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2008-08-26

ヨーガの歴史と日本への影響

ヨーガとは一般的には「身体をリラックスさせたり柔軟にしたりするための体操」と思われていますが、それはヨーガ科学の中で、比較的最近になって発達して来た、小さな一部分に過ぎません。

心の科学としてのヨーガ

ヨーガの本当の意味は、心の科学です。単にヨーガとだけ言われるとき、それは伝統的にはこの心の科学、つまりラージャ・ヨーガのことを指しています。

ヨーガの起源は 紀元前2500年~1800年のインダス文明に、その遠い起源をもつ可能性が指摘 (wikipedia - ヨーガ) されているようです。

仏教への影響

また、お釈迦様もヨーガを学んだというのは有名ですね。そのため仏教経由で日本にかなり早くからヨーガは伝わっていたようです。

最初に瑜伽として日本にヨーガが伝わったのは、大同元年(806年)、唐より帰国した空海にまでさかのぼる。その後、真言宗や天台宗の「護摩」、「阿字観」等の密教行法として、現在に伝わっている。禅宗の座禅も、ヨーガ・スートラ第2章に記述されるディヤーナの音写である。(Wikipedia - ヨーガ)

また、大乗仏教にはヨーガの実践を重視した伽行唯識学派があり、大乗仏教の唯識の教学を唱導しました。

瑜伽行派は、インド大乗仏教史上、空を説く中観派とともに二大思潮を形成したが、6-7世紀頃から中観派との間によく論争が行われるようになり、一方、教学上の統合の動きもあった。(Wikipedia - 瑜伽行唯識学派)

この唯識も奈良時代より日本に伝わっており、日本仏教に大きな影響を与えていたようです。

法相宗は道昭・智通・智鳳・玄昉などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺・法隆寺・薬師寺、京都の清水寺に受けつがれ、江戸時代にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。(Wikipedia - 唯識)

ただし、あくまで教学としてであり、ヨーガの実践はそれほど無かったのかもしれません。日本の仏教とヨーガを学びつつ、自分が暗黙のうちに受け継いでいる「伝統」を再認識しつつ深めていきたいと思います。

2007-07-14

激ハードな一カ月のヨーガスケジュール

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ『魂の科学』を読んでみた。本書は五つの鞘の解説書であり、三年ほどでの修行スケジュールをフォーカスしているのだが、師の体験談には、師は以下のプログラムによって一カ月でかなりのレベル(空虚三昧に入る)にいったとある。

参考にメモ。

食事は一日一度、米とバターと塩のみ。

1週目

6h 睡眠
6h 坐り、ガーヤトリ真言の連続読誦(Japa)
2h パタンジャリのヨーガ・スートラ学習[1]
2h 学習内容の記憶
2h 坐法、調気法、ハタ・ヨーガの身体浄化法
2h 洗面、用便
2h 夕方の散歩
2h 食事と休憩

2週目

8h 3種の聖音連続読誦(OM BhUH BhuvaH SwaH)
夕方の散歩が削られる

3週目

10h 聖音オームを唱え続ける。

4週目

12h 坐り続ける(午前零時から昼の十二時)
4h 睡眠

学ぶこと

- 40の調気法
- 184の坐法
- ネティー、ドゥティーなど6種の身体浄化法(Shat Karma)
- パタンジャリ『ヨーガ・スートラ』本文と解説文を暗記[1]

こうしたヨーガの集中トレーニングをいつかしてみたいものだ。

notes

[1] [書評] インテグラル・ヨーガ - パタンジャリのヨーガ・スートラ / スワミ・サッチダーナンダを参照

2007-07-08

[書評] 仏教とヨーガ / 保坂俊司

仏教とヨーガの関係を整理。豊かな宗教を取り戻すために。

実は本書は以前も取り上げた本だが(2007/01/09仏教関係の読書記録)また取り上げることにする。ヨーガや仏教の理解がこの半年で深まったせいもあり、本書のように全体を大きく眺めるような本を再び読みたくなったからだ。

