夜のファミレスにはなかなか帰らない客が来るものだ。僕は彼らから多くを学べた。

もう一つ言いたいことがあります。いや、本当はいくらでもあるんですけど、よく「馬鹿と同じ土俵に上がるな」的なアドヴァイスってありますよね? 「低レヴェルなやつと向き合うと、同じレヴェルになる」とかなんとか。
あれ嘘です。ていうか間違いです。テレビの見過ぎです。
往々にして《場の論理》は《個人の論理》を抑圧する。それは個人を平均化し続け、やがて自らもゆるやかな熱死を迎えてしまうだろう。いかに弱い個人が場の論理に対抗するのか。なんだかアブないような話だが、数点メモしておく。
よく成功本には「主体性を発揮する」だとか「自由を尊重する」とか書いてある。正論だ。しかし、それは役に立たないことも多い。なぜなら、それは場を支配する者が取れる戦略だからだ。それは子に対しての親であり、部下に対しての上司だ。優れた親や上司が部下の主体性や自由を大切にすることは素晴しい。しかし、間違った親や上司に遭遇したときにはどうしたらいいのだろうか。そのような状況でどう「主体性」を発揮すればよいのだろうか。弱者に主体性を発揮する自由は与えられていないのだから。そもそも「強者」すら主体性を発揮できない空間で、どんな自由や主体性があろう?
問題は弱者がいかに場を改善するかである。別に大袈裟な問題ではない。例えば、誰も本音では行きたくないが、その場の空気で何故か行ってしまう二次会を、いかに弱者が回避するのかという問題でもある。高田明典『現代思想の使い方』 のゴフマンの解説をヒントに、何点かメモしておく。
2 と 4 の方法では集団は実際に変化を起こさない。4 の方法は一回限りの現象であれば有効だが、何度も同じことが起こる場合には効力を発揮できない。つまり、真剣に集団が場の論理を再考するのは 1 と 3 だけである。しかし、そのどちらの場合にも、問題を提起した本人である個人は集団からの相当の攻撃を受けることになる。
戦略としては 2 (欺瞞的服従)を中心に、どうしてもというときに 4 (客観的に破綻を暗示)を行うという形になるのだろう。そして、次第に 3 (不服従)で打撃を与えつつ根回しをしてゆき、ここぞというところで 1 (直球勝負)をする。
親子の関係であれば、基本は親に服従しつつ、どうしてもという時には相手の論理を大袈裟に拡張してその場をやり過ごす。つまり日常では自分の言葉は語らない。そして、次第に不服従を取ってゆき、逆に、そうした服従の論理の上に家族という制度が辛うじて成立していたことを想起させてゆき、ある日、正論で直球勝負をかけてゆく、ということになるだろう。
労使の関係であっても変わらない。基本は服従し、どうしても逃れたい要求に対しても、自分の言葉で反対するのではなく、相手の論理の転倒によって逃れる以上のことはしない。そして、根回しをしつつ不服従してゆき、最後に直球勝負をするということになるだろう。
個人が無責任であり、無能であることを集団は何よりも恐れる。反抗する個人は御しやすい。彼らには《意見》や《要求》があるから、既にマジョリティーが成立させた論理や倫理観、あるいは実際的な暴力やカネの力で戦えば勝敗は見えている上、そうした個人の声を押し潰してゆくことで、集団の論理はカイゼンされ、更にしたたかなものになってゆく。
答はシンプルだ。無能になればよい。抵抗することはない。ただある日、自分には出来ない、と言えばよい。巨大に思えた構造も、実は個人の服従に支えられていたことが、不服従によって曝け出される。
集団は個人のコミットに支えられる。コミットとはその集団の価値観において優秀でありたいということだ。優秀であることを捨ててしまうとき、その場の論理は拘束力を失なってゆく。優秀への欲望を捨てたときに彼はその集団から自由になる。そうして自由になった個人が、再び自らで《価値》と《優秀さ》を定義しなおし、再びコミットを誘うに足る集団を作りあげられるのか、そのまま滅んでしまうのかは分からないが。
なんだかアブない文章になってしまった。こんなところにしておく。
私は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。異常なほどと言ってよいと思う。会ったことすら忘れてしまい「あ、はじめまして」とか言ってしまうのだから。
