「情報不安症」という言葉がある。情報に関する不安症ということで、これは「自分が知っているべきと思う情報」と「実際に自分が知っている情報」との乖離が原因である。
「自分が知っているべきと思う情報」は飛躍的に増大し続ける中、自分の情報量に乖離に不安を覚えやすいと言える。
どう考えても私は情報不安症なので対策を書いておく。

先日の記事(タグの種類への考察 タグをいかに分類し拡張するか)にて、タグについて考えたが、これはリンク(ハイパーリンク)についても同じことが言えると思う。このことについて妄想してみる。
現在のハイパーリンクは一方向で意味も示せない。だからリンクされた二つの要素の関係が分からない。それに、複数の関係をシンプルに示すことができない。
リンクの種類を増やし、複数のリンクを可能にすると、複数の要素の関係を明示でき、機械的に視覚化できるようになる。
私たちがタグを付けているのは、何も分類して楽しんでいるわけではない。関連情報を一覧表示したいからだ。ならばタグに拘らずに、関連の基礎であるリンクを利用することもできるはずだ。そして、分類されたリンクを元にして視覚化すれば、より有意義な一覧表示が可能になるはずだ。
思考というと分類を思い浮かべがちである。しかし、古人の伝記を読んでみても、あるいは、自分自身の思考を反省してみても、人間の思い付きは関連付けや連想によるものが多い。「全然関係ないと思ってたアレがヒントになった」というわけだ。思考ってのは関連や連想なのだと思う。
だから、ある情報を「どのカテゴリーに入れるか」と考えるよりも、「どの情報と関連させておけばよいか」と考える方が自然であると思う。カテゴリーという分類は往々にして変化してしまうが、一度発生した「関連」は変化しない。
固定アドレスとそれを利用したハイパーリンクシステムというのは、ディレクトリシステムよりも柔軟で使い易い。インターネットの移動が、ハイパーリンクのクリックではなく、階層構造の移動だけだったとしたら、かなり不便だったと思う。
ここで思い付くのはタグもリンクの一つだということだ。しかし、これをどう考えるべきだろうか。
タグの場合には、そのタグの概念が「親」で、個別の要素が「子」と考えられると思う。そして、個別の要素同士は「兄弟」ということになるだろう。この親子の関係で連想される要素間の関係をリンクの関係、あるいはリンクの方向と考える。
ここで先日の記事の「タグの分類」を復習する。タグにメタタグとして、以下のものがあると便利だと主張した。
以上はタグではあるが、関係を明示しているので、リンクであると考えた方が自然かと思う。つまりタグに当たる概念を個別の要素の「親」と考えるとすっきりとするかな、と。
「おいおい、それじゃあタグでいいじゃん」と思うかもしれない。
しかし、タグでは「親」は、ただの単語だが、リンクであれば要素にできる。というか、リンクなのだから普通は「親」は要素であって、要素を取らない「親」、あるいは「親のない兄弟」(関連はあるが、それを名指す概念を明示していない状態)は、どちらかというと例外で考える。
例えば、アマゾンの本のページを「親」として、その子供に書評のページを「子」としてぶらさげるということをリンクは可能にする。最初はどちらが「親」か「子」かも分からずにリンクさせるば、書評の数が増えると、[topic]の連関で関係を定義するのが妥当だと思う。
あるいは、ある行動指示のメールを親として、その下に、それに必要な情報を子としてぶらさげたりとか。
あと、参照の親子関係(目次と本文、本文と注のような)も必要か。いや、これも [topic] でいけるかな。
[author]や[type]はリンクってよりは、あきらかに属性って感じもするが……。でも[author]をリンクにしておくと便利さもあるかなあ。
いや、こんなこと、自分で考えなくても誰か考えてそうだな。妄想中止。
私たちはメディアを持ち歩いている。
それは手帳やノートのような冊子体かもしれないし、インデックス・カードなどの紙片の束かもしれない。紙に限らず IC レコーダであったり、コンピュータであるかもしれない。
私たちはなぜそうしたメディアを携帯するのだろうか。ここでは3つの理由を指摘してみたい。
まず考え付くのは、記憶を補助するためだ。つまり、そのメディアを見ることなしには想起できない情報を得るためだ。例えば、住所録、情報のメモ、スケジュール帳などがこの目的に資すだろう。
私たちは将来必要になるであろう情報を携帯メディアに記録してしまう。「記録」が常に引き出せるのであれば「記憶」する必要がなくなる。記憶の負担と不確実性は軽減される。また、辞書やネットの検索を通じて、外部記憶には自分の入力すら必要出ない場合もあるだろう。この意味で携帯メディアとは 「外部記憶」 であると言える。
ところで、メディアの携帯による記憶の補助はこうした実際的なものだけだろうか?
例えば、私たちはそうしたメディアに家族の画像を載せることがある。つまり、しばしば私たちは携帯の壁紙や手帳の見開きに子供尾の写真を貼る。あるいは、自分の夢や信念などを手帳に書いている人もいる。目標を掲げて、そこからスケジュールをブレークダウンしている人も多い。
これはある意味では「記憶の補助」に他ならないが、それは住所録やスケジュール、情報のメモとは性格が異なる。
家族の写真を貼ったり、夢を書いたりするのは何故だろうか。たぶん、それを見ると「いい状態になる」からだろう。つまり、穏やかな気持ちになったり、頑張る気持ちになるのだ。
こうした特徴は文字や写真に限らず、音楽や音声であっても同じことだし、自分のお気に入りの本を持ち歩くことでもおなじことだ。
気分次第でパフォーマンスは大きく変わる。だからこそ、よく目にする場所に自分を穏やかにしたり奮い立たせるものを置くことで、精神的な面を助けてもらっているのかもしれない。
これは壁に紙を貼ったり、机に写真たてを置くことに似る。音楽についてはまさに自分の部屋を持ち運んでいるようなものだ。この意味で、携帯メディアとは 「持ち運べる環境」 である。
ところで、自分の夢や家族のような大切なことは頭に焼き付いていて、わざわざメディアで運ぶ必要はないように思うかもしれない。もちろん、そういう人もいると思う。ただ、私は人間というのは驚くほどに何でも忘れてしまうものだと思っている。かっとなったり、しょげたりすると自分の夢なんてころりと忘れてしまうものだ †。そういう時に、愛や勇気を与えてくれるものは想像以上に役立つ。
私たちは自分が何を思いつくのか次の瞬間ですら自分でコントロールできない。だから、自分を無意識のレベルから方向づけようと思うのならば、日々目にするもので刺激しておくことぐらいしかできない。つまり、夢や目標を常に目にしておくことで、無意識的な発想に影響を与えられると考えることができるというわけだ。
これは、多くの成功本が言っていることでもある。いわく「目標を紙に書け、目にするところに貼れ、朝と夕に読み上げろ。」もちろん考え方やイメージだけでうまくいくわけはないが、すくなくとも、よい考え方やイメージがなければうまくいくはずがない。
持ち運べる環境である携帯メディアは、こうした無意識の方向づけにも役に立つ。そこに書かれた「自分がどういう人間になりたいのか」「どういう未来が待っているのか」ということが、自分の習慣をつくりだすだろうし、そうした習慣が未来の現実をつくってゆく。
そこに記された情報は引き出せるだけでは意味がない。その考え方が習慣となり、その夢が現実になることが大切である。だから、繰り返し目にして記憶の底に焼き付け、よりよい考え方やイメージを身体化してゆく。
ここに至って携帯メディアは、客観的な情報を記録した外部記憶としてではなく、自分にとって内面化すべき考え方を保持したものとなる。それは自分を方向づける道具である。
これは写真や手帳に限らない。一冊の書物や一つのお守りなどが「トリガー」となり、自分を方向づけるメディアとなるだろう。
さて、ここで上記の視点をまとめてみよう。
外部記憶としての携帯メディアでは、情報を引き出すには常に意識的な操作が必要になる。携帯メディアがある種の「環境」になることで、無意識的に情報を自分に与えることができる。だから自分の方向性を決めたい場合には、そこに自分にとって好ましい考え方やイメージを盛り込むことで、自分を無意識的に方向づける道具となった。
ここで重要なのは、外部記憶としての携帯メディアと自分を方向づける道具としての携帯メディアは性格が大きくことなるということだ。ちょうど「持ち運べる環境」としての携帯メディアという性格を軸にして対照的である。
その一つの違いは、情報を引き出すときに意識的であるか無意識的であるかということだ。客観的な情報を引き出すのには意識的な操作があってもいい。しかし、自分の夢や習慣にしたいことを意識的な操作を通じてしか取り出せないのでは意味がない。何気ないときにふと自分に教えてくれる仕組みでなければならない。