ヨーガと仏教というと、どういうイメージだろうか。ヨーガは怪しいイメージかもしれないし、逆にホットヨガのように若い女性のものというイメージかもしれない。仏教は葬式の道具というのが一般的か。あるいは、その両方に対し、オウム真理教などの過激な新興宗教を連想する方もいるかもしれない。

本書では、そうした現代の「宗教」観を問い直し、現代の日本人の心身を救う正しい宗教のイメージを考える。そのキーワードとなるのが、ヨーガと仏教なのである。

***

目次は以下の通りである。

序 仏教ヨーガの提唱
第1章 「宗教」と宗教観
第2章 ヨーガの諸相
第3章 インドにおけるヨーガの歴史
第4章 ゴータマ・ブッダとヨーガ
第5章 『ヨーガ・スートラ』の教え
第6章 仏教の展開とヨーガ
第7章 日本におけるヨーガ

まず、筆者はインドにおいてヨーガが瞑想法として、いかに重要な役割を担っていたのかを説明する。仏教も、ヒンドゥー教も、それどころかイスラム教のスーフィズムもヨーガの影響なしには、現在の形ではないとのことである。この視点で考えると、坐禅はヨーガの一種である。

また、一方で、仏教の知恵もヨーガの成立に強い影響を与えたことも述べられてゆく。そうして、ヨーガと仏教が混然と日本の文化に入っていることを明らかにする。ヨーガと仏教は切り離すことはできないのである。

そこで考えられるのは、ヨーガの修行と仏教の知恵を組み合わせてゆくということだろう。これが、著者の主張する、心身の本当の健康の道である。

特に興味をひいたのは、ヨーガ・スートラの考証であり、その中で仏教の影響の部分などを分析してあったことである。ヨーガ・スートラの「ヨーガは心の作用の止滅である」などの部分は、初期仏教の強い影響からと説いた部分であり、逆に最終章では唯識に対する反論もあるとのこと。ヨーガ学派は、仏教と極めて近い場所にいたことがわかる。

また、外部から見ていたヨーガ学派のヨーガ・スートラを読むことで、初期仏教(原始仏教)から瑜伽行唯識派という仏教の発展も読み取れる。以前にも感じていた仏教とヨーガの関係の疑問(『インテグラル・ヨーガ - パタンジャリのヨーガ・スートラ』の書評を参照)も、整理できた感じだ。

本書を読むとヨーガが実に歴史が長く、その原理も実践方法も多様であることが分かる(先日の『ヨーガ・セラピー』はハタヨーガに基づいた心身の健康法と言える)。そして、その修行法なくして仏教の智慧がなかったことも考えると、仏教を考える上でもしっかりと学びたい分野である。

著者はオウム真理教の一連の事件をしっかりと受け止め、現代日本人にとっての本当の宗教を考えている。宗教などに嫌悪を感じる人も、是非一度は眺めてみて欲しい。

[書評] ヨーガ・セラピー / スワミ・クヴァラヤーナンダ + S.L.ヴィネーカル

インド政府厚生省の要望で書かれたヨーガ療法の教科書。ヨーガ療法に興味がある人は必読と思う。

本書を見掛けたのは図書館だった。ヨーガ・セラピーというタイトルといい、黄色のポップな表紙といい、若い女性向けに書かれたちょっとオシャレな内容の薄い本であろうと思い、しばらく手に取らないでいた。

偏見であった。本書は信頼できるヨーガ療法に関する教科書であった。なんと言ってもインド政府の要望によって特別に書かれた本である。更に推薦文を文化勲章受賞のインド学、仏教学の権威、中村元博士も寄せていることから、ますます信頼度は高いと言える。

中村によれば、著者のクヴァラヤーナンダはインドの伝統的な学問を充分に究めたヨーギであり、その上、近代科学の計器による測定・検討も行っている。「クヴァラヤーナンダ師が創立したヨーガ研究所 カイヴァルヤダーマは、世界諸国のヨーガ研究者たちのいわばメッカとなっている」。

