目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。
この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。
目下ストレートに答えておきたい問題があります。しかし残念ながら、それはまだ今の私の手には余る作業です。そこで、それは置いておいて、少し回り道を書いておきます(昨晩、水村美苗『日本語が滅びるとき』買ってきたので書くかもしれません)。
この文書で私が言いたいことは、明治の文豪はまさに今、読むに足る面白さを提供しているということです。
去る10月26日、NHK教育テレビの「ろうを生きる 難聴を生きる」を偶然みました。そこでは、京都大学の河原達也 教授による「音声認識技術のノートテークへの適用」が紹介されていました。河原先生が話すと即座に音声認識されてスクリーンに文字が表示されるのですが、驚いたのはその認識精度の高さでした。全く普通の話し方で、見たところ完璧に認識されていたのです。
「ノートテイク (Note-take)」とは「大学などでの講義で聞こえる人が聞こえない学生の隣に座りノートを取ること」だそうです。聾者にとっては聴覚情報は摂取不能ですから、即座に視覚情報に変換することで、リアルタイム性を損ねることなく講義に参加できるというのでしょう。ただし、この変換を人間が行うのはコストが掛かる筈です。だから、マシンで行いたいというコンテクストでしょう。
講義の音声情報を文字情報に変換するというのは大変なことです。講義では、専門用語が飛び交うために辞書の充実も必要不可欠という悪条件です。話者の発話モデル構築のための準備時間も取れないでしょうし、学生の質問もあるでしょう。人によっては方言がまじったり、言いよどんだりすることが起こるはずです。更には部屋のノイズも多いはずです。これらの条件を全てクリアして初めて、聾者が不自由なく使える「実用的な技術」ということになるのです。
音声認識技術は講義に限らず、様々な分野で聴覚障害者の助けとなることと思います。今後、裁判員制度などでも活躍することでしょう。更に聴覚障害者以外にも、音声入力が普及するかと思います。日本語をローマ字で打ってスペースを押して変換するというのは、連続すると結構なストレスだと私は思います。
この技術は「完成目前」とのことでした。河原教授のシステムは、テレビを見るかぎり、悪条件の中、素晴しいと言うしかない精度で音声を認識して文字列を表示していました。かな漢字変換の能力だけを考えても凄いと感じました。ちなみに、サイトは 京都大学 河原研究室 だと思います。
このシステムには非常に興味があるので、もし情報をご存知の方がいらっしゃたら教えて下さると有り難いです。
また、この番組は 31日(金)昼 12:45〜13:00 にも再放送があるようです。「今 ノートテイクを考える 〜 2008ノートテイクシンポジウム」という番組です。チェックしてみて下さい。(詳細は NHK のサイト参照)
音声認識ソフトで入力すると様々なことが見えてきます。私たちが文字を書いているということは一体どういうことなのかを考えさせられます。
通常は文書を書くときには紙に手で文字を書いています。すると文章とは手で書いているという感覚におちいることがあります。キーボードで入力していても手で書いているという感覚は似ています。
しかし、こうして音声認識で書いていると手で書くという感覚は起こりえません。しかし、だからと言って口で書いているという感覚も起きない。
では、どこで書いているのか?
その答は、文章は「目で書いている」という感覚です。
書いた文字を目で見ながら、次の文章ひねり出しているのです。おそらくそうした書かれた文字を見なければ、次に書く文章は変わってしまうことでしょう。音声認識で書くとこのことに一番気づかされ、驚かされるほどです。
だから文書の書かれる視覚的なインターフェースが重要だということです。もしかしたらキーボード、万年筆、毛筆、紙という触覚上の違いよりも、視覚上の影響の方が大きいのではないかと考えてしまいます。
縦書きと横書き、手書きとパソコンでの違いは触覚だけでなく、こうした視覚上の違いもあるのかもしれません。
音声入力ソフトで書いていると普段とは異なった体験が味わえます。それはいままでの「書く」という認識を変えるものと言えるほどです。
キーボード入力に自信がある人にも、Dragon Speech は本当におすすめです。
homme de lettres (文の人)と呼んだ。そんな彼の言葉は、文章を書く人の良いヒントになると思う。
本屋に行くと文書はA4一枚でまとめろという本が多いことに気がついた。これは文章の文字数と時間の関係でも書いた「短文」ということになる。
そうなると通常のビジネス文書は、書くのに40分、読むのに音読で3分 or 黙読で45秒 or 速読で3秒ということになる。
これは実感としても分かる気がする。書くときには調査や構想などは別として純粋に執筆だけに40分以上はとっている。また、人の文書を読むのも「じっくり」なら3分、普通で1分弱、ぱっと見なら数秒というところだろう。これは誰でもやっていることだと思う。
そういえば社会人として初めてレポートを書いたとき、10枚くらい書いてしまい、えらく怒られた記憶がある。「1頁しか読まないよ。あとはポイだ」とマーケティング畑出身のチームリーダーは教えてくれた。そのTLは丁寧に机にレポートを叩きつけ、ゴミ箱に放り込んでくれた。これはとてもいい刺激になった。その演技力にもしびれた(皮肉じゃない。時に人は演技を通じてメッセージを強く伝えることができる)。
「短文」が必要な場所に、私は「長文」を書いたということだ。これはルール違反であり、論外だ。量より質とはいうが、量の条件を違反すると質の審査すら受けてはもらえないのだ。
さて、一方でプレゼンは時間にして20分以上やっているので「長文」ということになるのだろうか。長くても40分以上はやらない。でも、僕の感覚から言うとこれも短文な気がする。
と、ここまで書くと、いままで字数で考えてきたけれど、どちらかというと文書の構造が二重になった文が長文と考えるべきかもしれない。同じ階層の見出しだけが並ぶのが短文、見出しの階層が二段構えになったのが長文。そして、その字数が1500字とか1万5000字とかいうことなのかもしれない。まあ、今回はこんなところで。
啄木の歌はひやりとさせるものがある。
どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな やや遠き ものに思ひしテロリストの 悲しき心も 近づく日のあり 誰そ我に ピストルにても撃てよかし 伊藤のごとく死にて見せなむ
更に「ココアのひと匙」という詩は:
われは知る、テロリストの かなしき心を―― 言葉とおこなひとを分ちがたき ただひとつの心を、 奪はれたる言葉のかはりに おこなひをもて語らんとする心を、 われとわがからだを敵に擲げつくる心を―― しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。 はてしなき議論の後の 冷めたるココアのひと匙を啜りて、 そのうすにがき舌触りに われは知る、テロリストの かなしき、かなしき心を。