また、外部記憶としての携帯メディアは「情報を忘れるための道具」である。そこに「記録」することで「記憶」をしないですむ。これはワーキングメモリ(短期記憶)の負担を軽減する。雑多な情報が頭をかすめてワーキングメモリを圧迫している場合には、それを「記録」してワーキングメモリの外に追い出してしまった方がよい。
一方で自分を方向づける道具としてのメディアは「情報を身体化するための道具」である。自分の夢や考え方を記録することで忘れてしまってよいのなら、そもそもそんなことは記録しないでしい。そうした自分を方向づける情報は徹底的に記憶され、長期記憶に保存され、習慣となり、身体化されねばならない。
携帯メディアというとデジタルとアナログという軸で語られることが多いが、こうした目的を軸としたことから考えてみると、よりよい利用法やあるべき姿が浮かび上がってくると思う。
† いい言葉を耳にしてテンションが上がったとしても、その言葉をころりと忘れて、同じ間違いを犯したりすることを私は何度もしている。この点を ノートの取り方(5) 常に追記する では以下のように書いた。
人間は何でも忘れてしまう。本当に大切なことをいとも簡単に忘れてしまう。ふと気が付くと、自分が何をするつもりでそこにいるのか、その何年という時間を注ぎこんでいたのかすら、あっさりと忘れてしまう。何かの痕跡なしには、何も保つことが出来ない。だから、私たちは痕跡を残し続ける。
ここで痕跡を残すというのはメディアに新しいデータを載せることに他ならない。
Googleマップ ストリートビューの気持ち悪さ を書いたら、Googleマップが地図ではなく仮想世界であることに気づいた。このことをどう考えるべきだろうか。
Googleマップ ストリートビューは地図ではない。地図とは俯瞰するものだ。その中で移動できるのもは地図ではない。仮想世界だ。グーグルは地図を作成するふりをすることで、リアルで広大な仮想世界を安価に手にいれてしまった。
Google マップとは「地図」ではなく、仮想世界をリアルかつ安価に構築する技法だったのだろう。これほどにリアルな仮想世界を作るには、実際に撮影してしまうのが一番安あがりだ。こうして「構築 = 撮影」した仮想世界を活用するだけの能力を Google は十分に有している。この映像を更に分析し、衛生からの画像とも合成することで 3D 世界としての操作性を上げることも可能だろう。
そこから何が起きる? ネットゲーム? いや、そもそもゲームですらない本当の「第二の世界」だろう。そこでリアルに買い物するのは難しくない。道は準備されたので店舗さえあれば仮想世界は更に広がる。ショッピングの客が増えれば、そこで働く人間も増えることだろう。(既に Everyscape という建物の中にまで入れるサービスが存在する。)
成功すれば、Google はまさにモノに溢れた「世界」を一つ、デジタル化して保有することになる。広告収入は莫大だ。ネットの 3D のインターフェイスは失敗の連続だった。しかし、この計画の成功はそれほど難しくないように思える †。
だから、グーグルのネットゲームでは部屋しか準備しなかったのかと思う。あのネットゲームの部屋とストリートビューを接続するのは難しくない。あのネットゲームの「冴えなさ」は「大企業病」などではなく、戦略だったのだろう。
現代人は世界をモノとして捉えがちだ。だいたい話は「行った、買った、食った」である。その「行った」はだいたいは視覚的な情報に過ぎず、写真で代用可能となっている ‡。そうなると、観光やショッピングの「意味」の大半はこの仮想世界の中で行えるということになる。
音楽をライブで聴くことがある種の「贅沢」であり、通常はCDやmp3などの複製で聴くことが日常となったように、観光やショッピングで「現地」へ足を運ぶことがある種の「贅沢」となるという時代は、そう遠くないのかもしれない。
† もちろん、世界をモノとして捉えるなど、私個人にはナンセンスだが。技術の発達が価値体系を変革する で書いたように、今後、技術発達の「行き過ぎ」が私達の価値観の再考を促す場面が増えることと思う。
‡ 街は人と人が出会う場所ではない。その意味で出来事は起きることはない。街はモノの世界である。人はモノと出会うために街へと向かう。そして、世界の意味が出来事でない以上、その意味は物的証拠が担う。フィクションの世界、あるいは現実でもそうなのだろうが、ある場所に「存在したこと」を証明するために、「土産」と「写真」を入手するという行動がよく見うけられる。
グーグルマップ・ストリートビュー (Google Map Street View) はなぜこんなに気持ちがわるいのだろう。
たぶん他にも見方があると思う。教えていただけるとありがたいです。
知的生産のプロセスについてもう少し考えてみた。すると、既存文脈の解体と新規文脈による再構築がなされているというのではないかと思いついた。
先日は知的生産のプロセスを以下のように考えた (知的生産のプロセス):
このプロセスは以下のようにも考えられると思う:
2番目の「情報との戯れ」と3番目の「新文脈の創発」が自分にしかできない。他人はもちろん情報処理機たるコンピュータにはできない †。
現実世界では枠組みが与えられない。むしろ、あらたなパラダイムを創造することが仕事になる。それ故、問いをたてられれば仕事の大部分は終わる ‡。
だから個別の情報を理解・記憶しても意味がないことが起こる。それが、どの程度、新規の枠組みを想像するに足る操作性であるのかが問われる。ただし記憶にしろ記録にしろ、操作可能にしておくのは必要不可欠だ。自由に操作できなければ、つまり戯れられねば、どうして新しい枠組みが閃けようか。
問題は新しい文脈の創発だ。だから創造的な仕事ではメッセージは新しいパラダイムに他ならず、パラダイムがメッセージになっている。内容と形式との問題は、ここにおいて超越される。
さて、ではどうしたらいいか。ということで次回へ続く。
† 逆に言えば「情報との戯れ」と「新文脈の創発」以外は、本質的に情報処理機でできる。つまり、大半の作業は、コンピュータが行える。現に書籍やレポートのコンピュータによる自動生成は既に行われ、そうした本は売られている。
‡ 通常の学習では枠組みも問題が与えられる。だから、学習者は記憶された個別の情報を基にして、その問題への答を記述する。問いがあるおかげで 3 番目のプロセスの必要がない。そして、多くの場合、外部記憶(= 記録)を利用できないので、記憶の能力が重要視される (持ち込みが許された試験の場合には、外部記憶の操作能力が大切になる)。
私達は日々、携帯電話やコンピュータを利用している。このような道具を使って文章書くという言葉私たちの日本語の運用、ひいては思考というものに、変化を与える可能性はあるのか。またあるとすれば、それはどのような変化だろうか。
ひとまず、この問いに関連しそうな情報をまとめておく。
私はここでいたずらにテクノロジー恐怖論を唱えたいのではない。テクノロジーは便利にもなれば、不便利にもなりえる。あくまで使い方の問題であり、どのように発展させていくかという問題だ。そうした全体を考え、テクノロジーの未来を考える上でも、こうした視点は欠かせないと思う。
それに以下の情報が「正しい」のかすら分からない。ただ考え始めるきっかけにはなるかもしれない。少なくとも数人の人が「何かが起きている」とは感じている。その「何か」を知るよすがにはなろう。もちろん、その考える「方向」すら「正しい」か分からないが。
まず、タイプ入力 (ワープロ書き、パソ書き、キー入力) についていくつかの文章を ひろってみよう。
例えば内田樹はこのように言っている。(参照)
文房具のテクニカルな条件の変化にともなって文体は変化する。
私の場合はワープロの登場によって、あきらかに文体に変化が生じた。
それは「無限の修正の可能性を織り込み済みで書き飛ばす」ことが可能になったことで 、それまでだったら「深追い」するはずのなかった「あまり追いかけても先の展望のな さそうなトピック」に対してマメに反応するようになったということである。
ワープロ導入によって、字数的にはそれまでの10倍以上のキャパシティが確保され、 それからあと私は「どうでもいいようなアイディア」を執拗に追い回すようになった。
阿部和重も読売新聞のインタビューでタイプ入力による文体の変化を語っている。(参照)
「器械を介して書く際、人格の乖離(かいり)が起こるのは避けられない 。少なくとも漢字変換の機能が介在するわけで、もうこれが自分の文体だなんてとて も思えない。作家がソフトに慣れる過渡期の10年でもあった。10代の女性の方が 、画面で文章を編集する感覚には優れていたりする。しかし文体信仰が簡単に廃れる はずはない。完全手書き派も復権してくるでしょう。」
