2008-04-21

ディオゲネス 僕が一番話したい人

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天国で話ができるなら、僕はディオゲネスと話したい。キリストや仏陀を差し置いてだ。樽の中のディオゲネス、全ての権威を疎み、何も持たず樽の中に住んでいた紀元前4世紀のアテネの哲学者、両替商から贋金作り、経理の能力を持つ異色の人間だ。

僕は彼にこう訊きたい。「あなたにとってお金とはなんですか?」「誰かを助けたいとき、それも明らかにお金で助けられるとき、あなたはそうして無為に暮らしていることを悔やんだりはしませんか?」「あなたにとって愛、特に家族愛や友情とは何ですか?」

何で生きるか。この問いへの一つの答に「大切な人がいるから」「助けたいから」というのがある。大概は家族であるだろうし、共に戦っている友人であるかもしれない。彼らを見捨てられない。自分が生きていることが彼らの力となっている。こういう意識が人を生きさせる。そしてそれは「働く」「稼ぐ」という言葉へと結びついてゆく。

「なぜ働くか」という問いへの答に、こういう話があるのをどこかで読んだ。── もし君が働いておらず、お金がなかったとしよう。君の周りに子供がいて、鉛筆が買えないとする。君はどうする? お金がないことを悔やまないか? そして、その子供が自分の子供だったら? 自分の無為のせいで、子供に満足な教育が授けられないとしたら? まあ、僕はくだらね、と思ってしまうけど、こういう問いが響く人もいることだろう。

無為に歳をとり、ある日、小石に躓いて死期をさとっり、自ら息を止めて死んでしまうディオゲネス。働くことって何だろう。生きることって何だろう。

富と力で問題を解決しない賢人

賢人というのは働かないのが多い。キリストにしても仏陀にしても働かない。稼がない。「人はパンのみで生くるにあらず」とか言う。金持ちが天国に行くのはラクダが張りの穴を通るより大変だとか言い出す。仏陀なんか乞食そのもの。愛欲を離れろとか言う。彼自身、30前で妻子を捨てて家を飛び出した。チョー無責任蒸発男。金なし、家なし、嬶なし。まさに宿なし興道。例外的にソクラテスに妻子があるのがとても不思議。

彼等は商売一発当てて、その金で世界を救ったりしない。大富豪となってチャリティーしたりしない。現代でも、チベットでもスリランカ、ビルマでもいいけど、僧侶が平和を訴えてる。僕はそういう人達の賢さを実はちょっと知っている。日本の禅僧だってなかなかに凄い。しかし、だ。彼等が言葉で訴えるより、彼等の中からビル・ゲイツやらジョージ・ソロスやらが出て来たら、きっと紛争はカネで解決する。金融やITは極めて短時間に小さな国が一個買えてしまう金を弾き出す。

僕はたまにこう訊きたくなる。「精神の平安というのはスケールが小さいっス。でも、慈悲で大乗やら阿弥陀の救いやらってアブないっス。大体いつになったらメシアやら阿弥陀仏やらが来るんですか? ここは一発、神や仏の智恵で、驚異的なテクノロジーを発明し、斬新なビジネス・モデルを展開。あるいは市場でそれこそグルのように立ち回るってのはダメですか? 一発稼いで国でも一個買っちまいましょうよ! できる! あんたなら凄い企業を作れる! だってあんた、人間が出来過ぎてるもん! あんたの下で俺は働きたい!! 起業しませんか!」

というか、実際、訊いたことがある。もちろん「あのお、あなたは経済とか政治には興味がないのでしょうか?」という程度の柔らかい言い方で。

「興味ないです」と答えて頂いた。同様に「金で解決」についても興味ないらしい。というか、そういう解決は解決じゃないらしい。結局、金は力であり、力の解決は恨みを生む。仮にも仏道を志す者、不必要な因果を作るべきではないらしい。というか、この話は長くなるので別の機会にする。それはそれでとても筋が通っていたので、ふざけて書くべきじゃない。

