2007-03-28

匿名で書くこと

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どういう訳か今日、無駄にほのぼのとした気分で自分の中学校名をググってしまい、とある掲示板にぶちあたり、そこに自分のことが書かれていた。それは、私を知る人はほぼ100%私と分かるだけの「過去の情報」が載せてあり、かつ、そこに載っていた「私の現状」はほぼ100%嘘であった。

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なんというか、匿名について考えてしまった。

こんなこと書くのもアホだが、なんというか、最近、このブログをついつい書いてしまっているので、ついつい書いてしまうことにする。ということで、書くのもアホなんで、読むのはもっとアホです。アホどうし、仲良くやりましょう。

昨日は匿名泡沫ブログを書くことを仮装パーティーと呼んだ。知ってる人が見れば誰か分かる筈なのに、一応、ばれてないことにしておいて、日常とは違う自分を楽しむというアレである。匿名であることによって、匿名でなければ恥ずかしくて書けないような稚拙なことが書けてしまう。そして、それを人様の見える場所に置いておくのである。とても不思議な行動であるが、そこに面白さがあるし、また、そうした表じゃなかなか書けないようなことが書かれるのであるから、匿名泡沫ブログを読むことにも面白さはあると思う。

しかし、こうした匿名泡沫ブログという遊戯は、暗黙のルールに支えられているのであって、誰かがルールを破れば簡単に破綻する。例えば、もし、このブログに対して私の実名なりを載せ、それを利用してグーグルなどから簡単にアクセスできるようになったら、私は即座にこのブログを消去するだろう。まあ、もちろん、archive.orgという手はあるが、まあ、それは見て見ぬふりをするのは簡単な筈だ。

ところで、匿名泡沫と書いたが、有名人でない場合、名前が書いてあっても事態は変わらないとも思った。実名を載せていても、その実名に対して「ワルサ」をする人がいなければ問題はない。そして普通は実名をさらしても誹謗中傷を受ける人は少ないのではないかと思う。普通は人の悪口を書いても得をすることなんてないからだ。

残念なことに、私はある程度有名(?)であって、そうした掲示板で実名がギリギリ載らないにしても「ああ、あいつね」と簡単にポインタを書かれてしまう。実名ほど強力なポインタでないにしても、そのコンテクストを理解する者全員にとって参照先がはっきりとしてしまうのだから、ある意味、実名のようなものである。

そして、そのポインタによって参照される人物としての私について、人様にそう思われたら私にとって残念な嘘が書かれてしまったのだから、とても残念である(アホみたいな文章である)。そして、私がその虚偽の情報を否定しないのであるから、そこを見た多くの人は、それが真実と思うことだろう。事実、もしそこに書かれていたのが私のことではなかったら、私だって「へー、あいつってそうなったんだー」とか思ってしまうかもしれない。

そして、その投稿者は大学名も明らかにし、その大学のサーバで私がサイトを開いていることも明らかにしていた。何人かは私のサイトにやって来たのかもしれない。もう、数年前の投稿なので、現在はその大学のサーバのサイトも消去されているのだが、なんだか、とても気持ちが悪い。

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そう考えると、はっきり言うと、こんなブログ、書かない方がいいな、と思う。やっぱり、そんな結論になる。

無駄な文章を、しかも恥ずかしいような文章を何故、人様に見せているのか? この問いはどうしても残る。昨日の「おもしろいから」という答えは、何人かの「仮装パーティールール」を守らない知人によって脆くも崩れさる。なぜ、そうした危険を抱えながら、つまり、どっかの掲示板でさんざ虚偽に基づいた誹謗中傷を受け、現実にここに書かれた文章などをさらされて馬鹿にされる可能性をもちながら、私はアホな文章を書くのだろうか?(現実に今も書いて、そして、それを公開しようとしている)

誰か分かってくれるはずだ、という答をするには、私は歳を取りすぎている。そんな台詞は吐けない。

そんな馬鹿は無視すればいい、という答もあるにはあるが、掲示板の影響力を私はまだ計り切れていないのかもしれない。そこにあった誹謗中傷で、どこかで致命的な打撃をくらう可能性は十分にあるし、こうしたブログも参照され、アホな文章を引用でもされたら、結構やってられない気分になる筈だ。事実、このブログを消去したところで、 archive.org には記事は保存されているかもしれない(今見たら保存されてない)。まあ、そんな低いレベルの人間と関わりたくないが、関わらないという保証はない。

それでも、私はこのアホなブログを書く。なぜだろう?

確かに、個人の名を明かして、責任を持った文章を書けばいいのかもしれない。確かに、そこそこアホじゃない文書を書く能力が私にもあるかもしれない。そうして論戦じみたものがあれば、無視したり消したりするのではなく、ちゃんと対応するという線もあるかもしれない。なんだかいかにも、好青年な線であるし、立派なブロガーの姿である。

しかし、そんな文章を私は書きたくはない。そんな文章は書いていてちっとも面白くないし、読んだってちっとも面白くない。

私はある種の匿名性を持つ泡沫ブログが大好きだ。ちょっとでも火がつけば、処理のしようもなく、ただ、サイトそのものを消すしかないような泡沫ブログが大好きだ。そういうレベルの、本当に気楽に書かれた、読まれることが確実であるにもかかわらず、あたかも誰にも読まれていないかのようなブログが大好きだ。そうした無責任で、でも時には、普通のメディアには絶対載ることがないような閃きを見せてくれる泡沫ブログが大好きだ。

なんか、あついな、俺。馬鹿みたいだ。はあ……。というか、結局「このブログを書いてるの○○だぜ。ばっかでー」と言われても、あまり傷つかない自分がいるから書いているのかもしれない。

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ところで、卒業アルバムというものがある。最近読んでいるのだが、これは不思議なものだ。卒業アルバムの文章は、読まれる可能性があるにもかかわらず、何人かの人は、普段では人には見せられない内面を吐露している。もちろん、ほとんどの人は無難な線の文章のみである。しかし、何人かは、確実に自分の内面を、人からごちゃごちゃ言われたら傷つくしかないような内面を描いている。

これは勿論、それぞれが友人関係であるし、卒業アルバムが配布されるのが、卒業の後であり、それをネタにからかわれる可能性が低いこともあると思う。また、お互いに文章を載せているので、お互いにひけめがあり、ネタにしにくいというせいもあると思う。

しかし、そうした「仮装パーティー」な空間で書かれて内面は、すこぶる面白い。予想もできない感性が描かれているときがある。

はっきり言うが、恥ずかしいような表現じゃないと、面白くないんじゃないだろうか? 分かる人には分かるが、分からない人には「あいつ、あんなの書いててアホじゃねーの?」みたいな文章が、面白い人には一番面白いのではないだろうか? ブログとは、そうした楽しみがあるのではないだろうか?

それはただのオナニーか?

そうかもしれない。

しかし、更にアホなことを書くが、私のように「中立的」で「恥ずかしくない」文章がつまらない人間は、しっかりと存在するのではないだろうか? アホな文書の中にのみ、面白さを見出す人間がいるのではないだろうか? そうした人間が存在するのであれば、それはただの自慰ではないのではないだろうか?

まあ、我ながら、アホな文だな。