インタビュアーは阿部の文学をこう解説する。
キー入力という手法の変化が、原稿と作者の間に新たな距離を生んだ。そ の距離を利用して阿部氏は、キレやすく多重人格的な、それまで日本の小説には現れ なかったタイプの人物を造形する。
二人はタイプ入力に対して肯定的である一方で、同様の変化に気づきながらも、それ を否定的に捉える人もいる。書道家・石川九楊がその一人だ。タイプ入力での文体につ いてこう述べている(『二重言語国家・日本』p.68)†。
筆蝕を欠いたワープロから文体が生れるかどうかは疑わしいが、[...]良く 言えば、私小説的膠着から解放された軽やかで、希薄な文体、また、自省が足りず、 飛躍に飛躍を重ね、あるいは馴れ馴れしくまた犯罪臭の強い自己完結的文体が生れて くる。ワープロ時代には推理小説や SF 小説が氾濫することになる。
また、他の石川の本からの、孫引きになるが博報堂生活総合研究所『生活新聞』 (No.395)では縦書きと横書きとタイプ入力での比較がなされたらしい。それによると、 書かれている内容の違いとしては以下のようになるらしい。
「文体、言い回し」の違いは:
特にタイプ入力の特徴は:
こうした特徴の分析の妥当性は知らないという留保はした上で、実際に自分のものも含めて、ネット上で書かれたものを考えると特徴としては当たっているように私は思う。殊に、私もよく書くライフハック系、自己啓発系の文書がネット上で氾濫することはこのタイプ入力の特徴そのものであると言える。
以上のタイプ入力の特徴を私なりにまとめてみる。
こうした傾向についてどう考えるか。楽観的かつ具体的になり、楽であるのはキー入力の長所であると言えると思う。一方で、内省が少なく、分裂的・自己完結的となるのは端的に短所である。
この両方の側面を、私達は実際にブログや掲示板を覗くことで感じることができる (既にこの文書、このブログが例証である)。これが現代人の特徴であるのか、タイプ入力というテクノロジーが与えたものなのか、それともその相互作用であるのかを考えるのは興味深い……。††
携帯電話での作文についてはどうだろうか。先にワープロに対しては肯定的だった内田樹は否定的な態度をとる(参照)。
ケータイで映画評を書いて送信したことがあった。
まことに困難な仕事であった。
画面が小さすぎて、少し長い文章を書くと、 主語が視野から消えてしまうのである。
何度も自分が何を書いているのかわからなくなった。
ケータイでは複文以上の論理構造をもつ文は書けない。
それはいずれ「複文以上の論理階梯で思考する」習慣の消滅をもたらすであろう。
他の文書では「携帯メールを主要なコミュニケーションツールとする人々はいずれ『複文以上の論理階層をもつ文章を書くことができない』人間になる可能性がある」と述べている。(参照)
携帯メールの入力作業というのは、私には「書いてから1秒経たないと文字が見えてこない鉛筆」で文字を書いているようなもたつき感をもたらす。
私のようなイラチ男の場合、ときどき誤入力をして意味をなさない同音異義語が画面に出てくると、こめかみに「ぴちっ」と青筋が走り、そのまま「え~い」と携帯電話をゴミ箱に投げ捨てたい衝動を抑制するのに深呼吸をせねばならぬこともある。
このような「どんくさい」ツールは複文以上の論理階層をもつ文章を書くことには適さない。
論理の流れは感情の流れより「速い」からである。
親指ぴこぴこではロジックの速度をカバーできない。
文房具の物理的限界が思考の自由を損なうということはありうる。
ここで提起されているケータイ入力固有の問題は
更に言えば、ディスプレイの小ささの話でも、複文が表示されないということはな いが、複数の紙を広げたような一覧性は、通常のパソコン画面では得られない ‡。
さて、こうしたケータイがある程度の論理構造を持つ文書を書くのに適さないとすれ ば、ケータイによるメールは自然にシンプルな構造をもって書かれることになるだろう 。すると読者は読むのが楽になる。
書く者の不便は読む者の利便につながることがある。実際に、パソコンでのメールが 普及したばかりの頃、書くことと送信することの容易さから長いメールが氾濫した時期 があった。これは書く者の楽さが、読む者を苦した例だ。同様に、いま私が書いている このような長く勿体ぶった文書を私はケータイでは書くことは想像も及ばない。もしケ ータイで書くとすれば、よりシンプルな表現となるだろう。それは読者の負担を著しく 軽減するはずだ。‡‡
一方で、多くのケータイ小説は短文の連続であり、改行の連続である。つまり段落と いう構造を持っていない。それでも一定に意味内容を飽きさせずに伝えているのは、イ メージを伝えやすい典型的な表現や心情描写が多く利用されているからだろう。
これは人気のあるアニメーションの絵が全てシンプルであることを想起すればいい 。未来から来たネコのアニメにしても、アメリカのネズミのアニメにしろ表現はシンプ ルであり、かつ登場人物は徹底的にパターン化されている。既視感のある登場人物をイ ラスト的に描写することで、表現を受容するのは飛躍的に容易になっている。
以上のケータイ入力での文書の特徴を列挙してみる。
このことから考えて、ケータイ入力はシンプルな表現を書き手に強制することで、 は読む方の負担が少なくしてくれる。その一方で、表現は常套句の連続になりがちであ り、典型的ではない問題を伝達するのには向かないと言えると思う。
さて、こうした分析を通じて考えることは、道具と表現との深い関連性だ。私は安易 に「現代人はこういう技術を手にしたからこうなった」とか「現代人はこうした性格だ からこうした技術を好んだ」と結論するつもりはない。
確かに道具がある種の表現を形成するのかもしれない。あるいは、そうした表現をしたい人間が、そうした道具を生み出し好むのもしれない。しかし、これはどちらか一方の現象というよりは、深い相互作用があるのだろう。
一人の人間として、ある道具に触れることである種の表現が形成されることが確かであるだろうし、そうして形成された表現は自分のものとして好ましくなりもするだろう。そして、更にそうした道具を進化させることだろう。
あるいは、道具の方向性に反りが合わずに苦しむことになるかもしれない。問題は「現代人」という抽象概念ではなく、一人一人の個人の表現の問題である。
例えばケータイでシンプルかつ典型的な表現をしていれば問題ない。そういうことをしたい人はそれがよい。同様にコンピュータで、入力が楽なことによる明るく具体的な文章や、日本語入力が介在することによる分裂的で犯罪的な文章を書いているのも問題ない。
問題は、そうした性格と異なることをしようとしたときだ。ケータイで複雑な表現をしようとすれば苦しむことになるのはみえすいている。あるいはコンピュータで内省的で連綿とした、観念的な表現をすれば苦しむことになるだろう。それは、その道具がその逆の方向で進化したからであり、その結果として人の文化がそこにあるからである。文化があるときに、人はそれを無視して進むことはできない。
こう考えると、多様化した現代では、「時代」に合わせるのではなく、自分がなしたいことによって、多様な選択肢農中から、道具を考える必要があるのだと思う。
† ただし本書では、石川九楊はタイプ入力の問題以前に、縦書きと横書きの問題を中心に考察している。
†† ここでは意図的に「……」で終始してみた。私が普段こういう終始をしないの は、日々読んで下さっている方ならご理解いただけると思うが。為念。
‡ もちろんデュアル・ディスプレイにしたり、画面を分割して複数の部分を表示さ せたりすることは可能であるが、プログラマを除いてはあまり普及していないと思う。
‡‡ いや、むしろケータイでは何も書かないだろう。そして、それが読者にとって一番ラクだろう。
先日 Amazon の kindle がアメリカで爆発的な人気の一方で、日本ではソニーと松下が電子書籍端末事業から撤退することについて雑感を書いたが(参照)。電子書籍端末(ebookリーダ)の普及は私たちの生活に大きな影響を与えるものだと考えている。ここではその期待をリストアップしてみた。
ところで、こう言っては何だが、書籍の電子化にはそれといった期待をしていない。勿論、辞書が電子化したことによるメリットがあったように、書籍の電子化はメリットをもたらすだろう。しかし、これはただ単に書籍にデジタル化したメリットであるに過ぎない。この考えでは何も新しさは誕生しない。
と、こう考えていると、単純にノートパソコンが高性能化すればいいだけという気もしてきた。どうなんでしょう?