まあ、人に興味がないのだろう。最低だ。私の友人の天使のような女の子は、バイトしているときに客で来た人の顔だって分かるらしい。それだけ人を大切にして生きているのだろう。素晴らしいことだ。
だから、本当に人の顔を憶えるには、以下のような小細工を弄さず、出会う人一人一人に真剣に向き合い、その人のことをしっかりと思うことである。つまり「俺は人を憶えるのが苦手で」などとぼやかず、性根を叩き直すことである。具体的には度々「あの人はどうしているだろう」「私に出来ることは無いだろうか」と思うことである。自分勝手に自分のことしか考えていないから、人様の名前も顔も忘れるというフザケタことができるのである。因果応報。自業自得。そういう人間には、そういう人間なりの未来が訪れると思う。
しかし、性根の方もそう簡単に叩き直されるものでもない。性根をコツコツと叩きつつ、私は未だに小細工を弄している。
私が習慣としている小細工がある。人と会ったときには席順と名前を描いておくのである。そこに、その人のエピソードや特徴などを書き込んでおく。できれば顔の絵も。それと余裕があれば自分の席から見た「景色」(人の顔を含む)をイラストにしておくのもよい。こうしたものをチラチラと眺めれば忘れることは無い。人間の空間に対する記憶力を利用するのである。最近では持ち歩いているメモ帳にこうした席順を書くようにしたので(少なくともミーティングのときには必ず書いている)人を忘れるということも無くなった。逆に最近では自信があるほどだ。ただ、その下手糞な似顔絵は誰にも見せられないのでメモ帳の扱いにはヒヤヒヤする。
実は以前にもそれなりに効果のある対策を練っていた。それは人をパターンに分類してしまい、そのパターンの内部での差異を利用して人を識別するというやり方である。人間の認識とはつまところパターン分類と差異の識別なのでそれを利用するというわけである。
最初に言っておくとこれは失敗だった。というのは原理自体は悪いものではなかったと思う。ただ、具体的な「パターン」の選定に問題があった。
まず、方法を説明しよう。始めに一定の分量の「モデル」を準備する。まず、その顔が憶えやすい必要がある。また、その人たち同士が何かしらの関係性を持っていたほうが記憶には残りやすい。そして、新しく出会った人を、その「モデル」に紐付けるのである。同一のモデルに紐付けられた人はその人同士の違いに注目してゆく。例えばAさんとBさんがモデルIに紐付けられていたとする。そしてAさんが野球が大好きだとしたら、Bさんにも「ところで野球は好きですか?」などと訊いておく。もしBさんが好きではないと答えたら「ふむふむ、こっちのBさんはAさんと違って野球は嫌いか……」などと考えてゆく。そしてモデルIの名前とAさんとBさんの名前の響きを関連させる。
この方法は効果があった。大学生の頃、様々なサークルに参加していて誰が誰だか分からなくなっていた。バンドくらいならメンバーと密接だからいいのだが、合奏をしたり、歌や踊りの伴奏をしたりすると、誰が何を踊る人で、自分はその人に何をすべきなのなのだかさっぱり分からなくなってしまう。私はこの方法でどうにか何をしている誰誰さんかを記憶していた。
この方法は悪くなかったと思う。ただ、そのパターンのモデルが悪かった。私は記憶のモデルに相撲取りを使っていたのである。そう、私は若い女の子を武蔵丸やら若乃花などに関連させて記憶していたのである。名前も「武蔵丸 鈴木」などと言って憶えていた。記憶というものは予想外かつ残酷なほどに滑稽なものを映像化すると憶えるものだ。二十歳そこそこの女の子を相撲取りと関連付ければ忘れるはずも無かった。そして「曙がブレリアの右側の女の子」「おお、三日の夜は三役揃い踏みだ!」などと紐付けて映像化すれば、相撲取りと音楽という予想外に滑稽な映像に忘れるはずも無かった。まあ、結果としてはオーライだった。
この方法に色々と問題があるのは明らかなので詳細は省こう。私はこの方法をもう使っていない。ただ、もしもこのパターン分類を使うのならば芸能人を使うことをお勧めする。芸能人の顔に紐付けておけば、いざ酔っ払って「AはIに似ている」などと言っても問題には成りえないからだ。というか、普通に人は若い時期に芸能人の顔を覚え、自然に出会う人を芸能人に紐付けている。私が芸能人に疎いから相撲取りに紐付けるというアホな行動をしたのだろう。普通に「AさんってIに似てるよね」なんて話してれば記憶に定着する。
