2007-03-29

自らが望むものに殺される

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クッツェー『夷狄を待ちながら』の民政官の心情は、ボルヘス「ドイツ鎮魂曲」にあらわれる、死刑に際した元ナチスの男の心情に通じるものがある。それは、自らを滅ぼすものを切望するという点だ。

まずクッツェーの方を簡単にメモしておく。

侵略と拡大を続ける「帝国」、その辺境に数十年間滞在している初老の民政官。来ることのない夷狄の襲撃に対抗すべく「帝国」は、首都から大佐を民政官のもとに派遣する。大佐は非人間的な拷問と処刑を行う。民政官はその「帝国」に疑問を感じながらもその権力と暴力に従わざるを得ない。そうした中での彼の抵抗は単純なものにはならない。

そうした状況を想定した上で、解説にあたられた「暴力と告白——貫入《ペネトレート》する文学」という題の小論において、福島富士男はこう解説する。

物語の終わり近く、夷狄の襲来が間近に迫っていた。民政官は何がしかの真実の記録を後世に残したいと思う。だが、帝国の管理である自分が書きつけるものは虚位にしかならない。そこで、民政官はポプラの木片に保存油を塗り、発見したものの場所に戻しておこうと考える。そして、夷狄の娘が馬に跨って仲間たちとともにやってくるときこそ、この地から自分たちが消え去るときだと考える。[1, pp.350-351]

一方、ボルヘスの元ナチスは以下の通り。

世界はユダヤ主義のために、そして、イエス信仰というユダヤ教の病気のために、死に瀕していた。われわれはそれに暴力と剣の信仰とを教えた。その剣がいまわれわれを殺そうとしている。われわれは、ちょうとあの迷宮を造っておきながら、最後の日までその中をさまよい歩くよう運命づけられた妖術師に、あるいは、見知らぬ人を裁き、その人に死刑を宣言し、そののち《汝がその者なり》という刑事を聞くダビデに、比べられる。新しい秩序を樹立するためには多くのものが破壊されなければならないであろう。[2, ドイツ鎮魂曲, p128]

問題なのは、世界に君臨するのが暴力であって、奴隷的な小心翼翼たるキリスト教ではないということである。勝利と不正と幸福がドイツには無縁のものであるならば、それらを他の国民に与えよ。たとえいまわれわれのいるところが地獄であろうとも、天国は存在せしめよ。[2, ドイツ鎮魂曲, p.129]