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「終わり」が始まった。それは誰の目にも明らかだろう。
しかし、一体、何が終わろうとしているのだろうか。そして、「終わり」はどこまで続くのだろうか。何点か現在の雑感を率直にログしておく。
まず、確実なのは、投資銀行が単独のビジネスとしては限界に達したということだろう。投資銀行のビジネスとは有価証券の発行による資本市場からの資金調達である。顧客企業の資金調達を証券化によりサポートし、M&Aなどでの戦略をアドバイスする。さらに各種資産の流動化による資金調達(不動産やローン債権の証券化など)、金利や為替等の金融派生商品を用いた財務リスクヘッジなどを行う(投資銀行 - Wikipediaを参照)。間接金融から直接金融への流れのなかで我が世の春を謳歌した投資銀行だったが、結局は商業銀行へ吸収されてしまうのだろう。[22日追記] 21日に投資銀行首位のゴールドマンサックスと2位モルガンスタンレーが銀行持ち株会社になり、かくして100年弱続いた Investment Bank というビジネスは終了した。(GSとモルスタが銀行持ち株会社に、投資銀行モデル終えん| Reuters)
ただし、この流れ自体は1999年のグラススティーガル法撤廃からの規定路線と言えることに留意が必要だ。同法は世界恐慌後の1933年、預金部門と融資部門とを明確に分離すること(銀証分離)を定めた法律だった。この法律の目的であった預金者保護が、金融工学によるリスクヘッジで可能との認識が成立する中で、商業銀行も投資に乗り出していた。この中で、投資銀行は単独に存在する意義を失い、既にM&Aが進んでいた。つまり、投資銀行の単独の存在が消失するのは規定路線であったと考えられる。そのため「投資銀行がなくなり商業銀行になればいい」と私は短絡的には考えて居らず、今後むしろ大きな問題が生じてしまうのではないかと危惧する。投資銀行モデルの終焉とアメリカの危機 | digi-log に書いたような対策が必要だろう。
一方、今回の流れのなかでは、金融工学によるリスクヘッジや、レバレッジをきかせた投機に潜むリスクの高さも明かになった。「貸してはいけない人に貸す」べく、リスクを隠蔽して資金を集めたことは、語弊があるが「不正融資」であったとも言える。今回の事件の後、こうした手法もなりを潜めるかもしれない。少なくとも短期的に言えば、投資をしている商業銀行もいまはレバレッジを外し、リスクを精査して信用回復に努めることになると思える。この意味で、今回終わったかもしれないのの二番目は金融工学への過剰な信仰である。
しかしながら、レバレッジをきかせた証券化のリスクを学ぶ機会は、アジア通貨危機 (97)やそれに続くロシア危機(98)の際の巨大ヘッジファンド LTCM の破綻やエンロン破綻 (01) の際にも学べたはずだったのであり、中長期的に考えると証券化による「不正な」レバレッジや「神話の捏造」がなくなるということを望むだけ不毛かもしれない。投資銀行を吸収した商業銀行は、再び手を変え品を変え仕掛けてくることだろう。
リスキーな証券には手を出すべきではないということだけは今回の教訓とするべきと私は思う。既に再編された金融が日本に上陸し「サブプライムローン」を仕掛けはじめている。今後、更に甘い言葉がメディアに蔓延することだろう。もちろん、短期的にはそこで利益をあげる者も出てくることだろうし、他ならぬあなたも利益を上げられるチャンスかもしれない。しかし、大多数は損をするのは確実だし、かつ、その先にあるものは今回と同じ信用収縮であり実体経済への打撃である。何も自分の国の経済を自分で破壊するのに加担することはあるまい。故に、当局の規制に期待できない現状においては、一人一人が今回の教訓を是非とも活かさねばならないと思う。大枠で言えば、賭博で儲けるのは胴元と決まっている。この国に住む一人一人の知性により「不正」が行われないということを、私は祈っている。
そして、次に終わりかけているものを思い浮かべると、ドルの基軸通貨性がひらめく。既にユーロ圏は安定した通貨運営を実現しており、産油国も独自の通貨構想がまとまっている (湾岸協力会議 - Wikipedia 参照)。今後、彼らにドルを支えるメリットは相対的に低くなる一方であろう。通貨構想は東アジア (東アジア共同体 - Wikipedia#地域金融と通貨の統合 や アジア通貨基金 - Wikipedia、アジア通貨単位 - Wikipedia を参照) やラテンアメリカ (南米共同体 - Wikipedia参照) にもある。尤も、即座にドル一極体制から、基軸通貨の多極化へと移行するとは思えないが、ドル覇権はゆるやかに退いてゆくことだろう。この流れも、ブレトンウッズからニクソンショック、スミソニアン、プラザ合意という流れから自然なものであろう。
これを経済のブロック化と捉えるむきもあるが、むしろ、複数の経済圏レイヤーが多重的に世界を覆う状況になってゆくと私は考える。つまり、一つの国が複数の経済圏に属するということだ。スープラナショナルなレイヤーが各国通貨レイヤーを仲介し、さらに国内での通貨もローカルな通貨運用が実現してゆくのではないかと考えている。現在の企業を中心としたマネーの他、今後、地域や趣味に基づいた通貨も増えて行くことだろう。つまり、単一ドル覇権も終焉を迎えるが、新な単一基軸通貨が出現するのでも (IMF が提案する可能性はあるが)、また、ブロック化するのではなく、多極化しつつ、かつ、多重レイヤー化すると私は考えている。そうでなければ先の大戦の二の舞となってしまうだろう。
最後に終わりかけているものを妄想すれば、アメリカ経済そのものである。米国からキャピタルフライトが起きる可能性は否定できず、下手をするとセットとしての日米経済がデフォルトになるかもしれない。が、これはありえないことだと考えては置く。されども、相対的に米経済のプレゼンスは低下してゆかざるをえないとは思っている。ドルの基軸通貨性を失ったときに双子の赤字は余りに大きすぎる。
そうして20世紀はようやく終わるということか。私はそういう思うに駆られる。そして、新しい時代となるのかと。しかしながら、その感覚はあまりに希薄でありぼんやりとしている。
なぜか?
確かに終わりは始まった。しかし、終わりの終わりは来るのだろうか? この問いを問う私は、ともするとブラックホールに吸いこまれるような眩暈をおぼえてしまう。始まりが来ない限り、終わりの終わりはやってこないからだ。
私には、未だ始まりは見えてはいない。が、明るい未来は確実にやってくるものと私は信じている。