ただ、それでも相撲取りの顔のヴァリエーションと想起時の滑稽さは惜しい。芸能人では「三役揃い踏む」ようなインパクトのある映像を与えてはくれないだろうから。と、こんな失礼なことを考えるのだから、俺は本当に性根が腐っている。
なんとなく、以前に対人系処世術の本を読んだ。結論から言えば、相手を立て、自分は下手に出て、議論を避けるということになる。当たり前のことだが、考えみると案外できてない訳で、しっかりと熟考&実践したいところ。
相手を立てる。褒める。認める。同情する。相手の立場に立つ。美徳に訴える。期待する。重要感を与える。
相手の話を引き出す。相手の興味のある話題を振る。個人情報を記憶する。
下手に出る。 穏やかに話す。断定的に話さない。
自分の過ちを話す。誤りを認める。
議論を避ける。反論しない。「しかし」と言わない。「イエス」を連鎖させて結論に誘導する。気づかせる。
関連するエントリ
話術というほどではないのだが、物の言い方について、偉そうに書いてみる。
1) まず褒める。褒めることはおだてることではない。相手の現状を評価することである。相手の現状を認めることなしに、交渉は不可能である。例えば、あなたの車を見て「いやー、なかなか素敵なお車ですね。でも、もっといい車があるんですよ」と話す人間と、「いやー、ひどい車ですね。ですから、もっといい車があるんですよ」と話す人間のどちらから車を買うかを考えればよい。
2) 話を最後まで聞く。大概の人は人の話を最後まで聞かない。ええ、絶対に聞いていない。そして話の途中で「それってさ、こういうことでしょ」とのたまう。途中で話を切られて、私の言いたいことが当たっていたことは記憶にない。相手の話を最後まで聞き抜くことが必要である。私も若い頃にこれで失敗をした。話が長くて暇で仕方ないなら、相手の意見をどうやったらより簡潔に表現できるか考えればよい。ただし、間違っても、話を聞きながら自分の意見を練ってはいけない。そうした、気配は読まれるものである。
3) 直感で意見をしない。人の話を聞くと、ついつい「それなら、こうすればいいじゃん」などと助言や批評をしたくなるものである。これは間違いである。はっきり言って、他人の助言や批評なんて何の役にも立たないのである。これも私はよく間違えた。相手がいくら疑問形で話していても「それは、大変ですね」「難しいですよね」と答えるところである。本当に相手を思っているなら行動で示すか、後々別の機会に「わざわざ」助言をするとよい。
4) 逆説で応じない。人が話した後に「でも」で会話を始める人は確実に損をしている。あいては無意識的にしろ意識的にしろ、その後に自分の意見を否定する言葉が続くと思って身構えてしまう。「そうですね」や「確かに」「なるほど」などから話をついでゆくとスムーズになる。
「パパ! 見てみて、英語の成績よかったでしょ」といわれた後に「でも数学はだめだねえ」という父親と「そうだね、よかったね。でも、数学はいまいちだね」という父親、「そうだね、よかったね。そして数学もその調子でがんばればきっとよくなるよ」という父親のどれが子供を優秀にするか考えてみればよい。
5) 腹を立てない。上の方法は自分がやるものであって、相手に強要すべきものではない。相手が最後まで話を聞かなかったと言って腹を立てるのは間違いである。
「そんな『いい人』になってちゃ、自分が損ばかりじゃないか」と思うかもしれないが、そんなもんである。そういう努力を「損」と取るか「徳」と取るかの問題か。
なんだか書くこともないので、いつものようなことを書いてみる。
結論を先渡しすると「自分を常に観察できるようになれば、振舞が意識的になり、自然に行動が完璧に近づく。行動が完璧になれば人間関係の問題と自己認識の問題は解決するはず。特に、人と会話している時に無意識的になりやすいので注意が必要」といういつもの話。それで「その観察の基礎力を付けるために観察瞑想で洞察力を磨け」ということ。
常に自分に常に気づきながら、完璧に動作する。全てを洞察する。これにつきるのだろうと思う。