人類未完のプロジェクト

政治と経済、つまりは国家と市場、力と金は喧嘩するほど仲が良いを地でいくパワフル兄弟。僕らはこの兄弟に支配されている。「やっぱり幸福はモノだね! 市場原理バンザーイ」とか言って自己疎外して何のために生きてんだか分からなくなって、ついでに資源と市場が足らなくなって恐慌になって「よーし、それじゃあパパ、民族の為に立ち上がっちゃうぞ! ヲぉぉ! 生きる力湧いてきたあ! 国家バンザーイ!」とか言って全体主義になる。それで今度は「やっぱり平和だね! グローバルなビジネスは戦争の抑止力なんだ! 経済バンザーイ」とか言って、そしたら今度も自己疎外→鬱病→自殺で、資源と市場の不足→恐慌になって、貧富の差が拡大してやっぱりナショナリズムが拡大して、「ぅぉおお! なんじゃこりゃぁあ!」ってドンパチ、ドンパチ、ドッカーン!……。

このアホ兄弟というパブリックに隠れながら、僕らは「家族」というプライベートを営んで暮らしている。アホ兄弟に服従しつつ、その存在を支えて、その兄弟のパワフルさに憧れたりもしている。というか、時に家族がアホ兄弟そのものになったりもする。結構、家族も暴力装置だったりもする。というか、昔は「血縁」「地縁」「民族宗教」という三馬鹿兄弟は、ナショナリズムや市場原理よりも猛威を振るったことだろう。

このアホ兄弟をいかに打ち倒すか。一つの戦略が、カネとチカラの妄想から離れること。貪ろらず、争わないこと。いわゆるガキの理想論。二千年以上やってる人類未完のプロジェクト。人が欲を離れ経済を縮小してゆけばいい。人にも環境にも優しい。奪い合いは減る。さらに権力を求めなくなれば紛争は起こらない。競争原理? 競争して進歩してどうするの? その富と力で誰かを蹴落としたいの? そもそも、ある種の犠牲が全体の利益になるって、結構ヤバイ思想ですよ? とかいう思想。それじゃあ悪い奴にやられちゃわない? とか言うと、それでも、そういう「悪」を自分で作るよりかはやられちゃった方がいいでしょ、そうしてりゃ、そのうち「悪」はなくなるよ、とか言う理屈。

まあ、まず無理。人は平気で殺し、少しでも貪ろうとして暮らしてゆく。人類が争わず、貪らないようになることは人類滅亡するまではやってこない。貪れば争うし、争えば貪る。「俺が一番! 弱肉強食だぜい!」「私がキレイ! ねえ、誉めて誉めて!」「俺は頭がいい! 俺に着いて来い!」「美味いもん食いたい!」「きれいな場所行きたい!」「あれ欲しい! これ欲しい! うぉぉお!」ドンパチ、ドンパチ、ドッカーン……。

《貨幣=国に広く流通するもの》を変える

ディオゲネスは樽に入る前にこんな経歴がある。あるとき彼は「《国に広く流通しているもの》を変えるのが自分の使命」との神託を受けた。彼は「広く流通しているもの」を「貨幣」だと思ったらしい。思想でも宗教でもなくて。それで彼はどうしたか。彼は贋金を作ったらしい。そして、国外追放になった。

実は、僕は彼が作ったのは贋金だとは思わない。だって、贋金をいくら作って流通させたところで、「国に広く流通しているもの」が変わるわけじゃない。本当によくできた贋金は本物そのものであるはずだ。だが、その贋金は「貨幣」を変えはしない。成功したらディオゲネスは金持ちになるだけだし(国家に流通する貨幣の量を誰が正確に知れよう)、失敗したら「贋金作ったバカがいた」でおしまいである。贋金じゃあ、貨幣は変わらない。

