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本の読み方は教育されない
文字の読み方は教育された。しかし、本の読み方は教えてもらった記憶がない。
ここで言う読書とは、分析し、批評するための読書だ。著者の主張や意図、その問題意識や視野、その論証や根拠、その結論などを検証してゆく読書だ。
こうした読書をなぜか私達は教育されない。つまり、『本を読む本』でアドラーがいうところの「基本読書」のレベルしか教育されない。文字が読めれば本が読めるというわけではない。
本は「部品」から構成されている
僕が読書の初心者に伝えたいのは、本は一息に書かれたものではないということだ。本は一息で読めるはずの小さな部品から構成されている。だから、読む方も、そうした部品に分けて読み解いていった方がいい。
本を読むには部品の構成を把握する必要がある。簡単に言えば、一冊の本は章から構成され、その章は節から構成される。節は段落から構成されるだろう。つまり、本とは入れ子構造になっているとも言える。
一冊の本がこうした部品から構成される理由は、人間が把握できる文書の長さには限度があるからだ。論証する文章が長過ぎると読者の思考がついてゆけなくなる。だから一息に読める程度の長さの文章を部品にして書籍は構成される。
細部を忘れ、全体を把握する
無理に一息に読まず、こうした区切りを積極的に利用したほうがいい。
節なら節という単位で把握をしてゆき、次に節の詳細は忘れてしまおう。そして、複数の節がどのような組合せで章を組み立てているのかを考えるといい。そうすれば、章で述べられていることが分かりやすくなる。最後に、章の組み合わせですっきりと本全体を把握することができるだろう。
章全体、ましてや書籍全体を一続きのものとして捉えようとすると、思考の息が続かない。何事も、ある程度のまとまりで把握したら細かい所は見ないようにするのがコツだ。木を見て森を見ずという言葉がある。目の前の文字の連続を見ていると全体を見渡せなくなってしまう。あえて、身を引いて細部を忘れることで、すっきりと本全体を見渡せるはずだ。
構成を再構築する
ただし、ここで大きな問題がある。こうした構成が目次の章立てと一致していないことが多々あるということだ。あまりに内部構成が明らさまな章立ては野暮ったいのだろう。だから実際に読みながら、表面の章立てではない、内部構成を考えなければならなくなる。
ここで著者の問題意識や概念装置、理論と仮説などを検証しつつ把握する必要が出て来る。そうした作業を通じて、自分で議論の流れの全体を再構築してゆくことになるだろう。
ここまで読めば、著者の視野や仮定、推理などの限界なども見えてくることと思う。それでもなお、その主張と議論に魅力があることがある。ここに至って、その本と付き合えたと感じるのかもしれない。
まとめ
大切なのは、読書の目的を明らかにして、メリハリをつけることだ。本を理解するためには一度で理解しようとするよりも、作業を分けた方がいい。
つまり、節を理解するときは節を理解し、全体を理解するときには更に細部を飛ばして理解するということだ。漫然と文字を追っていると時間の浪費になる。大切でなさそうな部分は、ひとまずさっと目を走らせるだけでいい。
そのとき、隣に目次を書き写したのを置いておき、重要な文に線を引いてゆくこと。文字を読むのではなく、線を引いているという気分で読むと速く読めると思う。更に、全体を把握するときには、傍線のところだけに目を走らせるようにする。
更に言えば、丁寧に読むことを敢えてやめてみるといいかもしれない。目についたポイントや「あれ?」っと思ったところに線を引いてゆくだけで、細かい内容を読む必要なんてないと思う。線を引いたところだけを読んで、なんとなく議論の流れがつながっていれば十分だ。
だいたい、ほとんどのことは人間忘れてしまうのだから、忘れそうなことは最初からインプットしなくてもよいと思う。細部にこだわるのは後からで十分だ。
たぶん、これが最短で本の内容を理解する方法だと思う。
そして最終的には、シントピカル読書(並列読書)をしてゆくとよいと思う(「思考力を鍛える読書」参照)。