人の悩んでいるのを見ていると、だいたい人間関係か自意識の問題である。つまり、人間関係や自意識をどう認識して処理するかで苦悩するのである。
大まかな感覚で言うと、女性は「誰誰さんがどう思ってる」「どうして、こんなに頑張ったのに報われないの?」「誰誰さんが羨ましい」という人間関係に苦悩しているように見え、男性は「自分が仕事を続けることに意味はあるか?」「そもそも生きるとは何か?」「自分とは何か?」などの、自己認識についての苦しみをしているように見える。勿論、安易な性別論はよろしくないが。
こう書いて気づくが、本質においては、両者の問題は一致しているのだろう。自意識があるからこそ、その自意識が人間関係上で達成されないと苦しいのだろう。そうした人間関係と自意識のズレの問題を、人の方に問題があると考えれば人間関係の惱みになるし、自分に問題があると考えれば自意識の問題になるのかもしれない。
悩んでいる本人にはかわいそうなことに、こうした苦悩は無駄な悩みに見えることが多い。本人が勝手に悩み苦しんでいるように傍からは見えるのである。
この苦しみは不必要であると他人に見えるからこそ、泥沼にはまり、苦しみとなるのかもしれない。
この問題はとても苦しい。答もないので、いつ終わるかも分からない。どちらが、より苦しいかは分からない。
では、人間関係を捨て、自己認識をしないようにすれば苦しみは無くなるのか?
そうではないだろう。まず、この解決法は現実的ではない。人との交流を断った上、更に思考を放棄するための特別の努力が必要である。始めからそれほどの計画を着実に実行できる人ならば、人間関係で苦しむことはようにも思う。また、単に人間関係を捨てただけでは、逆により強固に、「人の声」や自己認識の苦しみに襲われるものである。
結論的に言うと、私たちは人間関係と自意識を捨てられないのだから、その問題を制御する能力を高めねばならないだろう。
その修行方法はというと、やはり徹底的に人間関係と自己認識に苦しむより他はなかろう。しかし、ただ、漫然と苦しむのではない。意識的に観察し続けるのである。己の苦しみを冷徹に観察し、苦しみの原因を分析するのである。
人間関係や自己認識に苦しむのは何故だろう?
一つには自分が自分の思うような状況で暮らせられないということとがあると思う。
ならば、完璧を目指すのが一番簡単なのではないか、と思う。つまり、人の目を気にしないように努力するよりも、どう見ても完璧に生きるように努力してみるのはどうだろうかと思う。
「それができないから苦しい」と思うかもしれない。確かに、その通りである。
ただし、その見方は自分の目であるとしたらどうだろう。
それでも大変だと思うかもしれない。しかし、ここで考えて欲しいのは、何故、自分の目から見ても不満な生き方を人はしてしまうのかということである。
人は無意識の内に行動をしていて、後から「良くなかった」と考えるのではないかと思う。つまり、行動しているまさにその時には無意識なのではなかろうか。そうでなければ、自分にとって不満な行動をし続けているというのは説明しにくい。
つまり、自分の目で見て完璧に暮らせるためには、まず、常に自分で自分を監視できる必要があるのである。そして、常に監視が十分にできているのなら、自然と完璧に行動に近づくのではないかと思う。人が間違うのは無意識に惰性の行動をすることによってであると私は思う。
もし、常に自分で自分を監視できるのならば、自分で自分を完璧にしようと思うだろう。何故ならば監視しているのが自分なのだから。通常は自分が「監視されている」と思ってしまうので、監視される、完璧に暮らすというと窮屈な気分になるのだろう。
監視されて暮らせということではない。自分で積極的に監視しろということである。そして、自分で自分を監視し続けられるのなら、自分のことを完璧にするだろう。そういうことである。
だから、まず完璧にすることを努力するのではない。自分を24時間監視できるように努力するのである。その監視ができるようになれば、行動は自然に改まるだろう。
そして、その自分で自分を監視するために、人を「利用」するのである。人と話している時というのは最も意識が「お留守」になりやすいと思う。話題に没入してしまうのだ。そうした人と話している時にこそ、自分を監視する練習をすればよいと思う。
