2007-12-09

私の風呂のつかり方

私は風呂が好きである。

しかし、温泉や銭湯の類は好まない。他人がいては、私にとって満足な風呂の浸かり方ができないからである。

私は湯船に頭までつかる。嘘ではない。本当に頭まで浸かる。天井を向いて、そのまま沈むのである。呼吸の必要があるので、結果として口と鼻だけを出して、あとは目も耳もお湯の中である。頭は湯に浮くので、首の力を完全に脱くこともできる。

こうして湯の中に口と鼻以外浸かると、頭皮や顔面が温まり、緊張が取れやすい。湯の中で軽くマッサージすると尚よいだろう。私は割に「ほんわり」とか「ぼー」っという状況を経験しない人間だが、この浸かり方をすると頭も顔もほかほかなので「ほんわか」とする。顔の緊張を取るために蒸しタオルなど使っているのなら、この入浴法を試すとよいと思う。

しかし、これはいくつかの手順を踏まないと、極めて迷惑な浸かり方である。なにせ頭皮が湯に入るので、髪が抜けやすい。だから、髪を拾うことにしている。加えていえば、髪が汚れていたら湯を汚してしまう。だから、頭を湯に浸ける前には頭を洗うか、最低限、濯がねばならない。

また、危険も多い。まず、何かの拍子に体制を崩すと、逆向きになった鼻の穴に湯が流れ込む。ほぼ拷問である。加えていうと、目を閉じている訳で、仮に寝てしまったとすると大変なことになるだろう。注意が必要である。

私の入浴はこれに終わらない。更に私は顔から潜るのである。さっきのが「仰向け」だったので、「俯せ」になるのである。

だいたい 5-8 秒ほど吸気して潜り、10-16秒ほど息を止め、20-32秒ほど息を吐く。これを何セットか行う。静かに潜る時もあれば、湯の中で魚になった気分でうねうねと体幹を動かしたりするときもある。

まあ、大体この二つは湯船でやることだが、他には冷水を浴びたり(小五〜高一までは毎日やっていた。高一の時、健康診断で不整脈が出たのでやめた。でも、最近は再びやるようになってきた)、湯に打たれながら前屈をしたりもする。前屈して伸ばした背中にシャワーを当てると気持ちいいのである。

こうしたことは、もしかしたら体に悪いのかもしれない。よく分からないので、真似しないことをおすすめする。

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2007-12-05

信と慈悲と

信と慈悲は対立する。さて、私はどう考えればよいのだろうか。

そういえば何か似たような問題を書いたなと思い、ブログを検索する。 清沢満之「我信念」を読んでというエントリが見つかった。4月29日。随分と昔に感じるが、7ヶ月ほど前なだけなことに驚く。少し読んでみて、色々と思い出す。

かつて、私には信があった。信とは何か? 信とは、論理を超えて、己を圧倒する何者かである。更に言えば、私にとって信とは……まあ、それはどうでもいいが。

そして、私は慈悲に悩んだ。惻隠の情に悩んだ。哀れみの心に、同情に悩んだ。

いま私は思う。本当の慈悲とは、信から導かれるものでなくてはならない。いかなる事情であれ、信とは、全うされねばならない。信と慈悲とが対立した場合、信こそが優先されねばならない。

慈悲とは感情である。感情であるが故、部分最適化した行動を取り易い。全体での最善を逃す可能性が高いのである。優しさか、甘さかを判別することは難しい。慈悲を重視した場合、筋が通らなくなる。人が与えられる優しさには限界があり、優しさが必要な人は無限にいるのだから。

原則を重視する必要性を私は考える。部分最適ではなく、全体の最適化を達成するような思考を重視したい。そうした「線」を引くことをしなければ、予測も見込みもないままに、感情に流されていってしまう。そして、そうした原則のない行動は、結局は人から見てさえ良いものではない。つまり、優しいのではなく甘いということになる。結局は誰の利益にもならない。

時間の消費の目処や見通しを持って生きねばならない。確保しなければならない投資には、何があっても投資しなければならないし、その投資を守りぬくためにもリスクは充分に想定しておき、バッファを確保する必要がある。

原則に忠実であることが真に誠実かと思う。誠実とは何にも勝る。本当に「忍びない」とき、それでも信念を貫くか否か。それが本当に忍びないのか、それが本当に自分の信念に誠実な上での行動なのか。そうしたことを鋭く問いながら、生きねばならない。

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