。彼が特別というわけじゃなく、他のバイエルン人も同様に、生活の規律(掃除、洗濯、食事など)と質素さについては本当に尊敬しかけてしまうほど身についている。逆に言うと、やはりバイエルン(野蛮人=バーバリアン)は田舎臭いケチばかりということでもある。

ちなみに、彼は日本の女性が大好きだったが食事に関しては不満ばかりだった。食パンはドイツ人も「日本のパンは綿みたいでどれもまずい」と言いながら「ああ、ドイツのパン、ドイツの牛乳を飲みたい」と涙を流さんばかりだった。僕は「あほやな、コイツ」と眺めていたが、実際に海外で過ごすと「ああ、海苔と梅干のお握りが食いたい。日本茶を飲みたい」と激しい禁断症状が出たことがあり、彼を笑ったことを後悔した。ところで、ドイツのパンは癖が強く僕たち日本人の味覚には不味いと思うのでお勧めしない。

■ 我らが和食

和食で暮らすための基本は「米を炊く」という一点に尽きる。常に米がある状態にすることである。炊飯ジャーのタイマーや早炊きを利用すれば常に米が炊けている状況を作るのは難しくないし、大量に炊いて小分け冷凍しておくという手もある(極東ブログ: 米の研ぎ方・飯の炊き方等参考)。

次に保存食を準備しておくことである。日本であれば米にあうおかずは簡単に見つかる。僕の場合、漬物、佃煮、納豆、豆腐、小魚、大根おろしなどが基本となる。

それに味噌汁を作っておくか、ちゃちゃちゃと作る(湯沸かし器で熱湯を出し、乾燥ワカメを突っ込み、コンロで沸騰させて味噌と出汁を入れるだけ)。

これで料理時間はほぼゼロで普通においしく食べられると思う。

もちろんそれだけじゃ寂しいので魚や肉を焼ければ満足できることと思う。僕はがんがん豚や鶏を焼いて食っていた。細かいことはしなかった。

野菜不足は漬物やサラダでカバーするのがいいと思う。最初は僕も一人暮らしの基本とばかりに野菜炒めを作ったが、あれは面倒だし、味のバリエーションも出しにくい(と思う)。

あとは煮物を作る習慣を持つとよい。買い物をしてきたら、その流れで野菜と肉を煮物に変換してしまう。そうすればいつでも煮物がある状態をキープするのは難しくない。この生活習慣はシチューを作るドイツ人から学んだ。

そんなこんなで、誰かの参考になれば。ていうか、安い外食してるとたんぱく質か野菜かが不足すると思うよ、まじで(似たような話、お料理 - finalventの日記参照)。

2008-12-12

ぼやき

最近は鬱々しく言葉がまとまらない。何個かぼんやりと思ったことをログしておく。

◎翻訳型と対話型はどちらが有利か: 英語学習において、従来の翻訳型の英語学習から対話型の学習へシフトする趨勢があるように思う。日本語を介さないコミュニケーションである。実はこれは難しくない。受験英語をやってきた人間なら、日本語を使わず英語だけで話すなり書くなりするのは、ちょっと時間を掛ければ誰でもできる。問題は話す内容だと思う。思うに、翻訳型の時の方が従来の日本語の概念を利用できて面白いことが言えた様に思う。が、これも慣れの問題かもしれない。対話型で話していると内容のないことばかりを話している気がする。いや、気のせいか。

◎日本語は注目されている:1999年の国立国語研究所の調査によれば、今後、国際的なコミュニケーションで必要となる言語のベスト3に日本語があげられた数は、英語、フランス語についで多いらしい。その下にドイツ語、スペイン語が続く。現在は知らない。が、海外でふらふらすると、意外に多くの日本語学習者がいて驚くのは事実である。そして、その理由は、就職などの経済的な理由と同じほどに、日本の文化、主にアニメやゲームに支えられているらしい。だから何だというわけじゃないが。

◎近代国語の成立がなければ、近代の諸価値も現れなかった。人々が手探りで自分の国を語り、価値観を成立させるのに国語は必要不可欠。国ごとの価値観の独立は国語が担う。まあ建前としては。普遍的人類? うーん。ナショナリゼーションとグローバリゼーション。ローカリゼーション。

