目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。
この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。
目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。
この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。
これから世界は多層化するはずで、国家というのはその中の(主要ではあるが)一つのレイヤーに過ぎなくなると俺は思っている。国民国家を成立・維持させる上でマスメディアが果たした役割はとても大きいが、多層化する過程でナショナルなメディアも弱体化することだろう。
同様に教育・メディア・貨幣も多層化するはずだ。これはイギリスの現状を考えれば一番わかりやすいと思う。移民の多いイギリスでは、イギリスという国家の中で、4つの非独立国があり、更に多くの移民が居住しており、各民族が独自の教育やメディアを持ち始めている。それどころかスコットランドなんかは貨幣だって発行している。こうした現象を見る上でも EU は将来を見るいいモデルになっている。
世界多重化の理由はそれが効率的だから。いままでは物流や情報伝達のコストが高かったから国家という単位で物と情報を運び、それを国民という単位でマスに消費していたが、そうしたコストが低くなることで国境を越えた物と情報の移動が起こり、結果として国民というマスの消費は(もちろん主流ではあるものの)低下し、趣味の多様化がクローズアップされてゆくようになる。その流れに逆らってまで国家を煽るのは効率が悪い。
多層化する世界というヴィジョンが明らかならば、それに適したシステムも考えやすい。教育・報道・貨幣とは、従来、国家が共同幻想を実現する道具だった。そうした国家が一つのレイヤー化してゆく中で、上の教育・報道・貨幣が改変されてゆく。あるものは国家よりも広いレイヤーが力を持つだろうし、あるものは国家よりも小さなレイヤーが力を持つだろう。
ただし、重要なのは「地縁」だけではなく、むしろ個人の趣味や興味に基いた結合が重要になる。「地域」や「家族」は更に弱体化する可能性が高い。多くの人が今後、自分の足元を軽蔑しつつ、「あの世」へとはばたいてゆくことだろう。
こうした多様化と従来の「共同体的なもの」の崩壊は無論ネットの影響が大きい。マス以外のメディアの実現は、Blog, Wiki, SNS など CGM がそれを実体化していると言える。そうしたネットのメディアはどれも CMS が支えており、コンテンツの作成を用意にしたことが、基本だが極めて重要だ。だから、これからも更に「世界を変える」ような CMS が出てくれば、世界多重化の速度は加速するだろう。
今後はそうした消費者ベースの情報も、また従来のマスの側の情報(新聞や書籍、テレビ番組など)も、ウェブサービス化し各種 API が公開されてゆくだろう。マッシュアップやセマンティック・ウェブなどの技術により、その蓄積された情報のスケールメリットは上昇するはずだ。国境なんてどこにある?
そうした「地縁・国家」でも「会社・市場」でもない空間で生きてゆく人が、増えてゆくだろう。勿論「食える」ということを含む。いや、そもそも既にネットの世界で生きている人は多いから言うまでもないかもしれない。しかし、そうした勢力の教育やメディアというものが今後形を持っていくのだと思える。
さて、日本では、アジアという単位でのコミットは少ないが、教育・報道で各地の特色が見られるようになってきている。一方、ナショナルな単位での教育や報道は弱体化している。ここにチャンスがあるのは間違いない。地方分権が進めばこれは更に明白な流れになるだろう。
21日、米投資銀行1位のゴールドマンサックスと2位モルガン・スタンレーが銀行持ち株会社に移行することになった。これにより、主要な投資銀行は消え去り、投資銀行モデルの終焉が決定的となった。
自己資本規制の適用を受けずに資本市場から資金を調達し、ハイレバレッジな投資を行い、高収益を稼ぎ出してきた投資銀行だったが、今後、両者の監督権限は証券監視委員会から連邦準備理事会(FRB)に移り、自己資本規制比率に縛られることになる。これに伴い、主要な投資銀行が消え去っただけでなく、彼らの「ブラックボックス」も消え、残った両社もまったく違った存在になることだろう。
こうした危機的な状況下でアメリカ当局は公的資金の投入と空売り規制という二つの麻薬を打った。こうした処置は、短期的には痛みを和らげるが、公金投入が政治的に困難な問題であるのは90年代の日本を思い出せば明らかであるし、空売り規制は市場の流動性を大幅に損ねる。特に、空売りによって下げ相場での利益を確保する手法を得意とするヘッジファンドなど、常に利益を出さねばならないファンドは、そのいくつかが破綻に瀕しているという噂である(Bloomberg.co.jp:ヘッジファンド業界:空売り規制が打撃、成績は10年で最悪か-WP)。90年代、ワシントン・コンセンサス下で他国に押し付けた金融政策を思い出せば、そのあまりのダブルスタンダードに傍から見ても恥ずかしいほどだが、これだけの麻薬を打たねばならないほどに状況が危機的であることが分かる。
必要な処置は麻薬ではなく、本来の体力の増強である。それは具体的には不透明なレバレッジを外し、資本の信用を高めることに他ならない。そのためにはどうしたらよいだろうか?
まず、現在の金融の「リスキーな商品に手を出す」インセンティブ構造を変化させねばならないと思う。また資産価値や信用の低下が「雪崩を打つ」ために「ババを引きたくないから問題を先送りし、マクロ的には更に問題を大きくする」という構造にも問題があるだろう。少なくともこの2点の構造が改善されない限り、今回の問題は回復をみることは難しい。
第一の構造のためには社員や経営者への責任を追求する法律が必要だろう。局所的な視野で「成功」を収めたCEOへの「金色のパラシュート」をもう許してはならない。第二の構造のためには、資産価値の査定や保証に対し、当局の監視が必要かもしれない。そして、その査定に対し保険がきちんと効けば価値低下の雪崩は防げるはずだ。
さて、それにしても米国の地位低下を証明するかのように、今回の金融危機に対しての中東系・中国系の対応は静かなものである。去年CITIに8100億円投資したアブダビから声は聞こえてこないし、中国当局にいたっては米銀への貸出自体を規制するという報道まで出た(中国の監督当局、国内銀行に米銀への貸し出し停止を指示=香港紙 | Reuters)。香港の英字日刊紙サウスチャイナ・モーニング・ポストによれば「今回の指示は、本土の大手金融機関の信用危機へのエクスポージャーが数十億ドル規模に上るとの報告を受け、中国政府が深刻化する米国の金融危機に対し、自己防衛に入ろうとする最初の動き」とのことである。MUFGがモルスタに9000億出資するように、日本が出資をしているのと大きな差である(ていうか、ちゃんとドューデリしたん?)
いまのところ日欧は米を助ける姿勢で一貫していると思う。しかし、それはどこまで続くのだろう。当初から問題視されている総額62兆ドルに上るという CDS 市場はどうなってしまうのだろう(ちなみに8/21現在の東京証券取引所第1部の時価総額は397兆5984億円日経: 東証1部の時価総額、400兆円割れ 約5カ月ぶり )。この爆弾が爆発すると大変なことになるということで AIG は救済されたというのが大枠の理解だが、実際にこの問題を軟着陸する術はあるのだろうか?
万が一、CDS が爆発したら、ドルが暴落し、キャピタル・フライトが起こるだろう。そうなると、どこかで、ヨーロッパすらも独自の道を選ぶタイミングがある気もする。そのとき、日本はどうするのだろうか? そのとき、アメリカの赤字を補填している」とも噂される財務省証券(米国債)を売ることが出来るのだろうか? それとも、その国債すら抱えたまま米国の属国として沈んでいくのだろうか?