彼が作ったのは法定通貨とは全く異なる貨幣だったんじゃないかと僕は思う。つまり、全然似ていない贋金。彼は、その国の権力が定める貨幣とは全く違う通貨を考案し、それを流通させてしまったんじゃないかと思う。

そんなことが可能なのか。まあ普通には無理だろう。しかし可能性はある。

例えば、ディオゲネスがディオゲネスのオリジナルなコインを作ったとする。名前がないと不便なので、このコインを「ゲネス」と呼ぶことにしよう。ディオゲネスは、このゲネスを持って八百屋に行って、キャベツを買えるだろうか。そんな訳はない。それは「お金」じゃないからだ。

ところが、だ。ゲネスをディオゲネスの所に持って来れば必ず「本物の金」と交換すると言ったらどうだろうか。もちろん、八百屋の親父は嫌がるだろう。でも、多めにディオゲネスが、このゲネスを渡せば、しぶしぶ納得するかもしれない。そしてディオゲネスがゲネスを街中にばらまけば、八百屋の親父はディオゲネスの所で交換する前に、理髪店でゲネスを使うかもしれない。そして理髪店の親父は、そのゲネスで魚を買うかもしれない。ディオゲネスの所に持っていけば、ちゃんとした金にしてくれる。だったら、別に受けとっても問題はない筈だ。人々がそう思う限り、ゲネスは受け取られ続けるだろう。

ディオゲネスは両替商だった。どれほどの規模だったかは知らない。しかし、もしかしたら、かなり大規模にゲネスをばらまくことが可能だったかもしれない。両替商から銀行まではただの一歩で、ただの貯金と貸出を行う商業銀行から、貨幣を発行する発券銀行までもあと一歩だ。貯金の証書を貨幣のように流通させればよいだけだ。事実、日本の法定貨幣である「円」は日銀の一種の「借用証書」に他ならない。もしかしたら、ディオゲネスは、街の貨幣をゲネスで支配してしまったのかもしれない。

もし、ゲネスが流通したとしたら、ディオゲネスは流通しているものを変えたことになる。法定通貨の《複製》である贋金ではなく、自らが《オリジナル》であることによって。

そして、ディオゲネスは国から追放される。国と国家は密接な関係を持つ。歴代の王は貨幣に自らの肖像を刻む。貨幣への冒涜は国への冒涜である。事実、日本でも不用意に貨幣を損傷させてはいけない(貨幣損傷等取締法)。通常、所有物に対し私たちは破壊する権利を持つ。自分の携帯を破壊しようが、家を壊そうが、それが自らの所有に属する限り、行政はなんらの規制をかけない。しかし、貨幣は違う。自分の貨幣を損傷させてはならないし、損傷させるために集めることもならない。なぜか? 《流通するもの》の性格が損なわれるからだ。

貨幣。ここにおいて国家と市場は緊密に接続する。もし、僕が話すように彼が贋金ではなく貨幣を創造したのだとしたら、ディオゲネスは一時的とはいえ本当に国に広く流通しているものを変えてしまったのかもしれない。その貨幣をコントロールすることで、彼は様々に人の欲望をコントロールできたことだろう。そしてあるいは、人の欲望に失望したのかもしれない。

ディオゲネス。樽の中のディオゲネス。君はシノベの街で何を見たのだろう。僕は君がただの贋金作りであったとは到底思えない。何かを気付き、国家に財産を没収させたのではないだろうか。カネの魔力について教えて欲しい。人が働くことって一体なんなんだろうか。

神々にように人を支配できる人間が、犬のような人へ

国を追われたディオゲネスは船旅の途中で海賊に捕らえられ、奴隷商人に売られてしまう。ディオゲネスは商品になってしまう。奴隷商人に「おまえは何ができるか」と訊かれ、彼は「私は神々のように人を支配できる」と答えたらしい。人はみな欲望の奴隷である。私は一人、真理への道を知っていて、欲望を離れている。だから私は自分の主人である。そして、自分の主人であるものだけが、他人を自由にできるからだ、と。このディオゲネスの演説を聞いたクセニアデスという富豪が彼を買い取り、息子の家庭教師とし、更に経理を担当させた。きっと息子の成長も商売も成功したのだろう。喜んだクセニアデスは彼を奴隷から解放する。そう。ディオゲネスはまっとうに働けた。教育も商売もできたのだ。