◎20世紀のアメリカ、ロシアというヨーロッパからの辺境の文学をきちんと整理しておきたい。いや、そういえば日本もそうか。

◎写実ではなく、ただ「見せる」美術。写すのではなく、錯視させる。等伯、雪舟、ダヴィンチ、フェルメール。構図と象徴、視線誘導、透視図法、遠近法。フレームとテクスチュア。動の場と静の人。そこから豊かさが、見るということの豊かさが、視覚芸術の豊かさが溢れ出す。

◎電子レンジ10分間3.7円。 1.2kw * 1/6h * 22JPY/kWh = 4.4JPY

◎車を保有するコスト:保険(年7万)、税金(年4万5千)、車検(年6万)、車体購入費、駐車場、燃料

◎日々の固定費:家賃、税金、通信費(電話、ネット)、光熱費(電気、ガス、水道)

2008-12-02

通夜(4)

今年、三回目の葬式である。今回は高校時代の同級生、28歳、定かではないが、病気で逝ったのではないかと思う。確か持病があったように記憶している。

高校卒業後の彼の進路も現在のことも何も知らない。彼との思い出もいくつか思い浮かぶが、何よりも死者について何がしかを考えること、そのものについて考えてしまった。それは全ての意味の根源かと思う。

前回の葬式から間がない(通夜(3))。このとき「人が死ぬたびにいちいち」云々と書き始めたが、やはり、人が死んだら想いを残しておきたいと思う。

いや、むしろ、私のような男が筆を執るのは、ただ、人が死に、ある時代が過ぎ去ったことを感じるということ、そうした事どものみでよいのだとも思えてならない。

人が死ぬ。生者どもは、あるいは静かに祈り、あるいは激しく哭す。そして、それでも尚、生者はものを食い、もの語るのである。これが人が人たる所以である。

人間性の始原は葬式に見出されるものである。

人が死ぬ。亡骸だけが残る。体はあるのにその「人」は既にしていない。「人」でなければ、ただ動かなくなるだけとも言える。が、しかし、と言わざるを得ぬものが「人」にはある。

死に顔を眺めるとき、眺め続けるとき、我々はそこに何かを感じてしまうのではなかろうか。生きているときには感じられない何か。つまり、霊、あるいは魂を。いや、人間そのものを。ただ死に顔を通じてのみ、生きている生活の顔では感じ得ない、その神妙な感覚が湧き上がってくるのではなかろうか。

人が人であることを見出すのは、人死に始まるものかと思う。逆説的な物言いかもしれぬ。が、人の「生」が不在になったとき、つまり、それの欠落、それの欠損を見つめ続ける中でのみ、そこにおいて初めて、人は人の何たるか、つまり、その神妙な何か、言い換えるならば、魂や霊と呼ばれるような人間性そのものを見つめることができるものではなかろうか。

人は死という「人」の不在を前にして、逆に「人」というものを捏造するのである。

そして、ここに儀式が生まれるのかと思う。いや、全ての「人」としての捏造は始まらざるを得ない。ここに祈りが、そして、畏れがある、そして、ここに占いが始まり、記録が始まる。

つまり、書くこととは、偲ぶことや悼むといった事柄から、始まったのではなかろうか。須らく、書くこととは、つまり字とは呪詛ではなかろうか。

そして、葬送に人間性の始原が見出されるように、この「書く」ということに人間性の始原が立ち現れるものかと思えてならない。はなすではなく、かくということ。明確に過去から未来へと向かう想いの送信。呪詛としての贈与。

記号や意味という行為そのものが、ここから始まるとも思える。共有された社会に「意味」は発生しえない。死者がいてこそ、「生」という根源の意味が発生し、それが他の意味を連鎖的に呼び出す。その死者から逆説的に導かれた意味が、それでも生き抜く我々についてまわる。これはなにも倫理や道徳といった問題ではない。貨幣ですら、それが意味であり記号である限り、それが人の「生」と密接に結びつく限り、それは常に死者から逆説的に捏造された意味の体系そのものである。

いや、こんな戯言はどうでもいいか。

さて、時間もない。ぼんやりと、ぼんやりと、出掛けることにしよう。意味の根源を眺めるために。

関連記事

2008-11-14

風呂敷を使おう エコバッグふろしき包み

私はナショナリストではない。懐古趣味者でもない。だが、風呂敷ってのはフツーに便利だと思う。

風呂敷は大概のものを持ち運べる。通常、持ち運びに困る十冊程度の本だろうが、二、三本の酒だろうが持ち運べる。

しかも、使ってない風呂敷はポケットに収まってしまう。図書館に行くときに手ぶらで行っても十冊の本を安心して持ち帰れるのである。何はなくとも風呂敷をポケットに入れておけば、いれものに困ることはないのだ。