大枠で考えると、現状は既に破綻していた米金融を処理しているだけで、ヨーロッパと中国、中東(と日本? アメリカ?)のマルチラテラルな世界システム移行は、ほとんど完了していると見るべきなのだろうと思う。米国経済のバブル崩壊は数年間言われ続けていたのにこれほどに問題が巨大ということはそう理解するしかないと思う。
それでもIMF、世銀のラインの問題は残るが。
「終わり」が始まった。それは誰の目にも明らかだろう。
しかし、一体、何が終わろうとしているのだろうか。そして、「終わり」はどこまで続くのだろうか。何点か現在の雑感を率直にログしておく。
まず、確実なのは、投資銀行が単独のビジネスとしては限界に達したということだろう。投資銀行のビジネスとは有価証券の発行による資本市場からの資金調達である。顧客企業の資金調達を証券化によりサポートし、M&Aなどでの戦略をアドバイスする。さらに各種資産の流動化による資金調達(不動産やローン債権の証券化など)、金利や為替等の金融派生商品を用いた財務リスクヘッジなどを行う(投資銀行 - Wikipediaを参照)。間接金融から直接金融への流れのなかで我が世の春を謳歌した投資銀行だったが、結局は商業銀行へ吸収されてしまうのだろう。[22日追記] 21日に投資銀行首位のゴールドマンサックスと2位モルガンスタンレーが銀行持ち株会社になり、かくして100年弱続いた Investment Bank というビジネスは終了した。(GSとモルスタが銀行持ち株会社に、投資銀行モデル終えん| Reuters)
ただし、この流れ自体は1999年のグラススティーガル法撤廃からの規定路線と言えることに留意が必要だ。同法は世界恐慌後の1933年、預金部門と融資部門とを明確に分離すること(銀証分離)を定めた法律だった。この法律の目的であった預金者保護が、金融工学によるリスクヘッジで可能との認識が成立する中で、商業銀行も投資に乗り出していた。この中で、投資銀行は単独に存在する意義を失い、既にM&Aが進んでいた。つまり、投資銀行の単独の存在が消失するのは規定路線であったと考えられる。そのため「投資銀行がなくなり商業銀行になればいい」と私は短絡的には考えて居らず、今後むしろ大きな問題が生じてしまうのではないかと危惧する。投資銀行モデルの終焉とアメリカの危機 | digi-log に書いたような対策が必要だろう。
一方、今回の流れのなかでは、金融工学によるリスクヘッジや、レバレッジをきかせた投機に潜むリスクの高さも明かになった。「貸してはいけない人に貸す」べく、リスクを隠蔽して資金を集めたことは、語弊があるが「不正融資」であったとも言える。今回の事件の後、こうした手法もなりを潜めるかもしれない。少なくとも短期的に言えば、投資をしている商業銀行もいまはレバレッジを外し、リスクを精査して信用回復に努めることになると思える。この意味で、今回終わったかもしれないのの二番目は金融工学への過剰な信仰である。
しかしながら、レバレッジをきかせた証券化のリスクを学ぶ機会は、アジア通貨危機 (97)やそれに続くロシア危機(98)の際の巨大ヘッジファンド LTCM の破綻やエンロン破綻 (01) の際にも学べたはずだったのであり、中長期的に考えると証券化による「不正な」レバレッジや「神話の捏造」がなくなるということを望むだけ不毛かもしれない。投資銀行を吸収した商業銀行は、再び手を変え品を変え仕掛けてくることだろう。
リスキーな証券には手を出すべきではないということだけは今回の教訓とするべきと私は思う。既に再編された金融が日本に上陸し「サブプライムローン」を仕掛けはじめている。今後、更に甘い言葉がメディアに蔓延することだろう。もちろん、短期的にはそこで利益をあげる者も出てくることだろうし、他ならぬあなたも利益を上げられるチャンスかもしれない。しかし、大多数は損をするのは確実だし、かつ、その先にあるものは今回と同じ信用収縮であり実体経済への打撃である。何も自分の国の経済を自分で破壊するのに加担することはあるまい。故に、当局の規制に期待できない現状においては、一人一人が今回の教訓を是非とも活かさねばならないと思う。大枠で言えば、賭博で儲けるのは胴元と決まっている。この国に住む一人一人の知性により「不正」が行われないということを、私は祈っている。
そして、次に終わりかけているものを思い浮かべると、ドルの基軸通貨性がひらめく。既にユーロ圏は安定した通貨運営を実現しており、産油国も独自の通貨構想がまとまっている (湾岸協力会議 - Wikipedia 参照)。今後、彼らにドルを支えるメリットは相対的に低くなる一方であろう。通貨構想は東アジア (東アジア共同体 - Wikipedia#地域金融と通貨の統合 や アジア通貨基金 - Wikipedia、アジア通貨単位 - Wikipedia を参照) やラテンアメリカ (南米共同体 - Wikipedia参照) にもある。尤も、即座にドル一極体制から、基軸通貨の多極化へと移行するとは思えないが、ドル覇権はゆるやかに退いてゆくことだろう。この流れも、ブレトンウッズからニクソンショック、スミソニアン、プラザ合意という流れから自然なものであろう。
これを経済のブロック化と捉えるむきもあるが、むしろ、複数の経済圏レイヤーが多重的に世界を覆う状況になってゆくと私は考える。つまり、一つの国が複数の経済圏に属するということだ。スープラナショナルなレイヤーが各国通貨レイヤーを仲介し、さらに国内での通貨もローカルな通貨運用が実現してゆくのではないかと考えている。現在の企業を中心としたマネーの他、今後、地域や趣味に基づいた通貨も増えて行くことだろう。つまり、単一ドル覇権も終焉を迎えるが、新な単一基軸通貨が出現するのでも (IMF が提案する可能性はあるが)、また、ブロック化するのではなく、多極化しつつ、かつ、多重レイヤー化すると私は考えている。そうでなければ先の大戦の二の舞となってしまうだろう。
最後に終わりかけているものを妄想すれば、アメリカ経済そのものである。米国からキャピタルフライトが起きる可能性は否定できず、下手をするとセットとしての日米経済がデフォルトになるかもしれない。が、これはありえないことだと考えては置く。されども、相対的に米経済のプレゼンスは低下してゆかざるをえないとは思っている。ドルの基軸通貨性を失ったときに双子の赤字は余りに大きすぎる。
そうして20世紀はようやく終わるということか。私はそういう思うに駆られる。そして、新しい時代となるのかと。しかしながら、その感覚はあまりに希薄でありぼんやりとしている。
なぜか?
確かに終わりは始まった。しかし、終わりの終わりは来るのだろうか? この問いを問う私は、ともするとブラックホールに吸いこまれるような眩暈をおぼえてしまう。始まりが来ない限り、終わりの終わりはやってこないからだ。
私には、未だ始まりは見えてはいない。が、明るい未来は確実にやってくるものと私は信じている。
啄木の歌はひやりとさせるものがある。
どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も 近づく日のあり 誰そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ
更に「ココアのひと匙」という詩は:
われは知る、テロリストの かなしき心を―― 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、 奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を、 われとわがからだを敵に擲げつくる心を―― しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。 はてしなき議論の後の 冷めたるココアのひと匙を啜りて、 そのうすにがき舌触りに われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を。
そして5節では、その戦略が考察される。彼はまず以下の三つの失敗を検討する:
以上の失敗の上から、啄木はこう言う:
我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実——「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
そして、その運動の中で、文学の精神が復活するのではないかと結ぶ。
文学——かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
欲望について度々考える。欲望に踊らされるでもなく、欲望を抑圧するでもなく、生きるということはどういうことか。すると欲望には二つあるようにも思えてきたのでメモしておく。
ここでは欲望を二つに分けてみたい。すなわち所有と創造とにである。所有への欲望は既存価値の賛美であり、それは端的に「くいたい」と叫ぶだろう。一方で創造への欲望は既存価値の破壊で、それは「うみたい」と叫ぶだろう。
欲望である以上、そこには力の問題がつきまとう。しかし所有欲と創造欲ではその働き方が違う。
所有欲は既存の何かを我が物にしたいという欲望である。その欲望の充足にあたっては、その対象を排他的に取得し、その所有を他者から承認されることが必要になる。ここで暴力が向けられるのは押しのけられる他者である。
創造欲では未だ存在しない何かを拵えたい、あるいはそうした誕生の場に立ち会いたいという欲望である。この欲望の充足には既存の存在物の破壊が伴うだろう。つまり世界全体に対して暴力が向けられる。
例えば、人は子を欲しがる。これは所有欲か、それとも創造欲か。あるいは、農耕で暮らす人々にとって、日々の労働とは所有欲か、それとも創造欲か。
この問いが既に答になっているのだが、人は創造と誕生に立ち会うことを欲望する動物である。人はより良いものを求め、現状を破壊してゆく。創造は常に危機を要請する。だからこそ、創造においては常に過去が参照され、模倣される。誕生においては、過去の起源が ―― あるいは歴史が ―― その場で回帰する。
秋葉原無差別殺傷事件は「アキバからの攻撃」でも、「下流」による「上流/主流」への攻撃ではない。それは「アキバへの攻撃」である。テロというには難しい「屈折」がそこにはあると思う。
今回の通り魔事件に対して、「秋葉原オタク文化」と「格差社会へのテロ」を関連させた論調を見ることができる。
例えば東浩紀はこう語っている。
いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。 (朝日新聞2008年6月12日「絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件で東浩紀氏寄稿」より)
全体としての考えには同意するものの、ここの表現には違和感がある。もしも、加害者にとって秋葉原が自分の所属する土地であるならば、そこで自爆テロを行わないだろう。いかにも不用意なたとえだが、イスラム原理主義者がメッカでテロを行うだろうか? それはありえないことだろう。
なぜか? それは準備された殺戮が行われる場合には「こいつらは死んでもいい」という考えが必要だからである。衝動的な犯罪ならいざ知らず、準備が必要な犯罪にはそれをさせるだけの「恨み」が必要である。
単純に秋葉原なら目立つという理由だけで、秋葉原オタク文化の人間が秋葉原で犯罪を犯すことはないだろう。準備にコストが掛かっている今回の事件では尚更のことだ。彼はわざわざ秋葉原に向かった。六本木でも渋谷でもなく、新宿でも銀座でもなく、である。
加害者は明確に「秋葉原」に攻撃を加えた。つまり、秋葉原の人間を葬ってもよいと考えていたのである。
しかし、どう憎んでいたのか?