また木村慧心によれば、1920年代に創設されたカイヴァルヤダーマ・ヨーガ研究所は、医学研究所や病院、ヨーガ大学、図書館等の施設を伴なった世界で初めてのヨーガ・セラピーの研究施設であり、この分野をリードしてきたとのことである。

内容は以下の目次の通りであり、特に精神や神経の疾患に対してのヨーガ・セラピーの原理と実践を医学的な誠実さを伴なって丁寧に説明してくれる。その中に迷信じみた説明は見られない。

第1章 ヨーガの病気観とヨーガ・セラピーの原理
第2章 正しい心の姿勢を培う
第3章 精神生理的メカニズムの再調整
第4章 身体浄化法、食事の原則
第5章 瞑想—すばらしい精神安定法
第6章 ヨーガ・セラピーの実践

特に興味をひいたのは、何故、ヨーガが心の安定を生むのに役立つかを、大脳や神経、筋肉などの医学的な説明で極めて丁寧に説明してあったことである。その説明の中で、ヨーガをリラックスした状態で静かにやらねばならないことが理解できた。「アーサナの生理的効果は、運動の生理学である運動学の原理にもとづくのではなく、姿勢の特徴である静的緊張反射の原理にもとづいて考えなければな」らないのである。ここにヨーガがストレッチやエアロビクスと一線を画す本質があるのかと思う。勿論、呼吸や瞑想の説明も素晴しいが、アーサナに関するこの部分だけでも必読の説明である。

また、説明の誠実さだけでなく、視野の広さも素晴らしい。本書は、アーサナ(坐法)や調気法(呼吸法)、瞑想法などの一般的なヨーガのテクニックの他に、一般にはあまり知られていないであろう鼻や喉などの呼吸器や内蔵を清浄化するヨーガのテクニックも掲載している(以前にハタ・ヨーガ・プラディーピカーを読んだ際に目には入っていた)。勿論、実際に行う際には専門家に相談すべきだが、ヨーガ・セラピーの幅広さを感じられるだろう。

ヨーガの書籍は沢山ある。勿論、伝統の人の本を読むのもよいが、まずは近代科学の検討を経て整理・解釈された伝統の教えを、本書で知るのがよいと思う。

2007-06-15

『インテグラル・ヨーガ』ヨーガ・スートラの分かりやすい解説

本書はスワミ・サッチダーナンダによる、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書だ。『ヨーガ・スートラ』の全文が載せられていて、それぞれについてサッチダーナンダの解釈、解説が書いてある。この解説がなかなかで、神話や寓話も援用しつつヨーガの基本概念やスートラが意味することを説明してくれる。ヨーガを通じて平安な心を得たい人は是非よんでおきたい一冊である。

パタンジャリのヨーガスートラ

『ヨーガ・スートラ』とは

ヨーガ・スートラはインド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって著されたとされる。
とwikipediaにある(参照)。

ただし、パタンジャリがヨーガを"発明"したという訳でないことにも注意が必要かもしれない。

彼は既に存在していた思想と行法を系統づけ、編纂しただけである。しかし、以来彼は"ヨーガの父"とみなされるようになった。そして彼の『スートラ』は、現代に百花斉放しているさまざまなタイプの瞑想とヨーガすべての土台となっているのである。

体を柔らかくする体操としてのヨーガではなく、「心の科学」としてのヨーガが本書の内容である。

サッチダーナンダがヨーガスートラを平易に解説

魂の科学としてのスートラの本文は

1. これよりヨーガを明細に説く。
2. 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
3. そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態にとどまる。
という具合でなかなか分かりにくい。それに対し、著者が分かりやすく、説明してくれる。

ともすると哲学的で何回な内容が、彼の具体的な話や、神話や寓話などによってほぐされ、心にすーっと入って来て、「いかに生きるか」「私とは何か」という問題に、明快な答を与えてくれるだろう。