で、包み方なのだが、この「エコふろしきバッグ包み」がお勧めである。

包み方も簡単である。要は取っ手を作り、中身を入れるるだけである。これだけで、問題なくモノが運べる。

そして、見た目も割りにお洒落である。私はお洒落とかに無縁なおっさんなのだが、女の子受けがいいのは感じている。で、なんとなくエコな人になる。別に悪い気はしない。

ちなみに、一般の方は十冊も本を持ち歩かないのかもしれないが、普通、本というのは十冊くらい読まないと意味がないのであり「さてカフェで読書するか」と言うときにはそれくらいを運ぶものである。図書館帰りの学生だって十冊くらいは運ぶだろう。

私は従来、トートバックにしていたが、それでも本が折れたり寄れたりする危険が高く、更には濡れたり危険があったので厭だった。

また、酒を運べると家呑みが楽しくなる。突発的に飲み会をやると酒がコンビニになりがちだ。が、うちの近所の酒屋にはちゃんとしたワインやら日本酒もある。酒をくるめるとそうした近所の酒を買って友人の家に乗り込め、しかも安上がりになるということになる。

こうした運びたいがイマイチ運びにくいものも風呂敷ならば余裕で運べる。

簡単で便利なら使わない手はない。試してみて欲しい。意外に簡単にしっかりと包めてしまうのに驚くはずだ。

エコふろしきバッグ包み

[広告] スーパーセレブリティーライフスタイルマガジン OK! Japan

ブログタイムズさんから記事広告のリリースをいただいたので「 OK! Japan 」を紹介します。全世界23カ国で発行されるスーパーセレブリティーライフスタイルマガジンの日本語版です。

ファッショントレンドは時間が勝負となる情報です。素早く情報を獲得するという点で、紙媒体よりもネット経由であること非常に大きな利点になります。最新情報に敏感な若者には欠かせない情報源になりそうです。

例えば愛する彼のためにテイクアウト!という記事がありました。

11月7日、NYでテイクアウトのドリンクを手にしたナオミ・ワッツ(40歳)。その3日前にはリーヴ・シュレイバー(41)と一緒に、もうすぐ生まれる第2子のために「Kマート」で1000ドル分のベビーグッズを購入

こうした情報までもが、日本でもすぐに読めるのです。USA配信が11日で日本での配信も11日になっています。情報のグローバリゼーションはこのレベルで世界をボーダーレスにしてるんですね。すごいですね。

写真はズームアップできて、なんだかキョトンとした赤ちゃんの顔もアップでよーく見えます。インターフェースとしても、マウスでぐりぐり動かせてとても便利です。

セレブ情報に目がない人や、そうした人とコミュニケーションを取る必要から、さっとそうした情報を頭に叩き込みたい人には最適のサイトだと思います。

OK! Japan 」ぜひ一度、訪問してみて下さい。

(C)OK!JAPAN/ゲッティーイメージズジャパン

[PR by ブログタイムズ]

2008-11-12

「明治の文豪」はまさに今こそ読むべきだ

目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。

この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。

危機から脱し続けた日本

グローバリゼーションが進行しつつある現在、私たち日本人は世界的な金融と IT の波に飲み込まれるかのようです。昭和という時代を通じて国民を守ってきた国境は、その役目を終えつつあるかように見えます。日本の没落を前にして、私たちは底知れぬ恐怖と危機感に襲われています。

これを黒船来航から明治維新に喩える人があります。また先の対戦の敗戦に喩える人もありましょう。枠組みは同じです。欧米は巨大であり、その前に日本はあまりに弱く、先が見えなかったのです。

しかし日本人は一度として諦めることはありませんでした。明治の人々、昭和の人々は、今から見れば絶望的な状況の中、日本を発展させているのです。

しかしながら、上の表現はあまりに大雑把かつ扇情的であり、過剰に右翼的とも思います。この点については異論があることも存じております。私は不用意なナショナリズムには反対ということは強く断っておきます。ですが、ここでは話を急いで、日本語と文藝の話に参りたいと思います。

繰り返される「外国語 国語化」論

こうした幾度の危機の中、日本語の廃止論や外国語の国語化は何度も唱えられました。明治初期、後の初代文部大臣森有礼が国語を英語にすることを唱えましたし、終戦直後には「憲政の神様」尾崎行雄が英語に、「小説の神様」志賀直哉がフランス語に代替せよと主張したものが有名です。