これには二つの可能性があると思う。一つは加害者が秋葉原オタク文化とは最終的には相容れず、結局は他人として「殺してもいい」と考えた可能性。もう一つは、彼が自らを秋葉原の人間と感じ、ある種の自殺として「殺してもいい」と考えた可能性である。
ここで秋葉原オタク文化を私なりに規定しておく必要があるかもしれない。簡単に言えば、それは「主流」へのアンチテーゼとして図式化できると思う。それは「下流」であり「非モテ」であり「ひきこもり」であるといえる。カネも異性もリアルな交流も生まれない、ある種のサブ・カルチャーである。アキバとは、こうした「現代若者の空虚さ」の象徴である。
そして秋葉原とが主流へのアンチテーゼであると考えられるからこそ、アキバ系若者の犯罪がテロとも見られる土壌が醸成されるのである。この文脈において「主流」の側からは「抑圧」の論理が生じる。ゲームやアニメ、そしてネットは、常に抑圧の対象である。
「ゲーム脳」「ネットの有害情報」「アニメの悪影響」という言説は、イスラムをよく知らぬおっさんのイスラム批判に似る。いわく「あんなものがあるから、こんな事件が起きるのだ」。こうして文化によるカテゴライズは、巧妙に政治・経済的な弱者抑圧を隠蔽するのである。そして「主流」は自らの無謬性を保持しつづける。
しかし、私がここで話したいのは、今回の加害者がそのアキバを攻撃したということである。繰り返しておくが、彼は六本木や渋谷、新宿や銀座を攻撃したのではない。いわんや、霞ヶ関でも皇居でもない。もしも彼がそうした土地を攻撃したのならば、あるいは「テロ」とも言えたのかもしれない。
問題は、アキバ系に属すると判断される人間が、アキバの人間を「殺してもいい」「死んでもいい」と考え、犯行に及んだということである。彼はアキバ系の「現代若者のの空虚さ」を攻撃したのかもしれない。ここの事柄の消息をもう少したどっておきたい。
なぜ彼は、アキバの無辜の人々を殺せたのか。
一つの可能性は、彼はアキバに救いを求めたのかも知れない、ということである。そして「裏切られた」のかもしれない。彼はネットに書き込み、アキバに通い、幾ばくかの言葉や物品と金銭を交換した。しかし、そこは救いの地ではなかったのかもしれない。
行き交う秋葉原の通行人の無関心は、ネットの画面の沈黙は、彼の目にどう映ったのだろうか。「裏切り」ではなかったろうか。挫折と失望が、やがては殺意を芽生えさせ、殺意は冷たい沈黙という栄養を貪りつづけ、餓死することがなかった。加害者自身、意識的にしろ、無意識的にしろ、この殺意の飢え死にを求めていただろうが。
孤独に苦しむ子供が、親を殺すような心理がそこにはあったのかもしれない。人は応答を求め、つまりは愛を求めて、その人を殺すことがありえる。が、そうした犯罪を人はテロとは呼ばない。
もう一つの可能性を考えてみる。すなわち、加害者は自分はアキバの人間と思ったのかもしれない、そして、そうした自分をこそ抹殺すべきと考えたのかもしれない、という可能性である。
加害者が、沈黙するケータイや去ってゆく通行人を眺めながら、逆に、そうして無関心を装う人々こそ、自分だと感じたのかもしれない。加害者はネットや秋葉原の路上を、匿名のままに素通りしていたことだろう。そして、自分のような孤独を抱える人を見かけても、何の応答もせず、無関心に過ぎ去ったことだろう。自分がされているのと同じように。
人に興味がない人間が、人の興味をひくことはない。彼は人の無関心に苦しみつつ、自らの無関心にも苦しんでいたのではないか。彼は愛を贈られることもなかったが、愛を贈ることもできなかった。孤独から救われる方法は一つである。無言の誰かの孤独に応答してあげることである。彼はこうしたことに気付いていたのではないだろうか。
そして、彼は犯行に及んだ。
彼は自分への無関心が、自分の人への無関心と対照的であることに気付いていたのかもしれない。この悪循環に気付いていたのかもしれない。しかしながら、いや、だからこそ尚更に、彼の殺意は巨大なものになった。
彼は自分のような存在をアキバに見てしまったのかもしれない。その救いようの無さを感じたのかもしれない。自分がアキバの人間であり、その空虚さを理解しつつも、他の場にはいきようもなかったのかもしれない。だからこそ、渾身の力を持って、彼はアキバを破壊した。ここの時の「こんな奴らは死んでもいい」には自分がすっぽりと入っている。
結局のところ、私には加害者と秋葉原との距離が分からない。が、今回のアキバ系によるアキバへの攻撃は十分に考える必要があると思う。
以前は社会の片隅に棲息したに過ぎないアキバ文化は、いまや十分に成熟した。メインストリームのメディアに一切触れず、アキバ系の情報だけで暮らすことは現在十分に可能であり、一定数が存在することと思う。これはスポーツやJ-POP、芸能情報、ドラマや映画などから遠いところで暮らす人々が、確固として存在することを意味している。いい加減に「主流」はこうしたことを考えたほうがいいだろう。
一方で、「主流」から迫害されるアキバ文化という視点だけでなく、アキバ系として暮らす人間自身にとってのアキバ文化ということも考える必要性を感じさせる。つまり、アキバの中から「アキバ系として生きることはどういうことか」を問い直す必要が出てきていると思えるのである。
これはオウム信者自身とオウムとの距離のようなものかもしれない。ただし、このことで私はオウムとアキバ系が似ていると言いたいのではない。ただ、メインストリームとのこじれの問題と、互いの無反省のことを言っているのである。オウムの場合で言えば、社会がオウムを拒絶したために、オウムから脱退した人が再びオウムに戻らざるを得ないという状況があると聞く。これはオウムに内省がなく、また、同時に日本社会の側にも内省がなかったことによる不幸である。このことから、日本社会は常に「オウム的なるもの」に怯えることとなり、この痛手は回復不可能なもののように思える。
こうしたアキバ社会の内省を、日本社会の内省と組み合わせてゆくことが求められているように思われる。互いが存在を確認しつつ、共存する道は現在ならそれほど難しくはないだろう。先の図式的なアキバ理解が打破され、所得格差や世代差による断絶ではなく、日本人の多様性を確立することを私は求めたい。
子供だからと言って「犯罪」を許してはならない。犯罪をゆるさないためには暴力装置が必要である。と、たぶん人がこんなこと書いたら、トンデモだと思って批判的に考えるんだろうけど、勢いでちょっとメモしておく。
子供の世界は犯罪に満ちている。恐喝に強要に脅迫、名誉毀損に侮辱に信用毀損、窃盗に横領に器物破損、更には傷害に暴行である。小中学校の子供にとって、これらの犯罪のどれか一つにも遭遇しない日というはありえないだろう。
高校、大学となるうちに犯罪は減る。万引や横領は規模を拡大して行われ続けるが、対人的な犯罪は格段に減る。ただし、怪しげなサークルなどで盗撮や痴漢、強姦や拉致をする輩が大規模に存在するが、それはある種の「不良」ということで例外として考えておく。実際、彼らは犯罪を犯しているという自覚はあるはずだからである。高校時代に同級生が駅で盗撮をして警察に捕まった。彼は少なくともそれが犯罪だということは自覚していた筈だし、実際に犯罪として扱われれた。
問題は小中学生の犯罪である。性的なものこそ皆無だが、極めて悪意に満ちた対人的な犯罪に満ちている。端的に言葉や拳の暴力が飛び交い、所有物は奪われ、傷つけられる。
どうして子供は刑が軽いのかという問いに、社会が責任を負うからだと言う答がある。それ自体は納得できる。店舗などでの窃盗を「子供だから」とゆるすのは感覚としては分からなくもない。しかし、対人的な暴力を、どうしてああまで野放しにするのだろうか。心に深刻な傷が残る人はかなりの数にのぼるのではないかと思う。それでも社会としては「子供のしたこと」として厳罰では臨まない。
いや、問題は刑が軽いとか重いとかという問題ですらない。子供には犯罪を犯しているという意識がないのだと思う。だから、暴力は野放しとなる。そして、被害にあう子供は、そうした被害を大人に訴えることがない。その理由の一つに、訴えたところで、加害者への罰が現実的にほとんど無く、報復の方が恐ろしいからだろう。
保護されないことを通じ、子供は「自分に振りかかってきた火の粉は自分で振り払わねばならない」と考えざるを得なくなる。そして、弱いということを認めることが恥ずかしくなるだろう。いじめられる奴はそれなりに理由がある、という理屈である。言いたいことは分かる。しかし、これは酷であると思う。
問いはシンプルだ。犯罪はしてはならないと教えるわけにはいかないのだろうか。そして、犯罪はどうあれ刑罰を受けるということを実地に体験させるということである。そうしたことを通じ、被害者には弱いことを認めることは恥ずべきことではなく、罪を犯したものを当局に通報することこそ善であるというようなことを教えるべきではなかろうか。
ここで、いつものように無駄な思い出話。
私は端的に暴力は振るっていいものだと思っていた。正義とは暴力が存在しないことではなく、暴力を制御することであるとは中学生の頃から考えていた。暴力が存在しない世界など想像もできなかった。
だからこそ、有効に根回しをし集団を作り上げ、不意を突いて敵を襲った。普通の人間において、人数差を凌ぐ個体差はありえない。集団を作ることが支配への道である。私は普段は優しく振舞い、時に集団の暴力を行使するにあたり残酷に振る舞った。
いざとなったら殺す気で釘を打った角材を持ってチャリンコを漕いで、「怖い兄貴」のいる不良の家に行ったこともある。ちょっとした不良ならバタフライ・ナイフを器用に扱っていたものだった。上級生数人に袋叩きにされたこともあるし、木刀をつきつけられ土下座して謝ったこともある。
ある日、ナイフを所持していたのを祖父に見られ「そんなの持ってると、やられるぞ」と言われたのだが、僕はそうした事情をどう祖父に説明したらいいのか分からなかった。武器もなしに、どう正義を為せるのか。意味が分からなかった。僕はナイフが怖かった。だから暴力には従うだろう。これは情けないことなのだろうか。ナイフが怖いのはいけないことなのだろうか。ナイフが怖くて、自分もナイフを持ち、ナイフに頼る輩が怖くて、ナイフに頼ることはいけないのだろうか。僕はこう考えたが、泣いてしまって、うまく言えなかった。
祖父は「逃げることだ」と教えてくれた。戦場を生き抜いた智恵であったかもしれない。しかし、自分の大切な友人も残して? 無力であることを恥しめられて? 固定された集団において、弱い者は更に弱くなり、奪われる者は最後の一つまで奪われるのである。どこまで逃げる? 不登校になればよいのか?
