2007-08-23

自我に関する雑感(1)

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自我とは、他者との交流の各場面場面において、他者からの欲望という形で強要された諸々の「人格」の思考の中にのみ存在する結節点であると、現在の私は考えている。

我々は振る舞う。どこで? それは他者との交流の場においてである。その場において、登場人物は意識的にしろ、無意識的にしろ、相互の欲望を察知しつつ、各々の「役割」を振る舞う。その振舞いが固定化し、持続的に振る舞われる時に、「人格」「人柄」として自他共に認知する。その、様々な場における様々な人柄の、仮想的な結節点が自我と呼ばれる仮想である。

自我に本質は存在しない。自我とは振舞というプロセスの結節点に過ぎない。言わば、流れる川の泡である。泡の振舞いを規定するのは、流れる他の水である。泡の本質、つまり泡の振舞を決定する要因は泡の内部には存在しない。流れる他の水に、泡の振舞を決定する要因があるのである。流れる川の泡の本質が存在せず、その振舞が外部に決定されているのと同じように、我々もまた内部には本質を持たず、ただ外部の決定の内にのみ振舞の源泉がありえる。

それでいながら、泡と我々とは異なる。それは私も認める。我々は主体性を持つ。この主体性において生命の本質があるとも言える。

主体性とは、自己の環境を知ることである。環境を知ることで振舞を変えることである。もし、何かを「知った」のだとしても、振舞に何らの変化もなかった場合には、それは「知った」ことにはならない。それは「情報」ではない。

我々は「環境」を「知り」、「振舞」を変化させる。そして、その振舞の変化において、我々は内部に独自の計算不可能性を持ち続ける。これが主体性である。

では、何故、私たちは「知る」ことで振舞を変えるのであろうか? いや、知ることとは、そもそも何なのだろうか。

このことは「想起」の問題につながる。

ここで、記憶であれ、閃きであれ、気づきであれ、我々の内部から湧いてくるそれらを「想起」と呼ぶことにする。想起によって、我々は目の前の状況からの直接の経験以外の情報を獲得できる。そのうちのあるものは言語的であるし、あるものは非言語的である。

直接に与えられた五感の情報以外の、恐らくは「記憶」と呼ばれる機能に多くを負っているであろう、この想起こそが、主体性を理解する鍵であると私は考えている。

ここで、「知る」こととは、「その場」以外でも、「その場」を想起できることである、と私は考えている。想起において、我々は経験を反復し、行動を変化させるのである。もし、いかなる意味でも想起がなかったとしたら、記憶することや、経験することは、私たちの行動を微塵も変化させないであろう。いや、そもそも「想起が可能」であることを記憶といい、学習といい、経験と呼ぶのである。

そして、興味深いことに、我々は「想起」をコントロールできない。天のインスピレーションが芸術を生むかと思えば、固定観念が人を精神病にするのである。この、想起の問題において、私は主体性が辛うじて存在しえるのではないかと考えている。

なぜ想起できない想起において主体性が保持されると考えるかというと、まず、第一に我々には完全に制御可能なものは何も与えられていないことがある。「したいまま」に暮らすのが自由かというと、それは単に肉体という他者の奴隷になっているのみである場合が多いと思う。その場合、主体性は存在しない。

主体性が「知る」ことに存するのは、この意味においてである。「知る」とは、あることを「想起」することで、「振舞」を変化させることである。そして、この想起の仕組みは我々の理解の外にあり、我々がしかるべき時に、何を想起するのかを我々は決定できない。しかしながら、我々はそうした想起を、完全とは呼べないまでも制御することができる。つまり、常に念じるという行為によって、我々は他の想起を遮断しつつ、特定の想起を存在させることが可能と想われる。

事実、多くの場合、我々は持続的な想起の中で暮らしている。