2007-07-19

抽象的で偽善的な「モラル」

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私は社会費用を最小にするのが大人の務めかと思う。「社会費用」などというとものものしいが、つまりは、ある自分が存在する集団の費用全体を最小にするように努めるのが、大人のすることだと思う。つまり、自分がちょっとコストを払うことで、集団全体の利益があることを進んで行うのが自然になることが成人することではないかと。

まあ、ぼやきなんだけどさ。

もし、成人が社会全体の利益を考えずに、自分の利益のみに基づいて行動した場合、社会は破綻する。この社会を支えるのが大人なのだという理屈。

でも、この「成人=社会費用最小努力者」説は、要は「人のために尽せ」という精神論みたいになる。まあ、そういう解釈もありえるかなとか。だから、私は、この説を人様には言わないことにしている(いや、昔は行ったゴメン)。というのは、「人のためにつくせよ」ということは「俺のためにしろよ」ということであり、「じゃあ、テメーがすれば?」という批判に晒されるのは必至だからである。

かくして、私はモラルは人には伝えられない、と思っている。モラルを強制するのは暴力である。私は他人に暴力を使えない。ただ、「でもね、そうしないとね、社会がね……」と内心思いながら「まあ、仕方ねえなあ」とか思う次第である。一人で勝手にやってるしかない。

教育とは、こうしたモラル、社会を成立させるモラルを植えつける暴力であるのだと思うのだが、どうも最近は、そうしたモラルは古臭いようである。そして家族も学校も会社も地域も、いかなる社会も破綻に向かっていると感じる。

まあ、それこそ、誇大妄想もいいとこだが……。ってのは、昔から人間ってのは自分勝手に生きてきて、それで、そこそこうまくやってきたんだろうとは思うんだけどね。現代と比べても庶民が昔から「自分勝手」であることは歴史が教えるところだ。

ま、私は一人で勝手に損をしながら、抽象的で偽善的な「モラル」を生きてゆくのだろうとか。