自由人になったディオゲネスはアテネの町にやってくる。そこでソクラテスの弟子のアンティステネスという哲学者と出会う。アンティステネスはソクラテスの物欲に振り回されず、魂のために生きるという教えを実践すべく、財産を捨て、粗末な身なりで街を歩き、人々に簡素な暮らしの素晴らしさを説いていた。ディオゲネスは彼の姿に打たれ、自らも犬のような暮らしを開始したらしい。

「犬のような人」。ギリシア語で「キュニコス」。英語のシニックやシニカルの語源。こうした言葉は、このディオゲネスから生まれた。冷笑的というよりはただの犬。犬も住まない汚ない桶で雨露を避け、晴れた日には日向ぼっこ。農夫から恵んでもらったキャベツを川で洗って飢えをしのぐ。

それでも彼は尊敬された。ある日、アレクサンドロス大王自らがディオゲネスを訪ねた。日向ぼっこをしているディオゲネスは寝そべったまま。そんなディオゲネスにアレクサンドロスは話し掛ける。
「こんにちは。ディオゲネス。私はアレクサンドロス3世です。ギリシアは私のものです。人々は私を恐れますが、あなたは恐れないのですか」
「君は善い人かね それとも悪い人かな?」
「私は善い人です。我が師アリストテレスから善く生きることを学んだつもりです」
「君が善人なら、私は君を恐れる理由はないだろう」
「なるほど。その通りです。私はあなたのような智者にあえたのを嬉しく思います。何か望むものはありませんか?」
「それじゃあ、私の前に立たないで欲しい。日の光を君は遮っていてね。日向ぼっこは私の大きな楽しみでね」
「それは失礼しました。あなたはアテネで尊敬できるただ一人の人です。質問させてください。私はどう見えますか? 私は善い人なのでしょうか」
「人物は行動で評価される。君は多くの人を殺した。人殺しは善い人のすることだろうか。君は人殺しを償う以上の善行が存在すると考えているのかな」
「私がギリシアを征服したのは平和のためです。私は世界の隅々まで征服し、世界に平和をもたらします。これが私の使命なのです」
「戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅んだ。君もそうして滅ぶだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと。これが平和だ。君も鎧を脱いで日向ぼっこをしないかね? 贅沢な料理なんて食べないで、キャベツでも川で洗って食べたらどうだい?」

立ち去りながらアレクサンドロス大王は部下に「私はアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたい」と語ったらしい。

こうしてある種の尊敬を集めながらもディオゲネスは樽の中で無為に人生を送って90歳まで生き長らえた。一方のアレクサンドロス大王は33歳で毒殺され、後には後継者争いの大戦争が勃発した。

力は悪なのか?

本当に人間が何かを求めるということは無駄なのだろうか。「犬のように」生きるしかないのだろうか。犬のように生きるとき、目の前に悪があればどうするのだろう? 犬のようにただ吠え、噛みつくだけなのか? イエスのように、十字架に磔にされるだけなのか? 「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいしや」と叫ぶだけなのか。

力があれば、と思わないのか。力を思うことは無駄なのか? 愛とは誰かを救うための力の謂ではないのか? 大切な人に力を与える力のことではないのか? 分かっている。違うのだろう。それは火に油を注ぐだけなのだ。それは愛ではなく、愛執であり執着なのだろう。子供可愛さに人は不正を犯す。すこしでも力を残そうと親は躍起になる。これは許されない。

個人的な「愛着・愛執」にとらわれてはならないのだろうか。だから、仏陀は父親をほとんど見殺しにした。彼の死を聞いても眉一つ動かさなかった。まさにこれが「出家」という言葉の意味するところであり、キリストの「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」という言葉の意味するところだろう。

