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私は医者でも何でもないが、鬱病患者を「看病」する上で必要と思える考えについてメモをしておく。くれぐれも自己責任で。
1. まず自分を大切にする
「看病」は長期戦である。相手を大切にする気持ちは大切だが、自分が倒れたら共倒れになる。相手に頼れない以上、自分の健康を長期に渡って確保することが最重要である。
また、自己犠牲をすることが愛情表現であると捉える人が多いのを知っているが、ひとまず、私はその有効性を否定したい。
その理由は、
- 自己犠牲が自己の健康の消耗に繋がるから
- 自己犠牲の愛情は往々にして過干渉、即ちお節介につながるから
- 自己犠牲に基づいた献身は相手にも心理的負担を与えるからl
特に一般に子育て能力を有する女性と違い、男性は長期の看病は社会的にも生物的にも負担である。サポート体制を十二分に整えねばならない。
確固とした自己愛に基づいた献身。看病の理想である。
2. ただ耳を傾けること
相手の話には、ただ耳を傾けるしかない。これは鉄則である。
往々にして相手の意見に反論したり評価したくなるものだが、これはいけない。相手の話は病気が言わせている面もあるのであり、そうした話に対して理路整然と反論したり、感情的に非難すると相手は混乱してしまい、何もいいことはない。
ひたすら耳を傾け、相手の運命への呪いや周囲への不満を聴き届け、共に相手の不遇を悲しみ、相手に落ち度がないと繰り返し伝えることである。患者の苦しみを思えば、その怒りや呪いすら正当であると静かに認めてあげよう。
看病に雄弁は禁物である。
3. ひたすら謝罪と感謝する
時に相手は自分を責めてくるものである。これにも基本は相手の落ち度がないことを認める方針を崩さないことが大切である。
その為にも、責められたら即座に詫びることである。それ以外は全て言い訳であり、どんなに自分が努力したにしても、苦しんでいる人がいる以上、詫びても罰は当たらないだろう。
また、同様に相手は自分の努力で責めてくるかもしれない。そうならば素直に感謝すればよい。
とにかく非難したり反論しても得は何もない。相手を認めてあげよう。
4. 相手を励まさない、相手を責めない
言うまでもないが、鬱病患者を激励したり、責めるのは百害あって一利なしである。その程度で行動が変化するなら病気ではないのであり、事態をややこしくするだけである。
勿論「お前はそんな性格だから、そんな病気になるんだ!」と怒鳴りたい瞬間もあるかと思う。しかし、それは医学的には証明されておらず、不毛で無益な主張であり、事態を悪化させるだけである。
基本は、相手に落ち度がないのに、理不尽に不幸に見舞われていることを、共に悲しむことである。そして、自然治癒力によって脳が治ることを共に待つことである。
誠に人にできることは待つことだけであり、苦しむ人の側に居てあげることだけである。
5. 病気を認める
ともすると病気であることを相手も自分も忘れてしまうものである。あるいは、当初はこうした病気は認めずらいものである。
しかし、病気である現状を認めないことには、治療は始まらない。自分も相手も納得した上で薬を飲み、ストレスをなくした環境で静養する必要がある。
得に「あせり」「無能感」「怠惰への恐怖」などに対しては病気の認知をすることで対応するしかない。ストレスなく静かに静養できない場合は、鬱病の勉強が救いになることもある。
苦しむ人と接するには H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』 が参考になる。是非、一読して欲しい。