そうした戦いの果てに、中学校時代の最後の頃、僕は「いじめ」の存在しない帝国を築きあげた。いじめの元を巧妙に制御したのである。「不良」を集団の暴力の下に無害化し、特に酷い「不良」は不登校においやった。「いじめ」は無くなった。私は本当にそう感じていた。正直に自惚れを書くが、僕は内心で惚れ惚れとしていた。が、実はそうだと感じていただけであり、私の見えないところで「いじめ」はあったらしいのだが。
私は果たして正義だったか。勿論、偽善であろう。だが、偽善であることに恐れはなかった。私は私の正義を実現すべきだと思った。出来うる限り、暴力を有効にコントロールし続けた。当時、正義に悩んでプラトンやソクラテスを読んだが、馬鹿らしくて投げ出してしまい、以後、ずっとプラトンとソクラテスは嫌いである。
権力のシミュレーションゲームをしていた気分の僕は、卒業アルバムで「誰とでも仲の良い人」にランクインしていて、なんというか笑ってしまった。何人かとはまともに付き合ったが、僕はどう考えても「誰とでも仲良く」するようなタイプではない。
端的に、子供時代の暴力に関して、警察のお世話になるべきだったと思うことがいくつもある。僕は人間全ての人が、人の痛みが分かるわけではないと考えている。そして、人の痛みが分かる人は教えられなくても分かるものである。端的に、人の痛みに同情させようとする教育は馬鹿らしいと思う。彼等は人が苦しむのを見て喜ぶのであるから、B君が苦しむことはやめましょう、じゃ話にならないのである。
何人かの人間は人を騙しても平気であるし、何人かの人間は痛がる人間を見て楽しがる。これは疑いようもない。人の不幸は蜜の味である人は確実に存在する。僕はこういう人間が変わることは教育によっては起こらないのではないかと思う。よっぽど素晴しい女性が献身的に愛情を注げば別かもしれないが、大抵の場合、彼等は徹底的に親から損なわれていて、しかも幼年期から暴力による成功体験が豊富なので、通常の会話やら授業やらで更生できるような性質ではない。彼らの良心には期待はできないのである。
だから、国家には刑法が存在し、行政は強制執行権を持つのだろう。強制執行できない法律、つまり暴力を振るわない法など空虚でしかない。
ここで僕は、小中学生に対しても犯罪という概念を教えるべきだという発想になる。そして実際に恐喝や暴行があった場合には「A君すみませんでした」じゃなくて、もっと具体的に暴力が、振るわれるべきだと思う。つまり良心に訴えるのではなく、体罰か勾留、財の没収という形で「痛い目」にあわせるのである。
現状では暴力のふるったもん勝ちという状況である。そうしたことが成功体験としてインプットされる前に、犯罪はペイしないことを体験することが教育であるように思う。社会の原理として、私人の暴力は暴力支配装置たる当局が取り締まるものだと教えるのである。「子供だから」という形で暴力を野放しにするのはとても危険であると思う。
子供にとっての「当局の暴力」とはつまり学校の暴力ということになる。これを認めるしかないのだろうかと思う。学校は子供の所有物を「公共の福祉」のもとに「没収」し、子供の暴力に対し断固とした暴力による刑罰を与えるということである。少なくとも、先生が殴っていたら、子供の暴力があそこまで野放しではなかったと思う。そして殴る先生をもっと頼ったろうし、告発はもっと有効だったと思う。もし、学校が暴力装置であることを認めないのだとしたら、やはり暴力装置の親玉である警察に頼るしかないことになる。
どちらにしても、子供のすることだから、と言って何の強制力も発揮されず、被害者が自分の弱さに泣き寝入りするという状況はおかしいと思う。
と、ここまで書いて、やっぱり最初から感じていた、トンデモな話だなと感じる。これは僕が常々批判する恐ろしい管理社会を増長させるように思う。どこかで話のポイントが拡散している。けど、まあ、こんなとこで。そのうち整理できるかもいれないし。
中国人の話を思い出したら、メキシコ出身の留学生と組んで、ドイツ出身の留学生と討論したことも書きたくなった。何の役に立つわけでもないけど、前回に続いて大学時代の回想。
ホセはメキシコからの留学生で社会学を専攻していた。彼はそれまでにも西洋によるラテンアメリカ文明の破壊を批判することが度々だったが、西洋人を前にして話すのを見るのはその時が初めてだった。
メキシコ人の認識として、独自に育まれ栄えていたラテン・アメリカの文明は西欧によって破壊され、長い植民地支配を通じて徹底的に搾取されたという思いが強い。その破壊の爪あとは深く現代に至っても十分に社会機能が回復したとは言い難く、それに加えて西欧の搾取的圧力は未だに続いていると捉えている。要求するところは西欧による社会破壊の補填ないしは回復の補助、そして、現行の搾取的圧力の停止、というところである。
何の切っ掛けだったかホセがカールに西欧批判を始めた。私はいつも聞いているホセの話に耳を傾けつつ、ドイツ人のカールがどう答えるのかを楽しみにした。
カールはアホなやつである。世界で一番アホなやつだと思う。これは罵倒の意味ではない。一緒にいて楽しいという意味だ。こいつは様々にアホ話を考えつづけ、日々女の尻を追っかけまわしていて、一度だけだけど過ぎた火遊びの消火活動を手伝ったこともある。
「西欧がいかなかったらどうだったと思う?」私の予想を裏切り、アホのカールは切り返した。「あなた達の文明の価値自体を認めないわけじゃないが、二つの点でそうした単純な西欧批判には私は常々疑問がある。
一つには恐らく、私たちの介入なしには自由や平等といった人権は守られず、奴隷としての人生を生きる人が存在し、女性は差別され、人々に自由は与えられなかったであろうが、それをあなたは認めるのだろうか。
二つ目には、科学――これは私たちの合理精神の際たるものだが――抜きにしては、工業技術や医療・都市衛生技術の恩恵を受けられないわけだが、私はそうした生活がそれ以前の原始的で迷信にまみれた社会よりもよいと思うのだがどうだろうか?
つまり、政治的な面と経済・健康的な面から見て、西欧は多大のものをあなたたちに与えたと私は思う。ゆえに、西欧がラテン・アメリカを訪れたことは――勿論、幾分かの過ちを私たちが犯したことを認めるにしろ――、あなたがたにとっても実りの多いものだったと私は思う」
アホのカールはバリバリに論理的ドイツ人モードで話し出した。カールは「土管がドカン」で三日間は笑ってられるアホなのだが(異文化の笑いは難しい 参照)、ドイツの教育を受けているのでちょっとした話になるといやに論理的に話し出す。
以前にも、カンボジア人の留学生がカールを見て「ハイルヒトラー!」とかやりだして「ねえねえヒトラーについてどう考えてるの?」「ホロコーストについてどういう風に考えてるの?」といい始めた時にも理路整然とそうした問題に対して納得のできる答をしていた。私は最初ヒヤヒヤしまくったのだが、独裁者と虐殺の問題は若きカンボジアのエリートにとって非常に重要であり、有益な話を聴けたと感謝していた。最初に「おい、カンボジア人、空気読め」とか言いそうになった自分が恥ずかしくなるほど、ドイツ人とカンボジア人はそれぞれの国の独裁と虐殺の問題をしっかりと受け止め、有益な意見を交わした。
ホセはこう答える。「文化にはそれぞれ独自性がある。
それに女性の差別を西欧によって撤廃したというのは嘘だ。ジェンダー論による近代批判が示しているように、西欧思想は新しい形の男女差別を生み出したことは疑いようもない。所謂、近代家族制度の下で、労働を支える妻としてあるべきと女性は差別されたのは明かだ。これを前近代の家族制度と比べること自体が馬鹿げている。
「自由」や「平等」にしても、西欧がもたらしたものというのは傲慢ではないだろうか。何しろ非西欧人にとっては西欧思想とは白人優越主義であり帝国主義であった。つまり、私達を植民地支配し、自由と平等を奪い去るものに他ならなかったからだ。君達がもたらした不自由と差別は規模の面でもその深刻さの面でも極めて恐ろしいものだったんじゃないかな。僕たちにとっての自由や平等は、あくまでも西欧への抵抗から生まれた」
んで、矢野はどう思う? とか振られる。まいったな。「まあ、俺は基本、ホセだな。西欧近代がもたらしたものは災難だったと俺は思う。日本だって西欧に不平等条約された訳だし。
仮にお前らが来なくても、日本は十分な生産力と技術を持った国になったんじゃないかなあ。江戸時代の後期には既に工場での労働集約も行われていたし、都市衛生も進んでいた。そのうち平等も実現したんじゃないかなと思う。
ただ、確かに西欧の技術はやっぱり凄かったんだろうというは思う。明治時代に科学を学んだ人の本を読むと、いかに西欧科学が圧倒的だったかを感じるし、そして、そうした合理主義と当時の日本の土壌がいかに断絶していたのかを痛感する」
「俺は技術も認めない。合理主義もだ」とホセは言う。「それがどう役に立った? 技術に支えられた社会の産業化は、貧困を生んだだけだろう。それまで木や葉っぱを使って自分で家を立てられた人々が、産業化した社会においたてられて、ゴミを拾って暮らさざるを得なくなるようなことが起こる。それまでしっかりと生きてゆけた人が、突然「無教育」な社会不適合者になるんだ。
貧困を生んだのはお前ら先進国だよ。カネを貸しつけて、莫大な負債の利子で俺たちを苦しめる。そして傀儡政権を作って自由に政治もコントロールできる。貧富の差は拡大し、慢性的にインフレが民衆を苦しめて、一部の富裕層ばかりに富が集まるんだ。
それに、お前ら先進国なら最新技術の商品を見て喜べるだろうけど、僕たち発展途上国ではフラストレーションの対象なだけだ。買えないんだよ、単純に。アメリカや日本で作られたTV番組やCMを見るにつけ、貧しさを痛感するだけだ。学校の放送室でロックを流すというようなアニメがあったんだけど、僕はそれを見て心底腹が立ったよ。メキシコには音楽を流せるような放送室を備えた学校なんてあるわけないんだから。そんなものは俺は見たくないんだよ。
技術は金持ちの独占だ。ドイツや日本はいいよ。知財だって有利だ。メキシコはどうなる? 最初から競争になんて入れやしない。そして貧富の差はどんどん拡大してゆくんだ。僕にとっては技術なんてものは何の恩恵もなかった。そりゃテレビは見るよ、日本製だけどね。政府に独占されたチャンネルで、面白い番組はアメリカや日本で作った番組だらけだけどね。だからそんなもの無くてもいい。技術なんて僕たちには関係ない」
「それでも西欧の援助で救われる人がいる」とカールは言う。「医療や衛生という技術は実際に人命を救っている」
「僕たちにとって目の前で感じる西欧の技術は軍事力だよ」とホセは言う。「医療と衛生? 馬鹿馬鹿しい。銃とミサイルだよ。西洋の技術で救われた以上に多くの人間が、西洋の技術で殺されたとは思わないかな? 西洋は強さそのものだ。僕達は無力で搾取されるだけだ。槍と剣の時代なら民衆も立ち上がれただろう。でも現代兵器を前にしたら完全な虐殺があるだけだ。戦車や戦闘ヘリどころか、戦闘ロボットまで作っているんだろう。軍事力の格差がこれほどに開いているのは恐しいことだし、本当に愚かしいことだ。
そうそう。知ってるかな? カリフォルニアとニューメキシコは僕たちの土地だったんだ。長い独立戦争がやっと終わってまもなく、1848年の米墨戦争でメキシコは全領土の3分の1をアメリカに取られたんだよ。許せないのはカリフォルニアにいる人間自体がメキシコ割譲地の話を知らないってことだ。メキシコの軍隊ってのは何のためにあるか知ってる? まさかアメリカと戦える筈がない。僕たちは彼らと戦える武器は買えやしないからね。メキシコの軍隊ってのは、自国民を服従させるためだけにあるんだよ。これがアメリカに支配された国の現状だ。
技術ってのはいつもアメリカの技術だ。政府はアメリカの言いなりだからすぐに関税が撤廃されて、技術的に未発達の産業はすぐに吹っ飛んでしまう。そのくせメキシコが優位な産業では関税は撤廃されない。本当に自由貿易協定はクソだよ」
「それはあまりに一面的で歪曲した見方だ」とカールは言う。「現実に西欧が人類を幸福にしているじゃないか。幸福にしているからこそ、西欧の原理が受容されているんだろう。
もしも西欧の原理が否定されるべきならば、代案が出ているはずだろう。政治では民主主義国家がそれぞれの国民の主権を代表しつつ利益を守り、経済では資本主義市場が合理的な分配を可能にしている、文化でも文化産業が表現の自由の下に皆に需要される娯楽を十分に提供している。それらは何ら否定されるべきものではない。しかも、その普及は常に進んでいる。グローバリゼーションの下で世界はやっと一つになろうとしているんだ。民主主義と市場原理とポップカルチャーが国境を越えた平和を実現しているんだ。
君は、民主主義を否定するのか? 主権在民を否定するのか? それとも国民国家そのものを否定するのか? 国家主権の不可侵がなければ国民を守るものは何も無くなってしまう。世界政府はただの幻想だ。そして、国家主権が民衆にあることがことを認めねば、国家は国民を守らないし、利益が反映されない。そのプロセスは民主主義以外にはありえない。
資本主義を否定するのか? 市場原理を否定するのか? 私的所有の不可侵を否定するのか? 契約の自由を否定するのか? 誰もが自由に契約を結べ、自分の財産が守られ、その上で、誰もが自由に平等に市場で取り引きできる。純粋に合理的なゲームがそこで行われている。これを否定するのか?
