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読書は思考の力を向上させる営みであるべきだと思うが、漫然と読んでいるばかりでは著者に説得されてしまいがちである。一つのトピックに答える複数の議論を吟味するシントピカルな読書が、思考力を鍛える上では有効なのだと、最近になってやっと気付いた。
自己に潜在する欺瞞を見抜く難しさ
私はよく詐術に欺かれていた自分に気づく。 具体的には、自分が無意識に思い込んでいた判断の根拠が、 単に欺瞞でしかなかったことに気づくのである。
自分の外にある欺瞞を見抜くのは私にも容易いと思う。 しかし、自分にとってすら当然になった欺瞞を見抜くのは難しい。 無意識に刷り込まれている迷信や価値観、歴史館が私にはあり、 それは私の思考の一部になっていて、 そこを批判されると感情的になってしまう。
無意識に己に刷り込まれた詐術を見ぬくには物事を 批判的かつメタに捉える必要がある。 具体的には、ある争点に対しての判断の枠組みを明かにし、 更にその枠組み自体を懐疑してゆくことが求められる。 潜在する枠組み自体に懐疑の目を向けないことには、 いつまでも流通したドグマの欺瞞に欺かれ続けることになる。
自己に潜在するドグマを見抜く最善の方法は 奇譚のない議論であろう。 しかし、そうした議論に相応わしい友というのは得難い。 勝ち負けではなく、自分にとってすら無意識であるところの 思考の枠組み、価値観、視点などを浮き彫りにできるほどに 語り合える機会というのはそうはない。
そこで、書物に頼ることになる。が、ここで私はよく罠に嵌まる。 著者の考えを無批判に受け入れてしまうということである。 有名な書物であった場合にその説得力は強い。 人と話す時にもそれで筋が通るようになる。 こうしてその思考の枠組みを無批判に導入してしまうことになる。 確かに優れた著者の本は欺瞞を免れたものであるかもしれないが、 人の考えた思考を導入するだけでは知的であるとは言えない。 考える力、懐疑の力、欺瞞を見抜く力は養えない。
批判的に読めばいいのだろうが、 何しろ著者は私よりも名実ともに知的であり批判的に読むことは難しい。 著者と異なる視座を持つこともできるかもしれないが、 その違和感を掘り下げることは通常の読書ではなかなかできない。 そもそも、著者と異なる思考の枠組みに気づけるということ自体が 私の場合には非常に難しい。
自分は本との向き合い方を間違っていたようにも感じる。
比較読書で優れた議論を相対化する
思考を鍛えるには、本とどう読めばいいのだろうか。 そうしたことを、たまに思っていたのだが、 最近やっと、アドラーなどが言うシントピカル読書、 あるいは比較読書というものを積極的に行えばいいということだった。
上でも述べたように、一つの書物に向かっているだけでは批判的になることは難しい。 殊に自分の意見が確固たるものでない場合には、私は単純に著者に説得されてしまう。 だから、その著者の考察に別の優れた著者の考察をぶつけるのである。 こうすれば、ある著者の優れていたと思われた考えが相対化されてゆく。 これならば私にとっても思考を深められるという訳だ。
そのためにも、一つの問いを決める必要がある。 その問いに対し、複数の書物がどのように答えるのかを考えるのである。 更には、それぞれの著者の主張とその議論、別の意見への反論などを並べてゆく。 その時点で議論は相対化されるだろうし、どこに論点があり、 各自の思考の枠組みも透けて見えるかもしれない。 そうして積極的に自分の意見も練る中で、自分の無意識に抱えていた 価値観も浮き彫りになってゆくだろうと思う。
しかし、一つの問いに対して様々な意見が飛び交うような争点は そんなに多くはないし、そうしたものの多くは抽象的であり、 各著者の議論を整理するのは大変なことである。 あるいは、時事的な問題であり、判断のために必要な情報や事実が無限に拡散してしまう。
理想的には、一つの問い掛けがあり、その問いに答えるにあたって 必要な情報は少なく限定されていることが望ましい。 情報の摂取や事実確認に奔走されては懐疑や思考の能力は養えない。
次にそうした問いに対して様々な知性が様々に答を出していて、 その答を通じて、それぞれの価値観や視座そのものが懐疑されることが望ましい。
だが、そんな都合のよい書物があるのだろうか。こう悩んでしまうかもしれない。
しかし、元来、書物の世界はそうした書物が主流であったことに気付く。 つまり、これは一つの原典と複数の注釈書を読むような読書である。 原典とは解釈に開かれた一つの問い掛けであり、 解釈に必要な情報はそこに集約されている。 原理的には原典さえ読めば、自分の意見を出すには十分な情報を得られたことになる。
そして、その原典に対しての注釈書は議論を学ぶ上では非常に有意義である。 ある原典への解釈に様々な意見が述べられるが、 それを仔細に整理すれば、どれも一定の真実が含まれていて、 それぞれの価値観が浮き彫りになるだろうし、 どこから先が議論のできぬ領域なのかも見え隠れする。
こうした原典と注釈書という読書のスタイルは、 少なくとも本の向かい方を習い、議論の能力を高めるのには、 最善ということになると思う。
小さい内に、原典と注釈による比較読書を行えば、 本にどのように向かえばよいかが見につくのだと思う。 こうした懐疑の力をもって、 「善く生きる」などの普遍的な問題に進んでいければ 実りのある読書となることと思う。