先日のポスト でタグについて少しだけ調べたけど、いまいち釈然としなかったので、もう少し調べてみた。タグ活用のヒントになるかも。
タグについて調べてみると、タグにはどうも7種類ほどあるらしい。
(Polar Bear Blog より)
- アイテムが何に関するものか (ex. cat, Microsoft, Steve Jobs)
- アイテム自身が何であるか (ex. article, book, blog)
- アイテムの品質や性質を示したもの (ex. funny, stupid, これはひどい)
- タスク管理 (ex. toread, jobsearch, あとで読む)
- アイテムを誰が持っているか
- カテゴリーの精緻化(単体では使われないタグ)
- セルフリファレンス(myで始まるタグ) (ex. mystuff, mycomment)
これの上から5番目までを順番を入れかえて、便宜的に以下のように書くとする。
これは文になる。
例えば:
こうして文を書けるのだとすると、この構文で twitter なんかから自動でブクマにポストできたり、あるいは、ブクマを検索するときに、そうしたタグ種類に意識的なものがあると便利だと思う。そうすると「任天堂の」ものなのか、「任天堂に関する」ものなのかが区別されて、いくらかは便利かもしれない。というか、その程度の機能は既にあるのかな?
更に、時間や状況を指示する構文も準備すると更に便利な気がする。「来週に」とか「旅行の時に」とか「買い物の際に」というような指示を行う。例としては
他にも、その情報源を示す構文もいいかも。こうした情報がしっかりと紐づけできて、シンプルに運用できるととよさそう。
タグにタグ付けできない現状では、現状のタグに以下のような拡張をすると良いのではと思う。こうすることで、利用者にとっても便利だし、かつ、タクソノミーとかフォークソノミーとかオントロジーとかよく分からないけど、そういったコンテンツの客観性のある分類を集合知的に行うという活動にも支障がなくてよいと思う (だからトピックのタグには接頭辞はつけない)。
はりきって記号の接頭辞を考えたけど、まあ、別に「人:矢野哲也」とかでも良いのかもしれない。それに、記号ってのは拒否される可能性あるし……(でも全角で入れればきっと通ると思う)。
ともかく、こうしたタグに分類をしておいて、バシバシ「@旅行」「@鈴木と会った時」「@週末」「@買い物」「@プログラミング」「@いつか」という状況タグやら、[!読む」「!試す」「!ブログに書く」「!購入検討」「!借りる」というアクション・タグを打てばよいと思う。
いくらでも複雑化はできるので、こういう夢想をするのはバカらしいのでこの辺にしておきます。
でも、これを読んでタグについての考察が深まれば有り難いです。また、こうしたタグの分類や活用に関してアイディアがあれば紹介して頂けると嬉しいです。
発達したテクノロジーがそれ自体を支えていた価値観を破壊する。こうした現象が様々な分野で見られるようになるだろう。
これは全世紀初頭に写真が絵画に与えた影響と基本的に似ている。しかし問題は更にラィカルだ。いまや複製技術ではなく、合成技術の時代なのだから。
以前「マトリックスでアクション映画は終わりを迎えた」と俺は言ったと思うが、それと同じ事が音楽で起こりつつある。
マトリックスの件をもう一度書いておくと、何の違和感もなく人の「アクション」として3Dの駆使を利用する映画の到来によって、通常の意味での「アクション映画」は「無意味」なものとなってしまった。無限大の能力は、能力という概念そのものを破壊してしまう。どんな「アクション」でも可能なとき、人はそれをアクションとは思わない。つまり「面白くない」のだ。
それ故、今後、映画は「回帰」が求められることになるだろう。それは演劇的なものであり、ドキュメンタリー的なものとなると思う。
同様に音楽・音響テクノロジーの発達とそのポップカルチャー化が「ポピュラー音楽そのもの」を破壊しつつある。
安定した音程・リズムなどが、機械によって何の違和感も無く音楽として普及し、そのテクノロジーは最終的に人の声の合成にまでに及びつつある。ヴォーカロイドの人気と普及が更に進めば、ヴォーカロイドによる無限の自由によって、ポップそのものの価値観そのものが破壊されてしまうだろう。
広い声域、正確なピッチ、安定した音の持続といった”音楽家”の技術は、この技術によって無効になってしまうだろう。「機械のような」技術を求めた人は去ってゆくしかない。機械が登場したときには。
複製技術、つまり録音再生機器は演奏ごとに演奏家の存在を必要としたが、合成技術にとっては原型となる演奏家が一人、それもデータとして保存されればよい。あとは不要なのだ。
この問題はスポーツの分野にもおよぶ。 ロボットの究極はチェスや将棋の世界チャンピオンにAIが勝ち、 サッカーや野球の世界優勝チームにロボットが勝つという事態を生むだろう。
ロボコンの目標をご存知だろうか?それは、2050年までにサッカーのワールド カップ優勝チームに勝つ完全自律型のロボットを作り出すことだ。完全自律型のロボットが、人間のチームに勝つとき何かが起こるだろう。そこでスポーツに存在する「勝ち負け」という考えそのものが馬鹿らしくなってゆくだろう。
人はここに至って初めて音楽や映画、スポーツなどを反省するかもしれない。そして、それまでに無批判かつ無意識に想定していた、勝敗・正確さ・力量といった価値観そのものを疑うということにまで至るだろう。
音楽や映像が、「電子の戯れ」「デジタルなデータ」であるのだとしたらそこに意味はあるのだろうか?時代は既にこう問うところまで進んで来たのだろう。スピーカーの音、ディスプレイの光だけを私達は「受信」しているのだろうか?「再現」ではなく「合成」であったとしても、同じ電子データが受信されればいいのだろうか?そこに潜む「気味の悪さ」とは、単に「慣れ」の問題に過ぎないのか? それとも……?
残されるのは3つの選択肢だ。
さあ、どうする?
俺はここで技術に対し、何と言うか? それは「がんがん、やれ!」だ。行くところまでテクノロジーが行けばいい。その究極の「完成」が人間に真の「苦境」を厭でも気が付かせられるように。
すぐに技術化された動物になった人間で、街はあふれかえることだろう。不毛なスピーカとディスレイとの戯れで無為に過ごす人も溢れることだろう。ここで浅田を引くのも恥ずかしいが、彼はこう語っている。
いつどこにでも待機していて、どんな問いにも打てば響くようにこたえてくれるメディアは、あの喪われた半身たる母の理想的な代補であり、それと対をなした子どもたちは、電子の子宮とも言うべき閉域の中にとじこもることができるのだ。言いかえれば、メディアは意地悪く身をかわし続けたりはしない親切な鏡であって、テクノ・ナルシシズム・エージのひよわなナルシスたちは、それを相手に幸福な鏡像段階を生き続けるのである。幸福な、つまりは、外へ出るための葛藤の契機を奪われた、ということだ。こうしたエレクトロニック・マザー・シンドロームこそ、ソフトな管理社会をめざす権力にとって絶好の手がかりであり、ひるがえってみれば、スキゾ・カルチャーへ向かう道に仕掛けられた最大の罠であると言えるだろう。(浅田彰『逃走論 スキゾキッズの冒険』)
最大の罠は成功することだろう。それもまた仕方のないことだ。人類が「機械のように」正確で力強い技術を求めたのだから。まあ、そうした地球を覆う歴史の流れには「馬鹿らしい」とは俺は言うが。
この記事は2008年6月24日の友人 I へのメールがもとになっています。そのメールを受信してくれた彼に感謝します。
Lifelike animation heralds new era for computer gamesでは見た限りほとんど人間なCGアニメーションの映像がみられる。
情報管理に関して最近 diigo でマークした考えを4つのポイントに整理してみました。
まず時間の管理が大切。何に時間を使うのか? 情報を収集するのか、情報を摂取するのか? という問いが必要。
「収集する時間」と「閲覧する時間」を分けます。これが一緒になっていると、相乗効果が悪循環を生み、きりがなくなるからです。
フォーカスすべきは「差別化」と「時間の使い方への徹底的なこだわり」の2点
無限の情報に対して、誰に対しても24時間と等しく有限な時間をどのように配分するか、この能力が情報大洪水時代における差別化の源泉になる
単純な整理はグーグル先生がやってくれます。精選されたコアとなる情報や「インデックス情報」だけを管理・記憶するのがよいでしょう。
カギを握る考え方は、グーグルが扱う情報の単位、つまり記事、ウェブサイト、論文といった単位よりも、粒度の高いレベルでの情報整理を、情報処理の時点で行っておくことです。
「インデックス情報」とは外岡秀俊『情報のさばき方』という本に出てくる言葉です。彼は本書で5つの「基本原則」を掲げ、「インデックス情報」に着目した情報管理手法を披瀝しています。