ポップカルチャーを否定するのか? ジャズやロックの普及、アニメや漫画という娯楽が自由に発信され、享受されたのは、文化産業の恩恵だろう。誰もが自由にアートを創作して、誰もが自由にそれを鑑賞できる。
君たちが、西欧に批判をするときは、あまりに現実を無視し続けている。ただの理想論だ。現実を批判することなんてない。それを非西欧というコンプレックスで無駄に西欧批判をするなんて尚更に虚しいことだ。誰もが一票を持っている。誰もが市場のプレイヤーになれる。誰もが文化を創出できる。誰も止めていない。自由で平等な社会だからだ。君たちは、その自由で平等な社会で活躍する能力や勇気が少しばかり足りないだけなんだ。そして、その制度に批判を投げる。過去やナショナリズムに引き摺られてね。未来を見ていけばいい。西欧の原理は未来を生み出せる。
更にホセに言わせてもらえば、確かに過去の侵略の歴史は申し訳なかったと思うが、それでも現代に残っている発展途上国の債務は結局は君たちの国の人間が使ったのだろう。君はそれを一部の富裕層が使ったと言うのだろうが、それは説得力がない。民主主義と資本主義の未成熟があったから不幸にして一部の旧支配階級が甘い汁を吸ったのだろうが、それは貸した側を責めるべき問題だろうか。それは国内の問題だ。実際、日本は過去にあった債務を返済し終え、今では債権国となっている。そうした経済発展をこそ見習うべきじゃないのかな。そして、一部の利権を許さないような民主主義と資本主義の発展が大切なことだろう」
「全然違うよ」とホセは言う。「確かにメキシコだって選挙はあるよ。でも、メディアだって何だって親米の奴等が持っているんだよ。普通の人には絶対に自由貿易協定がどんな打撃をメキシコに与えるかなんて分からないんだ。それに大統領は勝手にアメリカに油田を渡してしまったりするんだよ。普通の人には全然分からないところで話は決まっていって、富める人は更に富み、貧しい人は更に苦しくなるんだ。
1994年のメキシコの通貨危機だってそうだった。92年のNAFTA(北米自由貿易協定)によってメキシコに大量のマネーが流れ込んでバブル状態になり、そのバブルがはじけてペソが大量に売られてメキシコ中央銀行のドルは底をつき、ペソは通貨切り下げ、大変なインフレになり失業者が溢れたんだ。それでも一部の富裕層は、その時に政府が発行した国債で儲けたんだよ。そしてIMFが介入して、税金を上げ、福祉の予算を減らすんだ。こうして全然関係ない市民が、国際金融のきまぐれで生活が苦しくなるんだ。僕はお父さんとお母さんがいつもお金のことで喧嘩をしているのを見て、とても苦しかった。僕のお父さんは大学で教えていたけど公務員の給料が切り下げられてしまったんだ。
発展途上国は先進国のマネーの流入に対して無力なんだよ。いや先進国であったとしても国際金融のマネーにはどんな国だって無力と言っていいくらいだ。イギリスのポンド危機、97年のアジア通貨危機、98年のロシア財政危機を考えてみてよ。どれも普通の人が苦しむんだ。通貨が金儲けの道具なんておかしいんだよ。苦しむ人がいて、そこで莫大な儲けをはじきだす人がいるシステムを、僕はどうしても許せない」
「それは偶然の事故、あくまで例外だよ」とカールは言う。「国際的な為替の取引は、通貨の安定の為に為されているんだ。誰かが儲けられるかもしれないが、それはその人が能力があったということじゃないのかな。もしも、通貨を市場原理によらない他の方法で定めてしまったら、実物経済と通貨の力関係のバランスがおかしくなってしまう。それは90年代のそうした不幸はあったにしろ、全体としては経済も通貨も安定を保っている。どんなに優れたシステムであれ、ある程度の事故は起こるものだよ。そうした例外ばかりを見て、どこか一部の人間が私腹を肥やすためのシステムというのはあまりに穿った見方だと思う。
それに流入した投資が行われた以上、それを活かすという選択肢はいつもある訳だ。結局、ペソの暴落だって、その前に実体経済を上回る投資が行われたバブルだった訳で、仮に、その投資に見合うだけの経済成長があればよかったんじゃないかな。失敗を恨むよりも、チャンスを見詰めた方がいい」
「発展途上国の人間に、そんなこと出来るわけないだろ」とホセは言う。「だいたい教育が先進国と全然違うんだよ。それにワシントン・コンセンサスが債権者を守るためのものであるのは明かじゃないか。そこで暮らす人々のことなんてこれっぽっちも考えていない。僕が言いたいのは、成功のためのチャンスを与えるシステムはいいから、何もしていないのに苦しい目にあうようなシステムをやめて欲しいということだ」
「リスクがあるのは必然だ」とカールは言う。「リスクのない社会なんて存在しない。狩猟であれ農耕であれ常にリスクは存在する。だからこそ、人は同じリスクを負うのならば少しでも成功を目指して努力をしてゆくのだろう。ホセは怠け者の言い訳にしか聞こえない。ホセの言う投資家だって、失敗する危険性を背負っているからこそ、リターンを得られるのであって、常に成功する投資家なんて存在しない」
「それは違う」とホセは言う。「必ず儲けているんだよ。機関投資家は。どんなに失敗した投資をしても彼らは数十億円という収入を得ているじゃないか。彼等が損を出したからと言って、給料が払われなかったりすることなんてあるかい?」
「それは、彼らを雇った人間、つまりは会社の株主なり銀行なりが担保しているんだろう」
はあ。なんだか疲れたのでここまで。読んでくれたあなたも御苦労様。まあ、そんなこんなで話はいつまでもいつまでも続いたとさ。めでたしめでたし。
往々にして《場の論理》は《個人の論理》を抑圧する。それは個人を平均化し続け、やがて自らもゆるやかな熱死を迎えてしまうだろう。いかに弱い個人が場の論理に対抗するのか。なんだかアブないような話だが、数点メモしておく。
よく成功本には「主体性を発揮する」だとか「自由を尊重する」とか書いてある。正論だ。しかし、それは役に立たないことも多い。なぜなら、それは場を支配する者が取れる戦略だからだ。それは子に対しての親であり、部下に対しての上司だ。優れた親や上司が部下の主体性や自由を大切にすることは素晴しい。しかし、間違った親や上司に遭遇したときにはどうしたらいいのだろうか。そのような状況でどう「主体性」を発揮すればよいのだろうか。弱者に主体性を発揮する自由は与えられていないのだから。そもそも「強者」すら主体性を発揮できない空間で、どんな自由や主体性があろう?