森はその主張をアメリカ人言語学者・詩人ホイットニーに書翰で送り、以下のようにホイットニーから厳しくたしなめられています。

一國の文化の發達は、必ずその國語に依らねばなりませぬ。さもないと、長年の敎育を受けられない多數の者は、たゞ外國語を學ぶために年月を費やして、大切な知識を得るまでに進むことが出來ませぬ。さうなると、その國には少數の學者社會と多數の無學者社會とが出來て、相互ににらみあひになつて交際がふさがり、同情が缺けるやうになるから、その國の開化を進めることが望まれなくなります。

また、昭和21年の志賀は以下のように書いています。

吾々は子供から今の国語にならされ、それほどに感じてはいないが、日本の国語程、不完全で不便なものはないと思う。その結果、如何に文化の進展が阻害されていたかを考えると、これは是非とも此の機会に解決しなければならぬ大きな問題である。此の事なくしては将来の日本が本統の文化国になれる希望はないと云っても誇張ではない。

存在しなかった「日本語」

こうした議論を今となって嗤うことは容易いことでしょうが、それは事の本質を見誤らせます。詳細な議論が必要ですが、一言だけ触れると、明治や戦後という時代はこれほどに日本や日本語というものの未来が見えなかった時代だということです。殊に明治初期にあっては西洋の知識を翻訳するに足る語彙がないことはもちろん、今では自明である「国語」や「日本語」という概念すら成立していなかったのですから。

これは日本が公的には話し言葉としての日本語を使う習慣がなかったことが大きな要因です。日本で初めての演説は福沢諭吉だったのであり、それ以前には自分の意見を他に示す手段は漢文や候文で書面に認めるというのが一般的であったのです。

それでも、こうした状況の下、日本人は漢語の教養を用い、膨大な語彙を創造し、西洋の知識の翻訳を可能にしました。

新しい時代を語るための「文体」

必要だったのは語彙だけではありません、そうした時代に合う新しい「文体」が必要だったのです。「単語」を作るのに比べると「文体」を創造することのイメージはつきにくいかもしれません。

明治の時代まで現在主流であるような常体や形体の文体は存在しませんでした。こうした現在利用されている文体も、彼らが西洋の知識を翻訳する過程で生まれたのです。現在では考えにくいことですが、なにせ日本語にはセンテンス(文)という概念がなく、故に句読点も存在していなかったのです。パラグラフ(段落)という概念がないのは勿論のことです。そうした全体としての文体を明治の日本人は作らねば、西洋の知識を翻訳することはできなかったのです。

また、文体が関わるのはこうした常体・敬体だけではありません。大切なのは人間は言葉によって世界を捉えており、言葉とは世界の捉え方の反映だということです。「語り口」というレベルで見た文体には、固有の世界観や美意識が含まれるものです。文体には常套句や決まった発想が付随し、それが思考を型にはめるものなのです。ですから新しい文体を獲得することは新しい世界の語り方を創出することであり、それは世界の新しい見方を創出することでもあるのです。

「日本語」を作り出した明治の文豪

明治の時代ほど、新しい日本語が求められた時代はないでしょう。そうした日本語を成立・普及させたのが明治の文豪なのです。つまりそれは坪内逍遥であり、二葉亭四迷であり、鴎外であり、漱石あったのです。いえ、福澤諭吉や西周など、それ以外にも無数の学者たちが、漢籍や古文という伝統という背骨の上に、彼の地でも十分に通用するほどの西洋の知識を習得し、その知力を果たして、時代を語るにふさわしい「文体」を構築していったのです。

こうした日本語を持って、彼らは日本を語っていったのです。あるときは近代化し強くなる日本を肯定する立身出世の話でしょうし、またあるいはそうした近代化により破壊されてしまったものを想う喪失の話でしょう。

そして、その言葉で彼らは思考を積み重ねたのです。思索と言うと考えることを放棄しがちな現代人にはどこか浮世離れした響きがあるかもしれません。しかし、帝国主義の世界の中で日本やアジアの将来を思索することは、常に危機の中でのシビアな思索であったのです。明治文学の中に、時に自嘲があり、時に裏切りへの懺悔が響くのはこうした政治事情と切り離せるものではないでしょう。そして、こうした文学を胸に、無数の日本人が日本のために努力をしたのだと思います。

