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過激なことを書く。
最近、文章は手書きで縦書き、万年筆か毛筆で書いていた。原稿用紙も使ったが、やめた。まっさらな紙にさらさらと連綿で書いてゆく。自然に漢字を使わなくなる。漢字がなくても単語が連綿で一塊になっているため読みずらさはない。
「なんだ、漢字いらないじゃん」と感じる。平仮名だけしか使わなくても、きちんと単語の分けめを示せればいいのだ。ひとつの言葉を連綿で続けて書けば、単語の分け方で混乱はない。自然な分かち書きというわけだ。
平仮名の連綿で書くことが、日本語の書字の本来の姿なのだろう。平仮名が上から下へと流れ、言葉がひらりひらりと降ってくる様は、とても美しい。それに比べると、格子につめこまれた平仮名の哀れなこと。漢字のおまけにしか見えない。
現在は以下の点に留意して文字を綴っている。
- 漢字を使わない
- 句読点を使わない (「センテンス」からの脱却)
- 平仮名、縦書き、連綿での自然な分かち書きを用いる
- 複製も編集もされない。「いま・ここ」の一回性のものとして書かれる。
- 明確な複製との差異を持つ「オリジナル」として書かれる。
いま「書くこと」の大きな変革が起きつつある。それは電子化に支えられ進行している。この変化があるのは明かだが、その方向は私には分からない。ただ、思想、文学など「書くこと」に関わる全ての分野に大きな影響を与える事件が起きていることは肌で感じている。
その変化の中で、どのような感覚が主導権を握るかは分からない。自分でも自分の考えが主導となるとはとうてい思っていない。歴史上、手書きの連綿が復活することは無いとさえ思う。欧米でも筆記体はずいぶんと廃れているようだ。
しかし、時代が流れる方向に逆のものに、私がこれだけ強く確信をもって魅かれているということは、どういうわけなのだろう。そこに極端な力が宿っているとしか思えない。それとも、ただの時代錯誤の狂言なのだろうか。
わからない。
いや、ただ考えて欲しい。なぜ、いまスピリチュアルなものがこれほど人気があるのだろうか。それらのレベルは低く見えるのに、なぜ人々は走るのだろうか。鬱病や精神病、神経症、ホルモン障害、自傷や自殺がどうしてこれほどの問題になっているのだろうか。
もちろん、こうした問題に加え、ニートやフリータ、地方や小児の医者不足、教育崩壊、介護などの問題に対し、様々な人がこうした問題に取り組んでいる。それも成果をあげることだろう。それは大切なことだ。
しかし、それらは「本当の問題」ではない。ただある本質的な問題から生まれた「結果」にすぎない。その本質的問題とは私たちの社会が「絶望的に貧しい」ということだ。現代日本社会の個別の問題は、本質的に「絶望的に貧しい」ことからの帰結でしかない。
この「絶望的な貧しさ」と闘うことが、私の使命である。そして、その方法は、書くことの革命にあり、それが本質的な問題に取り組むことであると、私は確信している。この点、後日もう少し説明することにしよう。
私の豊かさ、私の感性の豊かさ、私の自由は、果たして「絶望的な貧しさ」を乗り越えられるかどうか、私にとって、ここに全ての問題がある。