平安は「無私の奉仕」を通じて

「さて、その教えは?」ということになるが、誤解を避けるために詳しくは本書を読んで欲しい。が、それじゃああんまりなので一応抜書すると彼の中心となる主張は以下の通りである。

〈自己〉について語る聖典は、単なる知的理解のためのものだ。だが自我(エゴ)のための本当に実利的な真理は、非常に単純だ。ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。何を為すにも、それを他者のために為せ。献身する者は常に平安を享受する……。私が聖典についてあまり多くを語らないのはそのためである。私の学生たちはおそらく、私が『ヨーガ・スートラ』について本を書くことを望んでいるだろう。だから私はこれらのすべてを語ってきたわけだが、私自身としては、本当はわれわれには聖典は要らないと感じている。生活のすべてが開かれた書物、すなわち聖典である。それを読もう。(……)日々の行動から学べなくて、どのように聖典を理解しようというのだ?

「自己」は「観察者」になる

誤解を恐れずさらに書くすると、本来の自己とは常に「目撃者」や「見る者」「知る者」であり、見られたり対象化されるものではない。その知る者以外は見られ、知られる自然であり、それは体や心を含む。つまり、心や体は「見られる」のであるから、本来の自己ではないのである。繰り返すが、本来の自己とは対象化される性格のものではないのである。

こう書くと、そうした自己に出会う方法はないように思えるが、私たちは常々自分を「知っている」と思う。これは心を鏡として自分を映しているからだと考えられる。ただ、その心という鏡は常に曇ったり歪んだりしているのが実情であり、本当の自己を正確には写せない。

そこで「心の止滅」が重要となり、戒めを守り、坐し、呼吸や心を整え、集中し、瞑想し、三昧に達すると本当の自己となるということである。そうすると、自己に知られる「自然」は、自己を鍛える必要がなくなるため、完全な平安になるということだ。

自己は「行為者」であることをやめ、気づき続ける「目撃者」となり、善悪を離れ、自由となるだろう。ただ、だからと言って心や体が苦痛を覚えない訳ではない(自己は苦痛から自由にしても)。それ故、苦痛を生まない行動を自然にする訳であるが、それは「個人的な期待のない無私の奉仕」である。利己的な行動は結局は必ず苦痛を生み、無私の奉仕は結局は苦痛から離れている。

"期待を伴う愛"が長続きすることは、めったにない。だから、苦痛なき思いに見える愛といえども、もしそれが利己に根ざしたものであれば、結局は苦に終わる。

一方、"怒り"のような思いは、はじめは苦しい。だが、背後に個人的な動機を持たない無私な人間の怒りは、はじめは相手に悪い感情を起こさせるかもしれないが、結果的には相手を正し、より良い生に導く。

そうした無私の奉仕に生きる人にとって、人生とは「遊戯」となると彼は語る。

ただし、

33 他の幸福を喜び 不幸を憐み 他の有徳を喜び 不徳を捨てる態度を培うことによって、心は乱れなき清浄を保つ。
とあり、その解説に
邪な人々というのも確かにいる。それは否定できない。ではそういうときわれわれはどういう態度をとるべきか? 無関心である。「そう、そういう人もいるだろう。だが昨日の私もそうではなかったか? そして、今日の私は多少ましになってはいないか? その人も、明日には多少ましになっているだろう。」彼に忠告しようとするなかれ。邪な人間というものは、まずそんな忠告は取り合わない。彼に忠告しようとすれば、こちらの平安が失われる --
ともあり、あくまでも怒っていいのは、教師や親など立場が上ということが確保されている場合以外には、慎重にならねばならないだろう。利己と無私を区別するのは、難しいのだから。