そして5節では、その戦略が考察される。彼はまず以下の三つの失敗を検討する:
以上の失敗の上から、啄木はこう言う:
我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実——「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
そして、その運動の中で、文学の精神が復活するのではないかと結ぶ。
文学——かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
文体形成における手書きとパソコンについての妄言。
手書きもパソコンも関係ないという意見がある。どちらも同じ文書が出てくるのだという。
それはある意味でそうなのだろう。文体にたいして特に意識のない人、あるいは既に自分の文体が確立している人は、手書きであれワープロであれ関係ないのかもしれない。この点に僕は触れない。
しかし、文体の確立過程をパソコンで行った者はそれが分かる気がする。あるいは最初の創作をケータイで行った者にも言えることだ。彼らの文章からはカタカタという音が聴こえてこないだろうか。例えば、僕はある芥川賞作家の文章を読むと不意に IME の変換ウィンドウが目の前に見える気がする。あるいは、いくつかのライトノベルはワードの画面がちらついてしまったり、ケータイのボタンの触感が浮かんでしまったりする。
これは、ただの妄想だろうか。恐らく妄想だろう。その作家がパソコンで文書を書いているかどうかを僕は知らない。もしかしたら手書きなのかもしれない。文体形成が手書きだったのかパソコンだったのかも分からない。古典を模す文体が、その当時の人々とは少し違っていて、それが結局、僕に違和感を与えているだけかもしれない。
また僕はラノベをよく知らない。現代の人の文体というものそれ自体が、僕にはワードやIMEの変換ウィンドウやケータイのボタンという質感を与えているのであって、全然、文体形成とは関係ないのかもしれない。その可能性は十分にある。
それでももう少しだけ言うのならば、古典を模したような小説には「不道徳」という印象を受けた。いや面白いことは面白い。別にそれはそれで問題ない。ただ違和感がある。ある種のジャンル小説としてなら十分といえる。
たとえばある小説では「未知」なるものは語られないように感じた。既視感。この物語で語られることは予め知っている。胡蝶が誘う夢と現の世界。夢で出会う女。幾ばくかの迷信と伝承。僕にいわせれば、それは文藝というよりは純文学的というジャンル小説なのだ。
そこに疑問が残る。その疑問を紐解いてゆくと「不道徳」という言葉が出てくる。これはどういう意味だろう。いや面白ければそれでよいのかもしれないが。実際最後まで読ませてくれたわけだし。
私は日本語について無知なのでよくわからない。それでも、この小説が持つ、ワープロでカタカタと変換されてゆく字句の気持ち悪さを感じてしまう。言葉が紡ぎだされていないと感じる。しかし、これは僕の妄想なのだろう。もし、本当に僕の感じた違和感が存在するのなら、こうしたことをそれなりに実力のある作家なり編集者なりが注意するのだろうから。
しかし、更にもう少しだけ言うと、最近の何人かの《文藝》は悪戯を感じる。悪戯にはやっていいものと悪いものがある。これは人を騙しおおす可能性があるので、やらないほうがいい悪戯だと思う。
それに引き換えると、正面からワープロの文体であることを自覚している作家のいくつかは肯定できる。つまりラノベはラノベでいい。少なくとも彼らには不道徳という印象はない。彼らは、それでしか語れないような表現を為しているように思う。
こうして書いているとクンデラか誰かの言葉を結局は思い出す。たしか、新しい実存を描き出さない文藝は不道徳だというような言葉だったと思う。そういうことなのかもしれない。
ブログについてちょっとだけ整理したくなったので書いておく。
ブログと一言で言っても様々な機能があり、様々なことを実現していると思う。いまちょっと考えても以下のことをブログは実現している。
digi-log は極めて 1 の傾向が強いながら、「読まれている」という意識が強まると 3 の傾向も持ってきたと言えると思う。最近は明らかにdigi-log: 匿名で書くこと で書いていたような気分では書いていない。
最近は「読まれていること」を意識してしまっている。誰かが読むのだから自分の考えを伝達したくなる。ただの繰り言を綴るチラシの裏や便所の壁であるより、ある程度の文書を不特定多数に簡単に公表する手段として、僕はブログを捉え始めている。こうして digi-log は、内面の吐露の記録ではなくなりつつある。
なぜか?
一つには、ネガコメが怖いからだろう。外面的な話のコメントというのは動揺を与えない。例えばどこかに行ったとか買ったとかいう話にネガコメを受けても大した衝撃にはならない(というかネガコメ自体しにくい)。それが内面の話になるとネガコメが気になる。だから次第に内面の吐露は減ってゆく。
結局、ネガコメに負けてゆくということになる。それでよいのか。いいのだろう。分からないが。
いや、別にネガコメだけじゃないのかもしれない。ポジティヴなコメントを貰えれば嬉しいし、アクセスがあれば嬉しい。こうした読まれていることへの反応が、このブログに質的な変化を与えた。
つまり、ただの「書きたい」という欲望だけで存在したブログが、次第に「読まれたい」という欲望も備えていった。後戻りはできないと思う。ここの二つの欲望のどこかで僕はバランスを保つだろう。それがこのブログのこの先の性格を決める。
僕は以前、全然別のブログを自宅サーバでやってた。YahooBBのADSLでDynamicDNSで。ApacheとかMTとかをGentooの上で転がしてた。
テーマは政経的時事ネタとパソコン関係だった。結構いい調子になってガツガツ書いていて、ある日アクセスが高まりサーバが落ちたりした。政経というのは人が集まるもんだと思った。それでなくてもアクセスが多くなると部屋にあるパソコンがうるさいし、夏には暑くて仕方なかった。ネガコメは勿論、スパムもウィルスも飛んで来たしアタックも受けた。僕はたまに本気で頭に来たりした。そう、予想以上にブログは時間も精神的エネルギーを奪うものだったのだ。
僕はブログをやめた。そして、そうした反省から digi-log にも時事ネタを書くことは避けた。丁寧にコメントに対応することもやめた。いらないコメは容赦なく削除するようにした。
ところで先日、以前のブログのエントリをいくつか目にしてみた(印刷してある)。そうするといろいろと考えさせられた。自分の考えというものは結構変わってくる。それを過去のブログが教えてくれるものだと思った。
僕は紙に色々と書く人間だ。しかし時事ネタのことを書くことは殆どない。時事ネタはどうせ時が過ぎれば興味が失せるから書き残すというモチベーションが湧いてこない。人と話すときのネタになるだけで、後から参照すべきようなものではないと考えてしまうのだ。
だから以前の時事ネタについて書いていたブログの過去ログはとても面白かった。誰かに見せることが前提になる文字にしなければ、こんなに色々と考えなかったと思うのだ。
それは役に立つのか?
