2008-02-08

中学生の部活

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 なんだか中学生の頃の話をしたくなった。アホだな、俺。

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 僕は中学生になるとギターの部活に所属した。複数の大きさのギターを使い、ギターの合奏をする部活である。まあ、そういうテクニカルに細かいところはどうでもいいだろう。通常のオーケストラや吹奏楽部のようなものだと考えてくれて構わない。

 そこに所属した理由は、中一の始めの部活動紹介の集会での演奏が素晴らしかったことがあげられる。ライブで打楽器や低音の弦楽器の音を聞くのは初めてであり、僕はとても感動した。

 また、そこにいた先輩たちに惚れたというのがある。ちなみに先輩の大半は女性であったので、この場合の惚れたはそのまま惚れたととってもらって(つまりスケベな意味で)かまわない。事実、女だらけのこの部活に、僕の代には男がぞろぞろと入部した。まあ、中一のガキにとって中三ってのは大人に見えるわけで、性別を越えて惚れたととるのが妥当だとは思うが。ただ、やはり美人が多かったのは認めざるを得ない。男はアホである。

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 練習は厳しかった。たぶん入ってきた男はマゾだったんだと思う。年上の女の先輩にしごかれながら僕らはギターを弾けるようになっていった。

 僕は下手くそだった。そうもう一人の重要な友人であるYも下手だった。それだけに僕らは練習をしたが、二人とも不器用だったのだろう、同じ歳の女の子よりも明らかに演奏は劣った。

 部活動は女だらけであり、女だらけ故の様々な問題に満ちていた。複数の仲良しグループによる主導権争いである。なにせ気性の荒い女性だらけだった。特に、先日亡くなったOGの先輩が講師と付き合っていて、それがまた色々と言うものであり、それに反感を覚えたある先輩が匿名で抗議の手紙を出したりして、まあ、事態はとんでもないことになっていた。まあ、ひどいもんだった。うちの部活は顧問が一度も来ない変な部活だったので(この人も二年前に逝った)、争いは当事者同士で解決しなければならなかった。

 とてもユニークな女性が集まる部活であり、皆、当然に中学生なのだが、駄目な男と別れ子供を女で一つで育ててそうな人や、おっさんをちょろくだましてそうな女性がいた。まあ、実際、テレクラに電話しておっさんを駅に呼び、それを遠目に見て馬鹿にするということは普通に行われていたように思う。音楽好きが多かったので、皆で集まってガンズやニルバナのビデオを見たり、ライブのチケットを取るのに奔走したりもしていた。

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 まあ、それでも部活は秋のコンクールへ向けて日々争いの中、練習を続けていった。

 そう。秋にあるコンクールでは、僕は大太鼓だったことも書いておく。ギターを弾かせてもらえなかったのである。ただ、講師は大太鼓の重要性を語ってくれ(一般の人が思うより、打楽器の影響は大きい)、まあ、僕はそれなりになっとくして大太鼓の重要性を認識し、練習に励んだ。ただ、父親は「なんだ、あんだけ練習して、ただの太鼓か」と馬鹿にして、僕は泣いて悔しがった。

 練習は深夜に及んだ。というのは嘘だが、十時すぎぐらいまではやっていたんじゃないかと思う。大会の前日の練習で「矢野。なんであんたは弾けないの?」と二人の二個上の先輩は泣いた。僕はあるフレーズを弾けなかったのである。そうそう、僕は自由曲では太鼓だったが、課題曲ではギターを弾けたのである。中一の男にとって二歳年上の女が泣いているのはつらい。でも、僕は何度やっても弾けなかった。そりゃ、僕も泣いたよ。

 まあ、そんなこんなで秋になり、僕の部活は関東大会を順調に勝ち進み賞を獲得し(そのときに僕の彼女が僕ではない男に抱きついたことを僕は未だに根に持っている)、皆は大喜びをして調子をこいて、一ヵ月後にあった全国大会では惨敗した。