さて、あまり深入りすると泥沼なので、この程度にしておく。是非とも手にとって欲しい。ヨーガの真髄に触れられるかもしれない。

*

やはりインドは奥ぶかいと感じさせてくれる一冊。ヨーガに興味がある人だけじゃない。仏教に興味がある人、インドそのものにに興味がある人にとって、興味深い本であろうし、何よりも、生きることを悩める人には本書を通じヨーガの叡智に触れてほしいと願ってやまない。

著者の解説は分かりやすく、とても面白い。決して堅苦しい説明ではなく、ある意味気楽に読めるだろう。そして、その中には人生に対する教訓が豊富につまっている。ただ、無私に生きることを説くのは著者の解釈のように思えるので、他の人のスートラの解釈も読んだ方がよいかもしれない。

全体として考えると、いかにヨーガが仏教と近い場所にあったかを改めて感じる。ただ、それも他のインド哲学を知らない私には、詳しくは分析できない。機会があれば、他のインド哲学やヒンドゥー教の本も読んでおきたい。

それにしても、なぜ、インドはこんなにも深いのだろう?

2007-04-02

音と色の瞑想法で7つのポイントを身に付けよう

世の中には瞑想法と呼吸法が腐るほどある。TM瞑想やらヴィパッサナー瞑想、数息観などなど。その文脈は様々だが、普通に考えて心や体を高める方法である。よく「脳のトレーニング」などと言われる。ここではチャクラの色と音に着眼した瞑想を紹介する。

その一方で「チャクラ」と言われる身体意識がある。まあ胡散臭いが、身体の重心バランス、神経、重要器官などの意識の総称と考えればどうだろう? 「チャクラ」じゃ胡散臭いし、本当の「チャクラ」を知っている人からクレーム来たら嫌なので、本文では「7つのポイント」と呼ぶ。「ポイント」という英語に逃げるあたりが、いかにもである。

この7つのポイントは以下である
1. 頭頂 (頭の一番高い所)
2. 眉間の奥 (頭部の中心)
3. 喉 (首の中心)
4. 胸の中心
5. みぞおち
6. 丹田(おヘソのちょっと下)
7. 会陰(肛門と性器の間)

さて、この7つのポイントだが、解剖学や物理の話をすれば、科学が好きな人も納得するんじゃないかな? 説明を読んでちと考えてもらえば「そりゃ、当然か」という気分になってくれると思う。

まず、物理的に考えてみる。まず、体幹の重そう各パーツを考えてみると「頭部」「胸部(肋骨と肩)」「臀部(骨盤)」となる。物体を運動させることは、その重心に力を与えることなわけで(そうしないとブレて回転してしまい、運動は極めて効率悪くなる)、当然、私達は体幹を動かす時に無意識に上の三つの重心を計算している筈である。そして、この三つを繋ぐ「首」「背骨(腰上部)」があり、これも考える必要があるだろうし、体幹の上端と下端を「頭頂」と「会陰」と考えればよい(頭頂は天を向き、会陰は地をさす)。どう考えても、身体は頭・胸・尻を動かすために、この七つの場所を割り出している筈だし、逆に、この重心を利用していない運動は極めて効率が悪くなるだろう。これは「運動」の他「静止」の時もそうであり、この七つのポイントを重力線に対して、直線上に並べることで力の効率は良くなる。

実感的に知りたい人は、お手元のハンマーを手に取っていただきたい。ハンマーというのはヤミクモに叩いてもエネルギー効率が悪いことはご存知だろう。きちんとハンマーの重心を感じながらエネルギーを送ることで、少ない力で効果的に釘を打てるのである。体幹を使う運動もハンマーを使うのと同様の原理になる筈である。

一方、解剖学的に考えても、七つのポイントは意識される筈であろう。神経で考えても、各チャクラは神経叢の場所と考えられる。私は医学に無知であるので、神経叢を「神経の配電盤」と説明しているページやWikipediaの自律神経系の記事などを読んで欲しい。また、そうした神経の場所に意識を向けたり、さすったり揉むことで、なんとなく体にも良さそうである。