イエス、と僕は思う。ただ自分だけに語りかけるよりも、人に語りかけている文書を持っているということは、自分の思わぬ面を自分に見せてくれる。だから、人に読まれることを前提とした文書を書いてゆくのも悪くはないのかもしれないと思った。
コメントにはスルーを前提にしてしまえばいいと思うようにもなった。たぶん「いい人」をしていると何の対価もないブログなんてやってられないのだから。そして元々の内面の吐露は、別のブログや紙にひっそりと書いておくことにしよう。それが元々の姿というような気がする。
祖母の言葉を思い出していたら(祖母の知恵)、戦争について書いてしまった。
昭和20年3月10日、電話交換手だった祖母はその夜のうちに32人の同僚の内28人を失った[1]。逃げることもできなかった彼女たちの焼け焦げた死体は消し炭のようであり、財布のがま口で死者の数を推定せざるを得ないほどであったという。
彼女たちは逃げられなかった。通信網が機能するうちは、逃げることを禁止されていたからである。当時の電話は、機械ではなく人間が一々接続作業をしていた。だからシステムが生きていたとしても、人間が逃げてしまっては通信が出来なくなってしまう。軍や政府にとって通信網は生命線である。電話交換手が「最後まで」業務を遂行する必要があったのだ。
飛来するアメリカ軍に対し、日本側の迎撃も虚しく東京の通信網は1時間後にダウンする。
そうして祖母が逃げられる頃には、周囲は完全に火の嵐となっていた。煙は成層圏にまで届き、風速は25mを越えたという。
多くの者は逃げることを諦めた。バラバラになって路上で死ぬよりは皆と一緒になって死ぬことを望んだのだらしい。しかし、私の祖母とその友人は、その嵐に向かって飛び出し、かろうじて生き伸びた。生き残った彼女たちは遺族に「何故あんたたちだけ生き延びた?」「逃げたのではないか?」と恨まれた。
敢えて言うが10万人が死んだ夜だ。彼女だけが特別ではない。そして、こうした悲劇も、空襲のあった街ならばどこでもあった話と思う。そう、そんな彼女たちの話はこんな絵本にもなっている。よろしければ手にとってみて、子供にでも与えてやって欲しいと思う。
この文も彼女の戦争には何ら触れていない。ただの「それらしい文」の羅列である。自分で言うと自虐なんだかかえって傲慢なんだか分からないが、ゼロ点である。彼女の戦争はこんな文では一部分も描けていない。
幼ない頃からこの絵本を読んで育ち、種々の体験記を読んだ上で、かなり大きくなってから祖母に本腰を入れて話を聞いた際に、本の印象と彼女そのものの戦争が大きく異なっていることに戸惑った。どう違うのかを書くのは難しい。そもそも、この文そのものが、既に欺瞞に満ちているようである。
彼女だけではない。以後、何人かの戦争体験者とも話した。そして本も読み続けた。それでも、本で語られる戦争と、体験者が語る戦争は違うのである。別に作者の能力がないとか、捏造をしているとかいう訳ではないだろう。それでも、明かに何かが抜け落ちているのである。
私は体験者が語り開きつつある空気を信じる。いや、語り開きつつあると私に感じられた空気を信じる。私にとっての彼らの戦争とは、本が伝える戦争とは異なるのである。体験者が自ら筆を取り、真に語ったとしても抜け落ちるものがあるのである。そうとしか私は思えない。決定的な空気の質の差があるのである。
私は悩んだ。そして、ある程度の「結論」のようなものが出てきた。試しに書いてみる。書いている内に答えも深まるかもしれない。こんな話、誰にもしていないのだが。
ある意味で常識的なことだとも言える。「文体」や「文藝」が邪魔をしてしまうのだろうということである。書かれる以上、文藝的であることを避けられない。しかし、日常としての戦争、あるいは戦争としての日常を描くには、通常の文体は、あまりに文藝的すぎるのであろうか。そう。あまりに文藝的過ぎ、劇的過ぎるのである。
戦争としての日常は、人の死を劇的に描かないことでしか成立しえない。しかし、人の死をいかなる意味でも劇的に語らずに物語は語られうるのだろうか。死を無意味に語るような文体は存在するのか、この問い自体が、あまりに文藝的であり、恐ろしい問いではなかろうか。語ることは文藝的になりすぎる。文藝的になることを許さぬ深刻な問題であるときですら。そう「深刻」という単語自体が文藝的すぎる。事は極めて深刻なのである。
敢えて言えば、彼ら体験者の言葉は「深刻」ではないのである。どこか夢でもみたような語りになるのである。断片的で、途切れ途切れであり、現実味は薄れるのである。「核心部分」においてそうなる。曖昧になり、夢を見たかのようになる。
いかなる意味でも文藝的でない、夢を見たかのような祖母の言葉で語られる戦争以外に、私にとって真実の戦争はありえない。不謹慎な物言いであることを十分に自覚した上で敢えて言えば、戦争を「深刻」に語ることは文藝的すぎであり、それは真実ではない、ある種の詐術のである。彼らには「深刻」という感覚すら無いのである。そういう「余裕」はない。ただ、断片の言葉の端の端が、その呼吸の間が、語り開かれるべき現の場の空気を立ち現せ、仄めかすだけなのである。10万人が一夜にして死んだ夜はそのようにして、つまり語ることの否定を通じてしか語りえない。いや、この物言いは文藝的すぎる。もっと本当の意味で深刻であり、本当の意味で残酷であり、つまり、空虚なのだ。敢えて言おう。あっけらかんとしているのである。紙でも燃えるように「燃えちゃったんだよ」と語るのである。
もう少しだけ言ってみよう。人が愛することが無意味であること、人が死ぬことが無意味であること、人がただの肉であること、こうしたことをいかなる意味でも文藝に陥らず、物語るということは恐ろしいことである。不可能なのである。既に私の物言いは文藝的である。違う。敢えて言う。その夜において、人が愛することが無意味であった、人が死ぬことが無意味であった、人がただの肉であった。いかなる文藝的な嘆きを受け付けぬほどに、それが現実であった。
いや、私はこんなことを言って「俺は現実主義者だぜ。本当の現実を恐れずじっくり見てるんだぜ」なんて嘯きたいのではない。そういう物言いをしているうちは、ある意味、文藝的であり、ある意味、羨ましい。頑張れ、若者と言いたい。逆である。私の言いたいのは、人が愛するということは意味があり、人が死ぬということは恐ろしく、人はただの肉ではないのである。これは疑いようがない。これを疑う人はまだ人生を知らないと言っていい気もする。若い戦士の銃の引き金が軽いのと同じ理由だ、人生を知れば引き金は重くなるものだ。あるいは、単純に「愛は無意味だ」という言明そのものが愛の意味を語ってしまうし、死にしても同じことであることを考えてみてもいい。