 皆、泣いた。そして二個上の先輩は引退して秋は終わった。僕はこの大会でしっかりと金賞を取り、先輩たちに恩返しをしたいと決意した。

 僕とYは、冬の間に練習し続け、春にはかなり弾けるようになっていた。新入生が入り、心機一転して秋へと向かうことになる。

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 僕は厳しく後輩を指導したが空回りだった。彼女らをよく泣かせた。すまないことをしたものだと思う。しかし、そこで僕は心を鬼にすべきと勘違いし、更にわが道を突き進んだ。当然に後輩に嫌われるのはもちろん、先輩とも対立を深めた。

 独りよがりで傲慢に僕は突き進み孤立を深め、その根拠をギターの演奏力に置いていた僕は更に演奏に磨きをかけるべく精進し、更に孤立した。先輩でも俺より弾けないんじゃ偉そうなこと言うな、という感じである。指揮者になり、演奏上の責任者になってしまったのも偉そうになった原因である。

 そんなこんなで私は年上と対立しつつも、秋のコンクールが終わり、彼女らがいなくなると自分が部長となった。講師が指揮のときはコンサートマスターとなり、いないときは自分が指揮を振るという具合で、完全に独裁者として君臨した。Yは副部長となった。

 僕はかつかつ音楽を勉強した。また指揮やギターの練習に余念がなかったことは言うまでもない。ただ人はついてこなかった。いや、いま思えばよくやってくれていたのだが、当時の僕の要求は高すぎた。僕は空回りし続け、一人もがきあがいた。よくYにあたった。

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 三年生となり、更に新入生を迎え、秋へと向かった。繰り返すが、僕は金賞をどうしても取らなければならないと考えていた。一つの大きな理由に、うちの部活の存在が不安定だったことがある。顧問が様子を見に来ず、外部から週に一回の講師を迎えているうちの部活はどう考えても変則であり、学校の教師からは批判的に見られていた。「賞を取らなければ存続が危うい」などと教頭などに折に触れて言われた。僕は先輩から継いだ部活をどうにか存続させねばならないと考えていた。

 僕の要求は高く傲慢な物言いばかりであり、空回りが続き、僕はあせり続けた。ミーティングという名の言い争いに、僕は何度もへとへとになり、何度か自暴自棄になった。胃を痛め、頭痛を抱えた。酒を飲み、女性の優しさにすがった。

 僕は常に精神論に走るタイプであり、音楽というものも極端に精神的に捉え、それを強要していた。中学生というものは無知であり、それゆえに純粋なのである。剃刀のように真っ直ぐに切れれてゆくが、脆く折れやすい。

 そうこうしてコンクールとなった。そして、望みどおりの金賞を掴んだ。快挙であった。僕は責務を成し遂げた。ほどなくして県知事賞だか教育委員会賞だかももらい部活の存在は安定した。

 しかし、僕はちっとも嬉しくなかった。自分にその賞を受け取る資格はないと感じた。たぶん、その前に、僕は何かが折れてしまっていたんだと思う。受賞後に皆が喜ぶ中、僕は陰鬱だった。いらつきながら、僕は一人でホールの窓から月を眺めた。あほだな、俺。

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 結論から言えば、僕は寂しかったのだと思う。彼女たちは練習し、彼女たちは演奏し、彼女たちは受賞して、彼女たちは喜んだ。僕はそこにはいない。僕はその外にいた。そして、その空虚さにすっかりやられてしまいながら、一方で傲慢さが、強がりが僕の心の叫びを押し殺したのだろう。僕は寂しくて泣いていたのではないだろうか。たぶん、そんな気がする。

 いま考えると、僕は皆と仲良くやりたかったのだと思う。結局、僕の「精神的」というやつは妄想もいいとこだった。これは自虐でもなんでもなく明らかな事実である。ありえない何かを追い求めていたのである。

 僕はとても不器用だった。僕は生意気で傲慢で強がるのだが、結局は寂しいのだと思う。全くお粗末な話である。ただの頑固じーさんである。人とうまくやれない自分が情けない。

 抽象的なものに走らず、しっかりと目の前の人間に優しくすることを大切にしていかないといけないな、と思う。