いや会話の時だけではないかもしれない。食事もそうだろう。食事の時に「味わっている自分」を観察するというのは難しい。だから、何か自分が没入しやすい行動をしているときにこそ監視ができるように練習するとよいと思う。
ただ、そのためにも監視しやすい状況での練習が大切とは思う。具体的には座って瞑想することである。座って静かにしていても観察できないのでは、他の行動をしているときに観察するのは不可能である。まず、しっかりと時間を取って坐り、自分を観察するとはどういうことかを学ぶ必要があるだろう。
そして、常に監視できるようになれば、自分の行動が人にどう見えるのかも分かるのだから、人から見ても完璧になる日は近い。そうすれば、様々なことに気がつく。「ああ、こういう仕草をしたら、この人はこう思うのだな」「こういう動作が影響がありそうだ」こうした些細なことを観察できるようになる。分析というよりかは直感的な理解である。
そして、人に会っている時にも、常に自分の観察の下に行動できるようになる。
自分に常に気づきながら、完璧に動作する。全てを洞察する。これにつきるのだろう。
もし、成人が社会全体の利益を考えずに、自分の利益のみに基づいて行動した場合、社会は破綻する。この社会を支えるのが大人なのだという理屈。
でも、この「成人=社会費用最小努力者」説は、要は「人のために尽せ」という精神論みたいになる。まあ、そういう解釈もありえるかなとか。だから、私は、この説を人様には言わないことにしている(いや、昔は行ったゴメン)。というのは、「人のためにつくせよ」ということは「俺のためにしろよ」ということであり、「じゃあ、テメーがすれば?」という批判に晒されるのは必至だからである。
かくして、私はモラルは人には伝えられない、と思っている。モラルを強制するのは暴力である。私は他人に暴力を使えない。ただ、「でもね、そうしないとね、社会がね……」と内心思いながら「まあ、仕方ねえなあ」とか思う次第である。一人で勝手にやってるしかない。
教育とは、こうしたモラル、社会を成立させるモラルを植えつける暴力であるのだと思うのだが、どうも最近は、そうしたモラルは古臭いようである。そして家族も学校も会社も地域も、いかなる社会も破綻に向かっていると感じる。
まあ、それこそ、誇大妄想もいいとこだが……。ってのは、昔から人間ってのは自分勝手に生きてきて、それで、そこそこうまくやってきたんだろうとは思うんだけどね。現代と比べても庶民が昔から「自分勝手」であることは歴史が教えるところだ。
ま、私は一人で勝手に損をしながら、抽象的で偽善的な「モラル」を生きてゆくのだろうとか。
一応26年も生きていると世渡りというか処世術も覚えてくるものである。恥ずかしいのだが、最近はカワしたり、ナガしたりするセコい話術ばかりが発達してしまった。まあ、何かの役に立つかもしれないので、そんな話術の中でも常套句になっているものをまとめておくことにする。
ただ、始めに断っておくが、「セコい話術」という言葉からから期待するかもしれない「言い訳」は紹介しない。言い訳は駄目だ。言い訳はしてはいけない。「こんだけ悪いと思ってるんだから……」「だから誤ってるでしょ……」も駄目だ。ただ謝るしかないし、その上を考えなければならない。
勘弁してくれと言って勘弁してはくれないものだが、それ以上の追求を避けることができる。
結構逃げきれる。正直に「できない理由」などをでっち上げるよりは簡単である。言うまでもないが「うめあわせ」は別にしないでもよい。
ひとまず自分が相手の意見に対して否定的なのを波風立てずに伝えられる。次からは優しく言ってくれる可能性が高まる。
笑いながら冗談のように言わなければならない。「キツい物言い」を責めてるように取られたらアウト。相手に「そうか、確かにキツい言い方かもな」とふと思わせられる位に言うことがポイント。
他にも「イタタタタ」「ツメタ」などもあるが、相手が気になるような言い方をするならば言わない方がよい。
相手の譲歩を引き出す
人は何故だか沈黙を極度に嫌がるものであるから、有効に使えば簡易人心掌握術となる。勿論、忙しい時、周りが煩い場所では効果がないばかりか、逆効果になるので注意。相手と基本的な信頼関係があることも当然必要。
