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最近、野口晴哉 [1]の「体癖」、増田明 [2] の「ボディートーク」などに興味がある。「心の問題が体の症状に現れる」「体の使い方が心に影響を与える」とあり、また自分や周囲の人たちの観察を通じ、本当に心身は一如であると教えられた。
日本語の表現でも考えてみたい。「腹が立つ」という表現は、怒るときには本当に人間の腹が立つと観察できたから生まれたのだろう。「胸さわぎがする」のも同様に本当に胸のあたりがグラグラするから生まれたのだろう。「肩の荷が重い」「首が周らない」も同様だ。本当に肩がパンパンになるし、首がこっている。怒り、哀しみ、恨み、不安……どれも体に出るようだ。
身体に出ない感情など無いのかもしれない、と思った。
ところで、こうして体を触り、人の状況を認識すると「占いみたい」と言われる。背骨を触り「肉親を恨んでいるね」と言うと確かに占いでもされた気分になるのだろう。
占いの定義にもよるが、身体の症状から精神状態を観察するのは一般的な意味での占いではないと思う。霊などの超越的な原理によらず、心に直接に連結している体によって観察しているのは、ある意味で経験科学的と言える。(もっとも、占いも経験的知識の積み重ねがあったという気もするが、説得の原理が超越的なものによっている点が、私に飛躍を感じさせてしまう)
科学は一定の手法による対象の観察とその分析に基く。「一定のエネルギーを与えてボールを投げると、数秒後にはどの位置にいるか」「ネコは一日にどれくらい寝るか」などの問題と同じように、体と心の連携も、世界に対しての観察を続け、それを記録・分析し、未来に対する予測として役立てようというものだと思う。
「体のある部分が痛い人のほとんどが、ある精神的な状況にいる」という事実があれば、その体の痛みと精神状況には相関関係があると見做せる。そして、そうした観察と分析に基いて、「体のある部位の痛みを取り除けば、ある精神的な状況も改善できる」と予測することもできる。また逆に「ある精神的状況を改善すれば、体の痛みも取れる」という予測もできるだろう。
もちろん、完璧な予想は人間には絶対にできないので、こうした予測は裏切られるかもしれない。しかし、人間は、確実ではないながらも観察と予測から行動し、更に観察と予測の能力を高めてきたことから考えても、予測が完璧でないからと言って、しりぞけることはない。
ところで、この心と体の関係だが、本当によく当たる。こじつけでも何でもなく、本当に人間の心身は関係して出来ているんじゃないかと思う。
そして、更に考えると、体の反応が全てで、その特定の反応に対し感情と言われるものをあてはめたんじゃないかと思う。
つまり、最初は身体反応しかなくて、「感情」なんて呼ばれるものは無かった、そして、次第に特定の身体反応が多くなり、また会話も増えたので「感情」という観念を生んだんじゃないかと考えた。
よく「悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しくなる」と言われる。確か心理学的にも立証されていたように思う。
この場合、まず「泣く」という身体反応があり、その身体動作に対して「悲しみ」という「感情」の名前を与えることで、人と会話できるようになり、また、他の「悲しみ」のイメージとリンクさせることで更に「泣く」という動作が増幅される、と考えられないかな?
あるいは「怒る」というのは、単純に人類が猿の時代の名残じゃないかと思う。つまり、頭部の衝撃への対応の為に「頑を張り」、腹部への衝撃の対応の為に「腹を立て」、急激な動作のために「腰を入れる」。あるいは「肩をいからせる」。目を開きガンをつけ、鼻息が荒くなる。
これらは、どう考えても野生の動物の仕草である。そして、現代人はこうした野生の仕草は不必要であり、これが問題を生じることになる。というのは、野生のときには、体を動かして発散できたであろうが、現代人は体を動かすことはおろか、声さえあげられずにじっと我慢することになる。すると、野生の仕草は発散されないまま体に残り、シコリになる。
シコリは怒りを増幅し、怒りはシコリを増幅する。まさに悪循環。最終的には脊椎動物の中心である脊椎にまで被害は及ぶことになるだろう。
怒りという感情がこうさせるというより、こうした一連の身体の反応を怒りと呼んだのでは?とここのところ考えている。
まあ、よくわからない。
とにかく、心身の相互作用を理解し、体の無駄な緊張と心のとらわれを取ることが大切だと思う。