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最近、とみに感じることがある。自分とは他者なのではないか、ということである。
「自分」が他者とは矛盾も甚だしく思うかもしれない。確かに矛盾かもしれぬ。ただし、自分が純粋な「観察者」であるとしたら、通常の「自分」とは観察対象に過ぎないとは考えられぬだろうか。観察する者が本来の自分であるのだとしたら、観察対象とは自分の外にあることになり、つまり、他者であることになりはしないだろうか。
例えば「お腹が空く」という状況があったとする。この「お腹が空いた自分」というのは、それが観察者によって気づかれた時に、観察対象になっている。ここで「分離」が起こるのである。また、足が痛い自分が観察された時にも同様に分離が起こる。「自分」の痛みではなくなるのである。
この分離に際して気づくのは、自分が何を思うのか予測も制御もできないということである。ふと痛くなり、気づいた時には痛さに埋没してしまうのである。分離して初めて埋没に気がつく。
自我に埋没している時、「気づく者」はいない。自我とは欲望である。欲望の去来を気づく者は予測も制御もできない。気づく者にとって、欲望たる自我は他者であり、予測や制御の外にある。ただ、分離によってのみ、欲望は消える。
欲望の担い手として仮想されたもの、欲望の結節点が自我である。ここで、欲望とは何かを入手しようとすることだけを意味するのではない。怒りも、何かを排除したいという欲望である。誠に、人間は欲しがるか怒るかの欲望に捕われ続けるのであり、その欲望の「主体」が自我という仮想である。つまり、自我とは欲望の結節点として仮想されたものに他ならないのである。
そして自我の欲望とは、気づく者の欲望ではない。欲望は我々に与えられる。気がついた時には、没入してしまうのが常である。それは外部からやって来ているのだが、気が付けない。
自分とは、他人との関係の中で定まる一つの「仮面」を持続的に呼んだものである。人との関連の結節点を持続的に名付けてものである。そうした他者の関係のなかで欲望が伝染される。他者の欲望に従うことで、自分は仮想される。
対象化できない、ある出現し続ける持続そのもの、つまり世界を世界たらしめる「連続した(?)」一瞬。