沈黙によって相手の緊張が高まり、相手が硬ばった顔から笑顔になりかけた位の時に言いたいことをストレートに言うとよい。沈黙が途切れたことの安堵が、あなたの言う内容の嫌な印象を消してくれ、話がうまくいく。
「やる気ある?」とか「なんで出来ないかなぁ?」に正直に答えるのは愚の骨頂である。相手は心情を吐露しているのであって、そうした発言で事実関係を確認したい訳ではない。
早急に相手の意見を受け入れることが大切である。更に相手の「怒り」を意見として「参考になります」などとリップサービスをした上で、感謝してしまえばよい。
更に、更なるおしかりを頂ければと言えば、普通の関係の怒りは止むはず。まあ、最後のはちょっと言い過ぎではあるが。
「なるほど」「確かに」「もっともです」「勉強になります」……全面肯定型の相槌。
お願いがしやすくなる。相手が断わりにくくなる。
いわゆる「よいしょ」である。特に「さすが」は使用範囲が広い素敵な言葉である。
しかも、手伝わせた上でよいしょして、お願いをしてしまおうという魂胆である。キタない甘えの技なのだが、これが上手くいくから面白い。人肌脱いであげて褒められた爽快感が、そのまま兄貴風となり、「おうよ、何でも言ってみな」という気分になるのだろうか。
男はいつの時代もベタに弱い生き物である。
「やっぱり○○さん、違いますね」というのもある。何が「やっぱり」で「違う」のかは誰にも分からない。
本書はスワミ・サッチダーナンダによる、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の解説書だ。『ヨーガ・スートラ』の全文が載せられていて、それぞれについてサッチダーナンダの解釈、解説が書いてある。この解説がなかなかで、神話や寓話も援用しつつヨーガの基本概念やスートラが意味することを説明してくれる。ヨーガを通じて平安な心を得たい人は是非よんでおきたい一冊である。
『ヨーガ・スートラ』とは
ヨーガ・スートラはインド哲学の1派であるヨーガ学派の根本経典。成立は2-4世紀頃。パタンジャリによって著されたとされる。とwikipediaにある(参照)。
ただし、パタンジャリがヨーガを"発明"したという訳でないことにも注意が必要かもしれない。
彼は既に存在していた思想と行法を系統づけ、編纂しただけである。しかし、以来彼は"ヨーガの父"とみなされるようになった。そして彼の『スートラ』は、現代に百花斉放しているさまざまなタイプの瞑想とヨーガすべての土台となっているのである。
体を柔らかくする体操としてのヨーガではなく、「心の科学」としてのヨーガが本書の内容である。
魂の科学としてのスートラの本文は
1. これよりヨーガを明細に説く。という具合でなかなか分かりにくい。それに対し、著者が分かりやすく、説明してくれる。
2. 心の作用を止滅することが、ヨーガである。
3. そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態にとどまる。
ともすると哲学的で何回な内容が、彼の具体的な話や、神話や寓話などによってほぐされ、心にすーっと入って来て、「いかに生きるか」「私とは何か」という問題に、明快な答を与えてくれるだろう。
「さて、その教えは?」ということになるが、誤解を避けるために詳しくは本書を読んで欲しい。が、それじゃああんまりなので一応抜書すると彼の中心となる主張は以下の通りである。
〈自己〉について語る聖典は、単なる知的理解のためのものだ。だが自我(エゴ)のための本当に実利的な真理は、非常に単純だ。ただ無私たることを学べ。献身的な生活を送れ。何を為すにも、それを他者のために為せ。献身する者は常に平安を享受する……。私が聖典についてあまり多くを語らないのはそのためである。私の学生たちはおそらく、私が『ヨーガ・スートラ』について本を書くことを望んでいるだろう。だから私はこれらのすべてを語ってきたわけだが、私自身としては、本当はわれわれには聖典は要らないと感じている。生活のすべてが開かれた書物、すなわち聖典である。それを読もう。(……)日々の行動から学べなくて、どのように聖典を理解しようというのだ?