問題は弱者がいかに場を改善するかである。別に大袈裟な問題ではない。例えば、誰も本音では行きたくないが、その場の空気で何故か行ってしまう二次会を、いかに弱者が回避するのかという問題でもある。高田明典『現代思想の使い方』 のゴフマンの解説をヒントに、何点かメモしておく。
2 と 4 の方法では集団は実際に変化を起こさない。4 の方法は一回限りの現象であれば有効だが、何度も同じことが起こる場合には効力を発揮できない。つまり、真剣に集団が場の論理を再考するのは 1 と 3 だけである。しかし、そのどちらの場合にも、問題を提起した本人である個人は集団からの相当の攻撃を受けることになる。
戦略としては 2 (欺瞞的服従)を中心に、どうしてもというときに 4 (客観的に破綻を暗示)を行うという形になるのだろう。そして、次第に 3 (不服従)で打撃を与えつつ根回しをしてゆき、ここぞというところで 1 (直球勝負)をする。
親子の関係であれば、基本は親に服従しつつ、どうしてもという時には相手の論理を大袈裟に拡張してその場をやり過ごす。つまり日常では自分の言葉は語らない。そして、次第に不服従を取ってゆき、逆に、そうした服従の論理の上に家族という制度が辛うじて成立していたことを想起させてゆき、ある日、正論で直球勝負をかけてゆく、ということになるだろう。
労使の関係であっても変わらない。基本は服従し、どうしても逃れたい要求に対しても、自分の言葉で反対するのではなく、相手の論理の転倒によって逃れる以上のことはしない。そして、根回しをしつつ不服従してゆき、最後に直球勝負をするということになるだろう。
個人が無責任であり、無能であることを集団は何よりも恐れる。反抗する個人は御しやすい。彼らには《意見》や《要求》があるから、既にマジョリティーが成立させた論理や倫理観、あるいは実際的な暴力やカネの力で戦えば勝敗は見えている上、そうした個人の声を押し潰してゆくことで、集団の論理はカイゼンされ、更にしたたかなものになってゆく。
答はシンプルだ。無能になればよい。抵抗することはない。ただある日、自分には出来ない、と言えばよい。巨大に思えた構造も、実は個人の服従に支えられていたことが、不服従によって曝け出される。
集団は個人のコミットに支えられる。コミットとはその集団の価値観において優秀でありたいということだ。優秀であることを捨ててしまうとき、その場の論理は拘束力を失なってゆく。優秀への欲望を捨てたときに彼はその集団から自由になる。そうして自由になった個人が、再び自らで《価値》と《優秀さ》を定義しなおし、再びコミットを誘うに足る集団を作りあげられるのか、そのまま滅んでしまうのかは分からないが。
なんだかアブない文章になってしまった。こんなところにしておく。
天国で話ができるなら、僕はディオゲネスと話したい。キリストや仏陀を差し置いてだ。樽の中のディオゲネス、全ての権威を疎み、何も持たず樽の中に住んでいた紀元前4世紀のアテネの哲学者、両替商から贋金作り、経理の能力を持つ異色の人間だ。
僕は彼にこう訊きたい。「あなたにとってお金とはなんですか?」「誰かを助けたいとき、それも明らかにお金で助けられるとき、あなたはそうして無為に暮らしていることを悔やんだりはしませんか?」「あなたにとって愛、特に家族愛や友情とは何ですか?」
何で生きるか。この問いへの一つの答に「大切な人がいるから」「助けたいから」というのがある。大概は家族であるだろうし、共に戦っている友人であるかもしれない。彼らを見捨てられない。自分が生きていることが彼らの力となっている。こういう意識が人を生きさせる。そしてそれは「働く」「稼ぐ」という言葉へと結びついてゆく。
「なぜ働くか」という問いへの答に、こういう話があるのをどこかで読んだ。── もし君が働いておらず、お金がなかったとしよう。君の周りに子供がいて、鉛筆が買えないとする。君はどうする? お金がないことを悔やまないか? そして、その子供が自分の子供だったら? 自分の無為のせいで、子供に満足な教育が授けられないとしたら? まあ、僕はくだらね、と思ってしまうけど、こういう問いが響く人もいることだろう。
無為に歳をとり、ある日、小石に躓いて死期をさとっり、自ら息を止めて死んでしまうディオゲネス。働くことって何だろう。生きることって何だろう。
賢人というのは働かないのが多い。キリストにしても仏陀にしても働かない。稼がない。「人はパンのみで生くるにあらず」とか言う。金持ちが天国に行くのはラクダが張りの穴を通るより大変だとか言い出す。仏陀なんか乞食そのもの。愛欲を離れろとか言う。彼自身、30前で妻子を捨てて家を飛び出した。チョー無責任蒸発男。金なし、家なし、嬶なし。まさに宿なし興道。例外的にソクラテスに妻子があるのがとても不思議。
彼等は商売一発当てて、その金で世界を救ったりしない。大富豪となってチャリティーしたりしない。現代でも、チベットでもスリランカ、ビルマでもいいけど、僧侶が平和を訴えてる。僕はそういう人達の賢さを実はちょっと知っている。日本の禅僧だってなかなかに凄い。しかし、だ。彼等が言葉で訴えるより、彼等の中からビル・ゲイツやらジョージ・ソロスやらが出て来たら、きっと紛争はカネで解決する。金融やITは極めて短時間に小さな国が一個買えてしまう金を弾き出す。
僕はたまにこう訊きたくなる。「精神の平安というのはスケールが小さいっス。でも、慈悲で大乗やら阿弥陀の救いやらってアブないっス。大体いつになったらメシアやら阿弥陀仏やらが来るんですか? ここは一発、神や仏の智恵で、驚異的なテクノロジーを発明し、斬新なビジネス・モデルを展開。あるいは市場でそれこそグルのように立ち回るってのはダメですか? 一発稼いで国でも一個買っちまいましょうよ! できる! あんたなら凄い企業を作れる! だってあんた、人間が出来過ぎてるもん! あんたの下で俺は働きたい!! 起業しませんか!」
というか、実際、訊いたことがある。もちろん「あのお、あなたは経済とか政治には興味がないのでしょうか?」という程度の柔らかい言い方で。
「興味ないです」と答えて頂いた。同様に「金で解決」についても興味ないらしい。というか、そういう解決は解決じゃないらしい。結局、金は力であり、力の解決は恨みを生む。仮にも仏道を志す者、不必要な因果を作るべきではないらしい。というか、この話は長くなるので別の機会にする。それはそれでとても筋が通っていたので、ふざけて書くべきじゃない。
政治と経済、つまりは国家と市場、力と金は喧嘩するほど仲が良いを地でいくパワフル兄弟。僕らはこの兄弟に支配されている。「やっぱり幸福はモノだね! 市場原理バンザーイ」とか言って自己疎外して何のために生きてんだか分からなくなって、ついでに資源と市場が足らなくなって恐慌になって「よーし、それじゃあパパ、民族の為に立ち上がっちゃうぞ! ヲぉぉ! 生きる力湧いてきたあ! 国家バンザーイ!」とか言って全体主義になる。それで今度は「やっぱり平和だね! グローバルなビジネスは戦争の抑止力なんだ! 経済バンザーイ」とか言って、そしたら今度も自己疎外→鬱病→自殺で、資源と市場の不足→恐慌になって、貧富の差が拡大してやっぱりナショナリズムが拡大して、「ぅぉおお! なんじゃこりゃぁあ!」ってドンパチ、ドンパチ、ドッカーン!……。
このアホ兄弟というパブリックに隠れながら、僕らは「家族」というプライベートを営んで暮らしている。アホ兄弟に服従しつつ、その存在を支えて、その兄弟のパワフルさに憧れたりもしている。というか、時に家族がアホ兄弟そのものになったりもする。結構、家族も暴力装置だったりもする。というか、昔は「血縁」「地縁」「民族宗教」という三馬鹿兄弟は、ナショナリズムや市場原理よりも猛威を振るったことだろう。
このアホ兄弟をいかに打ち倒すか。一つの戦略が、カネとチカラの妄想から離れること。貪ろらず、争わないこと。いわゆるガキの理想論。二千年以上やってる人類未完のプロジェクト。人が欲を離れ経済を縮小してゆけばいい。人にも環境にも優しい。奪い合いは減る。さらに権力を求めなくなれば紛争は起こらない。競争原理? 競争して進歩してどうするの? その富と力で誰かを蹴落としたいの? そもそも、ある種の犠牲が全体の利益になるって、結構ヤバイ思想ですよ? とかいう思想。それじゃあ悪い奴にやられちゃわない? とか言うと、それでも、そういう「悪」を自分で作るよりかはやられちゃった方がいいでしょ、そうしてりゃ、そのうち「悪」はなくなるよ、とか言う理屈。
まあ、まず無理。人は平気で殺し、少しでも貪ろうとして暮らしてゆく。人類が争わず、貪らないようになることは人類滅亡するまではやってこない。貪れば争うし、争えば貪る。「俺が一番! 弱肉強食だぜい!」「私がキレイ! ねえ、誉めて誉めて!」「俺は頭がいい! 俺に着いて来い!」「美味いもん食いたい!」「きれいな場所行きたい!」「あれ欲しい! これ欲しい! うぉぉお!」ドンパチ、ドンパチ、ドッカーン……。
ディオゲネスは樽に入る前にこんな経歴がある。あるとき彼は「《国に広く流通しているもの》を変えるのが自分の使命」との神託を受けた。彼は「広く流通しているもの」を「貨幣」だと思ったらしい。思想でも宗教でもなくて。それで彼はどうしたか。彼は贋金を作ったらしい。そして、国外追放になった。
実は、僕は彼が作ったのは贋金だとは思わない。だって、贋金をいくら作って流通させたところで、「国に広く流通しているもの」が変わるわけじゃない。本当によくできた贋金は本物そのものであるはずだ。だが、その贋金は「貨幣」を変えはしない。成功したらディオゲネスは金持ちになるだけだし(国家に流通する貨幣の量を誰が正確に知れよう)、失敗したら「贋金作ったバカがいた」でおしまいである。贋金じゃあ、貨幣は変わらない。
彼が作ったのは法定通貨とは全く異なる貨幣だったんじゃないかと僕は思う。つまり、全然似ていない贋金。彼は、その国の権力が定める貨幣とは全く違う通貨を考案し、それを流通させてしまったんじゃないかと思う。
そんなことが可能なのか。まあ普通には無理だろう。しかし可能性はある。
例えば、ディオゲネスがディオゲネスのオリジナルなコインを作ったとする。名前がないと不便なので、このコインを「ゲネス」と呼ぶことにしよう。ディオゲネスは、このゲネスを持って八百屋に行って、キャベツを買えるだろうか。そんな訳はない。それは「お金」じゃないからだ。