- 情報力の基本はインデックス情報である。
- 次に重要な情報力の基本は自分の位置情報である。
- 膨大な情報を管理するコツは、情報管理の方法をできるだけ簡単にすることである。
- 情報は現場や現物にあたり、判断にあたっては常に現場におろして考える。
- 情報発信者の意図やメディアのからくりを知り、偏り(バイアス)を取り除く。
「インデックス情報」という手法は、不要な情報は捨て去り、自分にとって必要な情報がどこにあり、誰に聞けばいいのかという情報だけを管理し、記憶する方法です。」
全てを記録して管理しても仕方がありません。記憶に残ったもので勝負してゆきましょう。
佐藤優はあまりメモはとらず、ただ一冊のB5ノートと段ボール箱だけで情報管理しているらしいです。
- 時系列による資料整理法——ゆうパックの梱包箱(大)を使った整理法
- キャンパスノート(普通横罫) 6号 ノ-10A(B5版100枚の大学ノート)に記録する
茂木健一郎は「情報の真水」にふれることを重視しているようです。
- 「知りたいと思うものに、ダイレクトにアクセスする」
- 「情報とのプロセスをなるべく減らす。メモも一切取らない。すべて自分の脳の中で整理する。」
「タグ」の利用もシンプルに。過度に期待しない方がよさそうです。
タグを2種類しか用意しないと言うことです。メールでは、2種類のタグを用意するとうまくいきます。
- 名前
- ごく少数の属性
シンプルな整理は何もしないことではありません。それなりに必要な情報が出てくる必要があります。ストレスフリーのためのGTDの教えからいくつかの言葉をひいてみます。
君の脳が気になって仕方がないものというのは,君の周囲にあるものが念を押してくれないもの
集中しようと思っていたのに,横からやってきて僕の集中を奪ってしまうもの。これがオープン・ループというもので,こうした考えがゼロになるまで,すべてをキャプチャーすることができればそれで十分なんだ
『いま』『ここで』『この状況で』やりたい・やるべきと考えていることだけに集中できる仕組みをつくろう
最初の一つは,さっき言った『頭が空』という状態を維持するということ,2番目が『物事が頭に入ってくると同時にそれが自分にとってどんな意味をもっている かを考える習慣』,3番目が『レビューを定期的にやって,頭脳がシステムを信頼してリラックスできるようにする習慣』。
diigo のおかげで、こうしたウェブ上での言葉の収集と再利用が簡単になりました。 "脳に効く"音源のリスト の時も簡単にポストできましたし。
気になる分野なので一応、今の感想をメモしておく。
ソニーと松下が電子書籍端末事業から撤退するらしい。日本では専用端末による電子書籍は流行らず、その間に携帯電話向けの電子書籍市場が成長したということらしい。
一方で、米国ではアマゾンの端末 Kindle が爆発的な人気とも聞く。3月には 供給が追いつかないことについて謝罪文を掲載していた。高価で重い 大学の講義用のテキストがオープンソース化されているという動向もあるらしい。こうしたオープンソースのテキストを読むための端末としても、電子書籍リーダーの需要は今後ますます高まることと思う。
この日米の差はなんだろうか。
ソニーや松下の端末とアマゾンのそれとにそれほどに大きな差があったのだろうか。私はそうは思わない。実物をきちんと見たわけでもないのだが、写真やブログの記事を眺めた限りでは、ものとしてはソニーの製品の方が優れていたように感じる(ちなみに私は大のソニー嫌いである)。少なくとも Sony Reader と Amazon Kindle とを比べた際、全体の機能やデザイン、そして価格の点で Kindle が目立って優れているようには見えない。
まず、コンテンツの準備を、Amazonは成功したと言えるのだと思う。少くとも、松下やソニーの準備できたものとは桁違いである。よく分からないが、日本の出版業界は旧態依然ということだろうか。
また、日本の電子ブックリーダはTXTファイルやPDFを読めなかったことにも問題があったと思う。有料の電子ブックによらず、既に豊富に存在するネット上のコンテンツを読めるとしたら、それだけでも価値があったとは思う。上述の通り、大学で使用されるぶ厚く高価な教科書を、無料でダウンロードして表示できるとしたら、それを表示する機器の価値も向上することだろう。
次に、文字表示の問題もあるのだろう。線画が細かい日本語の方が、紙とディスプレイとの差に敏感になる。これもディスプレイでの読書を妨げる大きな原因となったと思う。
また、細かい話だが、印刷の字体とコンピュータで利用される字体の差も気になる人には気になるものである。現に紙をなくして情報として活用するというラディカルなライフスタイルをとることを決意し、『記憶する住宅』を実践している美崎薫も述べている。
デジタル書籍も出ていますが,ちゃんと読むには,表示やフォントのクオリティが足りないと思っているのです。たとえば「逢う」という漢字を点がふたつついたしんにょうで読みたいとか,「躯」という文字を「身+區」で読みたいとか,「掴む」という文字をてへんに旧字の國で読みたいとか,そういうこだわりです。(Lifelog~毎日保存したログから見えてくる個性 第3回 紙をデジタル化する)
この点では、アルファベットを利用する欧米では問題がなかったことと思う。印刷物と何ら変わりのない表示が可能だったのではなかろうか。電子書籍端末でなくとも、欧米やラテンアメリカの人には長文を読むのも平気と答える人が多くみられる。彼らが PDF とかも平気で読み出すのでビビった。通常のディスプレイでもきちんと表示されているのだから、これが専用の端末で表示に気を使っているのならば、本当に書籍を読むのと変わらない表示になっていたのではないだろうか。
個人的には目の負担を軽減する技術は大歓迎である。ある程度の大きさの端末を机に置いて読書なり勉強なりに利用できたら素晴しいと思う。特にネット上のコンテンツを印刷せずに、負担なく読めるようになるのはありがたい。今後も電子ペーパーや電子書籍・電子新聞・電子辞書の類には注目してゆきたい。というか、Kindle 買いたい。
情報と付き合うときに、私は二つのことに気をつけている。一つは断片的な情報を避け、体系的な情報に取り組むということ。もう片方は、客観的にではなく、自分の問題意識に従って情報と向きあうということだ。
なぜ、こうしたことを習慣にしているのか。その答のうちの一つは、情報とは麻薬にもなりうるということだ。情報とは無限にあり、そうした無限としての情報は常に不毛をもたらす。あたかも不死がまさしく生の意味の否定につながっているように。
古人はこのことを明晰に語った。いわく、一粒の麦、もし落ちて死なずんば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。 もしくはより簡潔に、有終の美、と。この言葉の意味するところ、それは美や意味 ―― つまり ”実り” ―― とは有限においてはじめてありえるということ。すなわち無限には美も意味もなく、ただひたすらに不毛が広がるということだ。無限のイメージを映し続けるであろうディスプレイは、まさに無限という名の不毛の大地へとつながっているのである。
と、こうした与太話はこの辺にしておこう。つまり、情報摂取は中毒になるということだ。何も生み出さぬ不毛なインプットは簡単に日常化し、常態化し、習慣化し、貴重な時間を奪い続けることだろう。無限への欲望は ―― いや、そもそも欲望とは無限だが ――人を蝕み続ける。己の不毛さを隠蔽したまま。
情報はいかにして人を魅了するのか。それは不安を煽ることに始まる。全ての詐術と同じように。健康、富、仕事、人間関係、学習……こうした事柄に完璧な自信のある人は多くはない。こうした問題を少しでもうまくこなしてゆきたい。それも、ごく簡単な労力で。こう考えるのも当然のことである。しかし、まさにそこから詐術は始まる。
「待ってくれ」 ここでこう主張する声もあるかもしれない。「情報は役に立つはずだ。もちろん、いくつは実際の役に立つ状況が訪れないかもしれない。それでも、いくつかは知っておいてよかったと思うことがあるかもしれないじゃないか?」
「いつか役に立つかもしれない」。この言葉ほど成功した欺瞞も少ない。なにしろ、この欺瞞なしには、これほどの高度な消費社会は訪れなかったのだから。
しかし、このトリックを打ち破ることはたやすい。ある目的を達成するのに、いまこの場で何をすることが本当に投資になるのか? この問いを考えてみれば、情報を得ることが有益であるという欺瞞ははっきりとする。確かに情報が役に立つときもある。しかし、本当に大切なのは、成果を出すことなり、よい習慣を身に付けるということであるはずだ。それは「みせかけの投資」、投資に偽装した時間の浪費に他ならない。