現代に通じる明治文学のメッセージ

これが明治文学です。帝国主義の危機の中、日本を形作った一部が明治文学なのです。「明治の文豪の苦悩に思いを馳せる」などというと、いかにも現実感のない余裕のありすぎる行為に思われるかもしれません。しかし、静かに彼らの文字を辿ると、そこには確実に現代に通じる問題が描かれているのです。もちろん、つまらないものもあるでしょうし、時代の変化で陳腐になってしまったものもあるでしょう。それでも古くはならない、核心を突いた作品がそこにあります。

つまらなければ、読まなければいいのです。面白いものだけ読めばいいのです。いくつかの明治の文豪の作品は、面白いという言葉のいかなる意味においても、今でも十分に面白いのです。

例えば、漱石の『明暗』を凌ぐ日本の心理小説を私は今に至るまで存じません。我を張り、相手の心を読み合う日本人の厭らしさをこれほどに描けた小説はなく、それ故に日本の家族関係や世間、そして政治・経済について、私は様々な気づきを与えられました。他にも彼の手紙や講演には近代文明への彼の鋭い批判や知恵が満ち溢れています。

また、鴎外のいくつかの作品は海外と渡り合う日本のエリートの自負や苦悩、あるいは挫折や自嘲に溢れています。同時にいくつかの作品では構築された文体の美学にも触れられることでしょう。日本の伝統と近代との折り合いに関する思索もあります。

こうした彼らの知恵は今の時代でも、いや、グローバリゼーションが地球を覆い終えようとする今だからこそ、実に興味深く読めるものです。私たちは日々、考えています。国とは、経済とは何か? 一体、何をすべきなのか? 地域とは、家族とは、個人とは? いや何よりも「生きる」とは? こうした思索は大変に重要であり、何よりも面白いものです。そしてこうした問題に取り組んでいるのが「明治の文豪」なのです。こうした文学的興奮に出会える作品を無視してしまうことは、あまりにももったいないことだと思います。

一人一人が考えること

たしかに、こうした明治の文豪の苦悩は「贅沢な悩み」と言われれば返す言葉もありません。確かに小説・戯作などは余った時間に読むものです。

しかし、グローバリゼーションが進展し、誰もが外国と向き合う必要が生まれている現代において、彼らの苦悩について時間を費やすのは「贅沢」とは片付けるべきではない時代が来ているのではないかと思います。彼らの苦悩や問題意識は確実に現代の私たちに共通するものではないでしょうか?

だからこそ、こうしてグローバリゼーションが完成に向かうこの時代だからこそ、少なくとも若い人には「明治の文豪」に触れて欲しいのです。経済的な価値がますます強くなり、宗教的・倫理的な価値はもとより、郷土や家族という価値すらが殆ど消滅している時代だからこそ、そうした「近代」に向かい合った日本人の思索と覚悟に触れて欲しいのです。西欧の植民地支配を受けず、かつ、世界的にも認められる文学を育めた数少ない国の産物です。彼らの思索、彼らの決意、彼らの覚悟は、確実に私たちに力を与えてくれるものだと思います(まあ、たまに日本を見捨てた思索もちらほら見られますが……)。

もちろん、つまらなければそれでいいのです。影響を受けなければそれでいいのです。彼らの言葉はその程度だったということなのですから。

文学が生み出す「覚悟」

しかし、私の願いとしては、そこで考え、立ち止まり、覚悟をして欲しいのです。

どのような覚悟か?

それは「日本人として生きる」と言う覚悟です。

これは一見するとあまりに右翼的な言説に見え、更に下手をすると全体主義的な言説なので、自分で書きながら虫唾が走るのですが、一言で言えばそうなります。ただし、別に「日本人として」でなくてもいいのです。「東京の人間として」でもいいし「アジアの人間として」でもいい。「地球の一員として」でもいいのです。あなたがどこかの共同体に所属し、そこで生きていくという決意が大切なのです。

そして、ここからが大切なのですが、しかし、その共同体は必ずしもあなたに何かをしてくれるわけではありません。むしろ逆です。あなたがその共同体を育てるのです。大人になるあなたが、そこに暮らす老人と子供を養い、軍事や経済に貢献し、教育や文化を発展させるという自覚と覚悟です。

若いあなたは逃げたくなるかもしれません。自由が欲しい年頃です。義務はまっぴらかもしれません。しかし、自由の果てには何があるのでしょう? 共同体から逃げれば逃げるほど、あなたは孤立し、経済的な自分の能力にのみ頼る以外には生きられなくなるのです。それでは人間という存在は暮らせないものではないでしょうか。