更にはっきり言おう。愛に意味があり、死は恐ろしく、人は物ではない。だからこそ、それが「そうではなかった時」それは「現実」ではないのである。人間は愛を死を人間を無意味なものとして物語る言葉を持たないのである。「意味」の連続である人の言葉は「無意味」を表現することができないのだ。いや、これを空虚な戯言とは取らないで欲しい。この言葉の意味をよく考えて欲しい。人は空腹を語れる、苦痛を語れる、友を失なった悲しみを語れる。それどころか悲しみを感じない自分への違和感を語れる。更には悲しみを感じない違和感すら失われた違和感すら語れる。しかし「現実」はそこで終わる。何も感じさせる猶予もない圧倒的な殺戮、圧倒的な虐殺、つまり「無意味」を語ることは不可能なのだ。
体験者の言葉は夢のようになる。時間的・因果的な関係は悉く無効になる。確かに意識があった筈であるにしろ、彼らは言葉を失い、物語る力を失い、時間も因果関係も失う。彼らは「大切な部分」において、ある意味で「記憶」を失うのである。人は言葉において物語ることができ、物語において時間と因果関係が存在するのである。物語を失った「記憶」は時間を失い、断片となる。いかなる意味でも無意味だからである。本当の意味で無意味なことを人は物語れない。夢を見ているようになるのである。夢の話をするように、現実であったはずの話をするのである。現実を話しているのに、人は空を飛び、その時には死んでいた筈の人間が話し出し、語り手自身も死んでしまったり、全然べつの場所にいたりする。そういう風にしか語れない、つまり語ることを拒みつつでしか語れない「現実」が存在するのである。
しかし、まさにそこが彼らの経験の中心であると思った。言うまでもなく彼らは異常者ではない。それが正常な人間の正常な反応なのだろう。
言葉となった戦争は劇的すぎる。言葉は常に文藝的でしかありえず、文藝的でない言葉は存在しえない。死を何如なる意味でも文藝的でなく語れる人間は存在しえない。それは人間ではない。辛うじて、夢の中を語るように断片による仄めかしが出来るだけである。しかし、これは語り得ない。不可能だ。
いや、こんな物言い自体がふざけている。不敬である。冒瀆である。その上、気がついたらホロコーストの哲学の影響をもろに受けてしまっている。ほんと馬鹿みたいだ。
文書の分量と、読む速度、書く速度の関係についてのメモ。こういう視点で考えたことが無かったので新鮮だった。文書を書くなら、こうした関係を頭に入れておくと、いろいろと楽になると思う。
手元の本を開くと、確かに一章なり一節なりは大体「短文」か「長文」の長さになっていて、それが組み合わされて作品が仕上がっているのがわかる。
読書速度測定で測ってみた。
薄めの本を読むのに、音読したら8時間掛かって、黙読したら1時間ちょい、速読なら20分というところだろうか。実感として、普通にこれくらいと思う。
ちなみに、この音読速度で考えると、
これは音楽の演奏時間で考えると腑に落ちる。一曲は短くても3分程度であり、LPが40分がマックスで、演奏会も40分前後で休憩が入ることを想起させる。交響曲も典型的には40分程度と思う(ベートーベン交響曲演奏時間一覧やモーツァルト交響曲演奏時間一覧参照)。
人間の集中力はこの程度の枠でおさまるのだろう。つまり、一つのまとまりは3分はないと短すぎ、長くても40分程度で十分ということではないだろうか。
結構速く書いて1分40字らしい。つまり音読の十分の一の速度。
速く書く速度については1行40字が目標値とされている。
(Passion For The Future: 「速く・わかりやすく」書く技術―原稿用紙3枚をラクラク30分!より)
こう考えると短文を書くには40分弱、長文を書くには6時間15分という計算になる。
(一日に書ける枚数、一ヶ月に書ける枚数 - Backstageより)
- 保坂和志さんは、1日に3枚、よくて5枚とおっしゃっている(「書きあぐねている人のための小説入門」)
- 佐藤洋二郎さんも、1日に3枚と書いておられる。(「実践 小説の作法」)
- 丸山健二さんは、一日1時間が限度だが、興に乗ったらもっと書いてもよいとおっしゃっている。(「まだ見ぬ書き手へ」)
昨晩は高校時代の友人と呑んだ。互いに限られた時間の中、共に将来を、夢を、肚の内を、「よみ」を語った。
仕事帰りのせいもあり、正直、私は彼の中に「怖さ」を感じた。「お疲れ」とグラスを合わせても、その空気はすぐには消えない。
それでも、国家について語る歳でもなくなったが国家を語り、哲学について語る歳でもなくなったが哲学について語り、経済を語る歳でもなくなったが経済を語り、精神について語る歳でもなくなったが精神について語る。まあ、それはそれで、可笑しいし楽しい。もちろん、女の苦労話にも華が咲いたが。
話は学生時代のことになる。
学生時代に共に抱えた「絶望」とは何だったろうかと問い掛ける。己の無力感 ── これは己が有能と信じたからこそ起こるものだが ── に襲われ、虚無感の中で苦しんだことは、何だったのだろうか、と。挫けそうになり、視線は真っ直ぐに「死」へと向かはざるを得なかったような「絶望」とは何だったのだろうか、と。
彼はカミュを読み解く中で、既に高校時代には「不条理」についての卓越した「覚悟」を固めていた。私は、彼を尊敬した ── 彼の能力に対してではない、彼の覚悟に対してである。
こんな逸話がある。
彼はアメリカ留学をしたのだが、その際にホームステイをすることになった。両親がいて、子供がいる、団欒の席で彼は食事を取ることとなった。
その雰囲気の中で数日暮らしていた彼は、私にメールをよこした。曰く、彼はそうした団欒の席において「俺は、こういう家庭を持つことはないのだろうな」と憂愁に襲われていたとのことである。彼が21、2の頃の話である。
その前にも、女性に告白された際にも「俺は彼女を作るということはしない。そんな時間は与えられていない」と言ってふっていたのだから、本当に頭が下がる(ちなみに、「時間がない」特に「読書の時間が失なわれる」という理由で女性をふったり別れたりした友人が私の周りには非常に多い)。