いつか役に立つかもしれないという詐術は、人生を非個性的かつ時間的に無限するような誤謬に基づく。交換不可能で、ただ一回限りの、それも有限な時間しか持たぬ人間が、いつか役に立つかもしれないことために無限の情報を前にして時間を浪費することほど愚かなことはない。
更に言えば、情報を受け取ることが習慣化したときに、「いつか」は絶対にやってこない。なぜならば次々と魅力的な情報はやって来て、成果やよい習慣を生み出すだけの時間を与えてはくれないのだから。本当の投資は、例えば健康への投資が人生での活発な時間を増やしてくれたり、勉強が知力を高めるというように、必ず確固としたリターンがあるものである。
発想を逆にすることだ。不安を煽られる前に、自分で主体的に率先して問題解決の努力をすることである。まず健康なら健康という目標を明確に立てて、 そのために一定のコスト(時間と費用)を充て、情報を選別し、吸収することである。そして、一度、情報を得た後には、そこから導かれた「仮説」に従って実際の努力を一定期間する他はない。その間には他の情報は「ノイズ」となるだけなので遮断してしまった方がよいくらいだ。そして 成果をみて、その努力や習慣を継続するか、立脚した仮説が誤っていたかどうかを再考することになる。
情報とはつねに過去の事実であるか仮説に過ぎない。それが有益であるのは、実際にそれを実行に移したときだけだ。効率を、生産性を高めることを謳う情報は次々とやって来る。大切なのは、どれか一つを自分のために実行することだ。
僕が最も尊敬する友人の一人に「どうやれば陸上競技で強くなれるか」と訊くいたことがある。彼はこう答えた。「どれが一番優れた練習法かは分からない。たぶん、答はない。ただ、一つを決めて、それにのめり込み、長い時間続けられた人は必ず強くなる。……普通は故障とかしちゃうんだけどね」
問題は目的もなく情報を摂取・蓄積することにある。情報を必要とするときは、自分の問題意識にそって主体的に摂取した方がよい。受動的に情報を受け取る習慣の中で曖昧に決断をしてゆくよりは、先手を打って自分に必要な情報を見定め、主体的に情報と付き合う方がよい。通常は「遮断」の方がよい。
「それでも、私には情報が必要なんだ」ニコチン中毒患者がその人にとっての煙草の必要性を語るように、 "情報中毒者" もまたその必要性を語ることだろう。「少しでも効率を上げようと努力しているんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」
こうした "情報中毒" の語り口は、ニコチン中毒者のそれと相似をなす。「私にはニコチンが必要だ。少しでも仕事に集中するための努力の一つなんだ。そして、これが一番手軽な息抜きなんだ」
そう、彼にとって情報は「必要」だ。あたかも、ニコチン中毒者の煙草のように。それが不必要でもあり、時に害ですらありえることは隠蔽されることだろう。
それでも私たちはこう問わずにはいられない。「なぜ、"それ" が必要なの? 本当に今 "それ"が必要なの?」こう問い続けることが、不必要なアディクションを終息させ "健全" が取り戻されるだろう。 そう、なぜ "それ" が、まさにいま必要なのか? ストレス? まさか。本当に "それ"がストレスを解決する? そもそも解決したことがあった? つまり、"それ" によって気分が晴れたなどということが? それが役に立つ? いつ? どうして、それが役に立つと思う? なぜ、そんなに追い込まれているの? そうした状況に追い込むようなストレスとは一体なんだ? そもそも、それは一体 "生活" なのか?
こう問う中で更に問題が見えてくるかもしれない、つまり、問題を解決する努力を放棄しているということ、受け身に生きているということ等々が。大切なのは、しかしながら、答を出すことではなく ―― 結論なんてものはいつも陳腐なものだ ――、むしろ、こうした問題を問い続け、今という時間を自分の力で生きてゆくということである。
大切なことは、主体的に生きるということ、選ばされているのではなく選ぶこと。それが私にとって ―― 他の誰でもなく、ただ今ここにいる私にとって ―― 何の役に立つのか? と問うこと。受動的に情報を受け取っている時間があるのなら、自分の問題意識や強みを掘り下げたり、反省を行った方がいい。
別に技術や生産を憎んでいるわけではない。便利なことも、効率合理性もべつによいと考えている。ただ、そうしたものを制限するような思考をただぼやいてみた。
こういう二分法自体に問題があるのだろうが、生産と創造は違う。
生産とは複製である。オリジナルなくコピーが製作されることである。それはある目的に向かう組み立てであり、仕立てである。それ自体の意味は他の何かへの意味へと転送され続ける。それは蓄積であり所有である。
創造とは生産ではない。それはオリジナルの誕生であり、根源的なものへの模倣・回帰である。それ自体の戯れに蕩尽的な満足がある、手探りの生み出しであり、拵えである。それは所有の挫折である。
ここで、世界とは労働において立ち現れるとか、そうした世界における痛みとか癒しとか、その避けられなさがとか、そういうこともグダグダ書きたいが、まあ、ひとまずそれは置いておく。
生産では、全てのものが生産の合理性のなかに吸収されてゆく。自然も他人も自分の身体も全てが生産の効率合理性のための手段になる。純粋な手段としての技術が誕生する。仕立て上げる技術に私たちはうかされ、誰でもない誰かとしてその技術にうかれる。
生産の合理性はそもそもは自己保存のための手段であったのが、次第にそれ自体が目的となり、世界の自然を、社会の自然を、人間の自然を支配してゆく。うかれた者には大地は遠い。
技術の前に次第に手応えのあった道具すら損われてゆき、やがて身体すらも手応えを失ってゆくだろう。運動や健康、更には生命すら、手応えのないヨソヨソしい技術に支配されてゆく。
美はもはや存在しない。人は誰でもない誰かとして、技術にうかれるだけなのだから。手ごたえや手ざわり、響きや味わいなどはかき消されてしまうだろう。全ては仕立てへと集約されていくのだから。
人はかつて生産をしていたのだろうか。人は農耕と工芸、芸能とに代表される労働は生産であったのだろうか。
それはむしろ創造ではなかっただろうか。創造という言葉ですらおこがましければ、創造に立ち会うことではなかっただろうか。一つの根源をまねぶことを通じて行われる営みではなかったろうか。進歩ではない、誕生と創造の瞬間への回帰と模倣、そうした奇跡の今ここへの「引用」あるいは召喚ではなかったろうか。そうしたものとして労働がありえたのではなかろうか。
創造の問題を考えるとき、こうした疑問が頭をよぎった。まあ、分かる人には、ただのあれなんだけど。
技術には道具にあるような手応えがない。それはひたすらに進化に駆り立てる空虚な仕立ての連続である。
道具。それは本質的に《身体》の延長である。それは手応えの内に私に握られる。手応え。それは手に応える。道具は手に握られつつ、手に応える。手は握りつつ、道具に握られる。そうして延長される《身体》。完全なる把みと握り ── つまり《把握》 ── の手応え。それが道具である。
道具がうまく使えるということはコツを押さえるということである。コツとは《骨》に他ならず、その芯=心を押さえるということである。それは無意識な《手探り》を通してのみ把握できるものである。エチュードは道具を覚えるのに役立たぬとしたら、それが手探りを残していない時である。
一方、技術に《手応え》はない。《技術》とは個別の経験の積み重ねの帰納による、一つの《論理》であり《制度》である。それは個別の経験を集積しつつ、利益と興味の下に平均化する。人の《なぜ》の問いは内部において無効だ。人の問いは《いかに》に集約される。
把握を許さぬ技術は常に私の《気配り》を要請する。無意識の気配りを受ける技術はやがて《気配》を持つ。気配を持った技術は既に私にとっての《他所の人》となってくる。そして私は常にその他人からの《眼差し》を感じる。眼差される者は、無意識にその眼差しから予め前渡しされた《責め》を感じ、眼差しを恐れるままに、その《制度=論理》を無意識に内面化してしまう。こうして技術は私を支配する。
技術の気配に人は支配されてゆく。技術とは場の空気の際たるものだ。場の空気とは、とりも直さず、その《場》に《居る》者の《眼差し》への恐怖である。その《責め》は予め前渡しされており、個人はその《制度=論理》を無意識に内面化する。無意識に内面化した《論理=制度》への疑問は問われることはない。それは、まさに場の《気配》そのものであり、既に《場》自体が《他所の人》のように他所他所しく、私を眼差しているのだから。
技術は常に《進化》を要請する。《なぜ》を問うことなく、その《論理=制度》の内部にて、ひたすらに《いかに》を問い続け、それを進化させることを《駆り立てる》。技術の《論理=制度》は内面化し続け、《進化》が私の唯一の目的となってゆく。本質的には無意味に、技術に習熟し、技術を改善させてゆくことを技術は駆り立てる。