しかし、いくばくかの自由を諦め、自分の所属する共同体を自分が担うのだと思ったとき、あなたは「自在」になれるのです。自分の利己主義だけでは生きていけないと思い、自分の所属する共同体に対して無私の奉仕をすることで、人は連帯することができます。そこの教育や文化に満足し、老人と子供を安心して養うことができるのです。欲しいのは金銭ではなく、安心した暮らしなのではないでしょうか。

確かに打算や利己主義では、義務を背負い込んでの満足というのは幻想に思えるかもしれません。しかし、その満足こそが人間が営みそのものであるのかもしれないのです。

与えない人間は与えられない

文学の意味はここにあるのだと私は思います。つまり、文学を読んでもあなたは何の得もしません。せいぜい時間つぶしな程度でしょう。

しかし、あなたはそこで人に奉仕することを学べるかもしれません。ある共同体で生きるということを学べるかもしれません。こうしたいくつかの文学が、こうしたいくつかの言葉が、家族や郷土、国、地球への愛を支えているのかもしれません。

もしも、そうした愛がないならば、全ての大人が義務から逃げ出してしまうならば、世界はどうなってしまうのでしょうか? もちろん、個人を抑圧する全体主義的ナショナリズムには断固反対ですし、ナショナリズムの象徴たる「近代文学」の彼らの作品にも「国家」に対しての二重の感情があります。それでも、国を超えるようなシステムが生み出せていない現在、共同体に関する思考としては、やはり近代文学は面白いのです。

だからこそ、私は若いうちに文学に触れて欲しいのです。少し言い過ぎますが、「日本の将来は駄目だ」「自分のために海外に逃げよう」などという浮ついた気持ちでは、あなたは何事もなせません。そんな男に誰が目を向けるでしょうか。そんな男を誰が信用するでしょうか。人間とは人の中で生きるものです。与えない人間は与えられません。人に信用されない人生など人間の人生ではないのです。

文学を読むことはあなたには何のメリットもないかもしれません。しかし、優れた文学を読む共同体は強くなるのです。そして、その共同体の「強さ」からのみ、人々は明るい未来へと向かえるです。

日本を支える無名のエリート

私の周りには、海外に逃亡しようと思えばいつでもできるだけの財力と職能を持っているのに、日本を支えるために頑張っている友人がいます。もっと高い給料があるとしても、彼は国内で仕事をしているのです。優秀な友人の何人かは外資の金融や多国籍企業に行きました。それでも、今は外資にいるとしても、何人かは確実に日本の未来のために不利な条件を自らに引き受けているのです。彼らは私の誇りです。私は彼を日本のエリートだと思います。彼らは無名のエリートなのです。

こうした無名のエリートの力はどこからくるのでしょうか。私はそれは高校時代に読んだ文学と友人と交わした議論、そして、そこで培われた正義感だと思います。もしも彼らがそうした時間がなく、ただ勉強やスポーツに追われていたとしたら、目の前の打算に従って動くだけの男であったことだろうと思います。人間、損をするのは厭なものです。損をできると言うのは余程の精神力を必要とするものです。

しかし、そうした正義感が私の友人を強く逞しくしているのです。だからこそ彼の元には人が集まるのです。彼らの職能や情報、財力や人脈に群がっている人がいるのも認めないわけではありませんが、本質的には日本のために無私の努力ができるからこそ、人が集まるのです。

私は日本にはこうした無名のエリートが沢山いて、それぞれが無私の努力をしていたのだし、今もしている人が沢山いるのだと思います。

変革の時代

今は危機の時代、変革の時期です。チャンスと捉える人もいますが、チャンスと言うにはあまりに深刻な変革の時期です。まさに常識すら信じられなくなり、予想がつきません。

この意味ではグローバリゼーションの波は収まる可能性もあります。少なくとも世界の労働条件を悪化させるたり、実物経済を不安定にしてしまうようなあまりに国家を超えた多国籍経済活動には、国際的に連携した規制が加えられてしかるべきでしょうし、それはまさに今こそ一番やりやすいタイミングではないでしょうか。「弱肉強食」と諦めるのではなく、積極的に未来に対して意見を述べる人が現れ、また、それを支持する人があればいいと思います。