さて、何の話だったか。そう、学生時代の虚無感であり、絶望である。彼は若い自分に相当の覚悟を決めていた。もの静かに、筋の通った男として、生き抜いている。
そうした彼と話していて、思うことがあった。やはり精神的な書物は必要なのだな、と。そういう「無駄」な書物こそが、肚を作り、筋を通して生きるのには必要なのだろう、と。
最近、いわゆる「名ばかりの管理職」としてデスマのプロマネをした訳だが、その際にも感じたことである。自惚れ甚だしいが、私はそうした「なにかをマネッジする仕事」があっていると感じたのである。己の「よみ」を仲間に語り、集団でそれを共有し、肚をくくって未来の不確定に臨む ── こうしたことが、好きなのである。
考えてみれば、二十そこそこで起業して失敗してゆくまでは、班長、学級委員長、委員会長、生徒会長、部長と「長」が付くものは片っぱしからやっていた。好きでやっていたとは思わないし、言いたくないが、まあ、そういうことをする業かと思う。望まぬが、望んでいたのだろうかと。好かぬが、好いていたのかと。
こうした人間として、早くから己の限界にぶつかり続け、「精神的な書物」を読まずにはいられなくなったのである。中学生の卒業文集には「人はもっと素晴らしいはずだ」という出だしに始まる「人の中の不安」と題した幼稚だが、今もって尚、私には深刻な問題に関する文章を書いている。たまに眺めても「今ではこうした文は書けないな」と思い可笑しい気分になる。中学時代の私は、現在とは比較にならないほど深刻であり、苦しんでいて、絶望していた。「あの頃の自分を尊敬している」と書けば、読者には笑われるだろうか。若い時は何も知らず、それが故に理想は高く美しく、挫折も深いものである。
そう昔から成長しない私は、ときどき一人、中学生の頃と同じ口癖を呟くことがある。「もっと頭がよければ……」「もっと力があれば……」
無い、のである。徹頭徹尾、そんなものは、無い、存在しない、存在しえない、のである。そもそも、そういう問題ですらないのである! ── なのに。
愚かなものだが、悩める魂はひたすらに回り道をしながら人の世を抜けていくしかない。そうした時に、人の言葉は、人の思索は、人の文藝は、人の受け継がれゆく「語り」という営みは、私を魅了した。
さて、何だったか。そう、絶望の中で出会う書物のことである。理性に信頼を寄せた私は逆に人間理性の限界を「知る」ことになるだろうし、言語に信頼を寄せた私は逆に言語の限界を「知る」ことになるだろう。そうして、世界の限界を「知る」ことになるだろう。
雷に打たれたように、人間理性というものは、頼るべき存在ではなく、逆に、小さな子供のような、可憐で愛らしいが、大人の男がしっかりと守ってあげねばならない存在であることに気づくだろうし、言葉は挨拶と謝罪と感謝ができればよく、後は沈黙することにもなるだろう。
それでもなお、書物を私が愛するのは、他ならぬ書物を持ってしか、私は私を変えられなかったと思うからである。受け継がれてきた書物がなかったらと思うと、やはり、私は愕然とするしかない。少なくとも、ニーチェがなかったら私は生き抜けなかったろうな、と感じる。いや、その他の藝術や哲学 ── 人の業かと疑うような人の営みがなければ、私は随分と寂しい男だったろう、と。
そして、語弊を覚悟で言えば、やはり人の営みにはそうした書物が欠かせないのだろうと。常に、ある種の人々に「精神的な書物」は必要不可欠なのであろうと。
時代は変われど、実は何も変わってはいない。結局、人と人である。常に、人は人と共に、予測のできない未来に相対しながら、今を生きている。いくら語ろうとも、予測しようとも、結局は裏切られ、思うようには絶対にならず、時に成功しても、それは「たまたま」「誰かのお陰」に過ぎない世界を生きている。
にもかかわらず ── いや、だからこそ ── 人は語るのである。人は、物語り、語り合い、肚を見せあい、未来に己を投げ掛けるのである。そうした、「未来に投げ掛ける営み」として、[人の語りの営み」があり、そこに、「精神的な書物」がありえるのである。
静かに考えてみれば、何も変わってはいない。ただただ、未来の不安、死への不安から、人が動いていることに、何の変わりもない。ある人間は娯楽の中で「誰かの欲望」の中に埋没して現を抜かすだろうし、ある人間は死を睨みつつ、その死をすら抜けこえて「今ここの場」に研ぎ澄まされるかもしれない。これは、どちらも同じ、記憶を持ち、未来を予測できてしまう人間の哀しい性である。どちらであったとしても、愚かであることに一寸の差もありはしない。
いや、娯楽と言ったが、他者の欲望に左右されているのでなく、本当に没頭しているのであれば、つまり、生を楽しんでいるのであれば、そちらの方が貴いと思う。問題は何をしているかではない。ただ、普通は「楽しいだろう」という程度では、結局楽しめず、夢、あるいは「使命」というものを睨みつつ、現在に没頭する方が、充実して生を楽しめることと思う。
ただ、人は一人では弱い。己の夢も使命も背負うには厳しい。だから、己の「よみ」を共に語り合えた時、そして、その「よみ」が共有でき、それぞれの場に互いにしっくりとくることができた時、それは充実した仕事ができる。共に未来に己達を力一杯投げつけることができるのである。
このために、語りはある。ここに語りがある。己を語り開いてゆく中で、己ではなかったものが「開き」「現れる」のである。ここに語り合いの本質がある。この未知から現れる「語り開き」の中でこそ、互いの肚の底が見え、躍動があるのである。
不完全で、常に崩壊してゆき、不確定で、己の思う通りには断じてなりえない、この世界の中で、いかに生きるか、いかに生きるのかを、書物は教えてくれる。そして、その高い精神は、本当に「楽しい」のは何かを教えてくれる。それは、結局は、正直に、感謝して生きるしかないということである。
私は正直に、その通りだと思う。結局、正直に、感謝して、恥を知って、生きてゆくことが、「楽しい」のだと思う。己の充実した生を実感できるのである。世界が確定的で、思い通りになり得るのであれば、打算もありえる。いや、若者は多いに自らの才覚を信じ打算して、大人を出し抜けばよい! 存分にやりつくせばよい! しかし、結局は分を知り、足ることを知るに勝ることはありえないと、私は思わずにいられない。
不確定のものにぶつかりながら生きているのに、優れた精神の優れた語りがなければ、いかに苦しく、つらいだろうか。そして、そうした言葉を知れば、尚、不確定なものに挑みたくなる。