ところが、だ。ゲネスをディオゲネスの所に持って来れば必ず「本物の金」と交換すると言ったらどうだろうか。もちろん、八百屋の親父は嫌がるだろう。でも、多めにディオゲネスが、このゲネスを渡せば、しぶしぶ納得するかもしれない。そしてディオゲネスがゲネスを街中にばらまけば、八百屋の親父はディオゲネスの所で交換する前に、理髪店でゲネスを使うかもしれない。そして理髪店の親父は、そのゲネスで魚を買うかもしれない。ディオゲネスの所に持っていけば、ちゃんとした金にしてくれる。だったら、別に受けとっても問題はない筈だ。人々がそう思う限り、ゲネスは受け取られ続けるだろう。
ディオゲネスは両替商だった。どれほどの規模だったかは知らない。しかし、もしかしたら、かなり大規模にゲネスをばらまくことが可能だったかもしれない。両替商から銀行まではただの一歩で、ただの貯金と貸出を行う商業銀行から、貨幣を発行する発券銀行までもあと一歩だ。貯金の証書を貨幣のように流通させればよいだけだ。事実、日本の法定貨幣である「円」は日銀の一種の「借用証書」に他ならない。もしかしたら、ディオゲネスは、街の貨幣をゲネスで支配してしまったのかもしれない。
もし、ゲネスが流通したとしたら、ディオゲネスは流通しているものを変えたことになる。法定通貨の《複製》である贋金ではなく、自らが《オリジナル》であることによって。
そして、ディオゲネスは国から追放される。国と国家は密接な関係を持つ。歴代の王は貨幣に自らの肖像を刻む。貨幣への冒涜は国への冒涜である。事実、日本でも不用意に貨幣を損傷させてはいけない(貨幣損傷等取締法)。通常、所有物に対し私たちは破壊する権利を持つ。自分の携帯を破壊しようが、家を壊そうが、それが自らの所有に属する限り、行政はなんらの規制をかけない。しかし、貨幣は違う。自分の貨幣を損傷させてはならないし、損傷させるために集めることもならない。なぜか? 《流通するもの》の性格が損なわれるからだ。
貨幣。ここにおいて国家と市場は緊密に接続する。もし、僕が話すように彼が贋金ではなく貨幣を創造したのだとしたら、ディオゲネスは一時的とはいえ本当に国に広く流通しているものを変えてしまったのかもしれない。その貨幣をコントロールすることで、彼は様々に人の欲望をコントロールできたことだろう。そしてあるいは、人の欲望に失望したのかもしれない。
ディオゲネス。樽の中のディオゲネス。君はシノベの街で何を見たのだろう。僕は君がただの贋金作りであったとは到底思えない。何かを気付き、国家に財産を没収させたのではないだろうか。カネの魔力について教えて欲しい。人が働くことって一体なんなんだろうか。
国を追われたディオゲネスは船旅の途中で海賊に捕らえられ、奴隷商人に売られてしまう。ディオゲネスは商品になってしまう。奴隷商人に「おまえは何ができるか」と訊かれ、彼は「私は神々のように人を支配できる」と答えたらしい。人はみな欲望の奴隷である。私は一人、真理への道を知っていて、欲望を離れている。だから私は自分の主人である。そして、自分の主人であるものだけが、他人を自由にできるからだ、と。このディオゲネスの演説を聞いたクセニアデスという富豪が彼を買い取り、息子の家庭教師とし、更に経理を担当させた。きっと息子の成長も商売も成功したのだろう。喜んだクセニアデスは彼を奴隷から解放する。そう。ディオゲネスはまっとうに働けた。教育も商売もできたのだ。
自由人になったディオゲネスはアテネの町にやってくる。そこでソクラテスの弟子のアンティステネスという哲学者と出会う。アンティステネスはソクラテスの物欲に振り回されず、魂のために生きるという教えを実践すべく、財産を捨て、粗末な身なりで街を歩き、人々に簡素な暮らしの素晴らしさを説いていた。ディオゲネスは彼の姿に打たれ、自らも犬のような暮らしを開始したらしい。
「犬のような人」。ギリシア語で「キュニコス」。英語のシニックやシニカルの語源。こうした言葉は、このディオゲネスから生まれた。冷笑的というよりはただの犬。犬も住まない汚ない桶で雨露を避け、晴れた日には日向ぼっこ。農夫から恵んでもらったキャベツを川で洗って飢えをしのぐ。
それでも彼は尊敬された。ある日、アレクサンドロス大王自らがディオゲネスを訪ねた。日向ぼっこをしているディオゲネスは寝そべったまま。そんなディオゲネスにアレクサンドロスは話し掛ける。
「こんにちは。ディオゲネス。私はアレクサンドロス3世です。ギリシアは私のものです。人々は私を恐れますが、あなたは恐れないのですか」
「君は善い人かね それとも悪い人かな?」
「私は善い人です。我が師アリストテレスから善く生きることを学んだつもりです」
「君が善人なら、私は君を恐れる理由はないだろう」
「なるほど。その通りです。私はあなたのような智者にあえたのを嬉しく思います。何か望むものはありませんか?」
「それじゃあ、私の前に立たないで欲しい。日の光を君は遮っていてね。日向ぼっこは私の大きな楽しみでね」
「それは失礼しました。あなたはアテネで尊敬できるただ一人の人です。質問させてください。私はどう見えますか? 私は善い人なのでしょうか」
「人物は行動で評価される。君は多くの人を殺した。人殺しは善い人のすることだろうか。君は人殺しを償う以上の善行が存在すると考えているのかな」
「私がギリシアを征服したのは平和のためです。私は世界の隅々まで征服し、世界に平和をもたらします。これが私の使命なのです」
「戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅んだ。君もそうして滅ぶだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと。これが平和だ。君も鎧を脱いで日向ぼっこをしないかね? 贅沢な料理なんて食べないで、キャベツでも川で洗って食べたらどうだい?」
立ち去りながらアレクサンドロス大王は部下に「私はアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたい」と語ったらしい。
こうしてある種の尊敬を集めながらもディオゲネスは樽の中で無為に人生を送って90歳まで生き長らえた。一方のアレクサンドロス大王は33歳で毒殺され、後には後継者争いの大戦争が勃発した。
本当に人間が何かを求めるということは無駄なのだろうか。「犬のように」生きるしかないのだろうか。犬のように生きるとき、目の前に悪があればどうするのだろう? 犬のようにただ吠え、噛みつくだけなのか? イエスのように、十字架に磔にされるだけなのか? 「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしや」と叫ぶだけなのか。
力があれば、と思わないのか。力を思うことは無駄なのか? 愛とは誰かを救うための力の謂ではないのか? 大切な人に力を与える力のことではないのか? 分かっている。違うのだろう。それは火に油を注ぐだけなのだ。それは愛ではなく、愛執であり執着なのだろう。子供可愛さに人は不正を犯す。すこしでも力を残そうと親は躍起になる。これは許されない。
個人的な「愛着・愛執」にとらわれてはならないのだろうか。だから、仏陀は父親をほとんど見殺しにした。彼の死を聞いても眉一つ動かさなかった。まさにこれが「出家」という言葉の意味するところであり、キリストの「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」という言葉の意味するところだろう。
「あんたらは人を愛さなかったけじゃないのか?」「家族を大切にしなかっただけじゃないのか?」そうじゃないだろう。それくらい僕でも分かる。愛したからこそ、力を離れるという愛もあるのだろう。そうとしか言えないのかもしれない。
「愛」はあまりに主観的な経験で、普遍的な議論には乗りにくい。常に愛情とは「特定の誰か」への愛情である。愛が素晴らしい。確かに。しかし、人は何を愛するべきなのだろうか。分からない。だから愛の物語には様々なバリエーションがある。愛するもののために力を尽くしてゆくドラマがある。国家に身を捧げる美談や不正をしてまで親を助ける美談がありえる。国家を超える愛。家族への愛。そこに崇高なものを見て取ることは自由としか言えない。しかし一方で、国家のために我が子を犠牲にするという「愛」もありえた。信仰のために家族を犠牲にするという「愛」もありえた。これじゃあ、何がなんだかわかりやしない。だから愛のドラマを読んでもその場では感動するが、実際には何の役にも立ちはしない。
結局、どうしようもないことだし、結局、人の運命なのだろうか。元来がものぐさ者であっても子供が生まれてはりきって働く者もいれば、王であっても子供がある程度育ったらそそくさと森へと駆け出してしまう者もいるのだろう。我が子を愛するものがいて、真理を愛するものが居る。国家を愛するものがいて、美を愛するものが居る。どちらが欺瞞でどちらが正しいかなんて誰にも分かりやしない。
それでもこうして相対化すると、誰もが何かを愛しているように思える。だから、力は恐ろしいのかもしれない。愛と我侭とを区別できるのだろうか。我が子のために国家を裏切ることはいいかもしれないが、我が子かわいさに国家を滅ぼしてしまったとしたら? 逆に国家のために我が子を殺してしまったとしたら? どちらも美談になりえると同時に眉を顰める話にもなる。女のために芸術のためにわが身を滅ぼす。誰が笑えよう? 愛とは時に破滅へと導くものなのだから。
だから哲人はこうした「個人の愛」と「真理への愛」「神への愛」を別にしたのだろうか。欲望と「個人の愛」の区別はほとんどない。子供へのいい家、いい部屋、いい教師……。欲望は溢れ出す。限度を超えないと誰が言えようか。ただ、私はそうした生き方を否定するわけじゃない、ただ、人間のある生き方について考えたいだけだ。諦めることだけを学ぶことが人生なのだろうか? いや、「普通」はそんな善悪の見境はつくと抗議もしたい。俺は正義と大げさに言うほどじゃないが、悪いことはしていない、と言いたい気もする。が、それに自信はない。人間、気が付くのはいつも手遅れになってからなのだから。
力で問題は解決しない。力で世界平和はやって来ない。なぜか? 一つの考えをメモしておく。
いかに一人が富と力を独占しようとも《商品》は残る。《貨幣》のあるかぎり人は全てを商品と見做し続ける。そして、人は人を《商品》として考えることをやめない。やがて彼とは別の《商品の体系》を生み出し、貪り、争うことだろう。人が商品の大系を生み出す限り、争いはつきない。なにせ既に誰かが世界制覇を為しとげているかもしれないし、誰かが富を握っているのかもしれない。しかし、実はそんなことは関係ない。実際に神がいて全てを支配していたとしても、結局は人は貪り、争い続けるだろう。
ディオゲネス。《流通するもの》を変えるためには「贋金」以外に方法はなかったのか。なぜ、それに失敗したのか?