こうした現代の世界情勢と明治後期の情勢を見るにつけ、明治の苦悩は今よりももっと大きなものだったろうと思うのです。

彼らの時代、弱肉強食の帝国主義とそれによる戦争への流れはとめようもなかったからです。明治の文豪は自分の無力さに時に自虐的になり、時に裏切りに懺悔するのです。

今は反戦ならば反戦、環境保護ならば環境保護といった世界的な声を挙げやすい。もしかしたら、産業空洞化や高所得者や多国籍企業への税優遇、労働条件が盥回しに悪くなる現象(例えば、メキシコから中国、中国からフィリピンへと工場が移動し、労働者の労働環境は国際的な「最低への競争」をさせられていること)に対しても、国際的な取り組みができるかもしれません。

明治の文豪から学ぶこと

以上のような問題を語る上でも私たちには言葉が必要なのです。私たちの時代の言葉、語り口、文体が必要なのです。

それは勿論、明治の言葉というわけではないでしょう。明治、明治と言いすぎていてはただの懐古趣味と私は思います。

明治の人に習うべきは彼らの結果ではありません。その姿勢、その眼差しです。調べてもらえば分かるように、実際、彼らはその天賦の才もさることながら、強烈な努力を重ねています。そして漢文や古文、西洋語から学ぶべきは学び、捨てるべきは捨ててゆきました。彼らは誠に大胆に新しい「語り口」を掴み取り、新しい思索を可能にしたのです。

私たちが従来の思索を一度整理し、新しい語り口を掴むことが重要と私は考えます。現代はあまりにも無批判に過去の語り口、海外の語り口を輸入しているのが多すぎます。しっかりと現代の文体を構築せねばなりません。そのためにも、私たちの時代が私たちの語り口、文体を創出する上でも彼らの努力は参考になるはずです。

そうして現代の問題を実際に語る文体をこそ、現代の文学者は構築してゆかねばなりません。そうした新しい取り組みは「散文」では行われえません。そのために芸術や文芸と呼ばれる領域が残っているのです。ただ面白い話を書いて小説となるのではありません。新しい人間の実存、その語り口を構築して初めて、意味のある文芸と言えるのだとわたしは考えます。人間の実存の新しい語り口、今まで光の向けられなかった人の「スタイル」を提供しない小説は罪です。モラルに反します。文体の構築が全てなのです。私が創作するのは、この点に於いてのみですし、私が読むのも、この点に於いてのみです。

最期に

ただし、繰り返しますが、一般的には文学は無益です。そればかり学んでいても仕方ありません。実際的な学問はきちんと行わねばなりません。

ですから、学校教育では、明治の文豪を少し触る程度でいいでしょう。名前も知らないのでは世間で笑われます。ただし、とかく学校での第一印象は悪くなり勝ちですから、強制するのはよろしくない。公教育を無視するのは愚かですが、それに過大な期待を寄せるのもまた愚かなものです。

大切なのは大人たる我々が国語の問題、世界の問題に正常なレベルでの関心を寄せていることです。大人が日々、そうした書物を紐解き、思索を積み重ねていると言うことです。自分はネットで駄文を読み、テレビのバラエティー番組で爆笑していて、息子には「明治の文豪を学校教育で」などと言うのは笑止千万です。まず己の背中で示すべきでしょう。

公教育としては、基本的には実学をしっかりと身に付けることです。もっと IT や金融に関する実際的な知識、それに英語の運用能力には投資してよいとわたしは考えます。すくなくとも、この状況で「明治の文豪」に投資するのはばかげています。

しかし、いくら日本人が職能的に優秀になったところで、私たちに利他の心、本当の個人主義、共同体への自覚などがないとしたら、そうした人間はただただ外部に流出してしまう可能性があります。日本人に強さがあるとしたら、それは何があっても逃げない、一枚岩の連帯だと私は想像します。もしも、そうした心が培われないのだとしたら、そして、そうした心を培う文学が絶えてしまったとしたら、それは本当に恐ろしいことだと思うのです。

ですから、明治の文学を今こそ読んでみて欲しい。今こそあなたが読んで欲しい。大人のあなたが実際にいま読み、いま考え、それを食卓で息子に語って欲しい。つまらなければつまらないでいい。今の時代と関係がないと思えばそれでいいのです。ただ、そこで何かを見つけられるかもしれませんし、その可能性は大きなものだと思います。

通夜(3)