ネットをふらついていたら、偶然、こんな文章にぶつかった。たぶん、こういう目にあっている人が腐るほどいるんだろうな、と思う。
私も以前は、コメントやメールも貰ったし、掲示板で晒されたりもして、いろいろな意味で打撃を受けた。いかなる意味でも、書き手の思うようには、読み手は読まないものだな、とかいろいろ思った。というか、誤読の往復があるのみじゃんとか。いやね、こんな私も真面目に書いている時期もあったんですよ。なんというか、「未来」を信じてみたいにね。
まあ、私の独白は今回はいいか。
私は、この人を知らないし、他の文書もまともに読んでいないし、そもそも誤読してるだけなのだろうが、それでも、私は「私は、あなたの味方です」とはっきり言いたい。まあ、こんなトコをこの人が見つける可能性はゼロだろうが。
文章を実際にインターネットで書き始めてから、私は文章をおおやけにすることのリスクについて思い知ることになる。Mixiでは気心の知れた人間に向かって文章を発表しているので、それほど辛辣な言葉はやってこない。
私はmixiに書いているものを、ブログにも転載している。
そこには匿名のコメントが自由に書ける。
読んで凍り付いて、一日寝込むような、死にたくなるようなコメントを今までいくつもらったか分からない。
たちなおるまでたいてい一週間は要した。
それほど読者の多くない私のブログでもこのようなことがおこる。
ベストセラー作家などはどのような苦労をしているのかと眩暈がした。
須賀さんの文章を注意深く思い返してみる。
そういえば、他人のことについてはあれだけ深い洞察にみちているのに、自分についての独白めいたことが一切ないように思えてくる。
他人の目を意識して、ちゃんとおおやけのものを書くということ。
自分の言葉に責任を持つこと。
いつ?誰と?どこで?何を? 2007-04-22
なんというか、せつない。僕はあなたの見方ですと、それだけ書いておく。
どういう訳か今日、無駄にほのぼのとした気分で自分の中学校名をググってしまい、とある掲示板にぶちあたり、そこに自分のことが書かれていた。それは、私を知る人はほぼ100%私と分かるだけの「過去の情報」が載せてあり、かつ、そこに載っていた「私の現状」はほぼ100%嘘であった。
なんというか、匿名について考えてしまった。
こんなこと書くのもアホだが、なんというか、最近、このブログをついつい書いてしまっているので、ついつい書いてしまうことにする。ということで、書くのもアホなんで、読むのはもっとアホです。アホどうし、仲良くやりましょう。
昨日は匿名泡沫ブログを書くことを仮装パーティーと呼んだ。知ってる人が見れば誰か分かる筈なのに、一応、ばれてないことにしておいて、日常とは違う自分を楽しむというアレである。匿名であることによって、匿名でなければ恥ずかしくて書けないような稚拙なことが書けてしまう。そして、それを人様の見える場所に置いておくのである。とても不思議な行動であるが、そこに面白さがあるし、また、そうした表じゃなかなか書けないようなことが書かれるのであるから、匿名泡沫ブログを読むことにも面白さはあると思う。
しかし、こうした匿名泡沫ブログという遊戯は、暗黙のルールに支えられているのであって、誰かがルールを破れば簡単に破綻する。例えば、もし、このブログに対して私の実名なりを載せ、それを利用してグーグルなどから簡単にアクセスできるようになったら、私は即座にこのブログを消去するだろう。まあ、もちろん、archive.orgという手はあるが、まあ、それは見て見ぬふりをするのは簡単な筈だ。
ところで、匿名泡沫と書いたが、有名人でない場合、名前が書いてあっても事態は変わらないとも思った。実名を載せていても、その実名に対して「ワルサ」をする人がいなければ問題はない。そして普通は実名をさらしても誹謗中傷を受ける人は少ないのではないかと思う。普通は人の悪口を書いても得をすることなんてないからだ。
残念なことに、私はある程度有名(?)であって、そうした掲示板で実名がギリギリ載らないにしても「ああ、あいつね」と簡単にポインタを書かれてしまう。実名ほど強力なポインタでないにしても、そのコンテクストを理解する者全員にとって参照先がはっきりとしてしまうのだから、ある意味、実名のようなものである。
そして、そのポインタによって参照される人物としての私について、人様にそう思われたら私にとって残念な嘘が書かれてしまったのだから、とても残念である(アホみたいな文章である)。そして、私がその虚偽の情報を否定しないのであるから、そこを見た多くの人は、それが真実と思うことだろう。事実、もしそこに書かれていたのが私のことではなかったら、私だって「へー、あいつってそうなったんだー」とか思ってしまうかもしれない。
そして、その投稿者は大学名も明らかにし、その大学のサーバで私がサイトを開いていることも明らかにしていた。何人かは私のサイトにやって来たのかもしれない。もう、数年前の投稿なので、現在はその大学のサーバのサイトも消去されているのだが、なんだか、とても気持ちが悪い。
そう考えると、はっきり言うと、こんなブログ、書かない方がいいな、と思う。やっぱり、そんな結論になる。
無駄な文章を、しかも恥ずかしいような文章を何故、人様に見せているのか? この問いはどうしても残る。昨日の「おもしろいから」という答えは、何人かの「仮装パーティールール」を守らない知人によって脆くも崩れさる。なぜ、そうした危険を抱えながら、つまり、どっかの掲示板でさんざ虚偽に基づいた誹謗中傷を受け、現実にここに書かれた文章などをさらされて馬鹿にされる可能性をもちながら、私はアホな文章を書くのだろうか?(現実に今も書いて、そして、それを公開しようとしている)
誰か分かってくれるはずだ、という答をするには、私は歳を取りすぎている。そんな台詞は吐けない。
そんな馬鹿は無視すればいい、という答もあるにはあるが、掲示板の影響力を私はまだ計り切れていないのかもしれない。そこにあった誹謗中傷で、どこかで致命的な打撃をくらう可能性は十分にあるし、こうしたブログも参照され、アホな文章を引用でもされたら、結構やってられない気分になる筈だ。事実、このブログを消去したところで、 archive.org には記事は保存されているかもしれない(今見たら保存されてない)。まあ、そんな低いレベルの人間と関わりたくないが、関わらないという保証はない。
それでも、私はこのアホなブログを書く。なぜだろう?