《貨幣》はどうすれば変わるのだろう。貨幣が人の欲を煽る。人を数字にする。人を手段にする。ディオゲネス。やはり犬になるしかないのだろうか。
いつもの通りにめちゃくちゃだが、こんなところで。
言語とは自由な道具ではない。なぜなら、言語とはある集団によって生まれたものであり、その制度の内部には既に固有の価値観が反映されているからである。つまり、ある価値観を保有している言語において、その言説は一定の傾向を持ち、それを乗り越えることはできない。
故に、価値観を乗り越える言説を為すためには飛躍が必要になる。その飛躍とは言語の有効な利用であるというよりかは、言語の破壊、言語という制度の読み違えから生まれると考えられる。言語の間違いから、新しい価値が垣間見えることがありえる。逆に「美しい」とされる言語の運用は、それ以前の価値の反復であり、新たな価値を提出することはない。
有効な言説は、従来の諸制度からの離脱、破壊から生まれる。が、言語とは伝達の手段である以上、プロトコル、つまり制度を持たざるを得ない。制度なき言語は伝達ができない。故に、新たな言語の可能性のあった「読み違え」や「破壊」が偶発ができ、それが広まったとしても、それが新たな価値となることは難しい。それ自体が、新たな制度として、従来の制度に吸収されてしまうからである。それほど、現代の制度は老獪である。
十分に老獪な現状の制度は全てを呑みこむ。たとえ、それが、反対勢力であったとしても。「今の制度をぶっつぶせ」という運動すら、その感情すら、現代の制度は老獪に吸収し、運用する。かくしてロックは産業となった。また、「今の制度と関係なく」も「今の制度とどうにか付き合いながら」という運動も柔軟に吸収する。エコの試みの惨状を見よ。公害に関連した運動の惨状を見よ。
現代の制度は、言論のための言論、つまり言論産業による、言論産業のための、言論産業の言論を生む。その制度は全てを吸収する。かくして、完全に言論はその元来の力を失う。太平洋戦争、南京事件、オウム、北朝鮮。。。すべて有効な言論の彼方の言論である。
有効な言論とは何か? それは力である。人の力である。力とは何か? 人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。
その力に基づいた言説以外に言説はありえない。力のない言葉など言葉ですらない。
言論は力である。言論は人の力である。現状は刻々と変化する。その場、その場でしか言説は有効ではない。制度として固定した価値や言説は現状の変化に対応できない。固定化した制度としての言論は、言論ではない。
すべての固定した概念は、狡猾な現代の制度が吸収し、あるいは無力化できるものである。それは有効ではない。
有効な言説のために、言説を為せる人の集まりを為さねばならない。
状況は刻々と変わり続ける。しかし、往々にして、状況の変化に人はついてゆけない。
20世紀は過ぎ去った。しかし、人々の考えは20世紀と変わらない。「現状」と「常識」とが、ひたすらに離れてゆく。
現行のシステムのほころびが、ますます明瞭なものになっている。
崩れ始めた栄華を戻す術はない。一歩一歩積み重ねた繁栄は一夜にして崩解するだろう。なぜなら、幸福は一歩一歩、足音を立ててやって来ものだが、不幸の足音に人は気づかぬふりをするからだ。
これは、現行のシステムが「いい」とか「悪い」とかの問題ではない。常に「いいシステム」も「悪いシステム」もない。うまくやったシステムは「いいシステム」であり、うまくいかないシステムは「悪いシステム」なだけだ。現行のシステムは過去に確かに成功した。しかし、過去に「いいシステム」であった現行のシステムは、現在では「悪いシステム」になってはいないだろうか。
登校拒否、学級崩壊、必修未履修、定員割れの大学、フリーター、ニート、すぐに辞める新入社員……。これらの問題は、一つのことを示しているように思える。それは、現在を生きる人間にとって、こうしたシステムが機能していないということだ。
ある個人が学校にあわないとか、ある個人が会社にあわないとかそういう問題ではない。学校が現状にあっていないのであり、会社が現状にあっていないのだ。最近の子供が学校に適合できないのではない。現在の学校システムが今の子供にあっていないのだ。最近の若者が会社に適合できないのではない。現在の企業システムが今の若者にあっていないのだ。
新しいシステム、新しい発想が必要なのだ。状況を打開せねばならない。修正で済ませるには、問題は私達の常識の奥深くに根差しているように私には思える。問題は技術的な問題ではなく、私達の発想のしかたの問題、私達の「常識」の問題であると私は考えている。つまり、私達には「発想の転換」が必要だ。
残念ながら、私には新しい発想を示す能力がない。ただ、私には以下の以外に道は無いように思える。
一人一人がこうしたことをやっていく以外に道はないだろう。もう、欺瞞はやめよう。自分の目で現実を見よう。そして、新しい発想を展開してゆこう。
古い人間の言う「常識」や「現実」は、状況が変化した世界では的外れになりがちだ。古い人間の言う「常識」や「現実的な生活」では、世界は以下のようになってしまう。
古い人の教えなど捨てるしかないのではないだろうか。自分の目で現実を見て、自分の為すべき仕事をしていくしかないではないか。
私達は、古い人間の言う常識と現実を受けいれて生きてきたと思う。しかし、体の奥底、心の奥底では違和感を感じているのではないだろうか? なぜ、自分の本当の感性を押し殺しているのか? もしかしたら、私達のその感性にこそ、現在の問題を解決するヒントがあるのではないか?
私は自分の感性を信じている。古い人間の感性はあくまで昔のものだ。
「でも昔の人だって苦労して『現実』を受け入れたんじゃないか」とあなたは問うかもしれない。
そんなことはない!
古い人間には、自分の常識に対して、あなたが感じるような違和感などない。彼らは喜び勇んで資源を消費し、環境を汚染し、文化を商品にし続けているではないか。古い人間には、あなたが感じるような、迷いはない。
彼らが若い時に、登校拒否になったり、会社をすぐに辞めたりしただろうか? 彼らは喜んで仕事をしたのだ。彼らは喜んでオーディオを買い、テレビを買い、車を買ったのである。大量消費、大量生産万歳!
まさに、時代と彼らの感性は一致していたのだ。そして、今も生活スタイルの基本は全く変えず、退職するやいなや、迷わずに消費を続けているではないか。古い人間に、私たちが感じるような迷いなど存在しない。見えている世界が違うのだ。
それにひきかえ、私たちはどうだろう。私達は迷いの中で、学校に行き、会社へ行く。自分の感覚を「現実」の名の下に押し潰す前に、本当にするべきことは他にあるのではないか? 私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか?
状況は常に変化する。古い人の時代は終わった。20世紀の物語は幕が下りたのだ。今度は、私たちが自分の物語を作り上げる番ではないのか? 今度は私たちが現実と常識を打ち立てる番ではないか?
考えて欲しい。古い人の言う「現実的」は本当に現実的なのか?
「環境なんて考えたら飯が食えない」という考えは現実的なのか? 今の日本で食事が、環境や資源の問題を越える問題なのだろうか? 現実的に考えたら、私達が為すべきなのは、食事の心配よりも、環境や資源の問題なのではないか? むしろ、今のままでは近い将来、本当に「飯が食えない」ことになるのではないか?
本当に自分の目で見た現実に対し、自分の心で考えてほしい。私達には私達の生きるべき本当の現実があるのではないか? 古い人の言う「現実的」は本当は昔話なだけではないだろうか。
私は、現代の本当の現実を考えたい。そして、現代の本当の現実を生き抜きたい。
現状は問題だらけであり、企業や国家はそれを解決できない。新しい方法が必要なのではないのか? どうだろう? 私達が古い人では考えないようなことを考え出さなかったら、いったい誰が考えてくれるのだろう?
「未来をどう生きるか?」「どういうビジョンを持つのか?」これは私達の問題である。私達一人一人の問題である。古い人は関係ない。彼らがそんなものを提示することは有り得ないではないか。企業と国家は古い人の道具だ。彼らがどうして問題を解決できるのだろう?
そもそも企業と国家は万能ではない。人類にとって最善のシステムでも、永遠に続くべきシステムでもない。市場と国家による社会の管理は、たかだか100年程度の現象に過ぎない。もちろん、有益なシステムであり、いきなり無くすというのは非現実的だ。しかし、物質的成長を目標とした市場と国家のシステムは、十分に役目を果たしたのではないだろうか? なぜ日本政府はGDPの成長を未だに最優先課題にしているか問うべきではないのか? 私達は本当はこう考えているのではないだろうか。「それは何年も前の問題であった」と。
今、私達に求められているのは、企業と国家への労働ではなく、それを補い、それに代わるシステムなのではないか? それに代わる未来のビジョンではないのか? 新しいシステムを生む想像力こそ、私達に求められているのではないだろうか?なぜ、本当の現実に目を向け、自分が為すべきと思うことに、おのれの力を使わないのか? 目の前の明かな問題があるというに、なぜ、古い人間の言う「人生の公式」なんぞに何故したがうのか?そんなことをしても、ただただ搾り取られるだけではないのか?
問題は山積みである。逆に言えば、これは、あなたのやれる仕事が多いということである。教育、医療、介護、治安、環境、資源、文化、交流……国家や市場が対応できない問題にきりはない。問題があるということは、国家や市場に代わって、それを補う仕事を生み出さねばならないということである。現実の難題と解決してゆくこと、これこそがが本当の「仕事」である。古い人のための社会を維持して、搾取されることが「仕事」ではない。
仕事は誰がやるのか? 誰が、現実の難題を解決するのか?
それは、私達がやるのだ。古い人間に新しい発想はできない。私達以外に誰が問題を解決するのだろう?
私たちは強大な古い人に育てられてきた。だから、彼らにとっての常識、彼らにとっての現実を乗り越えるのは難しいかもしれない。
彼らは私達の新しいシステム、新しいビジョン、新しい生き方を認めないかもしれない。しかし、それは仕方ないことだ。それが世代交代ということだ。世代交代とは、決して、私達が古い人たちの同じ働きを継ぐということではない。世代交代とは、現実の変化にあわせて、以前の世代を乗り越えることに他ならない。そもそも私達にとっての古い人は、それ以前の日本人の生き方への否定だったではないか。
私達は乗り越えねばならない。私達は新しい生き方を開拓せねばならない。現実の問題は目の前に迫って来ているのだから。