技術は何かを創り出すことではない。常に手応えなく、何かを《組み立て》《仕立てる》ことである。そこに《なぜ》の問いは無効である。技術においては、ひたすらに次の《よい仕立て》のために、《仕立て》が仕立てられてゆく。
よい糸はよい布のために仕立てられ、よい布はよい服のために仕立てられ、よい服はよいファッションのために仕立てられ、よいファッションはよい異性獲得のために仕立てられ、よい異性獲得はよい結婚生活のために仕立てられ、よい結婚生活はよい老後生活のために仕立てられ、よい老後生活はよい死のために仕立てられ、よい死はよい死後のために仕立てられ、よい死後はよい生れ変わりのために仕立てられ……。全ては、何かより善きものに役立てられ、より良いものに見立てられるようにして、仕立てられる。
もし、生きることが《技術》に基づいていたら、つまり組み立てによって仕立てられていたとしたら、それは恐ろしく虚しいことである。前には組み立て仕立てあげられたものしかない人生とは、まさに立前の人生である。しかし、技術は生きることはそうしたものであると責め立て、進化へと駆り立てる。
こうして私達の人生から《手探り》は奪われる。ただ物事は次から次へと仕立てられ、手応えは与えられることはない。次から次へと技術は進化し、私達の進化を仕立てる。手応えの中で身体は拡張されることはないどころか、身体は技術の眼差しに責め立てられ続け、萎縮し続ける。《世界》はよそよそしく《進化》を求める眼差しで私を責め立て続ける。
携帯電話と Windows には共通点した問題が存在する。それはユーザからは理由が不透明な、不完全さを持っているという点である。
携帯電話では通話の途切れが起こる。我々は無意識にしろ意識的にしろ、目に見えない《電波》を気にしつつ話さねばならない。通話が途切れると「電波悪いね」と言う言葉で納得を与えるだろう。
ところが実際には、電波が悪いことは我々に知られることはない。ただ通話が途切れたということの説明としてのみ電波が語られるだけである。それは本質的には《理由》ではない。
Windows ではどうか。
Windows も同様に速度が低下し、時にフリーズする。 その説明が常に存在しない。 少なくとも私を納得はさせない。
レジストリだとかスタートアップだとかファイルのゴミだとかアップデート時のゴミだとかが語られるが、それらは断じて《理由》ではない! 「あ。これだったかー。これ取ったら元通りだ」ということがありえない。
私たちは理由も分からずに、致命的な障害に堪えなければならない。
我々は携帯電話や Windows の不完全さを生産者の責任にはしない。
大概は仕方のないこととして諦め、時に何故かユーザのせいにする。「地方だから」「ウチ、電波悪いんだわ」「携帯、古いから」「山入るとダメだねー」「変なサイト、アクセスしてない?」「ごちゃごちゃ訳の分からんソフト、インストールするから」「Windows は定期的に再インストールしないと駄目なんだよ」(!!)……。
訳の分からないうちに、小さな苛々が蓄積される。
確認しておくが、携帯電話にとって通話とは致命的な機能であり、OS としてタスク管理は致命的な機能である。つまり、通話が途切れる電話は電話じゃないし、理由不明に速度が低下したり、あろうことかフリーズするような OS は欠陥品である。
こうした苛々に私は堪えられない。それは道具にはなりえない。徹底的に私を支配しようとする技術である。
様々なカテゴリー論が歴史上作られてきた。僕はそれらをあまりよく知らない。ただ、ぼんやりとカテゴリーについて思い付いたのでメモしておく。雑多で未完成。
はじめに仏教のカテゴリー。これを基本に考えたい。
あるいはいかさまアリストテレスに、
記号 | 存在 | 知覚 |
情報 | 意味 | 認識 |
知識 | 価値 | 判断 |
まず、概念になりえそなものを体相用に分類すると、記号と情報と知識ということになると思う。記号が実体であり、それは他との関係においては情報となり、知識という働きをするがある。
更にそれぞれについて体相用に分類すると以下のようになる。
変な文だが、要は人は記号の存在を知覚し、情報の意味を認識し、知識の価値を判断するということ。ただし、それが働きとして現れるときには、次のカテゴリーに移行している考えられる。つまり、記号が知覚されたら、情報として人は捉えるだろうし、情報を認識したら、それは知識になる。知識の価値を判断したら? 恐らく人は行為する。
思考の類型も三つに分類できる気がする。
なんだか、ここらへんの用語も以下のように分類するとすっきりする気がする。と思ったけど、全然しない。
まず、記号について
次は概念の比喩による拡張について
そしてメタファーがどのような関係を持つかを考えてみる。すんげえいい加減。理解不足。
更に無理をしてみる。
文体形成における手書きとパソコンについての妄言。
手書きもパソコンも関係ないという意見がある。どちらも同じ文書が出てくるのだという。
それはある意味でそうなのだろう。文体にたいして特に意識のない人、あるいは既に自分の文体が確立している人は、手書きであれワープロであれ関係ないのかもしれない。この点に僕は触れない。
しかし、文体の確立過程をパソコンで行った者はそれが分かる気がする。あるいは最初の創作をケータイで行った者にも言えることだ。彼らの文章からはカタカタという音が聴こえてこないだろうか。例えば、僕はある芥川賞作家の文章を読むと不意に IME の変換ウィンドウが目の前に見える気がする。あるいは、いくつかのライトノベルはワードの画面がちらついてしまったり、ケータイのボタンの触感が浮かんでしまったりする。
これは、ただの妄想だろうか。恐らく妄想だろう。その作家がパソコンで文書を書いているかどうかを僕は知らない。もしかしたら手書きなのかもしれない。文体形成が手書きだったのかパソコンだったのかも分からない。古典を模す文体が、その当時の人々とは少し違っていて、それが結局、僕に違和感を与えているだけかもしれない。
また僕はラノベをよく知らない。現代の人の文体というものそれ自体が、僕にはワードやIMEの変換ウィンドウやケータイのボタンという質感を与えているのであって、全然、文体形成とは関係ないのかもしれない。その可能性は十分にある。
それでももう少しだけ言うのならば、古典を模したような小説には「不道徳」という印象を受けた。いや面白いことは面白い。別にそれはそれで問題ない。ただ違和感がある。ある種のジャンル小説としてなら十分といえる。
たとえばある小説では「未知」なるものは語られないように感じた。既視感。この物語で語られることは予め知っている。胡蝶が誘う夢と現の世界。夢で出会う女。幾ばくかの迷信と伝承。僕にいわせれば、それは文藝というよりは純文学的というジャンル小説なのだ。
そこに疑問が残る。その疑問を紐解いてゆくと「不道徳」という言葉が出てくる。これはどういう意味だろう。いや面白ければそれでよいのかもしれないが。実際最後まで読ませてくれたわけだし。
私は日本語について無知なのでよくわからない。それでも、この小説が持つ、ワープロでカタカタと変換されてゆく字句の気持ち悪さを感じてしまう。言葉が紡ぎだされていないと感じる。しかし、これは僕の妄想なのだろう。もし、本当に僕の感じた違和感が存在するのなら、こうしたことをそれなりに実力のある作家なり編集者なりが注意するのだろうから。
しかし、更にもう少しだけ言うと、最近の何人かの《文藝》は悪戯を感じる。悪戯にはやっていいものと悪いものがある。これは人を騙しおおす可能性があるので、やらないほうがいい悪戯だと思う。
それに引き換えると、正面からワープロの文体であることを自覚している作家のいくつかは肯定できる。つまりラノベはラノベでいい。少なくとも彼らには不道徳という印象はない。彼らは、それでしか語れないような表現を為しているように思う。
こうして書いているとクンデラか誰かの言葉を結局は思い出す。たしか、新しい実存を描き出さない文藝は不道徳だというような言葉だったと思う。そういうことなのかもしれない。
ブログについてちょっとだけ整理したくなったので書いておく。
ブログと一言で言っても様々な機能があり、様々なことを実現していると思う。いまちょっと考えても以下のことをブログは実現している。
digi-log は極めて 1 の傾向が強いながら、「読まれている」という意識が強まると 3 の傾向も持ってきたと言えると思う。最近は明らかにdigi-log: 匿名で書くこと で書いていたような気分では書いていない。
最近は「読まれていること」を意識してしまっている。誰かが読むのだから自分の考えを伝達したくなる。ただの繰り言を綴るチラシの裏や便所の壁であるより、ある程度の文書を不特定多数に簡単に公表する手段として、僕はブログを捉え始めている。こうして digi-log は、内面の吐露の記録ではなくなりつつある。
なぜか?