誤解を恐れずさらに書くすると、本来の自己とは常に「目撃者」や「見る者」「知る者」であり、見られたり対象化されるものではない。その知る者以外は見られ、知られる自然であり、それは体や心を含む。つまり、心や体は「見られる」のであるから、本来の自己ではないのである。繰り返すが、本来の自己とは対象化される性格のものではないのである。
こう書くと、そうした自己に出会う方法はないように思えるが、私たちは常々自分を「知っている」と思う。これは心を鏡として自分を映しているからだと考えられる。ただ、その心という鏡は常に曇ったり歪んだりしているのが実情であり、本当の自己を正確には写せない。
そこで「心の止滅」が重要となり、戒めを守り、坐し、呼吸や心を整え、集中し、瞑想し、三昧に達すると本当の自己となるということである。そうすると、自己に知られる「自然」は、自己を鍛える必要がなくなるため、完全な平安になるということだ。
自己は「行為者」であることをやめ、気づき続ける「目撃者」となり、善悪を離れ、自由となるだろう。ただ、だからと言って心や体が苦痛を覚えない訳ではない(自己は苦痛から自由にしても)。それ故、苦痛を生まない行動を自然にする訳であるが、それは「個人的な期待のない無私の奉仕」である。利己的な行動は結局は必ず苦痛を生み、無私の奉仕は結局は苦痛から離れている。
"期待を伴う愛"が長続きすることは、めったにない。だから、苦痛なき思いに見える愛といえども、もしそれが利己に根ざしたものであれば、結局は苦に終わる。そうした無私の奉仕に生きる人にとって、人生とは「遊戯」となると彼は語る。一方、"怒り"のような思いは、はじめは苦しい。だが、背後に個人的な動機を持たない無私な人間の怒りは、はじめは相手に悪い感情を起こさせるかもしれないが、結果的には相手を正し、より良い生に導く。
ただし、
33 他の幸福を喜び 不幸を憐み 他の有徳を喜び 不徳を捨てる態度を培うことによって、心は乱れなき清浄を保つ。とあり、その解説に
邪な人々というのも確かにいる。それは否定できない。ではそういうときわれわれはどういう態度をとるべきか? 無関心である。「そう、そういう人もいるだろう。だが昨日の私もそうではなかったか? そして、今日の私は多少ましになってはいないか? その人も、明日には多少ましになっているだろう。」彼に忠告しようとするなかれ。邪な人間というものは、まずそんな忠告は取り合わない。彼に忠告しようとすれば、こちらの平安が失われる --ともあり、あくまでも怒っていいのは、教師や親など立場が上ということが確保されている場合以外には、慎重にならねばならないだろう。利己と無私を区別するのは、難しいのだから。
さて、あまり深入りすると泥沼なので、この程度にしておく。是非とも手にとって欲しい。ヨーガの真髄に触れられるかもしれない。
やはりインドは奥ぶかいと感じさせてくれる一冊。ヨーガに興味がある人だけじゃない。仏教に興味がある人、インドそのものにに興味がある人にとって、興味深い本であろうし、何よりも、生きることを悩める人には本書を通じヨーガの叡智に触れてほしいと願ってやまない。
著者の解説は分かりやすく、とても面白い。決して堅苦しい説明ではなく、ある意味気楽に読めるだろう。そして、その中には人生に対する教訓が豊富につまっている。ただ、無私に生きることを説くのは著者の解釈のように思えるので、他の人のスートラの解釈も読んだ方がよいかもしれない。
全体として考えると、いかにヨーガが仏教と近い場所にあったかを改めて感じる。ただ、それも他のインド哲学を知らない私には、詳しくは分析できない。機会があれば、他のインド哲学やヒンドゥー教の本も読んでおきたい。
それにしても、なぜ、インドはこんなにも深いのだろう?