人が死ぬたびに、一々文章にしているのも馬鹿みたいだとは思うが、先月26日に叔父が死に、10月28日が通夜だった。65歳、自殺であった。

そう言えば、前回、葬式に言ったのは2月のことだった。中学校の部活の先輩で30歳を少し過ぎたばかり、子供が二人いた(通夜(2))。

今回は65歳、先月に癌の診察を受け、余命は一年とのことだった。尤も本人への告知はなかったが、それとなく知っていたと考えるべきだろう。私が先月に顔を会わせたときは元気そうであった。その内面までを見る眼力は、もとより私にない。

彼は神社に務めていたのだが丁度、幾許かの退職金が振り込まれた。その金が死ぬ一つの切っ掛けとなったようだ。彼はその金で葬式の手配を済ませ、病院の外泊のある日、娘の家のドアノブで首を吊った。どちらかというと突発的な、癌の苦痛から逃れるための自殺であったらしい。通夜は簡素この上なく、ただ小田和正が流れていた。不謹慎この上ないことだが、あの甘ったるい高音には聴くたびに苦笑いがもれて困る。

自殺あるいは「自死」については [書評] 自死という生き方 / 須原一秀6つの自殺への誤解 に書いたことと未だに変化はないので参照して頂けると嬉しい。

さて、事情が複雑なのだが、今、私は叔父が暮らした家の整理をしている。いや、叔父の暮らした家というか、もとは私の父の工場なのだ。

叔父は私の父と兄弟だが血は繋がっていない。父の本当の父親は戦後すぐに死に、祖母は再婚した。父から見れば、その「新しい父親」が連れてきた「新しい兄」が叔父である。その「新しい父親」も「新しい兄」も、私の父は気にいらず、殴って家を飛び出した。

やがて父は成人し工場を経営し、やがて私が生まれ、やがて産業空洞化により仕事がなくなった。そこに折から住居を無くした祖父が事情があり移り住みたがった。しかし、そこは工場であった。私の父が朝早くから働き、パートと社員のおばさんたちが猛烈な勢いで働き、日曜日には私と妹も駆り出されて働いた工場だった。

血の繋がらぬ老人は父に頭を下げた。「年寄りの最後の願いだ」と。

父はその願いを飲んだ。父は祖父の住居用に工場を改築し、自宅を新築し三階建てにして一階を仕事場にした。私はそのときの父の思いを知らない。しかし、なんというか、それ以後、工場のない父は、競馬と競艇ばかりの男であった。まあ、それはいい。

やがて、その祖父も死んだ。苦しんで苦しんで死んだ。私は死に際に会った。祖父は孤独だった。私は最期と思って父のことを尋ねた。結局、祖父で父を認めてはいなかった。

「どんなに親父が頑張っても結局だめなの?」と私は訊いた。

「ああ。血のつながりのほうが強い」としっかりと彼は答えた。

父は父で、最期までそんな祖父を赦していなかった。血と情について私は思うところもあるが、それはまた別のところで書くべきだろう。

結局、祖父はその工場だった彼の住まいを、私の父に返さず、自分の実の息子に渡した。こうして叔父が暮らすことになったのである。私の両親は間抜けなのである。いや、間抜けなのは恐らく祖父であり、また受け取った叔父であろうか。死者に対し申し訳ないが、人の世には道があるものである。

祖父が住み始めたばかりの頃、大学生だった私は「なんで工場に叔父が住んでいるのか」と怒ったものだった。「俺が文句を言ってきてやる」と。父は頑固に「済んだことだ」「子供の出る幕じゃない」と逆に私たちを叱った。私は父を理解できなかった。そして十年ばかりが過ぎた。私の中で工場の思い出は殆ど消えてしまった。

不思議なものだ。突然に叔父が死に、行く当てのない家がやって来た。元工場だったのを改築した不思議な家で、土地は借地権なので売るにも売れないらしい。そこで、ただ壊すのは勿体無い、ということで私に声がかかった。十分に人の住める家と思うが行く当てがないのである。不勉強が恥ずかしいが、私は不動産に詳しくない。ただ不思議なものだと思った。

私はその家を眺め、まだ残る叔父の荷物を眺め、その陰にある祖父のものを認め、またその裏に工場の面影を眺める。

私は恋人に「住めるか?」と訊く。彼女は渋い顔で陰気臭くて無理だと言う。まあ無理もないなと私も思う。人の住みたい家であれば元より私の元には転がってこない。

さて、この家をどうしよう。住まぬにしても、しばらくは私が管理してみるか。一人になりたいときに来るのもいいかもしれない。力を与えてもらえるような気もする。なにせ私が大きく慣れたのは父とこの工場があったからなのだから。