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久々に野口晴哉『整体入門』を眺めていると、こんな文にぶつかった。
感情が高まってきた場合に、そのままにしておけば体に異常を起こす。そこで自然に泣く、怒る。そういうようなことも活元運動の一種で、昔々は今のように泣くとか怒るとかいうのがけっして悲しいとか口惜しいとかの表現ではなく、その人が自分のエネルギーの鬱散のために、怒ったり泣いたりしていることがあったのだろうと思います。
最初は身体反応しかなくて、「感情」なんて呼ばれるものは無かった、そして、次第に特定の身体反応が多くなり、また会話も増えたので「感情」という観念を生んだんじゃないかと考えた。と書いたが、「怒り」の問題はどうも奥が深そうだ。
「怒る」という身体の反応、その状態と、表現を考えねばならないし、その中間にあるらしい「感情」ということも理解しないといけない。
問題は、「怒る」という「身体動作・反応」が、どこからどこまでで、どこから先が「表現」としての「怒り」になっているのかだろうか。また、「身体動作・反応」を引き起こす「身体の状態」も怒りと呼べるだろう。
ちょっと簡単に分けて考えてみる。
- 「怒る条件」…敵対状態の出来など
- 「怒りという身体状態」…血圧上昇、筋肉硬直、アドレナリン分泌など
- 「怒りという身体動作」…目が見開く、肩がいかる、腹が硬直するなど
- 「怒りという表現」…悪口、暴力など
私が思う「活元運動としての怒り」とは3を指す。2までの状況を3の動作をすることで解消するというわけである。また、怒声や暴力も喉や筋肉の緊張を解消するだろうから3に入れたいが、4との線引きが微妙である。
「怒るのを我慢する」というのは1-3まで起きたのに4をしないことだろう。また、本当に「怒らない人」というのは1を認識しない人なのだろう。というのは、1になれば2になるのが人間であり、それを3で解消しなければストレスが残り体に毒である。本当に怒らない人は、怒らないことでストレスが溜まらない人なのだから、2になってもいけない。
さて、問題は、この、どこに「怒りという感情」を置くかである。普通に考えると、3の前後になるだろうか。
うーん、よく分からないな。まあ、メモということで。調べれば、きっといい文献があるんだろうし。
関連ページ
怒りを受け入れること[書評] なぜ私だけが苦しむのか / H.S.クシュナー