一つには、ネガコメが怖いからだろう。外面的な話のコメントというのは動揺を与えない。例えばどこかに行ったとか買ったとかいう話にネガコメを受けても大した衝撃にはならない(というかネガコメ自体しにくい)。それが内面の話になるとネガコメが気になる。だから次第に内面の吐露は減ってゆく。
結局、ネガコメに負けてゆくということになる。それでよいのか。いいのだろう。分からないが。
いや、別にネガコメだけじゃないのかもしれない。ポジティヴなコメントを貰えれば嬉しいし、アクセスがあれば嬉しい。こうした読まれていることへの反応が、このブログに質的な変化を与えた。
つまり、ただの「書きたい」という欲望だけで存在したブログが、次第に「読まれたい」という欲望も備えていった。後戻りはできないと思う。ここの二つの欲望のどこかで僕はバランスを保つだろう。それがこのブログのこの先の性格を決める。
僕は以前、全然別のブログを自宅サーバでやってた。YahooBBのADSLでDynamicDNSで。ApacheとかMTとかをGentooの上で転がしてた。
テーマは政経的時事ネタとパソコン関係だった。結構いい調子になってガツガツ書いていて、ある日アクセスが高まりサーバが落ちたりした。政経というのは人が集まるもんだと思った。それでなくてもアクセスが多くなると部屋にあるパソコンがうるさいし、夏には暑くて仕方なかった。ネガコメは勿論、スパムもウィルスも飛んで来たしアタックも受けた。僕はたまに本気で頭に来たりした。そう、予想以上にブログは時間も精神的エネルギーを奪うものだったのだ。
僕はブログをやめた。そして、そうした反省から digi-log にも時事ネタを書くことは避けた。丁寧にコメントに対応することもやめた。いらないコメは容赦なく削除するようにした。
ところで先日、以前のブログのエントリをいくつか目にしてみた(印刷してある)。そうするといろいろと考えさせられた。自分の考えというものは結構変わってくる。それを過去のブログが教えてくれるものだと思った。
僕は紙に色々と書く人間だ。しかし時事ネタのことを書くことは殆どない。時事ネタはどうせ時が過ぎれば興味が失せるから書き残すというモチベーションが湧いてこない。人と話すときのネタになるだけで、後から参照すべきようなものではないと考えてしまうのだ。
だから以前の時事ネタについて書いていたブログの過去ログはとても面白かった。誰かに見せることが前提になる文字にしなければ、こんなに色々と考えなかったと思うのだ。
それは役に立つのか?
イエス、と僕は思う。ただ自分だけに語りかけるよりも、人に語りかけている文書を持っているということは、自分の思わぬ面を自分に見せてくれる。だから、人に読まれることを前提とした文書を書いてゆくのも悪くはないのかもしれないと思った。
コメントにはスルーを前提にしてしまえばいいと思うようにもなった。たぶん「いい人」をしていると何の対価もないブログなんてやってられないのだから。そして元々の内面の吐露は、別のブログや紙にひっそりと書いておくことにしよう。それが元々の姿というような気がする。
情報とは何か、情報の価値基準は何かについての偏った考察。
世界の情報は、私を圧倒している。全てをしっかりと読むには新聞は大きく厚く、TVは膨大な時間のコンテンツを放映する。ウェブページは無限にあり、RSSは無数のエントリを運ぶ。電話やメールがパンクすることは私にはないが、世界は人に溢れていて、その気になればメールと電話のやりとりで時間を潰せることも目にみえている。DVDもCDも書籍も、追い掛けられる上限を遥かに越えている。
私は少しでも情報摂取を効率化しようとした。新聞は見出しを眺め速読し、TVは「ながら視聴」しかせず(個別情報のためというよりは、NHKがどのように報じているかを知るために)、ウェブのリンクを辿ることは禁止し、RSSリーダを利用し、登録フィードも50を越えないようにした。調べ事は事前にメモしておいてダラダラとブラウジングすることを避ける。集中したいときには携帯の電源を切り、人と会う前には話すことをメモし、電話をするならばメールをし、メールは即座に返事をする習慣をつける。DVDやCDは事前に視聴すべきものを調べてメモしておき、書籍もリストを作り、速読する……。
こうして速読や記憶術に触れ、メモやノートの技術を考え、時間管理術を覚えていった。無限の情報を圧縮し、少しでも自分の管理下に置こうとしたのである。情報管理の基本は一つである。自分にとって摂取すべき情報を規制するということ、つまり「情報の選別」と「情報の摂取」との二段階を明確に分離することである。そうすることで価値のない情報にかける時間を出来るかぎり減らすことができる。
しかし、それでも情報は溢れていた。ここで私は立ち止まった。そして問うた。私は何をしているのか。情報を摂取しているのだろうか。そうだとしたら情報とは何か。なぜ情報に触れるのか。情報に触れることで何をしたがっているのだろうか。
情報とは何か。情報とは「それを摂取することによって、その後の行動が変わるもの」といえることに思い至った。そうだとしたら、その後の行動に影響を与えないものは情報ではないと言える。ここで、行動とは「私の行動」に他ならない。私が情報摂取することで他の人の行動が変化するということはありえないだろうから。
こう考えると、私が情報に触れる理由が分かる。情報に触れることで、私は、今の私が知らない自分を生み出したいのである。その情報に触れなかったら取らない行動によって導かれる未知の未来へと向かうために情報を摂取しているのだ。そうした未知へと向かわせる以外の情報の価値は低い。
それでは情報の価値基準を定義できないだろうか。4年前の手帳(2004-2-19)に以下のような走り書きを見付けた。少し考えてみるとそんなに悪くなさそうなので写してみる。
逆に言えば、価値が低い情報とは「自分との関わりや関心が低く、リアルさがなく、意外性がなく、入手も摂取もしやすい情報」ということになる。こうした情報は主体に何らの変化も起こさず、故に主体は未来に向かうのではない。こうした情報は人を「情報処理機」に堕とす。私たちを囲む、実に多くの「情報」が、こうした「情報」なのではなかろうか。真に意味のある情報と付き合いたいのなら、選別の過程でこうした「情報」を排除する必要がある。
そうした自分を変えるような情報を見つける方法はあるのだろうか。価値のある情報は客観的には決めにくい。関心や好奇心、裏切られたりリアルに感じたりする感性は人それぞれである。一つだけ言えることは、自分の直感と予感を信じるということである。
藝術を愛好する人ならば、ある種の芸術作品が、理解のし難さで己にぶつかりつつも、何故かそこに価値の予感を感じることがあると思う。そして、それが、長い時間を経てからやっと分かる日が来ることがある。自分のその分野に関する強い関心、リアルさ、未知さ、理解コストの高さがあいまって、その作品の価値の高さとも言えると思う。その「理解」が出来たときには、自分は化学変化が起こっているのだから。
また、ある種の古典とは、価値のある情報である可能性が高いと思う。生き長らえる古典とは、長年に変わらない人間の関心を主題とし、意外な真実をリアルにあぶりだす。そして摂取コストが高いことが多い。そうした作品を鑑賞することで、異なった未来が開けるということが多いのだろうと思う。
片や人気のある作品とは、情報が低いことも多い。摂取や理解のしやすさが主体の変化の契機を奪うし、娯楽とは既に成立している感性の反復であるので、微妙に好奇心を煽りつつ、そこに意外性や未知は含まれていない。更にリアルさや関心の度合いは高いにしろ、時間の経過とともに風化してしまう。
所謂、成功本や金持ち本を読むと、平凡でない人は平凡でない情報に触れている場合が多い。古典にじっくりと取り組んでいる割合も多く感じる(本なのだから本を勧めるのはある意味当然だが)。あるいは、そうした外部のメディアに頼らず、「現実」や「自分」という未知に真っ向から挑んでいるのかと思う。