マヌケなタイトルである。が、内容はよかった。
タイトルはマヌケだが、ビルは
対人関係法および効果的対人関係論コミュニケーションの専門家。この分野では合衆国を代表する精神医学の権威。ミシガン大学、カリフォルニア大学を卒業、現在はハーヴァード大学のフェロー(特別研究員)らしく、アンは
幸福かつ永続的対人関係に関する医療アドミニストレーターで、カウンセラーとのことで、肩書で判断するのもアレだけど、全然マヌケでもなんでもない。
更にタイトルにこだわってみると、原書のタイトルは"Dirty Half Dozen"とある。finalventさん曰く
原書の標題が"Dirty Half Dozen"とあるように、ラッパーならすぐピンとくるだろうが、"dirty dosens"(参照)の洒落だ。といっても、会話のノリの良さというより、この本では、悪口の言い合い状況への対処という含みがある。とのこと。wikipediaによると
ダズンズ(The dozens)とはアフリカン・アメリカン(黒人)の伝統、習慣のひとつ。観客がいるところで、1対1で互いに相手の母親に関する罵りの言葉を言いあって、先に怒ったり言い返せなくなったほうが負け、というゲーム。うまい人は尊敬される。目的は罵倒や喧嘩をすることではなく、馬鹿にされても怒らない精神力の強さや言葉の表現力を競うこと。フリースタイルのラップの源流といわれ、ラップの発展の一要素といわれている。(ダズンズ - Wikipedia)
この本は「そのダズンズを半分にしましょ」ということかな。んで、6コの法則を教えてくれるというわけ。本当は結構シャレた題名だったのである。が、まあ、日本文化で悪口を言うような芸能はないわけで、いい題名が付けられないのは仕方ないかな。
この6コの法則を導くため、ビルとアンは
長年、幸福に暮らしている夫婦を観察した。歳月とともに深まる幸福な仕事上の対人関係を維持している人々を観察した。長い間、幸福な友人関係を維持している人々を観察した。何がどのように行われるかを観察し、どんな行動様式が対人関係を支え、繁栄させるかを観察した。私たちは、永続する幸福な対人関係に共通して見られる要素や特徴を搜し求めた。そして、発見したのである。とのこと。決して、ただのボヤキではないのである。
薄い本なので一時間もかからず読了できると思うが、その6コの法則とは
書いてあることは、結構当たり前だったり、アメリカ人より日本人がフツーにしてそうに見える。しかし、どれも極めて「オトナだな」と感じさせてくれる。ちょっと常識とズレているが、「ああ、確かにな」と思わせる。それに文書にまとめてあるので、とても説得力がある気がして「やってみよう」という気にさせてくれる。案外「オトナだな」と感じさせる考えは、あまり文字にはなっていないものだ。
本はとても薄い。私はぶ厚いのがお好きなのだが、逆にこういう「実践的」な本は薄いのに限ると思う。厚い本だと、頭がゴチャゴチャしてしまうからだ。薄い本の、それも一部を一つずつ実践していくのが一番だと思う。この本でも、月曜日から土曜日まで一日一つの法則を実践し、日曜日はやすんで、また次の週に実践することを薦めている。いい方法だと思う。
そして目のつく所に置いておき、たまにパラパラとやって頭と体に滲みこませることだろう。
最後になるが、皮肉を一つ。
本書が提案している生き方は、そもそも日本人が特に好きなライフスタイルだったと思う。「ロマンス」と関係なく暮らし、対人関係上の摩擦を極度に嫌い、そもそも話すことそのものを嫌い、嘘も方便で、些事にうるさいと言えば、少し昔の日本人の典型である。
それをアメリカ発の文化(特に音楽や映画など)の影響で、日本人が次第に捨てていったものだと思う。恋もするし、自己主張もするようになった。つまり、日本人はアメリカの影響で意識して "dirty dozen" するようになったのだ言えないかと思う。いや、勿論「消費社会」「男女均等」とか色んな理屈もあるだろーけどね。
そう考えると、アメリカの学者さんに治す方法教えてもらうというのも……ねえ。
いや、いいものは、いいんだけど