確かに、個人の名を明かして、責任を持った文章を書けばいいのかもしれない。確かに、そこそこアホじゃない文書を書く能力が私にもあるかもしれない。そうして論戦じみたものがあれば、無視したり消したりするのではなく、ちゃんと対応するという線もあるかもしれない。なんだかいかにも、好青年な線であるし、立派なブロガーの姿である。
しかし、そんな文章を私は書きたくはない。そんな文章は書いていてちっとも面白くないし、読んだってちっとも面白くない。
私はある種の匿名性を持つ泡沫ブログが大好きだ。ちょっとでも火がつけば、処理のしようもなく、ただ、サイトそのものを消すしかないような泡沫ブログが大好きだ。そういうレベルの、本当に気楽に書かれた、読まれることが確実であるにもかかわらず、あたかも誰にも読まれていないかのようなブログが大好きだ。そうした無責任で、でも時には、普通のメディアには絶対載ることがないような閃きを見せてくれる泡沫ブログが大好きだ。
なんか、あついな、俺。馬鹿みたいだ。はあ……。というか、結局「このブログを書いてるの○○だぜ。ばっかでー」と言われても、あまり傷つかない自分がいるから書いているのかもしれない。
ところで、卒業アルバムというものがある。最近読んでいるのだが、これは不思議なものだ。卒業アルバムの文章は、読まれる可能性があるにもかかわらず、何人かの人は、普段では人には見せられない内面を吐露している。もちろん、ほとんどの人は無難な線の文章のみである。しかし、何人かは、確実に自分の内面を、人からごちゃごちゃ言われたら傷つくしかないような内面を描いている。
これは勿論、それぞれが友人関係であるし、卒業アルバムが配布されるのが、卒業の後であり、それをネタにからかわれる可能性が低いこともあると思う。また、お互いに文章を載せているので、お互いにひけめがあり、ネタにしにくいというせいもあると思う。
しかし、そうした「仮装パーティー」な空間で書かれて内面は、すこぶる面白い。予想もできない感性が描かれているときがある。
はっきり言うが、恥ずかしいような表現じゃないと、面白くないんじゃないだろうか? 分かる人には分かるが、分からない人には「あいつ、あんなの書いててアホじゃねーの?」みたいな文章が、面白い人には一番面白いのではないだろうか? ブログとは、そうした楽しみがあるのではないだろうか?
それはただのオナニーか?
そうかもしれない。
しかし、更にアホなことを書くが、私のように「中立的」で「恥ずかしくない」文章がつまらない人間は、しっかりと存在するのではないだろうか? アホな文書の中にのみ、面白さを見出す人間がいるのではないだろうか? そうした人間が存在するのであれば、それはただの自慰ではないのではないだろうか?
まあ、我ながら、アホな文だな。
1. 漢字を使わない
2. 句読点を使わない (センテンスからの脱却)
3. 平仮名、縦書き、連綿での自然な分かち書きを用いる
4. 複製も編集もされない。「いま・ここ」の一回性のものとして書かれる。
5. 明確な複製との差異を持つ「オリジナル」として書かれる。
過激なことを書く。
最近、文章は手書きで縦書き、万年筆か毛筆で書いていた。原稿用紙も使ったが、やめた。まっさらな紙にさらさらと連綿で書いてゆく。自然に漢字を使わなくなる。漢字がなくても単語が連綿で一塊になっているため読みずらさはない。
「なんだ、漢字いらないじゃん」と感じる。平仮名だけしか使わなくても、きちんと単語の分けめを示せればいいのだ。ひとつの言葉を連綿で続けて書けば、単語の分け方で混乱はない。自然な分かち書きというわけだ。
平仮名の連綿で書くことが、日本語の書字の本来の姿なのだろう。平仮名が上から下へと流れ、言葉がひらりひらりと降ってくる様は、とても美しい。それに比べると、格子につめこまれた平仮名の哀れなこと。漢字のおまけにしか見えない。
現在は以下の点に留意して文字を綴っている。
いま「書くこと」の大きな変革が起きつつある。それは電子化に支えられ進行している。この変化があるのは明かだが、その方向は私には分からない。ただ、思想、文学など「書くこと」に関わる全ての分野に大きな影響を与える事件が起きていることは肌で感じている。
その変化の中で、どのような感覚が主導権を握るかは分からない。自分でも自分の考えが主導となるとはとうてい思っていない。歴史上、手書きの連綿が復活することは無いとさえ思う。欧米でも筆記体はずいぶんと廃れているようだ。
しかし、時代が流れる方向に逆のものに、私がこれだけ強く確信をもって魅かれているということは、どういうわけなのだろう。そこに極端な力が宿っているとしか思えない。それとも、ただの時代錯誤の狂言なのだろうか。
わからない。
いや、ただ考えて欲しい。なぜ、いまスピリチュアルなものがこれほど人気があるのだろうか。それらのレベルは低く見えるのに、なぜ人々は走るのだろうか。鬱病や精神病、神経症、ホルモン障害、自傷や自殺がどうしてこれほどの問題になっているのだろうか。
もちろん、こうした問題に加え、ニートやフリータ、地方や小児の医者不足、教育崩壊、介護などの問題に対し、様々な人がこうした問題に取り組んでいる。それも成果をあげることだろう。それは大切なことだ。
しかし、それらは「本当の問題」ではない。ただある本質的な問題から生まれた「結果」にすぎない。その本質的問題とは私たちの社会が「絶望的に貧しい」ということだ。現代日本社会の個別の問題は、本質的に「絶望的に貧しい」ことからの帰結でしかない。
この「絶望的な貧しさ」と闘うことが、私の使命である。そして、その方法は、書くことの革命にあり、それが本質的な問題に取り組むことであると、私は確信している。この点、後日もう少し説明することにしよう。
私の豊かさ、私の感性の豊かさ、私の自由は、果たして「絶望的な貧しさ」を乗り越えられるかどうか、私にとって、ここに全ての問題がある。
「ネットでは短文しか読まれない」という問題に対し、簡易製本することで乗り越えられるのじゃないかと考えた。
以前、文章の三つの長さについてメモをした[1]。文章とは短文、長文、本の三種類に、長さ・内容の点で分類できるというものだ。それぞれの文字数は原稿用紙でおおよそ3-4枚、30-40枚、300-400枚ということになる。A4換算では、1枚、10枚、100枚である。また、短文は「記事」や「コラム」、長文は「レポート」や「論文」の長さであるとも言える。
ところで、通常のブログでは「短文」までしか読めないのではないかと思う。印刷してA4で一、二枚程度でないとディスプレイの横書きの日本語を眺めるのはつらい。短文を読むのにかかる時間は、一分で400字読むとして3、4分、800字として1分半から2分[2]。どうだろう? それ以上だと読む気を失ってしまうのではないだろうか。そうであるならば、私達は「短文」程度の文章にしかネットでは普段触れていないことになる。
形式は内容を規定すると私は考えている。つまり、文章の長さは内容を規定する。そして「本」は「長文」が有せない内容を表せるし、「長文」は「短文」では有せない内容を表わせると考えている。
この考えが正しいとすると、普通にネットでの情報を摂取していると短文の長さの枠内での内容しか摂取していないことになる。つまり、通常のネット利用では「長文」や「本」の内容にアクセスできないということになる。
これは問題である。ネットを眺めればひとまずの情報が手に入るとき、本を読むという行為は少なくなると思う。そうであれば、「短文」にしかアクセスしないことによる情報量の低下をもたらし、更には「長文」以上の内容の吸収力の低下も懸念される。こうして「ネット短文」への依存の悪循環が生じる。
しかし、私が言いたいのは「本に戻れ! ネットを捨てよ」ではない。ブログやwiki、掲示板などで普通の人が文章を公開する技術を手に入れたことは評価するべきである。そして、必要なのは、その「公開する技術」を高めることである。
一つの解決策として、「印刷物」としてネットで公開するというのはどうだろう? ブラウザで読むことは想定せず、印刷し、更には製本して読むことを想定したネットの利用を私は推奨したい。技術的な問題はない。現代の高機能なプリンタならば両面印刷や製本用の割付は難なくこなす。それを製本し、書籍の形態にすれば、ネットのフリーの力と書籍のインターフェース[3]のよさを両方利用できるはずである。読者はテキストを入手し、好きなフォント、多きさ、デザインで書籍を作れるのだ。自由なテキストを本にしてこそ、ネットの力もいかされると思うのだが、どうだろう?