体幹各パーツ重心と神経の要所が重なるのは、人間の進化とか普通に考えても当然じゃないかと思うが、ここら辺は本当に無知なので省略。とにかく7つのポイントとは、体幹の重要な重心であり、
神経の集合場所であり、意識しとくとお得なポイント
とでも理解しておいて欲しい。

「え? でも、そういうのって脳とかが自然に計算してるでしょ?」と賢いあなたは思うかもしれない。そう、そういうポイントを本来、私達の体は無意識に割り出して運動に役立てている筈である。しかし、人間、歳を取るにつて頑固になるものである。変な姿勢や変な歩き方を覚えてゆき、そんなポイントなんて、おかまいなしな人間になってしまうのである。首は曲がり、背骨は曲がり、腰痛と肩凝りに苦しんでも尚「ああ、仕事が忙しくて」とか言って、全然、アホウな体の使い方を直そうなんて思わないのである。

実際、大人になると素直な感性というのは失われるらしい。銭湯にでも行って、椅子に坐る人々の姿勢を見てみるとよい。大人は皆、体幹の重心なんて全く意識していない。筋肉があるから、曲がった姿勢を支えていられるのだろう。そして、そのツケはしっかり払っている。

一方、子供は皆、まっすぐ座っている。小学生の高学年になるとダメである。もう「カッコ」をつけている。もっと小さな子供である。本当に自然にまっすぐ座っている。「素直」というのは、こういう事を言うのかと感心する。頭が思いからこそ、頭の重心の位置に極めて敏感に反応している。かくして頭痛、肩凝りには無縁なのである。我々は下手に首や肩の筋肉があり、頭部を変な場所に置けるからこそ、肩やら頭やらを痛めてしまうのである(勿論、その他の理由だってあるが、結構、顎をひくだけで肩凝りが無くなる人も多いと思う)。

***

さて、そんな7つの重心・神経ポイントだが、「さあ、これから意識して暮らしましょう」と口で言われてもなかなかできるもんじゃない。

そこで私は考えた、題して「音と色の瞑想法」である。楽しく7つのポイントを習得し、かつ、絶対音感や色彩の訓練にもなるかもしれない練習法である。ただし、私が本日、本を読みながら突発的に思い付いただけの瞑想法なので、効果が出るかは実証されていない!

方法は簡単である。坐るでも立つでも歩くでもよい。体幹が直立した姿勢で、7つのポイントを意識するのである。ただし! その時に7つのポイントの色と音を意識するのである。チャクラと音と色で書いた通りである。

赤、ド、会陰(肛門と性器の間)
橙、レ、丹田(ヘソ下三寸)
黄、ミ、鳩尾
緑、ファ、胸の中心
水色、ソ、喉(首の中心)
藍(紫?)、ラ、眉間の奥(頭部の中心)
シルバー、シ、百会(頭頂)

最初は音階練習をしてみて、聴覚意識には音、視覚意識に色、身体意識はポイントの場所に向けるのである。

慣れれば、知っているメロディーでも口ずさみならが、楽しく7つのポイントを楽しんでみるとよいと思う。これは「移動ド」で考えても「固定ド」でもよいと思う。

メロディーをやるには色と場所が足らない! という人は、場所と色を追加してみる。ちなみに、とてもいい加減であるので、注意。

ワインレッド、ドのシャープ、会陰と丹田の間
淡い緑、ミのフラット、丹田と鳩尾の間(おヘソ?)
深いブルー、ファのシャープ、胸の上部
赤紫、ラのフラット、口の奥
クリーム、シのフラット、おデコの奥

また、和音をやると更にいいと思う。同時に二箇所以上のポイントを意識し、色を思い浮かべ、音を出す。それらが、個性を守りながらも、ふわっと溶けてゆくのを感じる。なかなか、味わい深い世界である。

逆に色を見て、ポイントと音を意識することもできるかもしれないが、そういうアイディアは浮かばない。ひとまず、音先行で十分である、もしかしたら対位法も可能かもしれないし、そうしたらバッハとかやれたらとても気持ち良さそうでわくわくする。

