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まず速読の方法についての具体的な説明に入る前に、私が速読術を考えるに至った経緯からを辿ることで、一般的な読書の問題点について考えてみたいと思います。一般的な読書の方法の問題点は二点あると私は考えます。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。
以前の私は始めから終わりまで一文字ずつ丁寧に文字を追い本を読んでいました。頭の中では文字を音声にして文章の意味を理解していました。つまり黙読にしても「音読」で文章を読んでいたのです。
この読み方は学校教育の影響でしょう。学校でこのように文章を読むように習ったものと思います。授業では新しい文章はまず音読されてから意味について考えました。
この読み方ですと読書に必要以上に時間が掛かり、にもかかわらず本の内容があまり記憶に残らないのだと指摘したいと私は思います。
この読み方では作者の議論に最初から最後まで付き合ってゆくことになります。全体の中の位置を把握することなく目の前の文を単調に読み進む読書です。
この読み方だと読書しているという満足感は得られるのですが、私の場合には読み終わると頭に内容が残らないことがしばしばありました。たしかに読んでいる間は作者の言葉を追えているように思うし、所々では素晴しい意見や情報に出会えることがあります。しかし読み終った後で本全体の内容を振り返ると、著者が何を言っていたのか覚えていないのです。この読み方では簡単な要約を作ることすら困難でした。著者がどうやって主張を議論していたのかについてはお手上げです。読んだのに覚えていないのです。
いま考えれば全体を把握できないのは当然のことです。目の前の文字を追うだけで全体の議論のどの部分にいるかを考えなければ、全体の主張や議論構成などは把握できるはずもないのです。これはまさに「木を見て森を見ず」という状態です。結果として「森」を見ていないのでは一つ一つの木の印象も弱められてしまいます。人間の脳は聯関のない情報はすぐに忘れてしまうからです。
当時の私はせっかく本を読んだのに忘れてしまうのでは勿体ないと思い、内容をメモしたりノートにまとめることを考えつきました。本を読みながら一定のまとまりごとに要約をノートに書いていったのです。しかしこれは非常に膨大な労働です。本を読む速度は著しく遅くなりますし、もし一部分でも要約が不完全だとノートをとる意味がなくなってしまうからです。それに書いても全体の内容は思ったよりも頭に入りません。これはすぐに挫折しました。
同様に本を筆写したこともあります。しかし筆写しても時間と労力を使うだけで一向に頭には残りませんでした。筆写よりもむしろ要約を作成しながら読み進む方が頭に残りました。
これらの読書の方法の問題点は二点です。すなわち読書に時間が掛かることと本の内容が記憶に残らないことです。メモをしようが筆写しようが駄目なのです。
私はこの問題に直面しこのままではいけないと思い、巷に溢れる速読術の本を読み漁りました。その結果、本を読むのではなく本を読み終わった状態にするという、自分なりの速読術を考案・修得するに至ったのです。
*1: ただし理解速度に制約されないと考える人もいます。曰く、そのとき理解していなくとも内容を頭に入れることはでき、後から思い出し理解することができるということです。ただ残念ながら私がその段階には達っしていませんので、そのような読書が可能であるのか判断ができません。脳の潜在力からすれば可能な気がしますが、ここでは読書速度は理解速度に制約されることにしておきます。