「んじゃ製本機?」と思うかもしれない。ちがう。実は製本機は必要ではない。
グルーボンド! グルーボンドがあれば、簡単に紙を書籍状にできるのだ。両面印刷された紙を束ね、グルーボンドをペタペタやればいい。とても手軽で安価だ。ボンド自体は100円で20本入りが変えるし、装置も500円も払えばお釣りが来た気がする。ホチキスなんて使ってる場合じゃない!私はグルーボンドを初めて使ったとき、本当に感動した。
好みで表紙や背表紙に凝ることもできる。別にどうでもよければ、固めの紙を表紙にして、背表紙に製本テープを貼って、自分でタイトルを書けばいい。
ネットと本は融合できる! 安価で手軽に!
言語とは自由な道具ではない。なぜなら、言語とはある集団によって生まれたものであり、その制度の内部には既に固有の価値観が反映されているからである。つまり、ある価値観を保有している言語において、その言説は一定の傾向を持ち、それを乗り越えることはできない。
故に、価値観を乗り越える言説を為すためには飛躍が必要になる。その飛躍とは言語の有効な利用であるというよりかは、言語の破壊、言語という制度の読み違えから生まれると考えられる。言語の間違いから、新しい価値が垣間見えることがありえる。逆に「美しい」とされる言語の運用は、それ以前の価値の反復であり、新たな価値を提出することはない。
有効な言説は、従来の諸制度からの離脱、破壊から生まれる。が、言語とは伝達の手段である以上、プロトコル、つまり制度を持たざるを得ない。制度なき言語は伝達ができない。故に、新たな言語の可能性のあった「読み違え」や「破壊」が偶発ができ、それが広まったとしても、それが新たな価値となることは難しい。それ自体が、新たな制度として、従来の制度に吸収されてしまうからである。それほど、現代の制度は老獪である。
十分に老獪な現状の制度は全てを呑みこむ。たとえ、それが、反対勢力であったとしても。「今の制度をぶっつぶせ」という運動すら、その感情すら、現代の制度は老獪に吸収し、運用する。かくしてロックは産業となった。また、「今の制度と関係なく」も「今の制度とどうにか付き合いながら」という運動も柔軟に吸収する。エコの試みの惨状を見よ。公害に関連した運動の惨状を見よ。
現代の制度は、言論のための言論、つまり言論産業による、言論産業のための、言論産業の言論を生む。その制度は全てを吸収する。かくして、完全に言論はその元来の力を失う。太平洋戦争、南京事件、オウム、北朝鮮。。。すべて有効な言論の彼方の言論である。
有効な言論とは何か? それは力である。人の力である。力とは何か? 人の集まり「これだ!」という力、「そうだ!」という力、これは制度に還元されない元来の力である。制度を乗り越え、その場、その場の局面を乗り越えてゆく人間の力である。しかし、それを名指す言葉は現在ない。「これだ!」とか「そうだ!」と人が感じる力、としか言えない、今の私には。なさけないことだが。
その力に基づいた言説以外に言説はありえない。力のない言葉など言葉ですらない。
言論は力である。言論は人の力である。現状は刻々と変化する。その場、その場でしか言説は有効ではない。制度として固定した価値や言説は現状の変化に対応できない。固定化した制度としての言論は、言論ではない。
すべての固定した概念は、狡猾な現代の制度が吸収し、あるいは無力化できるものである。それは有効ではない。
有効な言説のために、言説を為せる人の集まりを為さねばならない。
だいたいの文の種類とその分量についてのメモ。野口悠紀雄『超文章法』を参考に改変
| 文の種類 | 文字数 | 原稿用紙 | A4換算 |
| 段落 | 150 | 1/2 | |
| 短文 article | 1,500 | 3-4 | 1 |
| 長文 report | 15,000 | 30-40 | 10 |
| 本 book | 150,000 | 300-400 | 100 |
人が平均的に一分間に読める文字数は400字だったかな? とすると原稿用紙の枚数は、読む分数になる。
漱石の絶筆、未完の大作、『明暗』との出会いは遠ざかっていた興奮との再会であった。そして、漱石のいう禅的理想「自在」も私をひきつけた。
これは何か? 明暗には何かがある。まずドストエフスキーがある。しかし、ドストの饒舌さは日本人には現実味が薄いので、漱石はそれをいかにも日本人的な仄めかしやトボケの応酬として、ことなるエゴのぶつかり合いと、その雪崩を打つような破局へのダンスを描いてゆく。見事である。『こころ』で感じた女性描写の「うそ臭さ」は微塵もない。
そんな漱石もニーチェを読んでいた。そして彼らなりに吸収し、批判をしていた。
自らの文化と伝統への自信が彼らにはあった。彼らは西洋に遊べど、決して徒らな追従にふけることはなかった。その時の日本にとって必要なものは学び、必要でないことは堂々と無視したのである。
漱石による『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の表」への書き込みから、そのことが端的にうかがえる。
世界中で最大の幸福者とは、必然が自由そのものとなっているような人である。この自在の境地こそ数多の禅僧や儒学の徒が行じてきた修行の究極目標でもある。彼らの到達した完成の境地はこれまで西洋の学徒が達し得たいかなる境地よりも更に高い。キリスト教徒にはかかる自由なるものがあるということを夢にも考えることができなかったのである。キリスト教徒は多数者の、弱者の、女性の、また奴隷や救いようのない人間たちのための宗教にほかならない。にもかかわらず彼らはこれこそ文明開化の民の奉ずる唯一の宗教なりと称する。彼らのうぬぼれはまさに限度を知らぬもののようである……
この自在の境地。これこそまさしく私も求めたものである。