こんなこと興味を持つ人も限られるだろうし、興味を持っても出来る人も更に限られるだろうが、そういう人は、是非。

チャクラと音の色

またアヤしい世界の話。今日ヨーガの本を読んでると、チャクラに色があるとある。「ふむ」と読むと、これは「なんだ、音の色と同じじゃないか」と。

ちなみに、俺はチャクラなんて感じてない。ただ手から気は出せるみたいで、彼女や親、友達などの肩凝りや頭痛を治したり、悪化させてみたりしている。んで、暗い部屋で白い壁に手をかざしてしばらく見てると、指先から白いモヤのようなのがうっすらと見える気がしないでもない。まあ、幻覚だろう。

ただヨーガをやってるとチャクラを重心のバランスと感じたり、「ツボ」と感じないと、あまり意味がない。だから、チャクラというのも「あっやしーな」と思いながらも意識はしている。ちょっと、7つのチャクラを意識して立つだけで、姿勢は格段とよくなるし、第一、人に与える印象がまるで違うのである。ま、どうでもいいけど。

んで、本題。俺は特別な訓練も幼児期の音楽環境もなかったので完璧な絶対音感はないのだが、うっすらと音に色は感じる。いつから感じたのか定かではないが、ギターで耳コピをしたり、相対音感の練習をした時には、その前に既にあったという気がする。んで、これが絶対音感バッチリな人の色ともたいがい重なるのであり「そんなもんか」と感じている。音に感じる色は個人差はあれ方向は同じなのである。

だいたい「ド」は赤、「ファ」は緑、「ソ」は青(水色)である。こんなこと書くと音に色を感じない人でも、音楽カジった人は「はっはーん、そりゃハ長調の三和音で……」とか言いたいだろうが、まあまて。だからと言って、その「三和音の機能」に色を連想させるってトコも不思議じゃないかい?

んで、「ラ」は紫か藍色ってのも固い。音色ではヴァイオリンを感じる人がほとんど。そして「シ」は銀色というかシルバーである。まあ、紫もちと入るかな。

んで、「レ」がオレンジってことになって、「ミ」が黄色ってことになる。ここは、俺は若干違和感がある(まあミの黄色はいいんだけどね)。レってのは思い入れが強過ぎる音なので、一言で色を言うのが難しいのかもしれない。レのストレートさってのはギター弾きにとって難しくないかい? Dmのストレートな哀愁とDのストレートな開放感。うーん、オレンジより、緑よりも緑な緑を感じてしまう。

それにミのフラットなんかをどうしても緑を淡く幻想的にした色に感じたりする。うーん、難しい。いや、まてよ、オレンジって書くからあれだけど、茶色系って考えると「土」なわけで、レは土色ってのは個人的にしっくりくるかな……。

ちなみに、ミのフラットのクリーミーな緑は一番、誰でも感じやすいんじゃないかな。ま、どうでもいいんだが。

んで、今あげた音の色はチャクラの色である。チャクラってインド系の知識は弱いので、普通の呼称を使うと、

会陰(肛門と性器の間)は赤でド、

丹田(ヘソ下三寸)はオレンジでレ、

鳩尾は黄色でミ、

胸は緑でファ、

首は水色でソ、

眉間は藍色でラ、

百会(頭頂)はシルバー

である。

個人的には「なるほど!」である。こう考えるとインド音楽のラーガとかそういうのも調べたくなるが、そんなこと調べてると何してる人なのか自分でも分からなくなるので却下。ただ、ちとそういう音と色への意識を持った瞑想とかもしてみると、暇人の極みになれていいかもしれない。案外、同時にチャクラと絶対音感が発達して、ますますアヤしい人になれて幸せかもしれない。

音と色の瞑想法で7つのポイントを身に付けようという記事も書いてみた。参考にどうぞ。