「あんたらは人を愛さなかったけじゃないのか?」「家族を大切にしなかっただけじゃないのか?」そうじゃないだろう。それくらい僕でも分かる。愛したからこそ、力を離れるという愛もあるのだろう。そうとしか言えないのかもしれない。

「愛」はあまりに主観的な経験で、普遍的な議論には乗りにくい。常に愛情とは「特定の誰か」への愛情である。愛が素晴らしい。確かに。しかし、人は何を愛するべきなのだろうか。分からない。だから愛の物語には様々なバリエーションがある。愛するもののために力を尽くしてゆくドラマがある。国家に身を捧げる美談や不正をしてまで親を助ける美談がありえる。国家を超える愛。家族への愛。そこに崇高なものを見て取ることは自由としか言えない。しかし一方で、国家のために我が子を犠牲にするという「愛」もありえた。信仰のために家族を犠牲にするという「愛」もありえた。これじゃあ、何がなんだかわかりやしない。だから愛のドラマを読んでもその場では感動するが、実際には何の役にも立ちはしない。

結局、どうしようもないことだし、結局、人の運命なのだろうか。元来がものぐさ者であっても子供が生まれてはりきって働く者もいれば、王であっても子供がある程度育ったらそそくさと森へと駆け出してしまう者もいるのだろう。我が子を愛するものがいて、真理を愛するものが居る。国家を愛するものがいて、美を愛するものが居る。どちらが欺瞞でどちらが正しいかなんて誰にも分かりやしない。

それでもこうして相対化すると、誰もが何かを愛しているように思える。だから、力は恐ろしいのかもしれない。愛と我侭とを区別できるのだろうか。我が子のために国家を裏切ることはいいかもしれないが、我が子かわいさに国家を滅ぼしてしまったとしたら? 逆に国家のために我が子を殺してしまったとしたら? どちらも美談になりえると同時に眉を顰める話にもなる。女のために芸術のためにわが身を滅ぼす。誰が笑えよう? 愛とは時に破滅へと導くものなのだから。

だから哲人はこうした「個人の愛」と「真理への愛」「神への愛」を別にしたのだろうか。欲望と「個人の愛」の区別はほとんどない。子供へのいい家、いい部屋、いい教師……。欲望は溢れ出す。限度を超えないと誰が言えようか。ただ、私はそうした生き方を否定するわけじゃない、ただ、人間のある生き方について考えたいだけだ。諦めることだけを学ぶことが人生なのだろうか? いや、「普通」はそんな善悪の見境はつくと抗議もしたい。俺は正義と大げさに言うほどじゃないが、悪いことはしていない、と言いたい気もする。が、それに自信はない。人間、気が付くのはいつも手遅れになってからなのだから。

貨幣は問題なのか

力で問題は解決しない。力で世界平和はやって来ない。なぜか? 一つの考えをメモしておく。

いかに一人が富と力を独占しようとも《商品》は残る。《貨幣》のあるかぎり人は全てを商品と見做し続ける。そして、人は人を《商品》として考えることをやめない。やがて彼とは別の《商品の体系》を生み出し、貪り、争うことだろう。人が商品の大系を生み出す限り、争いはつきない。なにせ既に誰かが世界制覇を為しとげているかもしれないし、誰かが富を握っているのかもしれない。しかし、実はそんなことは関係ない。実際に神がいて全てを支配していたとしても、結局は人は貪り、争い続けるだろう。

ディオゲネス。《流通するもの》を変えるためには「贋金」以外に方法はなかったのか。なぜ、それに失敗したのか?

《貨幣》はどうすれば変わるのだろう。貨幣が人の欲を煽る。人を数字にする。人を手段にする。ディオゲネス。やはり犬になるしかないのだろうか。

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いつもの通りにめちゃくちゃだが、こんなところで。